291日目・・・「アカシアの雨がやむとき」・・・1960年の「安保闘争」で「戦争は嫌だ、モゥ、ゴメンだ」って、「危機感」をもって、街頭にデモり、国会周辺に押しかけた人々は、イマや七十歳以上のジジ、ババで「年金生活」がほとんどだろう。そして1970年の「安保闘争」では更に「戦争に巻き込まれるんじゃぁ」との「危機感」で街頭でデモった大勢の人々はイマや六十歳以上のジジ、ババで「不安な年金生活の入り口」に立っている・・・あの「危機感」ってナンだったのか?・・・「平和的、擬似的鎖国」状況の「ニッポンの大空を目指し

 「死ぬまで一緒に」とは、アンタとワタシは死ぬも生きるも「相互に一緒」と言う願望だが、「相互に公平な立場」で、実質的にも「運命共同体」でありたい、と言うことだ。過去に於いて「日本国家」は「一億総玉砕=国家心中」の「運命共同体」ではなく、「帝国」の「国家の道連れ共同体」であったコトを「日本居住地区」の住民は自覚すべきである。その実体がダレの「道連れ」なのかはヨクヨク考えて見るべきである。
 市民社会では「自暴自棄」になったヤツが、関係の無い「他人」を「道連れ」で「殺人」、「無理心中」、「強制心中」をし、時たま「納得心中」で「天国・地獄」に連れて行く。
 とにかく、「道連れ殺人」は自分自身の「命を捨てるコト」も前提だが、「帝国日本国家」は「国家心中=一億総玉砕」などと「殺傷殺人」を「合法的」に煽動し、組織化したが、「国家支配層」はその「利害体制維持」をし、「支配層」は支配権を失って「属国」になっても「生き残れる」と言う「立場」をとったのである・・・戦争を煽って生き残ったヤツは「国家心中」などはしなかったし、するつもりもなかった。そして「国破れて惨禍アリ」にあったのは、「国家心中」を出来なかったアンタやオレの祖父母であり、両親であり、親戚、親類、彼等の友人、知り合いであった。そして、「国家のタメに死ね、死ね」と煽りながらも「一緒に死ぬ気も無かった国家」に見切りをつけたのサッ。「国家」に見切りをつけた、「国家」を嫌ったと言うコトが、「国家」としての、「国家的存立条件」である「対外軍隊、軍事力を否定」した、まさに「日本人居住地区憲法」だった、のサッ。

 「エリカの花散るとき」・・・「桜が散るさま」は感性的に「美しい」とも思うけれど、「日本人支配層」は歴史的に「醜い事実」をも観念的な「美」に「すり替える」と言う「文芸」を形成して来た。

 「コーヒー・ルンバ」・・・バイアグラの類は能力が減退した「男の願望」なんだろう・・・あるいは「女の男に期待する願望」かも・・・

 「夜が切ない」・・・「タシカ」に切ない人間もいるに違いない・・・「メイワクメール」の「タイトル」にはその類の「コトバ」が結構多い・・・

 「故郷のように」・・・うさぎおいしかのやま、こぶなつりしかのかわ・・・

 「東京ブルース」・・・「東京」とは「喘息ブルース」の場所だったらしい。

 「裏町酒場」・・・酒は呑まないから、裏町などはうろついたコトも無いけれど、「酒の呑めないヤツ」は「面白み」がないらしい。「面赤み」が無いって言わないョ、なっ・・・

 「赤坂の夜は更けて」・・・「赤坂」でなくても「夜は更ける」さッ・

 「ウナ・セラ・デイ東京」・・・この「ウナ・セラ・デイ」の意味って?

 「ベットで煙草を吸わないで」・・・吸いたくなるんだよな、タバコ、ベットの上で・・・カジには注意しナクチャァ・

 「女の意地」・・・判るような気もするけれど、「オンナ」ジャァない、しなッ。

 「涙のかわくまで」・・・判るような気もするけれど・・・

 「信じていたい」・・・裏切られても、願望・・・確信・・・

 「香林坊ブルース」・・・カリントウ?・・・駄菓子屋のブルース?

 「初めての街で」・・・初めての場所は不安だョ、なっ。