2332日目・・・「音更(おとふけ・北海道の地名)」・・・庭の木にセミは鳴かず・・・カエルは雑草の中に・・・スズメも電線の上に・・・でも鳴かず・・・今朝のTVで「鳥海山・九十九島・小砂川・温水路・湧水・田圃・二百年前の地震・岩牡蛎(蠣)」を観ていたが、なんかココの風景に似ているなッて・・・「鳥海山(ちょうかいさん、ちょうかいざん)は、山形県と秋田県に跨がる標高2,236mの活 火山。山頂に雪が積もった姿が富士山にそっくりなため、出羽富士(でわふじ)とも呼ばれ親しまれている。秋田県では秋田富士(あきたふじ

 「安倍宗任(あべ の むねとう)」は、陸奥国の「俘囚の長」とされる豪族、東北安倍氏安倍頼時の子。「鳥海柵の主」で、「鳥海三郎」とも呼ばれ、嫡妻であった清原氏の子として嫡子格の地位にあった・・・「鳥海三郎(とりのうみさぶろう)は、源頼義・義家父子率いる朝廷軍を相手に前九年の乱(1051〜1057)を戦った安倍宗任の別称」・・・
 「鳥海(とりのうみ)三郎=陸奥
  源頼義安倍氏とが戦った
  前九年の役
  兄、安倍貞任とともに
  源頼義と戦った」・・・
 「安倍頼時の三男で
  安倍宗任=鳥海三郎の異名で知られる。
  兄に安倍晴明安倍貞任
  弟に正任、重任、家任らがいる」・・・
 「前九年の役
 (1056年・天喜四年〜1062年(康平五年)
  では
  兄、貞任と共に
  源頼義源義家
  相手に奮戦
  兄、貞任が戦死した後も
  厨川柵(盛岡)に篭城を続けたが、
  出羽の豪族
  清原氏の援軍を得た官軍に敗れ
  厨川柵陥落後
  弟、正任、家任
  らとともに投降
  康平七年、京都に連行された
 (宗任32歳)
  康平七年(1064)三月
  後冷泉帝は捕虜になった
  安倍宗任の裁判に興味を抱き
  叡覧
  宗任は衛兵に付き添われ禁庭引き立てられきた
  公卿(判事・判官)の一人が
  ニ、三分咲きの
  梅の小枝を持ち
  宗任の前に進み
  ↓↑
  「東国は寒冷地
   このような花をみたことがあるか、どうか」
  と訊いた
  梅の木を指し・・・ウメのキの
  ↓↑    ・・・徳川光圀常陸水戸藩の第二代藩主
          「水戸黄門
           諡号は「義公」
           字は「子龍」
  ↓↑       号は「梅里」・・・梅(木毎)の
                    理(王里)?
        神号は「高 譲  味  道 根之 命」
           (たかゆずるうましみちねのみこと)
        水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫
     「楳(バイ)=うめ=梅(バイ)」のキ
  ↓↑
  名前をきいた?・・・ウメのなまえ・・・?
 ・・・日本原産の「あじさい=紫陽花」ではなく「ウメ」・・・

  ↓↑
  万葉集では「梅・烏梅・宇米」などと表記
  訓みでは「ウメ・むめ・ムメ」と伝本により異なる
  萩に次いで二番目に多い「百十九(119)首」・・・
  梅の歌
  紀貫之の梅の香りを詠んだ歌
  「人はいさ心も知らず
   ふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」
  ↓↑
  菅原道真の梅との別れを惜しんだ歌
  ↓↑
  東風(こち)吹かば にほひをこせよ
  梅花(うめのはな) 主なしとて 春を忘るな
  「春を忘るな」・・・「を・・・な」?
  (寛弘2〜3年・(1005〜1006年)頃に
  編纂された『拾遺和歌集』巻第十六 雑春
  ↓↑
  東風ふかば にほひをこせよ
  梅の花   あるじなしとて 春なわすれそ
 「春なわすれそ」の初出・・・・「な・・・そ」?
  治承四年(1180年)頃に
  編纂と考えられる『宝物集』巻第二
  ↓↑
  梅花心易=バイカシンエキ=場意掛新駅・葉意掛芯易?
        「梅を観ていた時、二羽の雀が
         枝を争う姿を見て、翌日の夕方に
         隣の娘が
         梅の枝を折ろうとして木から落ち
         ケガをすることを推測した」???
  ↓↑
  盛岡の新暦の三月(彌生・弥生)はまだ冬で
  路面に雪が残って歩きにくいことから
  旧暦(四月=卯月)に
 「ひな祭り」の行事
  雛=ひな=鄙=比奈=陽菜・鶵・妃奈・比名
  ↓↑   ヒナ・・・夷那
  ↓↑二月=きさらぎ=如月=木皿儀(姓)・・・木皿の儀?
       きさらず・・・・木更津
       さらぎ=皿木・千葉県長生郡長柄町
       さらぎ=蛇穴
       奈良県
       御所市の
       葛城川・・・葛木・・・鬘
          葛=くず・かずら(山野に自生する草の一種
            茎の繊維をとって布を織るのに用いる
            根はくず(屑)粉
            蔓(つる)茎
            身にまといつく困難の例え
            かたびら(帷子)
       東岸の集落
       サラキ=新来(いまき・今来)
           新しく移り来た所
           蛇穴と書いてサラギと読むのは
           蛇がトグロを巻き
           穴をつくる状態を
           サラギと呼ぶた?
        ・・・蛇の脱皮だろう?
      セック(フランス語のsec)=乾いた・乾燥した
                   ワインの辛口
      ソシソン(サラミ)=乾燥ソーセージ
      セック(sec)=second(セコンド)
             =secant(セカント)に同じ
             =三角比・三角関数の一
コサインの逆比・逆数
正割・正割関数
      さらしこ(晒し粉)=消石灰に塩素を
                吸収させて作った白色の粉末
                パルプ
                繊維などの漂白、
                上・下水道の殺菌・消毒剤
                bleach(ブリーチ)
                クロルカルキ・カルキ
                クロル石灰
                水にさらして白くした米の粉
      さらしこ?→讃良=鸕野讃良=持統天皇
             (うののさらら・うののささら)
            名は鸕野讃良=菟野-沙羅羅
            和風諡号高天原広野姫
            天智天皇の第二皇女
      大津皇子の辞世の一句
     「モモづたふ 磐余(いはれ)の池に
      ↓↑    鳴く鴨を 
      ↓↑    今日のみ見てや 雲隠りなむ
    桃の節句
    五人囃子と「梅の花」ではなく、
   「五人囃子の笛太鼓」・・・
   「梅」ではなく「桃」・・・?
    ↓↑
    道真を慕う庭木
 桜=悲しみのあまり、葉を落とし、枯れてしまった
 梅=道真の後を「松と梅」は空を飛んで追ったが
   松は力尽き
   摂津国八部郡板宿(兵庫県神戸市須磨区板宿町)
   近くの「飛松岡」の丘に降り根を下ろし「飛松」と云われ
   梅は、一夜のうちに主人の暮らす
   大宰府まで飛んで降り立った・・・
  「松竹梅=ショウチクバイ=背負う知句場意」?
 ↓↑
 「飛鳥(あすか)」
 「飛鳥(あすか)=時代区分の一・飛鳥に宮都が置かれていた
          崇峻天皇五年(592年)〜和銅三年(710年)
          奈良県高市郡明日香村付近に相当する地に
          宮・都が置かれていた
          元々美術、建築史で「飛鳥時代」を使用
          1900年前後
          美術学者の関野貞岡倉天心によって提案
          関野は「大化の改新」まで
          岡倉は「平城京遷都」までを飛鳥時代とし
          日本史では通常、岡倉案を採用
          推古朝では飛鳥文化
          天武・持統朝では白鳳文化
          国号が
         「倭」〜「日本」へと変えられた・・・
          トリが飛ぶのは当たり前だが
          飛ばない「トリ」は
         「にわとり=鷄・鶏・雞」
          と
         「駝鳥(ダチョウ)」
         「恐鳥(モア(Moa)」・・・絶滅
         「エミュー
         「ヒクイドリ(火食い鳥・食火鶏)」
         「レア」
         「キーウィ」
         「ペンギン(人鳥・企鵝=きが
                  企は爪先立つ鵞鳥)」
          等である・・・
         「阿毎王朝」の
         「東夷の俀國の王朝(隋書)」の
         「開皇二十年(600)
          倭王有り
          姓は阿毎
          字は多利思北孤
          号は阿輩雞(奚隹)弥
          使を遣わして闕に詣る
          王の妻は
          号を雞(奚隹)弥
          後宮に女六、七百人有り
          太子の名
          利歌弥多弗利
          と為す」
          「にわとり=鷄・鶏・雞」
          磐井の乱(筑紫君)、
         「葛子」=「阿毎王族」か?
          ↓↑ ↓↑
    「にわとり=鷄・鶏・雞=阿蘇山西麓の肥後王朝」は
         「奈良・明日香」に飛んだか?
          ナゼ、
         「斑鳩=いかるが=鵤」なのか?
 ↓↑
 「飛梅」伝説・・・「訳備烏楳」?
 道真に仕えて
 大宰府にも同行した
 味酒保行
 が株分けの梅の苗木を植えた
 道真を慕った伊勢国
 度会郡三重県度会郡)の
 白太夫
 が大宰府を訪ねる際
 旧邸から密かに持ち出した梅の苗木を献じた
 ↓↑
 人形浄瑠璃、菅原伝授手習鑑の主題・・・
 ↓↑
 道真を慕った「梅が飛来」
 道真が自ら
 梅を植えた・・・
 ↓↑
 若狭国大飯郡大島(福井県大飯郡おおい町大島半島の大島)の
 宝楽寺
 備中国羽島(岡山県倉敷市羽島)
 周防国佐波郡内(山口県防府市松崎町)の
 防府天満宮など・・・
 ↓↑
 能の演目『老松』
 梅の精を「紅梅殿」とよび
 男神・女神
 として擬人化されている・・・
ーー↓↑ーー
  安倍の
  宗任
  は即座に
   「わが国の梅の花とは見たれども
    大みやびとは何というらん」
   「我が国の 梅の花とは思えども
    大雅とはなんというらん」
   (我が国においては梅の花と言うが
    こちらの人は何と言うのか
   (梅(ウメ)の花(ハナ)にしか見えないが
    大みやびとはナンの花だと云うんだか)
   うめ=卯女・卯目・右馬・・・旨・績・・・上手い?
      スベテの「ウ・メ」の同音異字・・・ぅめィ、ッ?
    ↓↑
   「前九年の役」で
   「源 頼義」に敗れた
   「安倍貞任」の弟
   「安倍宗任(むねとう)」が、戦に敗れて
都を引き回され時、
    京の貴族が、侮蔑の意味で
    梅の花を差し出し、
   「これは何か」と尋ね
    安倍宗任
   「わが国の梅の花とはみつれども
    大宮人はいかがいふらむ」
   (我が国においては梅の花と言うが
    こちらでは何と言うのか)」
    ↓↑
  という歌で返し・・・
  無教養だと思い込んでいた
  陸奥の俘囚(蝦夷)のウタに
  愕(おどろ)き、感銘し
  助命され・・・・・・・ウタの教養で許された?
  四国の伊予国に流された・・・ナゼ、伊予の国なのか?
  ↓↑
  現在の
  今治市の・・・・・・・・・加計学園&安倍?
  富田地区に三年間居住
  ↓↑
  後、勢力をつけたために、
  治暦三年(1067年)・・・治の暦の三の年?
  に九州の
  筑前国
  宗像郡の
  筑前大島に再配流
  その後、宗像の大名である宗像氏によって、
  日朝・日宋貿易の際に重要な役割を果たした
  大島の景勝の地に自らの守り本尊として
  奉持した
  薬師瑠璃光如来を安置するために
  安昌院を建てた
  嘉承三年(1108年)二月四日
  七十七歳で死亡・・・
  ↓↑
  逃亡の恐れありとの理由で
  大宰府に移されたが
  その子孫は
  肥前国
  松浦に住みつき
  後
  船団を組織し、
  朝鮮、中国等に
  倭寇ともいわれた
  松浦水軍・松浦党の祖・・・
 「松浦党」の後裔は・・・「松浦武四郎」?
          ・・・北海道の各地の
             アイヌ語地名に
             漢字を当てた人物
 配流されないで、
 源義家
 の従者として仕えた・・・とも・・・???
ーーーーー


 ・・・
 「集(あづ)真(さ)藍(あい)」=「紫陽花(あじさい)」
 ↓↑
 シーボルト
 『日本植物誌(P.F.B.フォン・シーボルト 著)』
 シーボルトらにより
 1835年〜1870 年
 に出版された
 『日本植物誌』の
 覚書きの部分の訳出した資料
 32〜34 ページに
 「ウメ(梅)」の記述
 梅の木の高さや花の色
 植物としての特徴
 そして
 日本人が庭木や盆栽の手入れに熱心で
 日本では
 「梅が伝説や物語の中」で
 神聖な木として
 扱われていると指摘
 梅の実の味については
 「酸っぱくて苦い」
 とし記録・・・
 ↓↑
  シーボルト(置維波斯徳利・施福多)
  日本人の女性
 「滝(たき)」と結ばれ
 文政十年(1827年)に
 娘「いね」が生まれた
 ↓↑
 イギリス公使
 オールコックを通じて息子
 アレクサンダーを
 イギリス公使館の職員に就任させ
 1862年5月
 多数の収集品とともに長崎から帰国
 ↓↑
 1863年
 オランダ領
 インド陸軍の
 参謀部付
 名誉少将に昇進
 オランダ政府に
 対日外交代表部への任命を要求するが拒否
 日本で集めた
 約2500点のコレクションを
 アムステルダム・・・安特堤・安特垣・亜武的達
 の産業振興会で展示し
 コレクションの購入を
 オランダ政府に持ちかけるが
 高価を理由に拒否
 オランダ政府には
 日本追放における損失についても
 補償を求め、拒否された
 1864年
 にはオランダの官職も辞し
 故郷の
 ヴュルツブルクに帰った
 ↓↑
 シーボルト(置維波斯徳利・施福多)は
 同年5月
 パリに来ていた
 遣欧使節正使
 外国奉行
 池田長発・・・・池田長発(いけだ ながおき)
 ↓↑      天保八年七月二十三日
         (1837年8月23日)
           〜
         明治十二年(1879年)九月十二日)
         直参旗本七千石・池田長休の四男
         筑後守・旗本池田長溥の養子
         備中国
         井原(岡山県)の領主
 ↓↑      外国奉行を務め
         文久三年(1863年)〜元治元年(1864年
         遣欧使節団を率い
         1863年12月
         フランス軍の軍艦
         ル・モンジュ号・・・
          「留・文殊」?「パン屋」?
         で日本を出帆
         エジプト、カイロに寄港
         ギザのピラピッド、
         スフィンクスを背景に
         記念撮影(1864年)し
         フランスを訪問
         帰国後、開国論を唱えて蟄居処遇
         慶応三年(1867年)に
         軍艦奉
         官位は従五位下
 ↓↑      筑後
 の対仏交渉に協力
 同行の
 三宅秀=(みやけ ひいず)
      嘉永元年十一月十七日(1848年12月12日)
        〜
      昭和十三年(1938年3月16日)
      東京大学の最初の医学博士
      幼名は復一(またいち)
 から
 父・三宅艮斉が貸した
 「鉱物標本」
 20〜30箱の返却を求められたが
 三宅の手元には
 3箱しか送られてこなかった・・・
 バイエルン国王の
 ルートヴィヒ2世
 コレクションの売却を提案するも叶わず
 ヴュルツブルクの高校で
 コレクションを展示し
 「日本博物館」を開催
 1866年
 ミュンヘンで開催
 再度日本訪問を計画し
 10月18日
 ミュンヘンで風邪をこじらせ
 敗血症を併発して死去
 70歳没
 墓は石造りの仏塔の形で
 旧ミュンヘン
 南墓地 (Alter Münchner Südfriedhof)
  にある
 ↓↑
 次男
 ハインリヒ・フォン・シーボルト
 (別名小シーボルト
 も日本に滞在し日本で
 「岩本はな」と結婚し
 1男1女をもうけた
 また
 オーストリア=ハンガリー帝国大使館の
 通訳官外交官業務の傍ら
 考古学調査を行い
 『考古説略』を発表
 「考古学」という言葉を日本で初めて使用
 ↓↑ 
 鳴滝塾
 鳴滝塾(なるたきじゅく)
 文政七年(1824年)
 シーボルト
 が長崎郊外に設けた私塾で診療所も兼ねていた
 ↓↑ 
 「鳴滝(なるたき)」=京都市右京区の地名
 地名由来
 小さな滝があり、ある時、その小滝が、
 ゴーゴーと凄い轟音をたてていたという故事による
 村人たちが不思議がって
 寺の和尚に相談したところ
 和尚も不審に感じ
 全員を、高台の寺に集合させた
 すると、その夜、
 村は大洪水に襲われ、全壊
 この出来事により、
 小滝は「鳴滝」と呼ばれ、
 村の方も「鳴滝の里」と呼ばれた
 毎年、12月9日・10日の両日
 鳴滝本町の
 通称
 大根焚寺として知られる
 了徳寺の
 「大根焚き報恩講)」で賑わう
 ↓↑
 鳴滝泉谷町の法蔵寺前には、
 尾形乾山の陶窯跡がある
 乾山は
 1689年(元禄二年)
 御室に閑居を構え
 習静堂と号した
 後
 野々村仁清
 に陶芸を学び
 1699年(同十二年)
 鳴滝村に開窯
 この窯が都の
 乾の方角にあるため
 乾山と号した・・・
 ↓↑
 シーボルトで有名な
 「長崎の鳴滝」は、
 第24代長崎奉行
 牛込忠左衛門勝登
 が、この地にあやかって名付けた
ーーーーー
 鳴滝塾の塾生
 代表として
 高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介
 ら
 ↓↑
 美馬順三
 最初の塾頭
 1795〜1825
 シーボルトの質問に答えて
 『日本産科問答』
 という、
 ヨーロッパ語で日本人の発表した最初の医学論文
 形式としてはシーボルトと美馬との一問一答
 当時行われていた
 賀川流の産科の方法を解説したもの
 1826年にドイツの医学雑誌に転載
 1830年にはフランスのアジア学雑誌に翻訳発表
 シーボルトはウェイランドの辞書を順三に与えた
 ↓↑
 美馬順三
 阿波の岩脇に生まれ
 曽祖父の代から
 蜂須賀侯の家老
 池田登に仕えた。
 順三は長崎に来て通詞の家にとまって
 オランダ語天文学、医学を学び
 シーボルトが来ると、その教育を受けた
 石坂宗哲著
 『鍼灸知要一言』をオランダ語に訳し
 ヨーロッパに
 日本の鍼(はり)と灸(きゅう)について紹介した論文
 著書『日本植物志』のアサガオの項に
 「この所属の植物は順三が私のために
  あまたの新種植物と共に
  肥後の金峰山から採ってきたものである」
 と記した。
 順三は
 文政八年(1825)六月十一日
 コレラに罹って長崎で急死
 30歳
 ↓↑
 岡研介(1799〜1839)
 周防
 熊毛郡
 平生(ひらお)村の人
 代々農家で
 父の代に
 長崎の
 吉雄耕牛について学び
 はじめ京都
 のちに平生
 で医者を開業
 眼科で名をあげた
 研介は兄
 泰安と共にシーボルトに学び、塾内部で重きをなした
 兄の
 岡泰安(1796〜1858)
 は
 1827年3月2日(文政十年二月五日)付で
 シーボルトから証明書をもらって
 ドクトルとなって郷里に帰り
 開業医として成功
 弘化一年(1844)
 岩国藩に呼ばれ
 安政四年(1857)
 藩侯の侍医(御手廻役)となり
 あくる年
 安政五年に死亡
 岡研介は
 兄が眼科医として故郷の
 平生村
 岩国藩で大いに成功したのに比して
 社会人としては振るわず
 精神病を発して
 天保10年(1839)
 40歳で死亡
 シーボルト門下にあった頃
 才能はその盛りで
 岡研介訳『日本に於ける学芸、すべてのものの起源』
 というオランダ語の論文が残され
 これは
 貝原益軒編『大和事始やまとことはじめ』
 の抄訳で
 同じくオランダ語で記された
 伊藤圭介の『勾玉記まがたまき』
 美馬順三訳『日本古代史』
 (『日本書紀』神代巻・神武天皇紀意訳)
 と共に
 シーボルト
 大著『ニッポン』
 の神話研究の部分の資料として
 ヨーロッパに伝えられた
 ↓↑
 高良斎(こうろうさい)
 (1799〜1846)
 阿波徳島の人
 藩の中老
 山崎好直の庶子
 徳島の眼科医
 高錦国
 の後継ぎとしてもらわれた
 文化十四年(1817)
 18歳の時に長崎に出て
 オランダ語
 医学
 を学ぶこと5年余
 文政六年(1823)
 シーボルトの到着後にその門下に入った
 シーボルトの文書の中には
 高良斎
 の書いた
 オランダ語
 論文『生理問答』が残っている
 これは
 美馬順三の
 『日本産科問答』
 と同じく、日本人の健康についての
 シーボルトと著者との
 一問一答の形をとっている
 『日本疾病志』
 というオランダ語論文も書いており
 これには
 シーボルトの加筆本と
 それに基づいて
 高良斎が書き直した本とが残っている
 高良斎
 文政十一年(1828)十月
 シーボルトが禁制の地図を持っていたのを
 咎められて訴えられた時
 投獄された
 23人中の主だった門人として
 二宮敬作
 と共にいた
 良斎
 は木を噛んで筆を作り
 炭を墨にかえて
 恩師のための弁明を紙に書いて出した
 良斎と敬作はこのために
 奉行所に呼び出されて訊問されたが
 良斎はひるまず、その翌日には
 先の23人はみな許された・・・
  ↓↑
 文政十二年十二月五日
 日本を去るにあたって
 シーボルト
 遊女「其扇そのぎ(お滝)」
 との間に生まれた女子
 「オイネ」
 の今後を
 高良斎と二宮敬作に託した
 高良斎の著書は50〜60巻を超えたが
 刊行されたものは
 『窮理飲食術』
 『薬能識』
 『蘭薬語用弁』
 『駆梅要方』
 だけである
 ↓↑
 『眼科便用』
 と
 『女科精選』
 も、良斎は刊行しようとしたが
 シーボルトの名を多くあげていることから
 幕府は刊行を許さなかった
 シーボルトの日本退去後
 良斎は
 徳島に帰り
 しばらく大坂で開業してから
 天保十一年(1840)
 明石侯の眼病の治療に成功し、その医員となった
 弘化三年(1846)
 47歳で死亡
 ↓↑
 戸塚静海
 高良斎はシーボルト事件後
 長崎町払いを命じられ退去
 鳴滝塾校舎はその後
 戸塚静海
 が中心となって1年ほど持ちこたえた
 ↓↑
 戸塚静海(1799〜1876)
 遠州掛川の人
 祖父の代からの医者
 文政七年(1824)
 25歳の時に長崎に行き
 和蘭通詞
 吉雄権之助の塾に入り
 次に
 シーボルトについて学んだ
 シーボルト事件に際しては
 高良斎、二宮敬作
 らと共に入牢
 天保二年(1831)
 長崎を去り、掛川にしばらく住んだ後
 江戸に出て
 茅場町で開業
 太田侯
 薩摩侯
 に仕えた後
 安政五年(1858)
 徳川将軍家の侍医
 同じシーボルト門出身の
 伊東玄朴
 竹内玄同
 と並んだ
 戸塚静海には
 『海塩の製法について』
 と題するオランダ語の訳文が残っている
 ↓↑
 江戸参府
 出島のオランダ商館長は
 4年に一度江戸に行き
 将軍に拝謁し
 多くの品物を献上
 シーボルト
 この商館長の旅行
 「江戸参府」に同行し
 日本各地の
 地理・動植物・産業・風俗習慣などを調査
 シーボルト
 文政九年一月九日(1826年2月15日)
 出島を出発
 各地で動植物を採集
 人びとの暮らしぶりを観察
 多くの医師や学者に面会し
 日本に関するさまざまな情報を得
 江戸に
 37日間滞在したあと
 同年六月三日(7月7日)
 出島に帰り着いた
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
 シーボルト事件
 5年の任期を終え
 文政十一年(1828年)
 に帰国することとなった
 同年八月
 彼が乗船することになっていた
 コルネリウス・ハウトマン号
 長崎を襲った暴風雨により
 長崎港内の
 稲佐(いなさ)の海岸に乗り上げ出港延期
 江戸で
 幕府・天文方の役人
 「高橋景保(たかはし-かげやす)
 が
 「シーボルト」は長崎奉行所命令で
 蝦夷・千島の地図を差し出し
 家宅捜査を受けて持っていた禁制品を没収
 シーボルトは出島に拘禁され、厳しい取り調べを受け
 彼は、多くの協力者に罪がおよぶことを恐れ
 その名前は一切あきらかにしなかった・・・
 シーボルト
 文政十二年九月(1829年10月)
 国外追放を申し渡された
 後、多くの協力者が処罰
 ↓↑
 シーボルトは、日本に残す
 妻「滝」
 と
 娘「いね」
 の身を心配して、彼女たちに財産を残し
 2人の世話を門弟の
 二宮敬作(にのみやけいさく)
 高良斎(こうりょうさい)
 らに頼んだ
 文政十二年十二月五日(1829年12月30日)
 船は出島を離れた
 シーボルト
 やり残した日本の調査・研究を
 助手
 ビュルガー
 や
 門弟たちに頼んでいった
 オランダに帰り着いたシーボルト
 滝といねの安否を気遣って手紙を送り
 滝も手紙や母子の姿を描いた
 螺鈿合子(らでんごうす)の
 嗅ぎ煙草入れを送った
 ↓↑
 帰り着いたシーボルト
 オランダ政府と学会から大歓迎
 帰国後
 シーボルトが生涯を通じて打ち込んだ仕事は
 日本を科学的に研究し
 その成果を世界に紹介することだった・・・
 シーボルトは、日本から持ち帰った
 数多くの資料を整理し
 日本に関する論文をつぎつぎに発表
 博物館を開設して集めた資料を公開
 オランダから爵位が与えられ
 ヨーロッパ各国から数々の勲章が授与された
 1845年
 ドイツの貴族令嬢
 ヘレーネ・フォン・ガーゲルン
 と結婚し
 3男
 2女
 が生まれた
 ↓↑
 1840年
 アヘン戦争
 日本近海に外国船が来航
 シーボルト
 鎖国を続けると世界情勢から日本が外交上不利益と考え
 日本が開国することで危険をさけることができると考え
 オランダ国王
 ウイルレム2世にそのことを進言
 ウイルレム2世は
 日本が開国すれば
 オランダが
 日本との貿易を独占することができなくなるが
 日本の将来を考えてこれに同意
 シーボルトが起草した
 ウイルレム2世の親書は
 特使コープスにより
 1844年
 長崎奉行所を通じて幕府に渡された
 シーボルト
 ロシアの宰相
 アメリカのペリー提督
 にも日本との平和的な開国を進言
 ↓↑
 シーボルト
 オランダ商館長
 ドンケル・クルチウス
 の願い出により国外追放を解かれた
 安政六年(1859年)
 オランダの貿易会社の顧問の肩書きで
 長男
 アレクサンダー
 を連れて再び日本に旅立った
 シーボルト
 63歳
 長崎にたどり着き
 「滝」や「いね」、かつての門弟たちと再会
 「滝」は、シーボルトが日本を離れたあと
 再婚し子供もできたが、
 その子供はすでに亡くなっていた
 別れたときには
 2歳だった「いね」も
 門弟たちに育てられ
 医学の手ほどきを受けて
 長崎で産科医として修業していた
 シーボルト
 貿易会社の仕事をする一方
 鳴滝の住居を買い戻して住み
 ここで
 日本研究や日本人の治療を行ない忙しい日々をすごした
 文久元年(1861年)
 幕府に呼ばれて江戸へ行くことになり
 江戸で自然科学の講義をしたり、
 幕府に外交上の進言をしたりしたが
 4ヵ月で職を解かれ
 シーボルト
 在日イギリス公使館の
 通訳となった長男を残し
 文久二年(1862年)
 日本を離れた
 2年7ヵ月の
 日本滞在であった
 ↓↑
 1863年
 オランダの公職を辞め
 翌年
 家族とともに
 ヴュルツブルクへ帰った
 後、
 日仏貿易会社の設立を考え
 フランス皇帝ナポレオン3世に会ったが
 設立はできなかった
 彼が2度目の来日で
 収集した日本の資料を
 バイエルン政府が購入して
 民族学博物館を設立する計画が持ち上がり
 ミュンヘンで資料の整理にあたっていたが
 病気にかかり
 「私は美しき平和な国に行く」
 と言い残し
 1866年10月18日
 に死亡
 ↓↑
 『日本』
 『日本植物誌』
 『日本動物誌』
 これらは、シーボルトが日本で収集した資料をもとに
 学者の協力を得て出版した
 ↓↑ 
 シーボルトと滝との子ども
 「いね」は
 父の門弟
 石井宗謙
 二宮敬作
 オランダ人医師
 ポンペ・ファン・メールデルフォール
 ボードウイン
 に学び
 日本最初の西洋医学の女性産科医となった
 明治六年(1873年)
 明治天皇の若宮が誕生するときに
 宮内省御用掛りとなり
 出産に立ち会った
 シーボルト
 と
 ヘレーネ
 との子どもには、3男2女
 長男アレクサンダーは
 12歳のときに父に連れられて来日
 15歳で在日イギリス公使館の通訳となった
 その後
 ローマやベルリンにある日本の公使館などに勤務し
 約40年間、日本の役人として働いた
 次男ハインリッヒは
 兄アレクサンダーに連れられて
 1869年に来日
 彼は
 在日オーストリアハンガリー公使館の
 代理公使などを勤めた
 ↓↑ ↓↑ ↓↑ 
 三瀬 諸淵(みせ もろぶち)
 天保十年七月一日(1839年8月9日)
  〜
 明治十年(1877年)十月十九日)
 初名は周三
 幼名は弁次郎
 字は修夫
 伊予国
 大洲
 出身
 幼く両親を失い親戚の下で育てられ
 大洲市
 八幡神社の神主
 常磐井家が開いた私塾
 「古学堂」にて国学を学ぶ
 1855年
 遠縁の医師
 二宮敬作の弟子となり
 二宮の元にいた
 長州藩
 村田蔵六大村益次郎)から
 オランダ語を学び、蘭学に関心を抱く
 後、
 二宮のとともに長崎に渡り蘭学、医学を修めた
 安政五年(1858年)
 大洲に一時帰郷し
 長崎から持ち帰った
 発電機
 と
 電信機
 を持って
 古学堂に旧師
 常磐井厳矛を訪ね
 大洲藩の許可を受け
 古学堂〜肱川
 の河川敷まで電線を引き
 「電信」の実験
 古学堂2階〜肱川向かいの矢六谷の水亭まで
 約980メートルの間に銅線を架設し
 打電したところ成功・・・
 安政6年(1859年)
 二宮の師であったシーボルトが再来日すると
 シーボルトに預けられた
 シーボルトの長男
 アレクサンダー・フォン・シーボルト
 の家庭教師役を務めながら
 自身は医学を学んだ
 文久二年(1862年
 諸淵がシーボルトのために
 国学の知識を生かし
 日本の歴史書の翻訳を
 おこなっていた事が発覚
 投獄・・・
 (妻・高子の手記によると通訳の件で
  公の役人を差しおいたことが一因・・・
  2年後の1864年に出獄している)
 釈放後
 大洲に帰国
 大洲藩に召される
 後に江戸幕府によって
 大坂に召されるが
 明治維新を迎えると
 そのまま新政府に仕えて
 医学校の創設にあたる
 慶応二年(1866年)
 シーボルトの孫娘にあたる
 「楠本高子」と結婚
 明治元年(1868年)
 明治新政府の命により
 大阪大学医学部の前身にあたる
 大阪医学校兼病院設立に携わり
 教官(大学小助教)を務めた
 明治三年(1870年)
 諸淵と名乗る
 明治四年(1871年
 文部省が設置
 東京医学校の創設時
 文部中助教
 翌年
 文部大助教を務めた
 明治六年(1873年
 官を退いて大阪で病院を開くが
 明治十年(1877年)
 胃腸カタルで
 死亡
 39歳
ーーーーー
 シーボルト事件
 日本滞在の任期が終わって帰国しようとしていた
 シーボルトが乗船を予定していた
 コルネリウス=ハウトマン号
 は
 文政十一年(1828)八月九日夜
 暴風雨に襲われ
 渚に打ち上げられ
 深く泥にはまった
 シーボルト
 日本滞在を延ばしているうち
 同年十二月二十三日
 (1828年1月28日)
 日本国外への出発を禁じられ
 出島に禁足
 文政十一年三月二十八日
 幕府天文方を勤める
 高橋景保のところに小包が一つ届いた
 差出人は長崎の
 プロシアの医師某とあり
 その中に
 御普請役
 間宮林蔵
 におくる分も入ってい
 高橋から間宮に届けた
 間宮は
 外国人に関わることだからと言って
 勘定奉行
 村垣淡路守定行に立ち会ってもらって
 内容を調べたところ
 更紗一反(シーボルトの証言では、てぬぐい1枚)
 と
 手紙が一通入っていた
 高橋のほうは荷物をもらっていながら
 幕府に届けなかった。
 このことから見張られるようになり
 文政十一年十月十日夜
 町奉行所に引かれ
 翌
 文政十二年二月十六日
 牢内で病死し
 死体は塩漬けにされて
 裁判の判決が待たされ
 判決はその翌年に下り
 存命なら死罪
 判決の理由は
 高橋景保
 シーボルト
 国禁の日本地図を渡したこと・・・
 ↓↑
 高橋景保
 長男・小太郎
 と
 次男・作次郎
 は遠島。
 部下の
 岡田東輔
 は獄中で自殺
 ↓↑
 長崎
 シーボルトにつながりのあるもの
 23人が牢屋に留置
 高橋と親しくなる機縁を与え
 江戸参府に同行した
 二宮敬作は
 江戸おかまい
 長崎ばらい。
 同じく同行した
 高良斎は居所ばらい
 同じく同行した
 画家・川原登与助は
 しかりおく
 ということになった
 シーボルトに便宜をはからった
 大通詞
 馬場為八郎
 は永牢を申しつけられ
 佐竹壱岐守に預けられた
 小通詞末席
 稲部市五郎
 は永牢を申しつけられ
 上州
 甘楽郡
 七日市城主
 前田大和守利和に預けられ
 小通詞助
 吉雄忠次郎
 は永牢を申しつけられ
 羽州
 米沢
 新田城主
 上杉佐渡守勝義に預けられた
 ↓↑
 高野長英は事件の起ったのを聞いて
 熊本に逃れ、この時は逮捕を免れた
 シーボルト事件の糸口を作った
 間宮林蔵
 蘭学者から警戒心をもって見られ
 死にいたるまでの時期を
 幕府の密偵となって過ごした・・・
 ↓↑
ーーーーー
 ・・・