七拾弐日目・・・戦後からこの時代の極東の「日本地域」に生活できているコトに「感謝」せずにはいられない・・・「ニッポンチーム」が負けようが、勝とうが・・・

 そして、台風がこようが、地震がこようが、「日本地域」に生活出来ている事を「感謝」せずにはいられない。だが「誤解」しないでくれ、「日本」と言う得体の知れ無いような「国家」と言うコトバや、そのシステムに感謝しているわけではない。日本と言う「地域」、その中での「時間を生活している人々」、その人々の中で自分自身が「生活」出来ているコトに「感謝」しているのだ。
 「君が代」を「世界大会の試合開始前」に聴いても、「海ゆかば」も聴いてもジーンとくる。「国家」にジーンと来るわけではない。ビートルズを聴いて同じように「ジーン」と来るのと一緒だ。
 ボクの場合、それらの「歌詞=コトバ」よりも先に耳に「音楽としての旋律」にジーンと来る。次ぎに「音声」としての「歌詞」に即ジーンと来るかといえば、決してソウでは無い。「歌詞=音声コトバ」を意識的に耳から聴いて「その意味を思考」するなんてコトはなかった。「思考」するのは「歌詞の文字」を目から確認してからなのだ。
 そして、「君が代」も「海ゆかば」も、その「歌詞=コトバ」が「イイなぁ〜」と思うのだ。だが、その「意味」するところ深くは解かってはいない。判っていなくても、なんとなく、漠然と、曖昧に「イイナ〜ッ」って思うのだ。
 で、今現在の立場から「論理的」に深く考えても「イイナ〜ッ」と思うのである。今現在の立場とは「歌詞=コトバ」を「今現在の論理的な立場」から「歌詞の時代的状況」を
「解釈」してのコトである。
 ビートルズの「ミッシェル」は、かってソ連圏東欧に属していた「チェコスロバキア」では「自由と民主主義」を欲した人々に「国歌」のように歌われ、今も歌われているそうである。日本人が作詞作曲した「バラが咲いた」は今現在、「ロシア」のある港の都市で「市民歌」のように「日本語の歌詞」で歌われ、愛されているそうだ。
 ミミに快く響くある曲は、オジリナルな「歌詞」であろうが、変えられた「歌詞」であろうが、キット、その「歌詞=コトバ」を理解しなくても好きになって、その旋律を口ずさむ違いない・・・「上を向いて歩こう」がアメリカではその「タイトル」が「スキヤキ」であった・・・
 「希望」、「喜び」、「怒り」、「哀しみ」、「楽しみ」・・・「規律」、「忍耐」、「勇気」を鼓舞する「旋律」・・・だが、イメージは決して「戦争」や「暴力」、「悲惨」ではない。
 ガンバレ、「ニホンチーム」・・・