2161日目・・・「コトバ」を「カネ」にカエル、錬金術師なんだか、啓蒙主義者(?)も「カネの世の中」・・・当然ではあるカナ、「クウキ」も「ミズ」もカネ次第だが、クルシイかな・・・「連木(レンぎ・擂りこぎ棒=すりこぎぼう)で腹を切る」のは・・・擂り潰す棒だから、切腹はムリだが、包丁で切り刻んだ後は自分自身の履歴を擂り潰して「自己解剖」すれば、「他人を批判・批難するコト」は到底出来ないし、云えないが、セップクのアトでは「自己解剖」はムリか・・・倫理的にも、道徳的にも、法律的にもネッ・・・生きている存在として

 で、「連木」は「レンモク」ではなく、「レンぎ」で、「擂りこぎ棒」・・・「連木=レンギ=連記」だろう・・・「擂(す)る」も、ナゼ、「擂(ライ)=扌(手)+雷(雨田)=異体字は攂(扌田田田)・𢹮(扌田田田土)・𢺢(扌田田田糸)」なんだか・・・「石うすをゴロゴロと転がして、穀物をスリつぶす・ゴリゴリと鑢(やすり)で砥(と)ぐコト・ドンドン、ドロンドロンと太鼓を叩(たた)く・ポカポカと殴(なぐ)る」ですか・・・「雷」の太鼓の音には納得だが、「擂(扌(手)+雷)」が「ゴマスリの音」と類似しているからなのか・・・「擂鉢(すりばち)・擂粉木(すりこぎ)」・「胡麻(ゴマ)を擂る」・・・「擂鼓(ライコ)」は太鼓を叩く、打つ・・・「刷る・掏る・摺る・磨る・擦る・掏る・擂る・擦る・刷る」・・・胡麻味噌を擂(す)る・・・脳ミソをスる・・・?・・・「擂潰機 ライカイキ・mortar machine」・・・すり鉢も、スリこぎ棒も一般的には薬剤師(本草医・本草醫)、「漢方・蘭学」の医(醫)者の道具である・・・
 旧字体の「醫(異体字=臆・毉・醷・医・億)」は「医+殳+酉」で「殹(エイ)」は「殴(なぐ)る」に類字であるが、「病を治す工(たくみ・匠)なり(王育の説・説文)」で、「殹は醜い姿のことでそれが医の本性であり、醫酒で有り、古は巫彭が初めて醫を作る(周禮)、酒を薬として巫は使ったので酉(坩・壺・壷)に従う」・・・「殹が醜(みにく)い姿」ではないだろう・・・「医=匚+矢(ノ一+一+人)」で、「矢」は「メス(オランダ語のmes・英語のスカルペル (scalpel)・ランセット(lancet)=scalpela surgical knife・手術用の小型ナイフ)」・・・「矢先(△)」の「メス」である・・・
 以前にも同じ様なものを「ブログ検索」して貼り付けたけれど・・・以下も、ドウヨウ・・・
 ↓↑
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 漢語の造語
 新漢語
 「科学・哲学・郵便・野球」など
 幕末以前
 独自の和製漢語を造った
 漢字で表記した大和言葉を音読したもの
 「火のこと」を「火事」、
 「おほね」を「大根」、
 「腹を立てる」を「立腹」
 中国語にない
 日本特有の概念や制度、物
 漢語造語法
 「介錯・芸者」など
 ↓↑
 幕末以後
 19世紀後半
 西洋の文物・概念を
 漢語によって翻訳した
 和製漢語が多く作られた
 「新漢語」と呼ぶ
 新漢語の割合は
 漢語全体から多くはない
 第二次世界大戦後の調査によれば、
 新聞・雑誌の
 二字漢語の上位
 1000語のうち、
 902語は幕末までに存在したもの
 ↓↑
 「科学・哲学・郵便・野球」
 「自由・観念・福祉・革命」
 など、古くからある漢語に
 新しい意味を与えて転用・再生した語
 近代以降は、
 「・・・性」、「・・・制」、「・・・的」、
 「・・・法」、「・・・力」、「超・・・ - 」
 などの接辞による造語
 ↓↑
 和製漢語
 近代以降、
 中国に逆輸出
 中国が近代化を遂げる過程で、
 特に日清・日露戦争前後に、
 中国人留学生によって
 日本語の書物が多く翻訳された
 中国語になった和製漢語
 「意識・右翼・運動・階級・共産主義
  共和・左翼・失恋・進化・接吻
  唯物論
 など
 「中華人民共和国」の「人民・共和国」
 も和製漢語
 漢字文化圏である
 台湾、大韓民国ベトナム
 和製漢語を自国語漢字音で取り入れている
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 幕末以降の和製漢語の例
 文化、文明、民族、思想、法律
 経済、資本、階級、分配
 宗教、哲学、理性、感性
 意識、主観、客観
 科学、物理、化学
 分子、原子、質量、固体
 時間、空間、理論
 文学、美術、喜劇、悲劇
 社会主義共産主義
 など。
 東北アジア各国で使われる漢字でできた
 近代的な概念語の大半が日本製・・・
 1860年代半ば
 清で翻訳された国際法解説書
 『万国公法』
 が幕末の日本にもたらされた際に、
 「国際法・政治・法学」関連
 の概念を表す
 中国製新漢語も多数日本語にもたらされた
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 「万国公法」
 により日本にもたらされた
 華製新漢語
 国債、特権、平時、戦時、民主、野蛮、越権
 慣行、共用、私権、実権、主権、上告、例外
 など。
 日本語から中国語に取り入れられた新漢語の中には、
 各種英華辞典や漢訳洋書を参照して
 日本で広まったが中国では一旦忘れられ、
 もう一度中国に
 逆輸入されたものが多数含まれている
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 和製漢語に関する見解
 高島俊男は、
 『漢字と日本人』
 江戸時代以前に成立した
 「三味線」
 などは耳で聞いて意味が明確である。
 一方で、
 明治以降に造語された
 「真理」などは
 「心理」、「審理」、「心裡」と紛らわしい。
 明治以降に造語された
 和製漢語は中国人が見ても
 文字から意味が推測できるのに対して、
 江戸時代以前の和製漢語
 非常に困難である
 「世話」は「世の中の話」という意味ではなく、
 「無茶」は「お茶が無い」という意味ではない
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 カタカナ語
 わかりにくい片仮名外来語を
 わかりやすくするため、
 和製漢語などによる言い換え提案
 同音異義語の問題を大きくしてしまうと指摘
 和製漢語
 中国文化が浸透していた時代に合っていた方法なのであって、
 現在の日本はアメリカ文化が浸透しているのだから、
 片仮名の外来語のままにしておいて
 意味の定着を待つべき・・・
 ↓↑
 中国での賛否
 和製漢語の語彙は
 明治維新以後、
 中国人留学生らによって、
 中国に逆輸入された
 「社会主義共産党・幹部」
 などの常用語を筆頭に、800語を超える・・・
 日本人により作られた
 大量の漢語が中国のなかに入った
 「経済学」を「計学」、
 「物理学」を「格致学」、
 「社会学」を「群学」、
 「形而上学」を「玄学」
 と主張・・・
 日本に留学していた
 留学生の
 彭文祖は強烈な反対派
 彭は
 1915年
 『めくらがめくら馬に乗る新語論』
 (中国語名:盲人瞎馬新名詞)
 という書籍のなかで、
 「支那、取締、取消、引渡、手續、目的、
  宗旨、權利、義務、代價、法人、當事者、
  第三者強制執行、親屬、繼承、文憑、
  盲從、同化、場合、衛生」
 など
 59個の新語を
 「きてれつな」
 と定義した
 中国人がこのような新語を援用することは
 「恥知らずな行為だ」、
 日本からの新語の導入は
 「亡国滅族」だと罵った・・・
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 和製漢語を作った人物
 杉田玄白 (1733-1817) - 『解体新書』にて
 市川清流(1824-未詳)- 博物館
 西周 (1829-1897)
 福澤諭吉 (1835-1901)
 福地桜痴 (1841-1906)
 中江兆民 (1847-1901)
 森鴎外 (1862-1922)
 夏目漱石 (1867-1916)
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 国字
 峠=とうげ
 辻=つじ
 笹=ささ・字訓「ささ」は本来「篠(しの)」で表記
 榊=さかき
 腺=せん
 栃=とち・「櫔」の略字の変形
 畠=はたけ・国字でない可能性
      ・独自に「ハク」と音読する場合あり
 畑=はたけ
 匂=にお(う)・にお(い)
 凪=なぎ・な(ぐ)
 凧=たこ
 俣=また・中国の漢詩
     「俁」の異体字
 枠=わく・椊(ソツ・スイ、ほぞ)は別字
 込=こ(む)・こ(める)
 躾=しつ(ける)・しつけ
 働=はたら(く)・どう・中国語では「動(动)」を使用
 搾=しぼ(る)
   さく「榨」の異体字・国字とは言い難い
 錻=ぶりき・ぶ
   「錻力」でも「ぶりき」
 襷=たすき・国字でない可能性
 辷=すべ(る)
 糀=こうじ
 樫=かし
 鱈=たら
 萩=はぎ
 ↓↑
 明六社
 アメリカ帰りの
 森有礼
 西村茂樹に相談して設立した結社
 社名は
 明治六年(1873年)に結成されたことに因む
 設立目的
 社を設立するの趣旨は、
 我国の教育を進めんがために有志の徒会同して、
 その手段を商議するにあり。
 また、
 同志集会して異見を公刊し、
 知を広め識を明にするにあり。
 (明六社制規第1条)、
 明治7年2月
 民衆を啓蒙するために設立された団体
 明治日本にとって最大の目標は、
 富国強兵を実現し西欧列強に互すること
 技術や人(お雇い外国人)、
 制度を移入することで
 明治維新が進められたが、
 人間という中身も変革(民心の一新)
 することを目指す啓蒙思想
 「文明国」という「世界標準」に追いつくためには、
 民衆を
 「文明国」的「国民」へと改鋳すべき・・・
 この啓蒙家が集まったのが
 明六社であった
 明六社の核となった同人
 森、
 西村に誘われて
 津田真道
 西周
 中村正直
 加藤弘之
 箕作秋坪
 福澤諭吉
 杉亨二
 箕作麟祥
 など、
 かれらは
 西村以外は
 下級武士
 下層出身者
 明治以前から洋学者
 幕府の開成所などに召し抱えられていた
 その多くが
 幕末明治期かに
 洋行の経験
 尊皇攘夷思想に染まった経験がなかった
 福澤を除けば、
 明治以後は維新政府の官吏になった
 ↓↑
 啓蒙するための手段として選択したのが
 定例演説会と
 雑誌発行
 定例演説会で
 個別のテーマについて意見交換し、
 それを基に筆記したものが
 『明六雑誌』に掲載された
 この「演説」ということばは
 福澤がスピーチにあてた訳語・・・
 ↓↑
 『明六雑誌』の刊行
 『明六雑誌』には幾つか異本が有る
 タイトルは「明六雑誌」で知られているが、
 本文1頁には「明六社雑誌」と表記
 大きさも
 B6版相当のものと
 A5版相当のもの
 の二種類
 様々な問題を提起し、
 知識を紹介して人々の関心を高めること自体が目的
 演説会・雑誌という
 当時目新しかった情報伝達手段、それ自体が関心を引いた
 ↓↑
 扱う範囲は
 総合学術誌を目指した
 学者のあり方から
 妾の是非(男女同権論等)、
 哲学や信教の自由などの宗教論、
 文字改良論などの教育論、
 死刑廃止論
 等の社会問題関連、
 貨幣・貿易等の経済諸問題、
 はては妖怪の類まで、
 常に広きにわたる論説・翻訳を扱っている
 ただ文学に関してだけは論説が少ない
 西周
 が「知説(第25号)」
 で文学用語を紹介する程度である。
 ↓↑
 掲載論説の
 総数は156本
 津田真道29本、
 西周25本、
 阪谷素20本
 杉享二13本、
 森有礼西村茂樹中村正直が11本、
 加藤弘之が10本、
 神田孝平が9本、
 箕作麟祥5本、
 柏原孝明4本、
 福澤諭吉3本、
 清水卯三郎2本
 箕作秋坪と津田仙、柴田昌吉が各1本
 掲載されたものは明六社同人のものに限られていた
 ↓↑
 『明六雑誌』の特徴
 制度的改革
 欧米の諸制度・思想を紹介
 それを文明国標準とする一方で、
 旧来既存の
 日本の考え方や制度に批判を
 津田真道の「拷問論」で
 容疑者の取り調べには
 拷問が認められているが、
 文明国では認められていないもので、
 司法への不信や冤罪を生じさせる
 悪風だと論じている
 ↓↑
 国民の考え方、気風を変えるべき
 中村正直の「人民の性質を改造する説(第30号)」、
 西周の「国民気風論(第32号)」
 日本人の気風には
 専制政治を甘んじて受ける
 「奴隷根情」が見うけられ、
 幕末まで美点とされてきた
 「忠諒易直(心根が真っ直ぐであること)」は、
 鎖国を国是としない明治の世では
 「無気無力」の別名に過ぎない
 「individual」
 「individuality」
 という語彙に触発
 このことばには「個人」という訳語が定着しているが、
 当時は未だ定まった訳語はなかった。
 自由独立な権利の主体という概念が
 それまでの日本には無かった
 『明六雑誌』では
 「人々」・「個々人々」(以上西周)、
 「各個」・「人民各個」(以上西村茂樹
 という訳語が当てられた
 ↓↑
 人間観の転換
 「忠諒易直」=「無気無力」
 江戸時代に体制教学であった
 朱子学
 人間の欲望充足・利害への関心に厳しい抑制を求めていた
 『明六雑誌』の啓蒙主義は、
 迷信や因習に縛られない
 自由で合理的な精神を追求し、
 欲望や利害に関し肯定的な功利主義
 津田真道は「情欲論(第34号)」において
 情欲を「天性の自然」と肯定し、
 西周「人世三宝論(第38号他)」では
 健康と智識と並んで
 「富有」を宝だと述べた
 ↓↑
 啓蒙思想の源泉
 掲載された翻訳の中にその
 源泉
 雑誌に掲載されたのは
 全156本中
 16本が翻訳
 中村正直が7本を占めている
 翻訳
 ベーコン、
 トマス・ホッブス
 スペンサー、
 ブルンチュリ、
 ヘンリー・バックル
 などであった。
 ↓↑
 学者職分論争
 福澤が『明六雑誌』の外から提起した
 福澤の代表作
 『学問のすすめ』第4篇において、
 学者とは官職に就くべきでなく、野にあるべき
 啓蒙の目的の一つは
 民衆の無気力
 権力への卑屈さを克服することにある
 それらは専制政府によってもたらされる
 啓蒙を行おうとすれば、
 官途にあってはできない
 在官学者を
 「恰〔あたか〕も娼妓の客に媚るが如し」
 批判
 ↓↑
 加藤、森、津田、西
 ら在官組が反論
 福澤も他の同人も基本的に官民協調論
 自由民権運動の初期
 1874年
 板垣退助民撰議院設立建白書を政府に提出
 明六社内でも議論
 加藤弘之
 の
 民撰議院時期尚早論(「民撰議院不可立の論」第4号)
 加藤は議院そのものには反対しないものの、
 国民のレヴェルが
 議院を必要とするほど発展していないと断じ、
 啓蒙を通じて文明化を図り、
 その上で議院制度を導入しようと主張
 森有礼西周中村正直、阪谷素、神田孝平
 もこれに同調
 西村茂樹は国民が「半開」(文明と野蛮の中間)
 にあるから時期尚早というのは理由にできない、
 むしろ議院を設立することで
 民衆を「文明」へと導くべきと主張
 民撰議院を設立することに積極的な賛成を表明
 民撰議院設立自体を啓蒙の契機と見なす立場
 議院賛成派は
 西村の他、津田真道、福澤
 時期尚早論に対し、
 馬城臺二郎(大井憲太郎)
 が東京日日新聞に反論を掲載
 馬城は
 「三権分立」で理論武装した上で、
 藩閥政治を打破するためには、
 まず民撰議院設立が必要
 これに対し
 加藤は「半開」の国家で議院を設立しても
 「有司専制」(官僚独裁)に陥るだけ
 と慎重
 ↓↑
 妻妾論論争
 森の「妻妾論(第8号他)」
 男女観・結婚観も西欧を基準
 「妻妾論」の根底には
 一夫一婦制が自然
 「妻妾論」では
 夫婦は必ず平等であるべき
 家父長専制は文明に悖る、
 女性には家庭内の要である
 妻としての役割、
 教育を担う母としての役割があって、
 それを尊重すべきとした
 役割論に基礎を置いた
 夫婦平等がその内容
 森の夫婦同等論
 夫婦同権論にまで踏み込むものでは無かった
 ↓↑
 加藤は「夫婦同権の流弊論(第31号)」
 西欧のレディファーストの慣習を取り上げ、
 これを東洋の人が真似るのは
 夫婦同権の行き過ぎた結果だと批判し、
 婦権拡張に極めて冷淡
 その点津田も変わりない
 加藤らは婦権拡張にも批判的で、
 婦人参政権を批判し、
 加藤は少年・凶人・犯罪者・極貧者と並んで
 婦人に選挙権を
 与えないことを「正理」とした
 ↓↑
「妻妾論論争」
 夫婦間の私的な空間における
 男女平等については積極的な問題提起
 公的な空間における政治的・社会的な
 男女同権については消極的姿勢に甘んじた
 1882年(明治15年)には
 妾という存在は少なくとも
 法的には認められないものとなった
 ↓↑
 国語国字論争
 自国の言語をどう表記するか
 国語国字問題は、
 文明開化を推進するにあたって、
 遅れた文明とされた
 東洋文明から離脱し、
 西洋文明に仲間入りする方法の一つとして論じられた
 中国文明の影響を脱すること、
 文字を簡単にして
 読めない人を無くし
 文明化をはたすというのが、
 その理由であった。
 明六社誕生以前に
 前島密
 が漢字を廃止し、
 平仮名を英語のように
 分かち書きにすることを提唱
 『明六雑誌』創刊号に掲載された
 西周
 の「洋字を以て国語を書するの論」は、
 より過激であった。
 漢字どころか
 仮名文字も廃し、
 「洋字」、
 すなわち
 アルファベットを用いた
 ローマ字で
 日本語を表記すべきと主張
 西欧言語習得が簡単になること、
 翻訳の際、
 西欧学問の用語をそのまま、
 つまり適切な訳語を作る苦労無しに、
 移入できることを理由とした。
 ↓↑
 西村茂樹は同じ号で、
 表記をどうするかは
 開化が進めば論ずればよく、
 今は教育などを優先すべきと反論
 清水卯三郎
 は、
 前島密と同様
 平仮名を用いるべきとの論説を発表した(第七号)
 仮名文字表記論の方は
 清水が、
 大槻文彦らと
 1883年(明治16年)に
 「かなのくあい(かなの会)」を設立
 精力的に運動を展開
 ローマ字表記論
 は
 1884年明治17年
 「ローマ字会」が設立
 ↓↑
 明六社が発足してより約一年後、
 社長であった
 森有礼
 『明六雑誌』の毎月の売れた部数は
 平均3205冊
 ↓↑
 定着した新語彙のうちのいくつかは、
 その後
 東アジアにおとずれた
 日本ブームによって、
 隣国の中国や朝鮮にも伝播
 「社会」などは
 元々南宋の書『近思録』(朱子・呂祖謙共同編集)に
 登場する語彙であるから、
 装いも新たに大陸に逆輸入された
 『明六雑誌』の影響は
 日本国内に留まるものではなく、
 周辺諸国にも及んだ
 ↓↑
 『明六雑誌
 讒謗律と新聞紙条例
 自由民権運動が高まると、
 それを苦々しく思っていた
 薩長藩閥政府は
 メディア統制を試み、
 さきの二つの条例を出した
 新聞や雑誌を発行する場合、
 必ず内務省に届け出て許可
 掲載する記事・論説に書いた
 人間の署名をつけること
 義務づけ
 太政官から官吏たるものは
 官報公告以外のメディアに
 政務についてコメントしてはならないという通達
 ↓↑
 発起人であった
 森有礼
 は明六社を純粋に学術的な啓蒙団体として構想し、
 また第30号で
 「時の政事に係はりて論するか如きは
  本来吾社開会の主意に非す」
 と言うように、
 非政治的であることを旨とした
 自由民権運動についての論説が掲載
 各種新聞で多くの反響を呼び、
 植木枝盛のような熱狂的な支持者
 第30号での森の発言自体、
 政治的な性格を帯びてきたことへの
 危惧の念の表明だった
 福澤諭吉
 は「学者職分論」以来、
 官/民の立場の違いに意識的であり続けた
 1875年9月
 箕作秋坪や福澤の停刊提案
 第43号で停刊中絶
 森、津田真道西周
 らは刊行継続を唱えた
 明六会と名を変え、
 親睦会的な内輪の会合となった
 ↓↑
 足かけ二年で停刊
 民撰議院設立論争
 女性問題
 国語国字問題
ーーーーー
 ・・・ゼェ〜ブ、「引用」だが・・・ナニか問題でも・・・アルの?・・・「著作権問題」・・・