99日目です・・・「ひきこもり」・・・昨日の某夕刊のコラム(綾小路氏)には「ひきこもり」の自己体験が記されていた・・・家の自室で「ゴロゴロ」してんのが「ヒキコモリ(かなり長期の日数のモグラ生活)」ではないらしい・・・

 先週、「モグラの賢い生活」を丁V番組でみたけれど、大変だよな生きるって・・・ぼく自身の経験によれば、学生時代、バイトで「生活費(食料・下宿代)」を確保した後、授業をサボッて下宿の部屋に一人ぼっちで「二、三週間ぐらいゴロゴロ」していたことがあったが、どうやら「綾小路氏」とはまったく違った。イワユル、「ナマケモノ」の「ヒキコモリ」であった。聴覚、視覚、触覚などの過敏性もなかったし、内面的な精神にはナニも孤独や恐怖を喚起させるような現象は起きなかった・・・戸口から出て「おてんとうさま」を拝みたくなった共通項は、「本を読んでしまった(読むべき本が手元になくなったので外へ)」か、「本を読んだコト(本の知識が自分存在のあり方を教唆シテクレテ外へ)」と言う、ところか・・・本、活字中毒、文字中毒・・・だが、それ以前に「籠城」したくても「兵糧切れ」だよな。腹が減ってはサッ。

 自分自身に「躁鬱」と言われるモノがなかったワケではない・・・「極端な躁鬱」がなかった、と言うことだろう。ダガ自分自身が「躁鬱病」だと自称している人間はたいした事ないのだ。あるいは医者から「アンタは躁鬱病」だと言われて「病気の名前」聞いて「病人」なんだと暗示にかかって「安心」しているヤツ、である。「病気」になればその「特権に甘えられる」からな・・・ムカシだったら病床では「メロン・バナナ・パインナップルや、モモの缶詰」が食えた・・・「鬱」じゃぁ、「食欲」なんてコトはどっかに行っちゃう、か・・・子供のころには「病人」には憧れたョ、アコガレ・・・だが「躁鬱」は一般的精神活動(感情・思惟)をする社会的人間の「特権」である。無い方が危険だ。軽重はあろうが、人間生活での個々人のプロセスとして「必要な経験」である。あるいは「経験せざるを得ない」のだ。
 問題は「躁鬱に自覚していない人間」である。現在の社会問題化している「引きこもり」が実際はどんなモノなのか知らないが、「甘えている人間」や「甘やかしている人間」がこの飽食の時代的状況にワンサカいるからだろう。かっては家族もその一員も食うために必死で「躁鬱」なんかで「引きこもれる状況」がなかったのだ。
 自分自身、食い物と、シャワー、そして「コンピュータ」さえあれば、かなりの長期間「ひきこもる自信」がある。その期間は「知識の吸収時期」だ・・・役に立つかどうかは「未知」だが・・・

 世界中の「難民、難民の子供」達に「引きこもれるような逃げ場の状況」を造ってやれたら・・・1970年代、大坂万博があった・・・ぼくがそこで出会った世界中の人々が「日本」を、「日本人」に「アコガレていた」・・・ソ連が、アメリカが「宇宙船」をパビリオンに展示しても、世界中の彼等は「溌剌としていた日本人、日本」に「あこがれていた」・・・あの時代の「日本」がアコガレの対象だなんて・・・どうしてだったのか?・・・当時の「日本」はその「憲法」に於いて、未来的な社会的システム、そして目に見えるビジョンを信じてガンバッていた、みたい・・・だけど、当時、ボクは「日本」の「凄さ(?)」よりも「アメリカの科学文明」に、そして「ソ連の社会制度」にアコガレていた・・・今、現在、当時(70年代)の「日本」が世界中の「あこがれの的」だったのが見えてくる・・・「日本」は、その「アメリカ(自然科学)」と「ソ連(社会科学)」の「理論」を追求し、現実的に、実際的に「実践」しつつあったから・・・だが、「両本家の社会的な本質=現実」は、その「理屈=民主主義=憲法」とはマッタク異なった現実社会が展開され、滅茶苦茶な幻滅社会で、そして今現在の「日本」も幻滅になろうとしているようだから・・・「ジパング」はいつの時代でも外からは「あこがれ」の存在だった・・・内からは・・・?