もじたま(文字霊)も2006年12月29日で「191日目」になりました。ボクの「文字霊日記」にご訪問され、リンクされた方、アリガトウ・・・で、以下の文は最近訪問された方の所に「貼り付け」チャったモノの改作したモノ・・・です。


 「口で言うほど心では思っていないさ」とはボク自身の心境なんだけれども、日本的環境の生き方として「口で言う」ほど「心は喜怒哀楽」なんかはしていない、だろう、と思う。「信じる・疑う」ってことも・・・「口で言うほど実行力は無い」って言うのも。「口ほどでも無い奴」って、ねっ。その点で、コラムニストやモノカキのジャーナリスト、それに「ブロガー」とかは自分自身の吐いたコトバを、どれだけ「信念」としての「言行一致」の立場をとっているんだか・・・

 「左翼・右翼」であろうが、「中間」であろうが「立場」を言明したらその「自分自身のコトバ」に「自己責任」をもって「自己行動」しろよ、なッ、て・・「煽られました」、「自分の本意では無かった」、「みんなに誘われて、ツイツイ」などと言うなよなッ。
 「コトバ」で「戦争」を煽り、望む人間は先ずは自ら「銃」を持って「戦線」に率先して「一兵卒」として立つコトを誓うベキだ。そして、「他者に責任転嫁」せず、覚悟としての「自分自身の責任」に於いて「殺傷命令に確固として従うコト」を、そして「戦線から逃亡しないコト」を。
 「理不尽」に「殺す・盗む・騙す・差別する」ことが「正義」とは思わないけれど・・・「悪義」とも思わない「定義の無いダレかの正義」がイロイロあっても困るんだけれど・・・コトバとしての「区別・定義」をするのが「理屈・論理」と、いうモノ。しかも、「抽象的概念」をさらに突っ込んだ「具体的概念」としての「殺す・盗む・騙す・差別するコトの理由説明」を。
 「戦争」の「大義名分」がダレか特定なヒトに都合よく利用されるような「ミンナのセイギでは無い」と気づけば・・・「市民社会」では「法」として「正当防衛以外」は否定されている「殺傷行為」を「戦場」で「簡単に命」を賭けるハズが無い・・・「切捨てゴメン」は時代的な「支配者の法=掟」だったけれど・・・切るヒト(武士階級)、切られるヒト(武士以外の階級)の双方での立場を「双方の正義」で「第三者」は納得できるかな・・・「士農工商」としての序列社会で、「切り捨てゴメン」が出来るのは「武士」であった・・・「武士の一分」、「人間の一分」、「ムシの一分」・・・「反戦主義者」、「ボランティア(社会奉仕)」の言い分にも「一分」はある・・・「彼らの行動に異を唱えた時点」で、「彼等にとっては、彼等に異を唱えたヒト」が「悪となる」となるハズがナイ・・・その「逆の正義」も・・・彼等は、その「行動」自体を「自己目的化」にしているわけじゃぁ、ないだろう(?)、と、ボクは主観的に「推論」したい。「・・・としての、ふし」があるとは、主観的立場での「同次元レベル」での「推論=思い込み」であるだろう。
 「反戦主義者」が「無条件に殺傷反対」、「偉大なガンジー」のように「無抵抗主義者」として「反戦活動」をしているワケじゃぁない、と思う(?)・・・「現実の戦争」は「TVゲーム、ボタンゲームの主人公操作」じゃないし・・・戦争体験した生き残ったジジ達は「現実の白兵戦の殺傷修羅場」を経験しても、「ヤラレタ悔しさ」と「ヤッタ殺し」を死ぬ間際まで「個人」として沈黙をまもっていくようだし・・・敵の民間人殺傷や、白兵戦、爆撃、特攻を自慢する帰還した「捕虜・敗残兵」もいるけれど、とにかく、「生き残った奴の口惜しさ」だろう。
 敵味方双方、一方に「理」があっても、「ヤラレタ人々の怨念」がそう簡単に消えるものではない。「殺した人間の数・殺された人間の数」の問題じゃない、「一人」でも「何十万人」にでも、その「殺す理由」、その「命が抹殺される理由」の「問題」である。

 「暴力(武力)は国際政治の延長」だと言えるのは、その「敵味方、双方の国内政治状況(国民生活レベル・国民秩序)」を明らかにする必要があるし、「君主論マキャベリ)」や「戦争論クラウゼヴィッツ)」が言えるのは「各国の統治支配者の立場」でである。モウ少し言えば、「戦争勝利」での「戦術」的な「作戦・策謀」とは「敵を騙すコト(敵の作戦司令部の裏をかくコト)」であるが、「赤紙で徴兵された一兵卒」や「銃後で戦災を被る被害者」、「敵国の一兵卒、敵国一般人」をも「騙すコト」が出来た結果の場合である。
 殆ど「戦意喪失」時点で、「戦争」は負ける・・・モチロン、生き延びるコトを望む人々、「食えなくなった国民」、「兵糧米が支給されない兵士」は敗北する。「胃袋を保障されない人々」を「戦意高唱でのコトバ(観念・思想)」では「騙すコト」ができない・・・
 精神に「死ぬコト」に意味を与えられたヒトも「兵糧・武器」が無ければ「敗北」する。「大日本帝国国民」は「タケヤリ」なんかでは「一億総玉砕」はしなかった。「シノビ難きを忍び、タエ難き耐え」、なんとか食って生きようとした・・・そして、生き残ってボク達を産んでくれた。

 まさに「戦争の目的=戦略」とは「戦争自体」では無く、敵対関係にある諸国家の「支配階級の利害」と、そのおコボレにありつけるかも知れない、と言う「被支配階級の利害」である。「戦争=戦場での殺傷」の結果は、勝利者の「利害」が完全に「貫徹」されるコトはないし、「妥協」もあり、時には戦勝国が傾いてしまうことすらある。
 「戦争勝利(開戦命令)」で「大日本帝国」はマモレナカッタ。「敗戦(終戦)命令」で「自分の命」はマモラレタ、マモレタ(?)・・・「生き残った」・・・・その「体験・経験」を具体的にリアリティを以って聞かされた子供達や孫達もいるだろう・・・あとは、それを「理不尽」と思うか、どうかが、「立場」の分かれ目、である・・・騙されやすい「正義」にも、「悪義」にも、「コトバの具体的な意味内容・概念規定」が必要である。
 「諸利害関係」を巡っての諸国家間の「紛争・殺傷」は「国家間の平和条約」を「締結」して厳守できればイイのだけれど、現状はソウはなってはいない。「国連条約」も「国際条約締結」もアテにはならない・・・
 「市民社会の諸関係」であろうが、「国際社会の諸関係」であろうが「理不尽な暴力」から家族、友人を「死を賭けて守る戦い自体」は当然である。「警察」、「軍隊」があろうが、無かろうが・・・逃げる場所があるなら、逃げるコトも含めて・・・「個々人の信頼関係を前提にした自己防衛」が必要とされる。他に頼れるものはアルかナイかの「運(?)」だけである。
 現実的な災害に於いても、ミサイル戦争勃発に於いても「心構え」は必要だが、現実的には「後の祭り」としての生活空間を破壊され、家族を失って「生き残った人間の生活」をどうするか、である。

 *「戦意コウショウ」・・・高唱・交渉・高尚・公証・好尚・考証・口承・工商・厚相・哄笑・工匠・工廠・公娼・公傷・公称・口証・行賞・興商・・・随分とあるな、「同音異字漢字」が、サッ、「咬傷」されなければイイけれど・・・交証・・・幸証・・・