369日目・・・ィヤァ〜、「政治屋」ってヤツ、自分自身の疑惑問題から大勢の人の目や耳を他にソラスタメに、「混乱した状況」を創り出し、問題の本質をアイマイにする「駆け引き」を心得ている、ってコトだな。「自分自身(オザワのダダコネ言動・フクダのオトボケ言動)の問題」とは「防衛省・自衛隊」に於ける「兵器納入利権」に絡む「利益・利権」の悪事発覚拡大阻止でしかない。過去のシーメンス、ロッキード、グラマン事件・・・「国民の生活をまもる」とか言いながらも、「人殺し兵器屋」とツルンだ「私腹」の我が身に火の粉が降りかか

チキン

 ムカシだったら「国内問題」を対「外国(外交)問題」にソラして、「国民」の危機感を煽って、「国家・国民の生命財産」をまもるタメって、一致団結、「戦争準備・戦争」ってコトで、国内での政治屋、官僚屋の責任問題を即、隣国に転嫁して「外交問題」にスリカエテいくのが常套だったんだけれど。あるいは「天皇」を騙してネッ・・・敗戦国になってからはその責任転嫁をする「敵国」がいない。だが頭を下げて「責任」に於ける「自己反省」なんてコトは「国家の指導者」はしなかったし、当時の新聞大手「マスコミ」もしなかった。「昭和天皇」だけは真摯に「国民=臣下」に頭を下げたけれど・・・詰まるところは自己保身を謀って「鬼畜」のアメリカ国家、マッカーサーに利用された。
 敗戦後、その「国家」を動かしているらしい、「国民」によって選ばれた「政治屋・官僚役人屋」も「国民」に責任をトルなんてコトはしなかったからね。そもそも「日本国民」の現状は「水俣病」、「四日市喘息」、「原発事故」、「中国残留孤児」、「神戸大地震直後の救済不始末」、「エイズ」、「らい病」、「アスベスト」、「C型肝炎」、「拉致問題」、「長銀問題」、「米国産牛肉輸入」、「違法建築是認」、「裏金」、「国民年金」、「医療破綻」、「沖縄基地問題」等などと数えだしたらキリが無いほど・・・の「国家政策の悲惨」さである。
 そして「被害の無かった国民一般」の殆どは生活多忙で無関心?
 「国家=国民=政治屋=役人」の「=(同等)」が「=(同等)」であるか、無いか、今更だけど、みんなは考えてみるべきだね。
 「国民」の中身は「同等」であるはずないんだから。国民は「個別、特別、特殊」に分類されているのが現実で「一般国民」なんてものは存在しないのサッ。何時の時代でも「国民」は「国家の中」で「階級・階層分化差別」されて「生存期間」自体が、「生命維持期間」自体のあり方が「不平等」に存在させられてきたのさ。
 もちろん、今現在、どの「階層・階級」に属して生きたいのかは「アンタの意識の自由」である。「階級、階級上昇への選択」、「職業の選択」、「生き方の選択」は「自由」である。そして、金持ち、出世として上昇するかどうかは「自由競争の結果」でもある。自然災害と疫病は「階級・階層」には無関係に襲ってくるが・・・社会生活での「人災」と言われるモノには「人間の利害(損得)関係」が必ずアル。
 損得トラブル・・・「国家、企業、諸団体組織の内部」でなくても「家族単位・一族郎党」からして「身内の問題」が起こっても、第三者としての「隣人・よそ者」が「家族の利害関係」に関ってくると「敵対・排除」のタメに一致団結するのが当たり前だからね。他人、他国の「内政干渉」排除、排撃だ。
 遺産問題での身内兄弟姉妹、親戚、親類の分与問題は結構凄まじい。そして、本人自身、身内自身、悪口合戦は結構言うことが許されるけれども、赤の他人や第三者に身内の悪口を言われるのは許しはしないのが原則だ。「身内の損得でアンタに言われる筋合いは無い」って、さッ。で、「民事裁判」・・・「私有財産分配のルール」は裁判官に委ねる、か。
 自分が起こした問題の責任を他人転嫁する、自分自身の問題を他人のセイにするのは「普通の人間」である。「自己防衛過剰」なのは「西欧人」だけれど、「普通の人間」とは「エゴ・セルフッシュ」であることが「普通」である、と言うことだ。個的な自分の生きた生理的実体存在をまもるためには「エゴ・セルフッシュ」であることが「必要条件」である。個としての肉体的維持、身体的健康維持に「必要条件」である。だが「衣食住」は個的維持のタメには「絶対条件」である。そして「絶対条件」を支えているモノが「社会的ルール」と言うものだ。つまり、対人関係に於ける「ココロの問題」。
 「絶対条件」とは「人間」が「社会的諸関係としての意識的存在」であるからだ。
 家族なくして自己存在は無い。
 社会なくして家族存在は無い。
 自然なくして社会存在は無い。
 宇宙なくして地球の自然存在は無い。
 だが「存在のあり方」としての「家族・社会」の諸関係は、個々人の生長プロセスに於いて「体力・知力・能力・理解力・判断力・性別」が「対等・公平・平等」であるはずが無いのである。「差別」される存在ではないけれど、「区別」されるのだ。
 「国家」は別物である。「近代法治国家の法」とは、「私有財産法」である。現在の中国、アメリカ、ロシア、日本、アラブ諸国、多分、「国連」に加入している国家、地球上の「領土区分されている国家」のすべてが「私有財産法」がベースである。「私有財産所有」の「大小の格差」で「国家の国民」が存在している。この「大」は「法律の網」にひっかからなければ幾らでも「増大」させるコトができる、と言うシロモノである。「法律違反」でも発覚しなければ「オッケイ」なのだ。

 「国家」は「差別システム」をベースとして存在している。
 「国家」は「特権システム」をベースとして存在している。
 「国家」は「税金」と「兵隊」、「警察」のシステムをベースにして存在している。
 「国家」はその「特権者」を「システム思想維持者」として「育成」する存在である。

 そして「国民」とは、

 「国家のシステム」を担う「自由を選択できる存在」なのだ。

 「自由」とは「個的生存期間」に於いて「貧乏」にも「金持ち」にもなれる「可能性の選択思想」なのである。
 「自由」とは「選択の自由」である。
 「自由」とは「階層、階級レベルの選択の自由」である。
 だが「対等・公平・平等」とは対立するコトバで、「思想」である。「自由」とは「非対等・不公平・不平等」を選択するコトである。だから「自由=平等」では無い。「自由≠平等≠博愛」である。
 まさに「自由党」とはその名のとおりの「自由」の担い手の集団である。
 まさに「自由民主党」とはその名のとおりの「自由」と「民主」の矛盾した担い手の集団である。
 では、「民主党」の「民」とは何か・・・漢字の字面とうりの「民」とは「統治される人」で、「官位の無い人」で、「身分の無い人」で、「おろかな人」なのである。「国家の役人・公務員では無い人」で、「支配され、統治される人」である。「ダレ」にか?・・・「国家」にである。「民主党」とは「役人になれない人々の集団」と言うことだ。
 そして「源字」は「民=子を産む母」とある。
 「戦争」で、「薬害」で、苦痛の極限で産んだ子供を殺される「母=民」はたまらんョ。もちろん、「本人」も。
 その「戦争兵器屋」と「薬害屋」、「年金屋」、「税金収奪屋」を利用してモウケて来た奴が「国民」が選んだ「政治屋のトップ」で、「役人のトップ」・・・
 「オザワとフクダ」が「意図的騒動」を起こしているのだ。
 「モリヤ問題」や「薬害問題」、「年金問題」をアイマイにしようとしているのにダマサレルなよッ・・・