384日目・・・”「わたしの人生を返して」・・・九州訴訟の原告、福田衣里子さん”・・・タイトルも以下の記事も12月13日21時11分配信 産経新聞より抜粋・・・

naie2007-12-13

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 大阪高裁での和解骨子案の提示を受け、会見を開く福田衣里子さんら=13日午後

 「私たちは福田康夫首相にすでにボールを投げている。今後も粘り強く政治決断を求めていく」。13日、東京都内で会見に臨んだ薬害肝炎九州訴訟の原告の1人、福田衣里子さん(27)。大阪高裁から提示された和解骨子案に失望し、責任範囲の線引きを高裁に求めた国の姿勢を強い口調で批判した。

 昭和55年10月、長崎県内の病院で生まれた直後、止血のために血液製剤「クリスマシン」を投与され、平成13年の20歳の時に受けた検査で感染を知った。放置すると死に至ると知り、目の前が真っ暗になった。

 高校時代は空手で段位を取り、大学では1年休学してヨーロッパを一人旅。好奇心と行動力に満ちあふれた人生は暗転した。22歳でインターフェロン治療を始め、注射のため週3回の通院と飲み薬の服用を半年間続けた。発熱や倦怠(けんたい)感、脱毛、そして猛烈なかゆみ…。激しい副作用に襲われては体中をひたすらかきむしり、血がふきだした。

 治療の間を縫って出席した親友の結婚式。幸せそうな笑顔に接し、「自分は相手の親にも祝福されるような結婚はできるのだろうか。万が一、お産で母子感染すれば、自分と同じつらい思いを味わわせてしまうかも…」と思い悩んだ。結婚や出産をして幸せになっていく友人たちと、家で寝ているだけの自分。将来への不安と焦りが続いた。

 平成16年に入り、C型肝炎の医療講演会に出席。そこで出会った弁護士らから訴訟の存在を知らされた。3月に福岡地裁に提訴。4月の意見陳述で実名公表に踏み切り、裁判長に訴えた。

 「好奇心でいっぱいだった私の心を、私の前に広がっていたあの人生を返してください」

 提訴以来、全国各地を飛び回り、講演会などで被害の深刻さを訴え続けてきた。目標はあくまでも未提訴者を含む被害者全員の一律救済だ。

 「患者にはもう時間がない。1日も早い解決を求めて闘い、いつの日か『薬害』という言葉をこの世からなくしたい」
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 ボクの知っている「Oさん」、どうしているかな・・・彼女も「私、C型肝炎なの」と言っていたけれど・・・彼女は「オカアさん」からの感染だと話していたのだが・・・高校を中退し、その後、大学受験資格に合格し、「この歳でヤット女子大生になてたのッ。今、大学生活を楽しんでいる」、と電話をして来たのは随分前だった・・・一人っ子の彼女、最初は好きになった彼氏の浮気で、彼氏と別れたハナシだったが、「ダレか他にイイヒトいないかな」、だった・・・C型肝炎・・・単なる「慢性肝炎」の類ぐらいにしか考えていなかったボクは、今、現在、C型肝炎の恐ろしい事情を再認識している・・・迂闊にも、世話になっている「Kご夫婦」や、「Eさん」に「ダレか彼女にイイヒトを紹介してやってくれない」かと依頼したコトがあったのだ・・・「C型肝炎、ダレのセイ」でもない(?)・・・が、「罪つくりな連鎖」に加担・・・その「鎖の一輪」に・・・彼氏と別れたのは「浮気」なんかじゃなかったのカモ・・・そして、恐ろしいコトに、ボクの「反省意識(?)」は「C型肝炎感染者」であった「Oさん」を「差別意識の立場」で・・・エゴな人間として、考えようとしている。
 ・・・アフリカのドコカの国の80%が「エイズ」であるらしい。そして、寿命が短いそのコトを承知で、覚悟で「結婚生活・家族生活・日常生活」をしているらしい。あの若い日本人の海外援助派遣隊員の自作、自演の「コンドームの歌」、その国の街や農村現地、TV番組でギターを弾きながら歌い広め、一躍人気者になり、その国の「準国歌」なった・・・売り上げは援助金にしたいと言っていた彼の「CD」は販売にこぎつけたのだろうか?・・・アレからどうなったんだろう?・・・
 「Oさん」、子供の頃、母親に手を繋がれながら陸橋の上で「Oちゃん、一緒に死のう」と言われ、恐ろしくなって母親の手を振り切ってその場から独り逃げ帰ってきた、と話してくれたけれど・・・その「オカァさん」の事情を詳しくは訊かなかった・・・
 でも、自覚して、覚悟して、「生きる」って、スゴイ!!