146日目・・・「大田総理」の「9月9日」の重陽の日を「憲法九条の記念日」にしようには大賛成・・・だが、「十一対十二」で廃案になってしまった。

 この「十二人」は絶対的に「ノーベル平和賞」を貰えない人間で、「悩める十二人」でもないらしい。過去に貰えたのは「佐藤栄作」だが、「非核三原則」で・・・ウソパッチだったが・・・この「十二人」はウソはつきたくないらしい・・・が、「理想」に生きていくよりも、逆にこの「現実社会=諸国家間の力関係」を「しょうがない・しかたがない・どうしょうもない・方法が無い」・・・あるがママとして「憲法」に書き込みましょう、と思って生きている人間らしい。
 「憲法」に書き込んだからと言って、その「国民安全の保障」はないのにねっ・・・だが、別個に「戦争行為に利用する手」は幾らでも「保障」される。しかも「戦争」はビジネスだから兵器産業や金融界に絡んむ「政界利権者」や「国家官僚」もワンサカ・・・現今の自衛隊高級官僚がアマ下りのトンネル会社の存在はどうなったのか・・・兵器は消耗されないと儲からんね。それに兵器を使用する人間の消耗と言うより「規律命令遵守の人間の生産」・・・兵器の生産、消耗に関しては機密が必要だし、国旗も国歌も必要だ・・・ハタ屋さんも儲かるさ・・・税金で。
 「戸川」さんの死臭漂う屍類々の中での戦争実感は、あのおしゃべりでセルフシュな「台湾なんとか女史」の「隣の防空壕は全滅、自分の入った穴倉は何とも無かった」との乾いたコトバでの戦争体験とは重ならないだろうな。それに「台湾」、「中国」双方が領土的にも人間的にも「統一国家」を目指しているとすれば「中国国内の権力問題」である。「台湾」が「独立国家」を目指しているならば「国家」と「国家」の対立である。
 終戦時の日本人は「天皇の言葉(玉音)」に従ったのだ。そして翌年の「人間天皇人間宣言)」も認めた(従った)のだ・・・秩序をもって・・・口惜しかったのは「天皇=(洗脳)国民」だったからだ・・・「価値観(共同幻想)」が一致していたのさ・・・「A級戦犯」は「東京裁判」以前の問題である。「戦陣訓」厳守の戦争指導者が「戦陣訓」を破って「捕虜」になり、「日本帝国国民」を裏切っていたのだから・・・「日本軍事法廷開催」するまでもなく、「戦犯」である・・・でなかったら「戦死した兵士」にどう、申し訳が立つのか・・・「靖国の英霊」を・・・「九段の母」にも、「岩岸の母」にも・・・。

 「ズルサ」に於いては「タケシ」に負けているところが「大田総理」の「葛藤」なんだろう。自分自身が「巨大広告メディア組織=TV番組」の仕事で「カネを稼いでいる特殊な立場」に踏み込まずに・・・「近代日本史」と「現代日本史」を「世界史」との関連で追求し、「人間存在」とその諸関係を「理屈=理論(思想)」で追求したら必然的なジレンマに陥るのはあたりまえだが・・・生活の基盤が「スポンサー」に支えられた「オワライタレント」だから。
 だが、真面目な「大田総理」はエライ、と思うョ・・・「タハラ」は「タケシ」より「ズルイ」ね・・・この現実社会では「しょうもない」ところで人間は生きようとしているラシイから・・・
 でも、人間存在としての「理想・幻想・空想・妄想」もないところでは、情念的人間は「人間」として生きて行けないから。
 「憲法九条」は平たく言えば、「人間は人間を殺すな」である。そして、条件が付け加えられる・・・「人間は人間を理由も無く殺すな」・・・「人間は人間を理由が有れば殺してもイイ」・・・「理由」は単純である。「殺す目的」がハッキリしていれば「殺してもイイ」である。「殺す」とは、「命を盗むコト」だが、殆どが「殺し自体が目的」ではない。殺された人間が有していた「人生スベテのモノを盗むコト」である。
 が、この「盗むコトの理由」が「法体系」として複雑になっており、その「本質」が「自由」と言うコトバにガッチリ琺瑯されて、ゴクゴク「常識」となっている所に問題の核心があるようなのだ・・・「カネ」はナイより有るほうがイイに決まっているから・・・「自由に働いて」、「自由に儲け」、「自由に蓄財し」、「自由に使える」から・・・それよりも、ボクなら、汗水たらして「自由に稼ぐ」よりも宝くじで3億円当たるのがもっとイイョ、なッ・・・「自由」に寝て暮らせるカモ・・・博打は胴元組織が儲かる仕組みで、その3億円はカスみたいな「不公平な分配の一部」だろうけれど。
 何はともあれ、「大田総理」はとにかく、「好きな職業」で「自由(不自由?)に稼いでいる」とは思うんだけれど・・・手にした「結果のカネの流れ」は、どうなってんの?