379日目・・・「免疫の意味論(多田富雄著)」は既に古本屋で買って読み、本棚に飾ってあったのだが、買ったコトも忘れて、同じ古本屋で「タイトル」を忘れしまったのか、「免疫」と言う文字だけで、同じパターンで、違う時期に一冊、二冊、合計三冊も買ってしまっている。確かに古本の値段は「200円」なのだが、マタマタ、ボケッ・・・ィヤァ〜、それにしても、「モノ見方、考え方」ってイロイロあるもんだなぁ〜・・・今日(2007・12・5)の中日新聞の「時のおもり」と言う「中村桂子(JT生命誌研究館館長)」のコラムで「弱者の

 「免疫は医学として見ると、文字通り体内に侵入する外敵から身を守るー疫を免れるために生命が持つメカニズムだが、そのためには、自己と非自己の区別が必要になる。ここで、自己とはなにかと言う基本的問いが生じるのである」

 と言う問題設定がなされて中村桂子氏のコラムが展開されていく・・・当の「多田富雄」氏が実際に脳梗塞で倒れ、リハビリで快復し、その立場(弱者?)から「診療報酬改定、リハビリ中止は死の宣告」と言う投稿文を「朝日新聞(2006/4)」にしたらしい。
 「弱者の立場の基準」はナンだろう?・・・「医療費を支払う能力」・・・カネの有無?・・・なんだろうか?
 「免疫の意味論」を著作した「多田富雄著」は「温厚」であったらしいが、当の「本人」が病で倒れ、快復してからの「発言・言動」は激しくなっていったらしい。

 ・・・「免疫の意味論」を書いた時までは「客観主義的」な「学者」の「理性論的」だったのだろう。自分の「立場」がまさに「脳梗塞」に襲われた後に、その「医療制度」の「理不尽」さに「主体的」に「感情論的」になっていったのだろう・・・「四年間リハビリ」でなんとか快復した彼は「改正医療保険の発症後180日間のリハビリ上限」に怒っているらしい・・・救われた自分と、救われないであろう他人の比較に於いて・・・怒っているんだろうか?

 だれもが「我が身を抓って他人の痛さを知ろうとはしない」し、事実、その「痛みを感じるコトは無理」だろう。自分自身の問題になった時に他人の痛みが、自分自身のモノとして直に解かるのだ。
 今日のTVのニュースでも公表されたリストに自分自身が薬害投与で「C型肝炎」になったことを初めて知り、「訴訟」を起こした女性が報じられていた。それまで彼女は「C型肝炎」になったコトを「運命」だと思って諦めていたらしい・・・この「運命」とはナンゾヤ?・・・
 「出来事的」に「明日は我が身である」との「覚悟の無いモノ」は「運」に流されるのだろう。
 「自然界の出来事の流れ」は「自然」である。「幸、不幸」も無く「生から死」の異なった時間の枠があるだけである。その「出来事」を感情、理性に於いて「運命」と言い、考えているのは今のところ「エゴな人間」だけであるであるらしい・・・