2165日目・・・やったね、Fighters!!・・・円(○)と四角(□)・・・「√6=2.4494897」・・・三文、六文・・・3/6=三(3)/六(6)=一(1)/二(2)=1/2・・・「似文のイチ」・・・「ふしみ=伏見・臥見・穴見・二四三・節見」・・・伏見城の普請の不審?・・・「真田安房守」・・・「あわ=阿波・安和・泡・粱・併・閔」・・・「淡路」の守?・・・伏見城、地震で崩落・・・ 1596年・慶長伏見地震・・・1596年9月5日0時(文禄五年閏七月十三日子の刻)・・・

  丙申(己・壬・庚)
  丙申(己・壬・庚)
  戊申(己・壬・庚)
  壬子(壬・ ・癸)




 以下、スベテ「ウェブ検索結果」からの参考添付・・・
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 三途川の渡河
 六文冥銭
 六文銭・六連銭・六道銭
 ↓↑
 伏見城
 ↓↑
 築城は
 1594年(文禄三年)から
 普請奉行は
 佐久間政家
 石材は
 讃岐国
 小豆島から
 木材は
 土佐国
 出羽国
 から調達
 4月に
 淀古城から
 天守、櫓
 を移建
 10月に
 殿舎完成
 1595年(文禄四年)
 秀次事件
 七月
 破却された
 聚楽第からも建物が移築
 宇治川の対岸にある
 向島にも
 伏見城の支城、
 向島城が築城
 1594年(文禄三年)末より
 城下町整備
 ↓↑
 1603年(慶長八年)
 徳川家康
 伏見城征夷大将軍の宣下
 以後
 三代
 徳川家光まで
 伏見城で将軍宣下式
 ↓↑
 慶長十年(1605年)三月
 徳川家康伏見城
 朝鮮使節と会見
 文禄・慶長の役で悪化していた
 朝鮮と和議
 1607年6月29日(慶長十二年・宣祖四十年五月六日)
 江戸時代最初の通信使が幕府へ派遣
 徳川秀忠に国書を奉呈し、帰路に駿府で家康に謁見
 計12回の通信使が派遣された
 1811年(文化八年・純祖十一年)
 通信使が対馬までで差し止められたのを最後に断絶
 通信使が幕府へ派遣の事情
 ヌルハチのもとで統一された女真族が南下
 文禄・慶長の役
 加藤清正軍が
 女真族と通じる状況もあり
 女真族と日本が同盟の危険が
 朝鮮では検討されていた・・・
 ↓↑
 伏見城
 御殿建設に伴い、
 徳川家康
 本丸から
 西の丸に移り、
 更に二条城に移る
 本丸完成の
 8月20日
 伏見城に帰城
 新御殿で
 徳川秀忠の将軍宣下
 駿府城の改築により、
 1606年(慶長十一年)頃に
 伏見城の作事停止
 家康が
 駿府城へ移った後
 慶長十二年
 松平定勝が城代
 また
大番等による在番や定番が行われた
 ↓↑
 「兼見卿記」
 文禄元年八月二十日条
 「今日、太閤大坂より伏見に至り御上洛云々、
  伏見御屋敷普請縄打ち仰付らる」とある。
 『多聞院日記』
 文禄元年八月二十四日条
 「京都伏見ニ太閤隠居所立之体篇之地取在之云々」とある。
 『多聞院日記』
 文禄元年九月三日条
 「於伏見太閤隠居城立トテ事々敷普請此頃在之云々」とある。
 文禄元年十二月十一日条
 前田玄以に宛てた書状
 「ふしみのふしんの事
  りきう(利休)に
  このませ候て
  ねんごろに申つけたく候」とある。
 1596年
 慶長伏見地震
 慶長五年八月五日
 石田三成
 真田房州、
 真田豆州、
 真田左衛門左
 に宛てた書状に
 「城内悉火を
  かけやけうちにいたし候」とある。
 慶長五年八月六日
 石田三成
 真田安房守に宛てた書状
 「悉懸火不残一宇焼払候事」とある。
 慶長五年八月七日
 石田三成
 上杉義宣に宛てた書状
 「一宇も不残焼捨候事」とある。
 ↓↑
 築城年
 1592年・文禄元年
 廃城年
 1623年・元和九年
 通称、桃山城・指月城・木幡、伏見城の遺構
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 ふしみ=ふし‐みず=伏し水=地下水
     とどこおって流れない水
     流れる水
 ↓↑
 たちみず=たち‐みず=立ち水
     流れている水
     湧き水
     筑波問答に
    「あはれ、いさぎよき水の流れかな。
     水には立ち水、伏し水といふことのあるなり」
     兼載雑談に
    「立ち水とはわき出づる水なり。
     ふし水とは流るる水なり」
 垂れ水=垂水(たるみ)
     「水(みづ)」は「み」の短縮
 落水=落ち水・・・瀧・滝・たき・・・
 ↓↑
 名古屋伏見(中区錦)
 貞享三年
 伏見町下ノ切が、
 京都の淀にちなんで淀町と改称
 明治四年九月二十九日
 淀町を編入
 1878年(明治十一年)12月20日
 名古屋区成立に伴い、同区
 伏見町となる
 1889年(明治22年)10月1日
 名古屋市成立に伴い、同市伏見町となる
 1908年(明治41年)4月1日
 西区成立に伴い、同区伏見町となる
 1944年(昭和19年)2月11日
 栄区成立に伴い、同区伏見町となる
 1945年(昭和20年)11月3日
 栄区廃止に伴い、中区伏見町となる
 1966年(昭和41年)3月30日
 住居表示の実施に伴い、
 消滅
 ↓↑
 伏見町名は
 山城国伏見に住んでいた
 伏見屋六兵衛が移住
 住人
 茶碗屋
 吉田源左衛門
 畳屋棟梁
 吉田市郎左衛門
 張振甫・・・・中国の明国から帰化人(医者)
 ↓↑     明国の王族
        元和年間(1615〜1623)
        明末の乱を避けて渡来帰化
        京都に住み、
        後に江戸に行く途中
        熱田で
        尾張藩主初代義直に懇望され
        名古屋に滞在
        二代藩主光友の代に
        堀詰町(西区巾下町)に土地をもらい
        医者として藩に勤めた
        寛文六年(1666年)
        上田御林(うえだおんばやし)内に
        土地をもらったが猪や鹿が多く
        再度願い出て、
        寛文七年(1667年)上野村内の
        間宮大隅守下邸の上ヶ地に替え地をもらい
       「振甫新田(振甫町)が開かれた
        食品治療の法、食中毒の治療をした・・・
 ↓↑
 淀町
 伏見
 京都市
 伏見区
 古来、
 伏水と書かれた?・・・「伏水」ではなく、「伏見」?
 桃山丘陵からの伏流水に由来
 伏見(ふしみ)
 京都府京都市
 伏見区深草の南、鳥羽の東の地
 平安時代以後、貴族の別荘地
 豊臣秀吉伏見城(桃山城)築城後は城下町
 名水の地
 江戸時代には京都と大坂を結ぶ
 淀(よど)川水運の要地
 ↓↑
 和歌では「伏し身」にかけてられる
 伏見(ふしみ)
 俯見・臥見・伏水
 とも書く
 山城国紀伊(きい)郡の東南部
 南は宇治川巨椋池に接し、
 東に東山連峰南端の桃山丘陵
 地名
 「巨椋乃入江響奈利射目人乃
  伏見向田井爾雁渡良之(万葉集)」
 柿本人麻呂
 狩猟場である巨椋池を狩人が
 「伏し見る」場としたから
 この歌の
 伏見は久世(くぜ)郡伏見田井村とする説も
 「伏水」の字義から、
 巨椋池に枕する地形、あるいは
 宇治川の水が伏し湛うる所とする説
 大和国
 菅原伏見に
 土師氏の長が住むため、
 「伏見」の名が
 土師部の代名詞となり、
 山城国
 土師部居住地も
 「伏見」と称されるようになった
 ・・・定説はない・・・
 ↓↑ 
 「先斗町(ぽんとちょう)」
 ポルトガル語Pontaに由来
 先端を意味
 英語のPointと同義
 鴨川と広瀬川に挟まれた堤にあり、
 堤→鼓→ポンとなる、から先斗町の説・・・
 ・・・先に戦う、先陣、戦陣を争う・・・千尋・・・
 ↓↑
 「万里小路(までのこうじ)」・・・?
      マリではなく、ナゼ「万里=まで」なのか?
 京都府京都市下京区
 万里小路
 平安期に見える通り名
 ↓↑
 伏見稲荷大社
 全国稲荷神社の総本山
 商売繁盛の神
 ダニキ天が・・・
 狐の背中に乗る女神の姿とされた
 稲荷の神と同体と考えられる
 御饌津(みけつ)神が
 誤って
 三狐神と書かれ、・・・さんこのれい(三顧の礼)の狐?
 そこから
 狐が稲荷神社で祀るようになった・・・?
 野ネズミを狐が駆除してくれるので
 狐が穀物の守り神となった
 ↓↑
 和銅四年(711)・・・「和同開珎」=ワドウ、カイチン or
カイホウ
                 708年8月29日
                 和銅元年八月十日発効
 秦伊呂具が農耕守護神を祀って相建
 中世以降、
 商売繁盛・開運・技術向上の守護社
 全国で約四万社の総本山
 御利益・・・・・五穀豊穣・商売繁盛
 ↓↑
 「伏見城」で廃城になった跡地に
 桃の木を植えたのが「桃山」の地名の由来・・・
 ↓↑
 札幌伏見
 藻岩山麓通と藻岩山に囲まれたエリア
 札幌郡
 藻岩村の中央
 大字山
 鼻村の一部
 札幌市の西南に位
 藻岩山麓を南北に延びる小部落
 境界は屈曲甚だしく
 東は札幌市を境し、
 南は藻岩山の原始林に迫り、南は狭く北部に広し
 明治四年(1871年)
 山形県
 佐藤三蔵さん父子が伏見250番に入植
 その後4軒の農家が入植して
 四軒村を創った
 明治七年
 山鼻村の一部となり
 山鼻山根通と呼ばれた
 明治三十九年
 山鼻村と円山村が合併し
 藻岩村となった
 伏見も藻岩村大字山鼻村の一部だった
 明治三十四年
 伏見と言う地名が付けられた
 ↓↑
 伏見城の遺構は全国の社寺に移築
 東山の養源院や西加茂の正伝院には、
 関ヶ原の合戦の際、
 家康の留守を預かった
 鳥居元忠以下の武士が、
 城を死守、自刃した際の血天井がある
 ↓↑
 伏見稲荷
 711 年(和銅四年)
 秦公伊呂具(ハタノキミイログ)が創建
 御祭神は
 先住氏族の
 荷田氏の祖神
 宇迦之御魂大神
 渡来人
 秦氏の祀った
 大宮能売大神
 佐田彦大神
 ↓↑
 巨椋池を臨む土地は平安期から貴族の別荘地
 指月の岡(京都市伏見区桃山町泰長老)に、
 豊臣秀吉が隠居屋敷を設けたのが
 伏見城の始まり
 指月城
 伏見城跡(指月城)発掘により、
 伏見城最初期の遺構
 石垣の石材や大規模な堀の跡
 桐紋や菊紋入りの金箔瓦などの遺物も発見
 1624年(寛永元年)
 伏見城廃城
 ↓↑
 銀座
 1601年(慶長6年)
 伏見城の城下町に
 徳川家康が日本で初めてとなる銀貨の鋳造所を設けた
 慶長丁銀
 慶長豆板銀
 伏見の街にあった銀座は、
 1608年、京に移った
 江戸の銀座は、駿府から移されたもの
 ↓↑
 「桃山」のいわれは、
 伏見城の廃城後、
 城址の山一帯に
 桃の木が植えられ、桃の花見の名所となった
 1912年(大正元年
 伏見城のあった古城山は
 明治天皇
 ↓↑
 伏見という名の由来
 伏水(ふしみず)=そのあたりに水がいっぱいあった
 櫛水(くしみず)=実際に奈良時代には
          こういう場所があったらしい
伏身(ふしみ)=このあたりに人が倒れて
         身を伏せていた
  などの説・・・
 ↓↑
 伏見村の誕生
 明治時代に・・・宝来村、平松村、菅原村、      
(1889年) 疋田村、青野村、西大寺
         の6つの村が1つになり
         伏見村が誕生
 ↓↑
 万葉集巻9(ふしみ)
「1699
 巨椋乃 入江響奈理 射目人乃 伏見何田井爾 雁渡良之」
 (おほくらの いりえとよむなり 
           いめひとの ふしみがたいに
                 かりわたるらし)
 ↓↑
 「射目人乃(いめひとの)」
 伏見にかかる枕詞
 「伏見」とは
 「狩人が雁を射落とすため体を伏せて見ている」
 という意味
 伏身、伏見・・・
 ↓↑
 橘俊綱の歌
 伏見といふところに四条の宮の女房あまたあそびて、
 日くれぬ先にかへらむとしければ
 「1146
  みやこ人くるれば かへる いまよりは
  ふしみのさとの
  なをも たのまじ」
 (都人 暮るれば帰る 今よりは
  伏見の里の 名をも頼まじ)
 (ふしみというところに
  四条の宮の女房がたくさん遊びに来たが、
  日が暮れぬうちに帰ろうとするので)
 「都から訪ねてくる人も日が暮れると帰ってしまう
  ふしみ(男女が一緒に夜を過ごすこと)
  なんていう名前は
  あてにならないものだなあ」
 ふしみ=「臥身」
 ↓↑
 鎌倉時代
 新古今和歌集巻6
 藤原有家の歌
 同じ家にて、所の名を探りて冬の歌よませ侍りけるに、
 伏見里の雪を
 「673
  夢かよふ道さえ絶えぬ
  くれたけの
  伏見の里の雪のしたをれ」
 (夢通う 道さえ絶えぬ
  呉竹の 伏見の里の 雪の下折)
 (同じ家にて、所の名を探り冬の歌を詠ませた時に
  伏見の里の雪を)
 「雪で道が閉ざされ、さらに夢路さえ途絶えてしまった
  竹が雪の重さで折れる音で目が覚めてしまったから」
 「呉竹の伏見」
 なぜ「呉竹」が「伏見」なのか
 「呉竹」の『節』と
 「伏見」の『ふし』とを掛けた
 「ふしみ」は、
 「臥身」、「節見」の両方にかけた
 ↓↑
 室町・江戸時代
 「ふしみ」は「伏水」と書かれるようになる
 伏見では酒作りが盛んになり
 上質の地下水が豊富にあった
 淀川を利用した
 十石船・三十石船などの往来が盛んになって
 伏見に港ができ
 「伏見津(ふしみつ)」
 ↓↑
 明治〜現代
 明治十二年(西暦1879年)
 京都府令で
 「伏見」を公式名した
ーーーーー
 伏見城
 三度に渡って築城
 最初の城は
 朝鮮出兵文禄の役
 開始後の1592年(文禄元年)8月
 に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため
 伏見指月(京都市伏見区桃山町泰長老)に建設
 指月伏見城
 後に近隣の
 木幡山に再築されたものを
 木幡山伏見城と呼んで区別
 木幡山伏見城は豊臣期のものと、
 伏見城の戦いで焼失した跡に
 徳川家康によって再建されたものに分けられる
 伏見城
 築城開始から2年後の
 1594年(文禄三年)
 秀吉が入城
 更にその2年後の
 1596年(文禄五年)に完成
 慶長伏見地震によって倒壊
 指月から北東約1kmの
 木幡山に新たな城が築き直され
 1597年(慶長2年)に完成
 秀吉は
 その1年後の
 1598年(慶長3年)に城内で死没
 秀吉の死後
 豊臣秀頼伏見城から大坂城に移り、
 五大老筆頭の
 徳川家康がこの城に入り政務
 関ヶ原の戦いの際には
 家康の家臣
 鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、
 石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失
 徳川家の家臣らが自刃
 その建物の床板は、
 供養も兼ねて京都市
 養源院、正伝寺などで天井板として再利用
 血天井とした
 焼失した伏見城
 1602年(慶長七年)ごろ
 家康によって再建され
 1619年(元和五年)に廃城
 建物や部材は
 二条城、淀城、福山城などに移築
 ↓↑
 山城国伏見に住んでいた
 伏見屋六兵衛なる人物が当地に移り住んだことに由来
 稲荷の1つ
 山名は「古事記逸文
 伊奈利の社の条
 秦氏と関連した地名起源の説話に由来
 「朝散太夫中 書少郷脇坂淡路守」
 の邸宅があり、当時伏見の住民から
 脇坂候のことを「中書さん」・・・
 ↓↑
 伏見神社
 「伏見」の語源は「星の観察」
シリウス地震津波を教える
 シリウス地震津波を教える星だった・・・?・・・「星の観測」は「伏し見(ひもろぎ逍遥さんの説)」・・・ですか?
ーーーーー
 ・・・???・・・