2209日目・・・「沈黙」のツヅキは「饒舌」・・・昨夜は「ダーウインが来た」の「白いライオン」、「サイエンスゼロ」の「ブラックホール(Black hall)」を観たが面白かった。「ブラックホール(Black hall)」は以前「コラプサー(collapsar)」と云われていたらしい。やっぱ、名前からして「ブラックホール(Black hall)」と呼ぶのはシロート(素人)に誤解を招くし、物理学者も混乱させてきたようだ。FS作家には想像を駆り立てる「コトバ」ではあるが、「アナ(穴・坎・坑・坑)=hall」で

 問題は「時空の歪み」と云うコトバである。存在するのは「時空の歪み」ではなく「物質の歪み」だけである・・・
 考えが「ユガン」でいる、って・・・「ユガム」のも自然の摂理であるかな・・・
 ・・・ミンナが「寿命まで生き延びる=天寿」のが「アタリマエの時代」は無かったし、これからも無いだろうが・・・無理に命を棄てるコトは「カミ」の望んでいるコトでもないだろう・・・「ココロの時代」は「肉体(ジクタイ)の時代」でもあるのがアタリマエだが・・・「厄介(ヤッカイ)」でもアルカナ・・・きくコトも、みるコトも・・・三人のマリア、「マグダラのマリア(the Sinner)・ベタニアのマリア(マルタの妹)・マリア(キリストの母)」・・・更に「エギペト(エジプト)の聖マリヤ(5〜6世紀)=ライオンが現れ彼女の足を舐めた」もいた・・・
  ↓↑
 「棄教」は簡単である。一言、「ヤメタ」のコトバを発すればすむ。そして、青銅のマリア像に足を載せるだけですむ。キリストは「マグダラのマリア(Mary Magdalene)=タリケア=亜使徒(あしと)=使徒に次ぐ者(Equal-to-the-apostles)」に自分の「足」に香油を塗らさせた。イエスの「足」に涙を落し、自らの髪の毛でイエスの「足」を拭き、香油を塗った・・・「足」は肉体の「重要な移動手段の部分」である・・・「タリ」なのだ・・・
 「キキョウ=帰郷・帰京・桔梗・奇矯・気胸・紀経・記教」・・・
 「桔梗」はボクの伯母さんの名前だった・・・「Platycodon grandiflorus(balloon flower)=万葉集秋の七草と歌われる「朝貌の花」・去痰、鎮咳、鎮痛、鎮静、解熱作用があり、消炎排膿薬、鎮咳去痰薬などの薬用に使われる」・・・
 「土岐氏一族=明智光秀」の家紋
 「阿倍清明」の「桔梗印=五芒星」
 北海道函館の
 「桔梗町桔梗駅(1902年・明治三十五年十二月十日開業)」
 で、・・・「沈黙」のツヅキは「饒舌」だったが・・・前置きがナガイ・・・
 以前のボクの書き込んだモノも、以下も、これからの書き込みもホトンドが「ウイッキペデア」や、他の「ブログ記事」を下敷きにしたモノである。「数字」や、「漢字」、「コトバの意義」、「学説」を参照、参考し、引用し、添付させてもらっているが、ボク自身の「オリジナルなモノ」は無い。で、「・・・」、「?」としての文言はホトンドが、それらを踏まえた「妄想・仮説」の枠内のモノである。
ーーーーー
 転びバテレン(padre・宣教師のポルトガル語
  ↓↑・・・「バテレン」→「べてらん」?
  ↓↑   「ベテラン=古残兵、老兵
             ラテン語で年老いたの意
            「Vetus」+「an(接尾語)
             技術に長けた
             老練な歴戦の勇士
       「veteran=老練家・老兵
             ベテラン=expert(expertner)
                  熟練の専門職人
             米国で「復員、退役、在郷」の軍人
  ↓↑
ーーーーー
 クリストヴァン・フェレイラ
 (Cristóvão Ferreira)
 1580年(天正八年)頃〜
 1650年11月4日(慶安三年十月十一日)
 ポルトガル出身のカトリック宣教師
 イエズス会
 拷問によって棄教
 沢野忠庵(忠安)と名乗って
 キリシタン弾圧に協力
  ↓↑
 クリストファン・フェレイラ
 1633年10月18日(寛永十年九月十七日)
 長崎で
 中浦ジュリアン神父・・・
   Julião=1568年(永禄十一年)頃
        〜
       1633年10月21日(寛永十年九月二十日)
  ↓↑
  ↓↑
 らと
 穴吊りの刑に処せられ
 過酷な苦痛をもたらすが
 事前に
 死なないように処置をされ、
 棄教の意思表示は
 自由にできるようにされたが
 耐え抜くの至難
 他の者はすべて殉教
 5時間後
 フェレイラのみが
 耐え切れず棄教
 以後
 他の棄教した聖職者の
 「転びバテレン」とともに
 キリシタン
 取締りに当たった・・・彼の願いは
 ↓↑         隠れ切支丹を
            拷問する前に
            切支丹信者の
           「すてる」の
            一言だった・・・?
            切支丹信者ではなく
            百姓一揆に加担した
            百姓達はドウなったのか?
           「捨てるコトバ」が無い者は
            許されたのか・・・?
 ↓↑         許されはしなかった・・・?
 1644年(正保元年)
 『顕疑録』出版
 天文学書『天文備用』・・・・・・・合理的な科学者でもあった
 医学書『南蛮流外科秘伝』出版・・・医者でもあった
 ↓↑
 イエズス会管区長代理の「棄教」の影響
 ヨーロッパのカトリック教会に衝撃
 多くの宣教師が
 日本潜入を志願・・・不思議である
 潜入した宣教師たちは、
 捕縛、殉教、
 ある者は
 棄教
 遠藤周作の『沈黙』のモデル
 ジュゼッペ・キアラ
 ↓↑
 井上筑後守
 幕府大目付
 宗門改役
 「穴吊り」の
 拷問方法を考案し
 棄教させた・・・同胞日本人を殺したくは無かった
 ↓↑     「一コト」云えば、生きられるのだ
        「すてろッ」、「捨てます」
         彼の望みは
        「生かすコト」が目的だった・・・?
         戦国時代の武士は
        「かえり忠(逆り忠)=裏切り」で
        「寝返って」も生きられたが、
         織田信長あたりから
        「生命の保障」は
         曖昧になってきた
         戦線で
        「調略」=「はかりごと・計略・謀略」
         した裏切りの「約束事=代償=保障」
        「安全保障=命、所領安堵」も
         破棄されたのだ・・・
        「士農工商」の身分確は
        「生殺与奪」の秩序を確立したが、
         命の犠牲は「農民」がそのほとんどだった
        「武士」の不忠は「切腹」で、逃げ場は無い
 ↓↑      で、ある・・・          
 温厚な初老の政治家だった・・・?・・・元は切支丹だった
 かつては
 キリスト教
 ロドリゴ
 キリスト教
 この国では根付かないと説く・・・同胞、同僚の
                 犠牲は避けたかった?
 ↓↑
 井上筑後守
 生誕
 天正十三年(1585年)
  〜
 万治四年二月二十七日(1661年3月27日)
 寛永四年(1627年)12月29日
 従五位下
 筑後守に叙任
 同九年(1632年)12月17日
 江戸幕府大目付(総目付)
 幕府の
 キリシタン禁教政策の中心人物
 下屋敷は文京区小日向
 キリシタン幽閉する施設として使用された
 脇に切支丹坂と呼ばれる坂が残る
 寛永十五年(1638年)
 島原の乱
 上使として九州に赴いた
 寛永十七年(1640年)6月12日
 1万石を領し大名
 下総
 高岡藩の藩祖
 同二十年(1643年)5月23日
 三千石を加増
 正保元年(1644年)12月16日
 大目付として
 宮城和甫(宮城越前)?
 と共に
 諸大名に
 正保国絵図
 正保郷帳
 の作成を命じた
 正保国絵図
 国単位で作らせた国絵図で、
 これに基づき、
 正保日本図(日本総図)
 が作成された
 原本の大半と総図は、
 皇国地誌編纂中の
 1873年(明治六年)の
 皇城火災により消失
 複製(国立歴史民族博物館所蔵)
 が伝わっている
 現存国絵図は、
 羽後、出羽、秋田、仙北、出羽六郡、
 庄内三郡、新庄領、奥州南部十郡、
 南部領、山城、摂津、
 安芸、対馬筑後、豊後
 提出もととなった各地の
 大名家ゆかりの
 原本の原本や、写本が残されている
 蝦夷
 や
 琉球
 についても作成・・・正保元年(1644年)
 寛文九年(1669年)
 北条氏長
 を責任者として校訂事業
 ↓↑
 井上筑後守
 万治元年(1658年)・・・万の治の元の年
 ↓↑          干支は「戊戌」年
             明暦四年、改元(8月21日)
             万治元年七月二十三日
             中国順治十五年
             南明 永暦十二年
             朱亶塉(南明)定武十三年
 ↓↑          ↓↑
             9月3日
             オリバー・クロムウェル死去
             軍人、政治家(1599年〜)
             トマス・クロムウェルは大伯父
             清教徒革命=ピューリタン革命
            (1641〜1649年)の中心人物
             ネイズビーの戦い
             国王チャールズ1世を
             スコットランドに追い、
             議会派を勝利に導いた
 ↓↑          ↓↑
             1649〜1660年
             イングランド共和国
            (Commonwealth of England)
             護国卿時代は独裁体制
 ↓↑          ↓↑
             11月12日(万治元年十月十七日)
             真田信之
 ↓↑          信濃松代藩初代藩主死亡(〜1566年)
 井上筑後守
 万治元年
 閏十二月八日
 辞職
 嫡男・政次は早世
 政次の嫡男である
 政清に
 万治三年(1660年)七月九日
 家督を譲って隠居
 幽山と号
 万治四年(1661年)二月二十七日
 死去。享年77
 ↓↑
 「沈黙」の登場人物
 ↓↑
 通辞
 井上筑後守の部下で
 奉行所
 通訳を務める男
 ロドリゴに対して
 説得という形で
 棄教を勧め、
 時に議論を戦わせる
 神学校で学び洗礼を受けた過去を持ち
 彼(通辞)が棄教したのは
 宣教師の傲慢で
 日本人への
 侮蔑意識に満ちた態度に失望したため
 ↓↑
 1971年
 篠田正浩監督が
 『沈黙 SILENCE』の題名で映画化
 ↓↑
ーーーーー
 天正遣欧少年使節
 イエズス会の巡察師の
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノが
 キリシタン大名
 大村純忠と接し
 財政難の
 日本の布教事業の立て直しと、
 次代の
 邦人司祭育成のため、
 キリシタン大名
 名代となる使節
 ローマに派遣しようと計画
 セミナリヨで学んでいた
 ジュリアン
 を含む4人の少年たちの
 使節副使となった
 ローマ教皇
 グレゴリウス13世・・・1582年
            グレゴリオ暦=現在の「西洋暦」
            ローマ教皇
            グレゴリウス13世が
            ヨーロッパの天文学者たちを
            集めて編纂
 と謁見
 ジュリアンは高熱で
 謁見式には臨めなかったが
 教皇への目通りを切望するジュリアンの願いで
 教皇と非公式の面会をした
 トスカーナ大公国の舞踏会で
 ジュリアンは緊張し
 踊る番で相手に
 老婦人を誘った
 1590年(天正十八年)
 帰国
 1591年(天正十九年)
 聚楽第豊臣秀吉と謁見
 後、天草の修練院に入り、
 コレジオに進んで勉学
 1593年(文禄二年)7月25日
 他の3人とイエズス会入会
 1601年(慶長六年)
 マカオのコレジオに移った
 千々石ミゲルは退会
 1608年(慶長十三年)
 伊東マンショ
 原マルティノ
 とともに
 司祭に叙階
 司祭叙階後、博多で活動
 1613年(慶長十八年)
 領主
 黒田長政
 キリシタン弾圧で
 追われ長崎に移動
 1614年(慶長十九年)
 江戸幕府キリシタン追放令で
 潜伏し九州を回りながら、
 迫害キリシタンたちを慰め
 地下活動
 1632年(寛永九年)
 小倉で捕縛、長崎へ移送
 1633年10月18日(寛永十年九月十七日)
 イエズス会司祭の
 ジョアン・マテウス・アダミ
 アントニオ・デ・スーザ
 クリストヴァン・フェレイラ
 ドミニコ会司祭の
 ルカス・デ・スピリト・サント
 と3人の修道士とともに
 穴吊るしの刑、
 すぐに死ねずに
 苦しみもがく「惨刑」で・・・・・惨・刑・・・?
 クリストヴァン・フェレイラ
 が棄教
 他は殉教死・・・・・拷問死・・・?
 最初に死んだのは
 中浦ジュリアン
 穴吊るしにされて
 4日目の10月21日(9月20日
 65歳没
 ↓↑
ーーーーー
 天正遣欧少年使節
 ↓↑
 1582年(天正十年)
 キリシタン大名
 大友宗麟
 大村純忠
 有馬晴信
 の名代としてローマへ派遣
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案
 1590年(天正十八年)に帰国
 彼らが持ち帰った
 グーテンベルク印刷機
 によって
 日本語書物の活版印刷
 キリシタン版が出版
 ↓↑
 有馬晴信日野江城下に建てた
 セミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれ
 派遣当時の年齢は
 13〜14歳
 中浦ジュリアンが最年長、
 原マルティノが最年少
 ↓↑
 使節
 伊東マンショ(主席正使)
 大友宗麟の名代
 日向国
 伊東義祐の孫
 司祭に叙階
 1612年
 長崎で死去
 ↓↑
 千々石ミゲル(正使)
 大村純忠の名代
 純忠の甥で
 有馬晴信の従兄弟
 後に棄教
 ↓↑
 中浦ジュリアン(副使)
 司祭に叙階
 1633年
 長崎で
 穴づりによって殉教
 ↓↑
 原マルティノ(副使)
 司祭に叙階
 1629年
 追放先のマカオで死去
 ↓↑
 随員
 ジョルジェ・ロヨラ修道士
 使節の教育係、日本人
 コンスタンチノ・ドラード
 印刷技術習得要員、日本人少年
 アグスチーノ
 印刷技術習得要員、日本人少年
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父
 ローマへ随行途中
 職務によって
 ゴアにとどまる
 ヌーノ・ロドリゲス神父
 ヴァリニャーノの後をついで
 一行に従う
 ディオゴ・メスキータ神父
 通訳、イエズス会
 ロレンソ・メシア神父
 オリヴィエーロ修道士
 ↓↑
 1582年2月20日天正10年旧暦1月28日)
 長崎港を出港。
 1582年3月9日(天正10年旧暦2月15日)
 マカオ
 1583年12月20日天正11年旧暦11月7日)
 マラッカ・コチンをへてゴア着
 1584年8月10日(天正12年旧暦7月5日)
 ポルトガルの首都リスボンに到着
 サン・ロッケ教会が宿舎
 リスボン近郊シントラの
 アルベルト・アウストリア枢機卿
  (フェリペ2世の妹マリア
   神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の男子)
 の王宮に招かれる
 1584年11月25日(天正12年旧暦10月23日)
 スペインの首都マドリード
 スペイン国王フェリペ2世の歓待
 1585年3月1日(天正13年旧暦1月30日)
 スペインのマヨルカ島を経由し
 イタリアのリヴォルノに到着
 トスカーナ大公国に入る
 1585年3月2日(天正13年旧暦2月1日)午後1時
 ピサに到着
 ピサ宮殿にてトスカーナ大公
 フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見
 その晩、
 大公妃ビアンカ・カッペッロ主催の舞踏会に参加
 ピサ滞在中、
 斜塔や大聖堂、ピサのドゥオモ広場を訪問
 1585年3月6日(天正13年旧暦2月5日)
 カヴァリエーリ広場の
 サント・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会で
 聖ステファノ騎士団を見学
 四旬節の初日である
 灰の水曜日で
 トスカーナ大公とともに灰を受ける
 1585年3月7日(天正13年旧暦2月6日)
 フィレンツェに到着
 シニョーリア広場の
 ヴェッキオ宮殿に宿泊
 1585年3月11日(天正13年旧暦2月10日)
 フィレンツェ近郊の
 プラトリーノの別荘
 ヴィッラ・デミドフで過ごす
 1585年3月23日(天正13年旧暦2月22日)
 ローマでローマ教皇
 グレゴリウス13世に謁見
 ローマ市民権を与えられる
 1585年5月1日(天正13年旧暦4月2日)
 グレゴリウス13世の後を継いだ
 シクストゥス5世の戴冠式に出席
 1585年6月3日(天正13年旧暦5月6日)
 ローマを出発
 ヴェネツィア
 ヴェローナ
 ミラノ
 などの諸都市を訪問
 1586年4月13日(天正14年旧暦2月25日)
 リスボンを出発し帰路
 1587年5月29日(天正15年旧暦4月23日)
 インドのゴアに到着
 ヴァリニャーノに再会
 コレジオにおいて
 原マルティノの演説
 同月に長崎で大村純忠が死去
 1587年6月
 豊後で大友宗麟が死去
 1587年7月
 豊臣秀吉バテレン追放令発布
 1590年7月21日(天正18年旧暦6月20日
 使節団、長崎に帰港
 1591年3月3日(天正19年閏1月8日)
 聚楽第
 豊臣秀吉に、
 西洋音楽ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏
 ↓↑
 使節団が持ち帰った西洋文物
 活版印刷
 西洋楽器
 海図
 ↓↑
ーーーーー
 ・・・「命」は無駄にしないのが「キリストの教え?」なのに、簡単に「殉教死」するのはナゼか・・・?・・・「コロビます」はコトバである・・・「ころび」の「ココロ」は「棄教」ではないだろうに・・・?・・・「隠れ切支丹」のエラサは「キリスト教徒」だったからではない・・・「階級社会の暴力」に対する長い、ナガぁ〜い時間の「臥薪嘗胆」である・・・それは「怨恨」でもないし、「慈愛」を求めるモノでもない・・・「人間の解放」である・・・?・・・今現在はムリとしても・・・
 「Black(部落) hall」か、「Black(部落) whole」か・・・「夜明け前」の「ブラツキ」か・・・