2466日目・・・「岩倉使節団」が欧米をヨクヨク観察して、「日本」と比較している・・・そして、けっして「欧米」がその「支配秩序」として優れているワケでは無いことを見抜いてきたコトである・・・

ーーーーー
 「大久保利通岩倉具視」の
 「岩倉使節団
 明治4年11月12日(1871年12月23日)?
  〜
 明治6年1873年9月13日)
 ↓↑
 (明治4年11月11日出発・・・?
   1871年12月22日出発・・・?
   1872年 1月15日、サンフランシスコ着
   1872年 2月29日、ワシントン到着)
 ↓↑
 日本からアメリカ合衆国
 ヨーロッパ諸国への大使節
 正使
 岩倉具視
 ↓↑
 政府首脳陣や留学生を含む
 使節46名、随員18名、留学生43名
 総勢107名
 ↓↑
 大久保利通
 伊藤博文
 木戸孝允
 山口尚芳
 ↓↑
 二年間、各国を歴訪
 不平等条約改正を目指した
 アメリカには
 約8か月、長期滞在
 後
 蒸気船オリムパス号で
 1872年8月17日
 イギリスのリバプールに到着
 1872年12月5日
 ヴィクトリア女王に謁見
ーー↓↑ーー
 以上は前回の重複部分で、以下はツヅキ・・・
 ↓↑
 岩倉使節団
 一等書記官
 ↓↑
 田辺太一
 何礼之(が のりゆき・レイシ)
 ↓↑・・・「何」は中国姓
      何皇后(カコウゴウ?〜189年)
      後漢霊帝の皇后・諡は思・諡号は霊思皇后
      荊州南陽郡宛県(河南省南陽市)出身
      父は何真・母(舞陽君)は何真の後妻
      子は少帝弁
      異母兄は何進・異父兄は何苗(朱苗)
      妹は張譲の子(養子?)の妻
 ↓↑
   外務省六等出仕として随行
   使節団副使の木戸孝允に附属
   憲法の調査
   モンテスキューの『法の精神』を翻訳
   後に『万法精理』として刊行
  「錦鶏間祗候(きんけいのましこう)」
    ↓↑
   功労のあった華族や官吏を優遇するため
   明治時代の半ばに設けられた資格
   職制・俸給等はない名誉職
   宮中席次等では勅任官に準じた待遇
   麝香間祗候の次に位置
   錦鶏間=本来は京都御所内の部屋の一つ
 ↓↑    御学問之間
 福地源一郎
 ↓↑
 二等書記官
 ↓↑
 渡辺洪基
 小松済治
 林董三郎
 長野桂次郎(立石斧次郎)・・・「立石の斧の次郎」
      万延元年(1860年)幕府、遣米使節団の一員
      小栗上野介の従者
 ↓↑
 三等書記官
 川路寛堂
 ↓↑
 四等書記官
 安藤太郎
 池田政懋
 ↓↑
 大使随行
 ↓↑
 久米邦武・・・「久の米の邦(くに)の武(たける)」
      ・・「久米(粂)=来目=久留米」は
        「神武天皇の陪臣」の「大伴氏の随臣」で
      「天-久米(くめ)-命」、久米氏の祖神
      『古事記』で天孫降臨に登場
      『日本書紀』で天孫降臨、第四の一書に登場
       大伴氏の祖神とされる
      「天忍日命(アメノオシヒ)」と共に武装
      「瓊瓊杵尊(ニニギ)を先導」         
 中山信彬
 内海忠勝
 野村靖
 五辻安仲
 ↓↑
 理事官
 ↓↑
 田中光
 東久世通禧
 山田顕義
 佐佐木高行
 田中不二麿
 肥田為良
 ↓↑
 随行
 ↓↑
 村田新八
 由利公正
 原田一道
 長與專齋
 安場保和
 若山儀一
 阿部潜・・・阿の部が「潜(ひそむ)」?
 沖守固・・・沖を守り固(かためる)?
 富田命保
 杉山一成
 吉雄永昌
 中島永元
 近藤鎮三
 今村和郎
 内村公平
 大島高任
 瓜生震・・・瓜を生み震(ふるえる)?
       「永井繁子=瓜生繁子」との関係の有無?
 岡内重俊
 中野健明
 平賀義質・・・平(たいら)の賀(くに)の義の質
 長野文炳・・・長野の文の炳
 ↓↑
 イギリス留学
 ↓↑
 中江兆民・・・ルソー
 鍋島直大
 百武兼行・・・百の武を兼(かね)る行(ギョウ)
 前田利嗣
 毛利元敏
 ↓↑
 イギリス・フランス留学
 ↓↑
 前田利同
 ↓↑
 アメリカ留学
 ↓↑
 金子堅太郎・・・日露戦争講和条約
 團琢磨・・・・・三井三池炭鉱経営者・三井財閥の総帥
 牧野伸顕・・・・大久保利通の次男
 黒田長知
 鳥居忠文・・・・壬生藩、鳥居家12代・ハワイ王国総領事
ーー↓↑ーー
 津田梅子
 山川捨松・・・大山捨松安政7年2月24日)=山川咲子
             1860年3月16日・庚申-己卯-己未g
              〜        子丑=空亡
             大正8年
             1919年2月18日・己未-丙寅-庚子
             大山巌の妻・鹿鳴館の花
 永井繁子・・・瓜生繁子(文久2年3月20日)=永井繁子
             1862年4月18日・壬戌-甲辰-壬寅=空亡
              〜        辰巳=空亡
             昭和3年
             1928年11月3日・戊辰-壬戌-丁未
             海軍大将男爵の「瓜生外吉」の妻
             父親は「益田鷹之助」で
             函館奉行江戸詰
             兄は
            「益田徳之進(孝)」で三井物産創立者
ーー↓↑ーー
 津田梅子(6歳)、永井繁子(10歳)、山川捨松(11歳)
 吉益亮子(14歳・1886年6月、父、吉益正雄により
      亮子を校長とした私塾「女子英学教授所」を設立
      同年秋、コレラの為に死没・享年30、満29歳)
 上田悌子(16歳・医師の桂川甫純と結婚
 ↓↑   父は「上田東作?・シュン?」
      新潟港の開港事務を指揮
      元、幕臣
 ↓↑   ↓↑
     「上田敏」は
     「上田悌子」の甥
      上田敏(びん)の
      父は
     「上田絅二(ケイジ)=乙骨亘
               =上田悌子の兄」で
      1864年文久三年)
     「池田長発」正使の
     「横浜鎖港談判(遣欧)使節
      文久元年(1861)修好使節団」
      の理髪師として海外視察・帰国後、幕府の通訳
      上田家の養子となり名を
     「上田絅二(ケイジ)」と改めた
 ↓↑   ↓↑
      祖父は
     「乙骨耐軒」で儒学者
      母は
     「上田孝子(博士号修得の人物)」で
      母の妹が
     「上田悌子」で
     「上田敏」の叔母にあたる・・・
      ↓↑
     「乙骨耐軒(たいけん)」の長男の
     「乙骨太郎乙(おつこつ たろうおつ」は
     『君が代』を提案した人物
     (海軍七十年史談、國歌「君が代」歌詞選出由来)
      ↓↑
     「乙骨耐軒」の三男は
     『浦島太郎』
     『池の鯉』
      で有名な作詞家の
 ↓↑     「乙骨三郎」
 上田悌子は体調不良
 吉益亮子は眼病(ホームシック・homesick)で
 1872年(明治5年)に日本に帰国
ーー↓↑ーー
 吉川重吉
 木戸孝正
 日下義雄・・・会津藩の侍医・石田龍玄(常雄)の長男
 ↓↑     内科の名医・貧者には無銭で薬を処方
        母は中村為七郎の娘の「ちえ子」
        幼名は石田五郎
        初名は石田伍助
        弟に白虎隊二番士中組で飯盛山で自刃した
        石田和助
        妻は水野忠精の娘
        鳥羽・伏見の戦いに従軍
        会津戦争大鳥圭介らと共に行動
        落城前に会津を脱出
        箱館戦争で捕虜
        増上寺で謹慎時に石田義雄と名乗る
        後に赦免され会津出身を隠すために
        日下義雄と改名・・・
        長州藩
 ↓↑     日下(久坂玄瑞?)家の養子になった・・・
 山脇正勝・・・正勝
 ↓↑    「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命古事記
        正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊日本書紀
        正哉吾勝々速日天押穂耳尊(先代旧事本紀)」
        天照大神
        と
        須佐之男の誓約(うけい)で
        須佐之男天照大神の勾玉を譲り受け
        生まれた五皇子の「長男」
        勾玉の持ち主である
        天照大神の子(古事記
       「日本書紀の一書」では「次男」
 ↓↑     ↓↑
       「正勝」は
       「高木神」の娘の
       「萬幡豊秋津師比売命古事記
        ヨロヅハタトヨアキツシヒメ
        別記は
        栲幡千千媛萬媛命
        天萬栲幡媛命
        栲幡千幡姫命
        栲幡千々姫命
        栲幡千千姫命
        拷幡姫命」
        との間に
       「天火明命
        アメノホアカリ
        と
       「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命
        アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ
        別記
        天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊日本書紀
        天津日高彦瓊瓊杵尊
        瓊瓊杵尊
        邇邇芸命
        をもうけ、
       「瓊瓊杵尊=ニニギのミコト=邇邇芸命」を
 ↓↑     高天原から葦原中国へ「天孫降臨」させた
 高木貞作・・・高木の神=高御産巣日神高皇産霊尊?・・・
 ↓↑     高木の貞の作
 三岡丈夫・・・三陸丈夫・・・岡=おか=陸・丘
 ↓↑
 ドイツ留学
 ↓↑
 平田東助
 ↓↑
 ロシア留学
 ↓↑
 清水谷公考・・・・清の水(氵=サンズイ)の語句の公の考?
 万里小路正秀・・・万理の公字の所為の就?
 ↓↑
 留学
 大村純熈
 朝永甚次郎・・・→朝永三十郎(子)・朝永振一郎(孫)
 長岡治三郎・・・長岡半太郎の父⇔土星模型
 大鳥圭介・・・・医者の大鳥直輔の長男・五稜郭凾館戦争
 坊城俊章
 武者小路実世・・武者小路実篤の父
 錦小路頼言
 ↓↑
 随員
 ↓↑
 新島襄(通訳)・・・
 岩倉具綱
 大久保利和
 牧野伸顕・・・・・・
 山縣伊三郎
 山口俊太郎
 吉井幸輔
 吉原重俊(大原令之助)
 畠山義成(杉浦弘蔵)
ーー↓↑ーー
 ・・・以上も以下も、スベテの原文は「ウイッキペデア」からの参考、参照の抜粋で、段落、句読点など少々、改作添付・・・
  ↓↑
 『米欧回覧実記』
 久米邦武編著
 (明治十一年刊
  五冊組で全100巻・博聞社・1878年
 『米欧回覧実記』
 岩倉使節団
 在外見聞の大部の報告書で
 正式名称は
 『特命全権大使 米欧回覧実記』
 使節団は特命全権大使
 岩倉具視を筆頭に
 明治新政府首脳と随員含め
 総勢46名で構成
 明治4年11月12日
 (1871年12月23日)
  〜
 (1873年
 明治6年9月13日
 1年9カ月余(632日)を掛け
 米欧の条約締結国12か国を歴訪
 ↓↑
 使節団の見聞は
 広く国民に知らせるべき、
 との立場・・・「現今政治」は「広く国民に隠蔽」?
 岩倉大使は
 久米邦武を
 随行記者として参加させた
 久米は
 日々見聞をメモり
 帰国後、各省の
 理事官報告書も閲覧し
 「視察見聞記」を製作した。
 ↓↑
 2005年
 水澤周 訳注
 『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記』が刊行
 訳書では序文で
 「西洋では、
  政府は国民の公的機関であり、
  使節は国民の代理者であるとされている。
  各国の官民が、
  わが使節を親切丁寧に迎えたのは、
  つまりは
  我が国の国民と
  親しくなりたいためであり、
  その産業の状況をそのまま見せてくれたのは、
  つまりその産物を
  わが国民に愛用してほしいからなのである。
  そこで岩倉大使はこの待遇の懇切さを尊重して、
  わが使節が見聞したことについては、
  これを出来るだけ
  広く国民に知らせなくてはならないと考え、
  書記官
  畠山義成(当時は杉浦弘蔵と称していた)
  と
  久米邦武の二人に対し、
  常に自分に随行し、視察したことについては
  調べて記録することを命じた。
  これが本書編集の本来の趣旨であり、
  公的な目的の一つである」
   ↓↑
 以下に引用する原書の巻頭例言では
 本書の目的・概要が、
 久米邦武による文語体で
 格調高く簡潔明快に述べられている。
 久米邦武編、田中彰校注
 『特命全権大使 米欧回覧実記(一)』(岩波文庫)より。
 ↓↑
 明治四年七月(1871年8月)
 廃藩置県を断行
 11月に結成
 岩倉具視木戸孝允大久保利通
 若年の
 少壮官僚、
 伊藤博文
 らを正・副使として
 各省理事官と随員含め
 46名からなる大使節
 更に60名近くの留学生も加わり
 米欧回覧の壮途に就いた。
 目的は
 条約締結各国への
 国書奉呈と聘門の礼を修め、
 欧米先進諸国の
 制度・文物を親しく見聞して、
 明治国家の
 「国のかたち」を考えること、
 そして
 条約改定期限(明治5年5月26日・1872年7月1日)
 に向けた締結国との予備交渉も含まれていた。
 ↓↑
 使節団の計画は
 大隈重信
 と
 伊藤博文
 の建言による
 背景には政府顧問の
 グイド・フルベッキ
    (Guido Herman Fridolin Verbeck
     Verbeek)
     1830年1月23日〜1898年3月10日
     オランダ系アメリカ合衆国移民
     日本に派遣された宣教師
     法学者・神学者
     明治政府顧問
    「何礼之(が のりゆき・レイシ)」
         長崎奉行所支配定役格・英語稽古所学頭
     の私塾の塾生は
     フルベッキの
     アドバイスや援助も受けていた
    「振別記(ふるべっき)」?
 による
 ブリーフ・スケッチ(進言・助言)
 の存在があった。
 当初10ヶ月で全行程を踏破の予定であったが、
 米国で想定外の条約改正予備交渉が始まってしまい
 (結局失敗したが)、長期化することとなった。
 だが結果として
 欧米先進国の実態を、
 じっくりと見聞し、熟慮することで、
 明治政府は日本近代化の
 基本構想が出来た・・・
 同時にその事により
 帰国直後の
 留守政府内での
 征韓論に対する
 海外派遣組の反発を招き
 「明治六年政変」に至った。
 ↓↑
 久米邦武
 佐賀藩士・久米邦郷の三男
 佐賀藩校の弘道館に学び
 大隈重信とも親交
 久米の博覧強記ぶりは
 漢籍、儒書、史書
 『坤輿図識』(箕作省吾)
 など和漢の世界地図書に親しんだ基本的知識のほかに、
 藩主
 鍋島直正
 近習として勤めた経験にある。
 直正は早くから西洋文化に興味を抱き、
 唯一
 オランダ船に乗り込んだ大名
 藩内に製錬方を設け
 反射炉を建設
 日本初の
 鉄製大砲の製造に成功
 幕府の
 台場用大砲の製造を引き受け
 巨艦建造の軍港を設け
 国産初の
 木造外輪船を建造
 多くの西洋技術を導入
 それらの技術に関する質問に答えるため
 近習として仕え、
 加えて
 唐鑑会と称する
 「唐鑑」の書の輪講
 藩主と家臣が分け隔てなく議論し合う場に参与し
 柔軟多様な発想を持つ事で鍛えられた。
 ↓↑
 父・邦郷は
 佐賀藩・山方として
 鉱山・石炭の管理を
 目安方で藩の会計を
 長崎聞役で大砲、軍艦の購入や
 藩特産品の輸出に関わり、
 有田皿山代官として
 有田焼の生産・輸出取締りの専売に関与し
 江戸、京都、大坂、堺、兵庫、長崎の
 藩支所を監督
 大阪蔵屋敷詰で
 コメの販売管理を担当し、
 最後には
 御側頭として藩主の側近としても仕えた
 久米は、藩主と父親から
 ジェネラリストとっして柔軟な目で物事を見る
 リアリストの才能を鍛えられ、
 岩倉使節団の一員になったのも、
 岩倉具視が出帆直前に
 閑叟から以前聞いた
 久米の有能さを見出し、
 側近としての報告係に選んだ経緯がある。
 岩倉具視は維新後、
 息子3人の教育を
 佐賀藩に託するほどの親密な関係を持った。
 ↓↑
 江戸時代後期
 国学や水戸学の一部や
 吉田松陰らの立場から
 古代日本が
 朝鮮半島に支配権を持っていたと
 『古事記
 『日本書紀
 に記述されていると唱えられ
 こうしたことを論拠として
 朝鮮進出を唱え、
 尊王攘夷運動
 政治的主張にも取り入れられた。
 幕末期
 松陰
 勝海舟
 橋本左内
 の思想にその萌芽・・・
 慶応二年(1866年)末
 清国
 広州の新聞に
 日本人
 八戸順叔が
 「征韓論」の記事を寄稿
 清・朝鮮の疑念を招き
 その後
 日清・日朝関係が悪化
 (八戸事件)
 朝鮮では国王の父の
 大院君が政を摂し
 鎖国攘夷の策をとり
 丙寅洋擾
 や
 シャーマン号事件
 の勝利によって、意気がおおいにあがっていた。
 ↓↑
 日朝双方が強気になっている中で
 明治維新が起こり
 日本は
 対馬藩を介して
 朝鮮に対して新政府発足の
 通告と国交を望む交渉を行うが、
 日本の外交文書が
 江戸時代の形式と異なることを理由に
 朝鮮側に拒否された
 明治三年(1870年)2月
 明治政府は
 佐田白茅
 森山茂
 を派遣
 佐田は朝鮮の状況に憤慨
 帰国後に
 征韓を建白
 9月
 外務権少丞
 吉岡弘毅
 を釜山に遣り
 明治5年(1872年)1月
 対馬旧藩主を外務大丞に任じ
 9月
 外務大丞
 花房義質を派した。
 朝鮮は頑としてこれに応じることなく、
 明治6年になってからは
 排日の風がますます強まり、
 4月、5月
 釜山において
 官憲の先導による
 ボイコットなども行なわれた。
 日本国内においては
 征韓論が沸騰
 ↓↑
 政権を握った
 大院君は
 「日本夷狄に化す、
  禽獣と何ぞ別たん、
  我が国人にして
  日本人に交わるものは
  死刑に処せん」
 という布告を出し
 当時外交官として釜山に居た
 多田、森山等はこの乱暴な布告をみて
 日本に帰国
 事の次第を政府に報告
 ↓↑
 明治6年1873年)6月
 森山帰国後の閣議
 対朝鮮外交問題が取り上げ
 参議である
 板垣退助
 閣議において
 居留民保護を理由に
 派兵を主張
 西郷隆盛
 派兵に反対
 自身が大使として赴くと主張
 後藤象二郎
 江藤新平
 らもこれに賛成
 中国から帰国した
 副島種臣
 西郷に賛成はしたが
 西郷ではなく自らが赴く事を主張
 二人の議論の末
 三条実美の説得もあり
 福島が折れ
 板垣退助も西郷のために尽力
 三条実美の承諾を得て
 西郷を使節として
 朝鮮に派遣することを上奏
 同年8月
 明治政府は
 西郷隆盛使節として派遣決定
 9月
 帰国した岩倉使節団
 岩倉具視木戸孝允大久保利通
 らは時期尚早とし反対
 10月
 収拾に窮した
 太政大臣三条は病に倒れ
 太政大臣代理となった
 岩倉の意見が
 明治天皇に容れられ
 遣韓中止が決定
 西郷や板垣らの
 征韓派は一斉に下野
 (征韓論政変=明治六年政変)
 ↓↑
 台湾出兵
 江華島事件
 明治政府はこの政変で
 西郷らを退けたが、
 翌年
 明治7年(1874年)
 宮古島
 島民遭難事件を発端として
 初の海外出兵となる
 台湾出兵を行った
 (木戸孝允征韓論を否定しておきながら、
  台湾への海外派兵を行うのは
  矛盾であるとして反対した結果、
  参議を辞任して下野)
 明治8年(1875年)
 李氏朝鮮に対して
 軍艦を派遣し
 武力衝突となった
 江華島事件の末
 日朝修好条規
 を締結
 ↓↑
 士族反乱
 自由民権運動
 明治7年(1874年)
 佐賀の乱から
 明治10年(1877年)
 西南戦争に至る
 不平士族の乱
 自由民権運動
ーー↓↑ーー
 岩倉使節団
 ↓↑
 ヨーロッパ
 イギリス(4か月)
 フランス(2か月)
 ベルギー、オランダ、ドイツ(3週間)
 ロシア(2週間)
 デンマークスウェーデン、イタリア、
 オーストリア(ウィーン万国博覧会視察)
 スイス
 などの12か国
 地中海から
 スエズ運河を通過
 紅海を経
 ヨーロッパ諸国の植民地
 セイロン、シンガポールサイゴン、香港、上海
 等への訪問も行われた
 出発から1年10か月後
 明治六年(1873年)九月十三日
 太平洋郵船
 「ゴールデンエイジ」号で横浜帰着
 ↓↑
 留守政府では朝鮮出兵
 征韓論
 使節帰国後
 「明治六年の政変」
 ↓↑
 大隈重信の発案
 小規模な使節団を派遣予定が
 政府のトップが殆んど
 長期間外遊
 直に西洋文明や思想に触れ
 多くの国情を
 比較体験する機会を得た
 同行留学生
 帰国後に
 政治・経済・科学・教育・文化
 など様々な分野で活躍
 一方で
 権限を越えて条約改正交渉
 留守政府との摩擦
 外遊期間の大幅な延長
 木戸
 と
 大久保
 が不仲、対立
ーーーーー
 ・・・磐=いわ=巌=巌=嵒=岩=違和・・・の使節・・・