387日目・・・ウィリアム・アダムス・・・三浦按針・・・「リーフデ号」の「慈悲(ジヒ)」と「愛(アイ)」について・・・「クリスマス」が近づきつつあるから、サンタも苦労するョ、ナッ・・・

naie2007-12-17

   http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/hancyuron/hancyuron2.htm
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 「愛の現実論」・・・理屈っぽいヒトで興味あるヒトは上の「HP」を開けてヨンでみてくれ・・・以下の文も同じようなモノで貼り付けたモノだけれど・・・去年も同じようなコトをしたかも、だけれど・・・最近、ヤケにボケてきたみたいだから、自分自身の「再確認」・・・

 「観念論」の出発の原点は「カミのコトバ(観念)」か、「コトバ(観念)が初めにアリキ」である。
 西洋的な「カミ」を人類は未だその存在を「解明」できてはいない。と言うよりも「神」は人間の五感認識を禁止されたモノとして存在するのである。コレは実在としては「存在」しないも同然である。けれども、「カミの啓示」を受けた、と言う「人間」も多い・・・「精神分析学」的に説明しようとして「分裂症」などとも言う奴もいるが、脳生理学的には未だ証明されているモノではナイ・・・ボクは当の「啓示」を受けた本人でないから本当のところはわからない。宗教者は「有無を言わず、タダ信じるノミ」・・・だから「信仰」なんだろう・・・「信念」なんだろう・・・確かに「(カミを)信じるモノは救われる」、だが、「信じるモノは主観的に自己納得セザルを得ない」の翻訳かも・・・「(カミの)教えているコトバ」はイイコトばかしだし・・・

 「旧約聖書十戒出エジプト記・二十章)」に語られている「神の言葉」は人間共同体内で必要欠くべからずの「コトバ」である。要約すれば、

 ?殺すな
 ?騙すな
 ?盗むな

 に尽きるのだ。ホトケも「五戒」で言ったらしい。

 ?不殺生戒 殺さない
 ?不偸盗戒 盗まない
  不邪淫戒 不倫しない
 ?不妄語戒 嘘をつかない
  不飲酒戒 酒を飲まない

 「現代市民社会」の基本原則もこれに尽きる。
 「人間社会の共同体の論理学の帰結」も、この概念化された、抽象化された「コトバ」に事実として、その現実的な「生活形態」が合致せねばならないのは言うまでもない。
 そして「?盗むな」が「論理の要」で「盗むコト」が「他のコトバ=観念=観念」に置き換えられて、その意味がアイマイにボカされているのだ。そのサイたるモノが「私的所有=疎外された富の蓄積」、「資本=疎外された労働」、「自由=疎外された選択」と言うコトバの肯定である。

 そして
 「?騙す」も「?殺す」も、
 生きている人間が
 「?盗むため」の手段である。

 「新約聖書」に語られている「愛」はどうか?・・・「愛」と言う概念の歴史的発生とその論理性は、「?殺すな、?騙すな、?盗むな」の共同体の原則破綻から発生した「コトバ」である。
 人間にとって「愛」と言うコトバが必要とされる「人間社会」は「論理学」からみれば「人間の疎外された社会」である。当然にも「愛」は「天国」と言う観念幻想に止揚されてしまうからである。「愛」は、漢和辞典には、

 「愛=爪+冖+心+夂(夊)」の合字で、
 「爪」は「掴みとる・衛る」、
 「冖」は「覆う」、
 「心」は「こころ」、
 「夂・夊=すいにょう」は
 「夂=チ・ついていく」で、
 「夊=スイ・ゆっくりといく・やすらかにゆく」である。

 「愛」と言う「カンジ」は、漢和辞典には

 「キ=既(皀旡)+心」=感歎、悲喜

 「アイ=旡+心」=元気のない足取り

 が変形したモノとある。

 「皀」は食べ物で、
 「旡」は喉につまる、むせぶ、息が詰まるの意味である。
 「皀」の上下の文字交換したモノが「旨(うまい)」である。
 「旡」はたらふく食って後ろにのぞけっている象形、

 とある。食べるものが充分に確保されているコトだ。
 「愛」の本義は「食える・食わせる」と言うことらしい。なるほど、デートには食事に誘うのが常道であるなッ。「旡」は「牙(ガ・ゲ・きば)」にも「无(ム・ブ・無い)」にも類字し、「牙」は「武器」であり、「爪牙」、「象牙」であり、「歯牙(ことば)」、「毒牙」であり、「仲介料、手数料をとる者」であり、「植物発生時の芽生えるコト」であり、「牙籤(ガセン・書名分類の象牙の札)」である。「无妄(ムボウ)」は「真実でいつわりの無い象」である、と記されている。
 また、「愛」は、

 仏教では
 「異性や物をむさぼり求めるコト・十二因縁の一」で、

 キリストの「愛」は
 「神が人類に幸福を与えるコト。また、人類すべてを兄弟としていつくしむコト」

 とある。仏教では「愛」は「欲望」と同義語である。
 キリスト教では幸福の場所は「天国」か、未来的な「千年王国の蘇生」に於いてである。そして「人類すべてを兄弟としていつくしむコト」の延長には「汝の敵を愛せ」と言うことだが、自分自身に対して「?殺す、?騙す、?盗む」者として存在する「敵」を「愛」しては、やはり行き場所は「天国」しかないのは自明である。
 そして「愛」は抽象観念であるから、人間諸関係の事象、状況を基礎として、その「心的観念」、「心情的観念」として意味説明され、語らねばならない言葉である。

 「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」
 (新約聖書、マタイによる福音書、5章44節)

 「敵を愛するコト」は理解できる。その諸能力と知恵が優れているならば、「敵」であっても「学ぶためにその長所を愛する」だろう。「迫害する者のために祈れ」とは、「何を祈る」のか?・・・「祈れ」は「呪え」ではないよな・・・「迫害しない者」として「神への回心を祈るコト」なのか・・・当然である。だが、一般的に理解するならば「迫害する者」であっても、「祈れってヤレ」である。その現実的な「迫害」は「祈る者」に対してなされているハズである・・・ああ、「ハレルヤ!!」とは?・・・「迫害されて祈る者」には救われて「死後の天国」があるからだ。「迫害した者」には「天国」はない。あるのは「死後の地獄」である。だが生きている両者にある「関係」は「迫害と被迫害の現実」があるだけである。
 「愛=現実的に迫害を許す」と言う「被迫害者」の「観念」は、現実社会に於いては「諦め=死後の天国」と言う「観念」に止揚されるのだ。
 日本人であった「豊臣秀吉」も「徳川家康」もゴク、現実的で、普通の常識的な「支配者」であった・・・んだろう、ナッ。

 ?・・・パウロ(サウル・キリキア地方タルソスに生まれたユダヤ人)は「キリストの教え」を引き継いで、自分の手紙の中で次のように書いているらしい・・・愛・・・

 「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」(新約聖書、コリント人への第一の手紙、13章4節−7節)

 「すべてを信じ」との「主語」も「愛」なのか・・・?・・・俗世間での人間諸関係での「すべての出来事を信じ」・・・なのか。多分、「キリストの受難(神が下した試練)」を重ねて「キリストの愛=あなたの愛=信者の愛」として信者に説明しているのだろう。
 だが、「すべてを望み」とは、他のコトバをすべて否定するモノだが、この「主語」は「信者」なのか、「キリストの受難」なのか、あるいは「神の施し」なのか・・・?
 ・・・「すべて」とは「全部」で、「あらゆるモノ」の「一般的な統一、総合概念」である。「旧約聖書」の「カミ」は「私はねたみの神である」と神自らが言っているのだが、「ユダヤのカミ」の「ねたみ(envy・jealousy・ζηλια・ζηλοτυπια)」は「カミの特権」らしいのだが。とにかく、この「・・・」の部分は、あるどこかの「HP」に紹介されていたモノだが、・・・私の持つ中央出版発行の「新約」には、

 「愛は堪忍し、情けあり、愛は妬まず、自慢せず、たかぶらず、非礼をなさず、己の為に謀らず、怒らず、悪を負わせず、不義を喜ばずして真実を喜び、何事をも包み、何事をも信じ、何事をも希望し、なにごとをもこらふるなり」

 とあって、「主語」は「カミの愛ではなく」、「ヒトとしての人間関係での規範としての愛」のようなのだが・・・「主語」を「受難者のキリストの愛とは」を補足すれば理解できそうだ。「悪を負わせず」も「主語」を補足すれば「誰かが、ダレかに対して悪を負わせず」であろう。相手に「罪」を犯させない、と言うことだ。全人類=アダムの初犯の「原罪を負って磔刑」に処せられたとは・・・「ローマ人(ポント・ピラト)+ユダヤ人(パリサイ人)」の「罪」も含めてのコトらしいのだが・・・処刑を免れなかった「キリスト」は裁判判決者、処刑者に「悪(殺人)を負わせてしまった」のだ・・・自らの手を汚さない「愛」とは「罪つくり」ではあるな。「キリスト」は彼等に「悪を負わせず」に逃げ切れなかったのか?・・・逃げる余裕は充分にあった。シエクスピアなら主役に言わさせるであろう・・・逃げる(生)か?、逃げない(死)か?・・・それが問題だ。モチロン、航海中の「ウィリアム・アダムス」も自問自答したハズだが・・・
 ワタクシ的には「キリストの受難」とは「ねたみの神のいじめ」でしかないように思える。「新約聖書の事実」によれば、「キリストの受難」とは「ローマ帝国のポント・ピラト+ユダヤ・パリサイ人」による「ローマ法」による「ローマ裁判判決」による磔刑であった。「神の裁き」ではない。「人の裁き」である。だが、「モーゼの律法の裁き」ではない、「判決の理由」は・・・「ローマ帝国に対する騒乱罪・反乱罪」である。思うに、未来信託を「神々に伺った」としても、結果はどうであれ、「支配者」も「被支配者」も都合のイイように「解釈」した・・・まるで、今現在の「日本国憲法解釈」のように・・・だが、「ローマ帝国」は「政教分離」としての「市民社会」としての「政治体制」であった。古代ギリシャの「神々」も、古代ローマの「神々」もすごく「人間に近い存在」であったから当然である。「市民社会の法律」も「人間の集会・議会・元老院」等で決めた。

 そもそも「愛の根源的発生」は何か?・・・それ自体、単独では「発生」し得ない「観念」である。「女性」を実体として軸にすえて考えて見ると、

 「母性愛」→自己と同一体の胎児の保護と、産みの苦しみでの分離と、その育み
 「自己愛」→妊娠、出産時に於ける自己の実存的な健康維持の欲求

 ・・・であるだろう・・・いずれもそれ自体としては成り立たない「相対的な関係」に於ける「自己(妊婦)と他者(分身=胎児)」の「母子相互の命の維持と育み」である。しかも、人間にとっての大枠は「人間社会の中」での「母の子供に対する自己犠牲としての施し」であり、その状況の中での「自己の精神的、肉体的な余裕維持の欲求」である。
 これが人間諸関係の中で疎外されると自己のあらゆる対象を拒否、排除するだろう。自己一体の「胎児」に対してさえも・・・自己阻害する「デキモノ=腫れ物」として「疎外物」として扱うに違いない・・・「男」にとっては「父性愛」となるが、生物学的には「種付け」以外は、「メス」の「護衛役・餌運び」でしかないのカモ・・・「自我」も「自己愛」も「母性愛」にまるっとくるみこまれた・・・「オンナ」の凄さには敵わないのサッ・・・「音名(おんな)」・・・?
 ところで、「すべてを望み」と、「何事をも希望し」の翻訳の意味の違いは何か?・・・このコトバの本義は「神」に対する「ねがう・お願い」であろうか・・・?・・・「すべてを望み」とは「愛の範疇」ではないような「欲張り」のように思えるのだが。
 アイマイで淡い願望、ビジョンが視えている希望、ヨコシマな野望、目的実現、アンヴィシャスとしての志望・・・そして、絶望・・・「切望」とは日本語の漢字熟語ではあるが、「望みを切る」字面とは反対の意味だな・・・熱心に望むコトだ。「一切合切(合財)」はスベテのコトだったな。
 とにかく、「愛」のコトバの意味は色々あってイイが、おおまか、「パウロの愛」とは「あらゆる感情観念」の抽象化された「統一概念」であるらしいが、「感情」としての「愛(好き・快)」と「憎(嫌い・不快)」の対概念ならば、

 「愛 X 憎 → 統一概念 → 和合の理性」

 である・・・「愛・憎の混用」は人間諸関係での日常生活では当然である。理屈で言うならば「人間社会のルール=共同観念」を「まもる=肯定=善」、「まもらない=否定=悪」に対する「抽象概念」である。そして「寛容」と言うコトバもある。状況次第で「人間の愛・憎」を含めて認めてヤル、と言うことなのか・・・「愛は愛憎」の熟語としての範疇観念なのだ。自分自身の「わがまま」が通るのは相手の「余裕次第」である。
 人類は「愛憎」を「愛」のみに「止揚」されるモノとすることができるのか・・・?・・・信じるのはカってである・・・ムリかも・・・でも、だからこそ、信じたいモノ・・・