2089日目・・・昨日の早朝は町内会館の掃除だと思って駈(駆)けつけたが、ダレも居ないし、ドアも開いていなかった・・・日にちが変更されたのか、ボクの勘違いなのか・・・今日は外はアメがショボショボと降っていて結構寒い感じがする・・・モモは布団の中に潜り込んでしまっている・・・昨夜は「ダーウインが来た」の「タテガミが無い雄ライオン(ツァボの雄ライオン)」をみたが、ブログで調べていたら「ボツワナのオカバンゴデルタにあるモアミ・ゲーム保護区には、たてがみがある雌ライオンの群れが生息」しているらしい・・・それから
で、「江戸小紋」の番組をみながら、なるほど「江戸っ子の粋(いき)な気持ち」が江戸幕府に対する「反抗(反権力)精神」でもあったんだと・・・紋付羽織の裏地、着物の裏地をチラッと見せる・・・見栄だと思っていたら、そうでもないらしい。だいたいからして「小紋の文様」の細かくて繊細な図柄、近寄っても老眼で視るコトは無理・・・ゼイタクです・・・
江戸時代、浮世絵もそうだが、記録された「読み物」には見せたくても、知らせたくても、見せられないモノ、知られたくないモノがワンサカ・・・隠れキリシタンの「魔鏡」もそうだった・・・
イタリア訪問(2014年6月6日午前)した安倍首相が、ローマ法王庁(バチカン)で法王フランシスコと会談し、法王に「魔鏡(マジックミラー)」を贈ったらしい。鏡の表面を光に当てるとキリストの影が浮かび上がる、江戸時代の「隠れキリシタン」たちが使った「魔鏡」をである・・・最も古い魔鏡は紀元前1世紀頃、前漢の時代に作られたとみられる「透光鑑」で、3世紀後半の三角縁神獣鏡も、光をあてると反射光のなかに背面の文様が浮かび上がる「魔鏡」であり、倭国の卑弥呼が魏から与えられた「銅鏡百枚」かも、とか・・・
相手が暴力を背景にダメというなら、コッチも対抗手段を考えなくちゃぁ、「イキ」られない・・・から・・・「粋なヤツ」・・・そんな対抗ではダメと思うのは「大塩平八郎(陽明学徒)」だが・・・
江戸時代の「贅沢禁止令(奢侈禁止令・シャシ禁止令)」・・・本来は支配(武士社会)階級中央の大奥の贅沢な消費生活や、「参勤交代」、「鎖国貿易」での「貿易バランス」が財制を圧迫しているのが原因なハズなのに、下々の農民、町民の生活まで「統制禁止」をした。
カスリの「江戸小紋?」はオフクロが小さい頃にアルバイトした医者の奥さんからアルバイト料として貰ったとか聞いたコトがあるが、「京都小紋・越前小紋」だったかも・・・丹前にして寝る時に使っていたモノだった・・・
どんな時代でも「カネ」を貯え、生活が潤ったのは「質屋、問屋、商人、両替商」である・・・「生産手段」を有せず、「武器=暴力行使」をして掠奪する武士階級の生活が逼迫すれば、「徳政令」であるが、消費生活の統制が困難な流通生活が発展してきては「財を成した者」には「奢侈禁止令」はザル法・・・兎に角「徳政令」は「支配階級の体制維持」の方策であったが、「市民、庶民の徳政令」とはナニか?・・・「社会保障」・・・
現今の「消費税」と「公共事業」・・・「企業の蓄財(2007年度〜2014年度、135.3兆円〜185.8兆円へと約37.3%増加)」・「富豪のmoney overflows・flood of money はパナマなどへ」で、デフレです。「デフレ脱却のタメに、皆さんは消費で給料を使い切り、輝く総一億日本人は贅沢シマショウ」とはダレに対しての政策なんだか・・・
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徳政令
中世、鎌倉時代から室町時代
朝廷・幕府などが
土倉などの
債権者・金融業者に対して、
債権放棄(債務免除)を命じた法令
「徳政(とくせい)」
天人相関思想に基づき、
為政者の代替わり、
あるいは
災害などに伴い改元が行われた際に、
天皇が行う
貧民救済活動
や
神事の興行
(儀式遂行とその財源たる所領等の保障)
訴訟処理などの社会政策
「既売却地・質流れ地」の
「無償返付、所領や債権債務」
についての訴訟(雑訴)の円滑処理
旧体制へ復帰を図る目的があった
鎌倉時代
災害や戦乱
社会的混乱が貴族社会にも及び始め、
承久の乱
朝廷軍が敗北して
上皇の流罪
貴族社会存続の危機
↓↑
鎌倉幕府
朝廷政治を批判的に見
「徳政」推進を求めた
後嵯峨上皇の下で
記録所が再建
亀山上皇院政下の
1286年(弘安九年)
院評定を
徳政沙汰(人事・寺社などの行政問題)
と
雑訴沙汰(所領・金銭などの一般的な訴訟)
に分割(弘安徳政)
1293年(正応六年・永仁元年)
伏見天皇(のち上皇)が
記録所を
徳政推進の機関とした(永仁徳政)
↓↑
元寇などによって
混乱する
社会秩序の回復を図りたい鎌倉幕府の政策一致
鎌倉幕府は皇位継承における
両統迭立政策を名目とした政治介入を行い、
亀山・伏見両上皇の
院政停止
後醍醐天皇の親政
鎌倉幕府に対する討幕運動へ転化
↓↑
徳政令実施
貧窮に苦しむ
御家人保護の名目
1297年(永仁5年)
永仁の徳政令
建武の新政期
1334年(建武元年)
後醍醐天皇の
建武の徳政令
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室町時代
惣の発達により、
徳政令を求める
土一揆
徳政一揆
などが頻発
一揆勢力や在地勢力が独自に行う
私徳政なども行われた
一揆は将軍の代替わり期に多く発生
「代初めの徳政」
を要求
「正長の土一揆」
室町幕府から正式な徳政令は出なかったが
「嘉吉の徳政一揆」
に際しては幕府から正式に発布
室町幕府は
1454年の土一揆を機に
「分一銭(ぶいちせん)
分一徳政令(ぶいちとくせいれい)
徳政分一銭(とくせいぶいちせん)とも」
を発布
債権債務額の1割を
一種の手数料として
幕府に納めた紛争当事者に
当該債権債務の存続を許す命令
これは債務の
1割が幕府の収入
幕府財政再建のために濫用
↓↑
戦国時代
相模国の戦国大名である
北条氏康が大飢饉の発生に際して
氏政への家督相続を行い、
「代初めの徳政」
を行った
甲斐国
武田信虎は
享禄元年(1528年)に
甲斐一国を対象とした
徳政令
永禄五年(1562年)3月5日
畠山高政が
久米田の戦いで
三好氏に勝利し、
翌6日に京に入った
六角義賢は、
8日に徳政令
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↓↑
身分制度の維持
身分相応以上の
服装を着用する行為が
道徳風俗違反=「過差(かさ)」であると非難
聖徳太子の
冠位十二階
朝廷に出仕する者の服装規定
その対象は主に貴族・官人層
↓↑
養老五年(721年)
「節を制し度を謹しみ、奢侈を禁防するは、
政を為すに先とする所にして
百王不易の道なり」
と、位階に応じて
蓄馬を規制
↓↑
長徳元年(999年)
藤原道長、太政官が、
「美服過差、一切禁断」
とする太政官符を出す
建武の新政(1334年)
後醍醐天皇が政治刷新の
「過差停止」の宣旨
当時の流行の
「婆娑羅・風流」
の風潮を止めることはできなかった
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↓↑
寛永五年(1628年)
農民に対して
布・木綿に制限
ただし、
名主、農民の妻に対しては
紬の使用を許す
下級武士に対して
紬・絹までとされ贅沢な装飾は禁止
旗本に対しては
供回りの人数を制限
家族の
生活や食生活、
交際時の土産までが規制
旗本に江戸常駐を原則として義務付け
旗本が生産地である
知行地から切り離され
消費者として生活が苦しくなった・・・
↓↑
農民
寛永十九年(1642年)
襟や帯に絹を用いることを禁止
脇百姓の男女ともに
布・木綿に制限
紬が許された層でも
その長さが制限された
↓↑
寛永二十年(1642年)
「土民仕置覚」
紫や紅梅色を用いる事が禁止
寛文七年(1667年)
天明八年(1788年)
天保十三年(1842年)
同様の禁止命令
↓↑
武士や町人は
農民ほどではなくても
同様の規制
↓↑
寛文三年(1663年)
「女中衣類直段之定」
当時の
明正上皇(女帝、銀500目)
御台所(将軍正室、銀400目)
の衣装代制約
↓↑
天和三年(1683年)
呉服屋に対し
小袖の表は
銀200目を上限とし、
金紗・縫(刺繍)・惣鹿子(絞り)
の販売は禁止
一般町人は
絹以下、
下女・端女は
布か木綿の着用を命じた
↓↑
貞享三年(1686年)
縫に限り
銀250目までの販売を許可
↓↑
元禄二年(1689年)
銀250目以上の衣服を
一切売ってはならないこと、
絹地に蝋などを塗って
光沢を帯びさせる事を禁止
↓↑
正徳三年(1713年)
「女中衣類直段之定」の制限
(朝廷500目
幕府および大名400目
それ以下300目)
の再確認と
贅沢な品物の生産と
新商品・技術の開発の厳禁が
生産・染色業者に命じる
↓↑
享保三年(1718年)
「町触」の公布
奉行所に
町人の下着まで贅沢がないか
監視する指示
↓↑
延享二年(1745年)
「町人が
絹・紬・木綿・麻布以外の物を
着てはならず、
熨斗目などの
衣装を着ているものがいれば、
同心は捕えてその場で
衣装を没収すべき」
と指示
天保の改革の際の一連の禁令
「商工等は、
武士・農民の事欠け申さざる程に
渡世致し候はば然るべく候」
として
商工を
非生産的な身分であり、
都市が繁栄する事そのものが
無駄以外の何者でもないと断じて
厳しい奢侈禁止令を実施
↓↑
命令が遵守されたのは直後だけで
都市でも農村でも
違反者が相次いだ
上の身分の者が
奉公などの褒賞として
下の者に下賜された
衣装を実際に着用した場合には、
儒教の忠の観念との兼ね合いから
黙認せざるを得なく
規制も形骸化・・・
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↓↑
で、
「江戸小紋」
案内役、草刈正雄
語り、木村多江
2016年6月12日(日) 午後11:00〜午後11:30(30分)
わずか1ミリの目印を
ピタリと合わせる女性染め職人。
音を聞いて
刃の状態を知る伊勢型紙彫り師。
人間技とは思えない技の数々。
江戸小紋の図柄に込められた
ユニークな遊びとは?
江戸時代の人々が
楽しんだ
ダジャレをオシャレに変える
“洒落(しゃれ)紋”、
若い女性のシックな振り袖の裏に、
ハッとするような仕掛け!?
一筋縄ではゆかないすごみ、
目からウロコの江戸美学が満載。
五代将軍・徳川綱吉が愛用したとされる小紋も紹介!
↓↑
・・・ブログで調べた・・・
↓↑
江戸小紋
小紋(こもん)
日本の着物(和服)の種類の一
全体に細かい模様が入っている
小紋は上下の方向に関係なく模様が入っている
礼装、正装の着用ではない
だが江戸小紋は例外
現在は模様の大きさや密度に関わらず、
上下方向関係なく模様が入っている着物を
総称して「小紋」という
染めの技法
「紅型小紋」
「絞り小紋」
「更紗小紋」
など多種多様な小紋が存在
主な「小紋」の技法
「江戸小紋」
「京小紋」
「加賀小紋」
↓↑
「江戸小紋」
礼装の下の普段着に属する
着物の格としての用いられ方もする
江戸時代、諸大名が着用した
裃の染めに由来する小紋
伝統柄で基本的には
単色染め絹しか使わない
↓↑
江戸時代、諸大名が着用した
裃(かみしも)の模様付けが発祥
その後、
大名家間で模様付けの豪華さを張り合い
江戸幕府から規制を加えられ
遠くから見た場合は
無地に見えるように
模様を細かくするようになり、
結果、かえって
非常に高度な染色技を駆使した染め物となった
各大名で使える模様が固定化
代表的な模様として
「鮫」(紀州藩徳川氏)、
「行儀」
「角通し」
(以上をまとめて「三役」という)
「松葉」(徳川氏)
「御召し十」(徳川氏)
「万筋」、
「菊菱」(加賀藩前田氏)、
「大小あられ」(薩摩藩島津氏)
「胡麻柄」(佐賀藩鍋島氏)
がある
大名の裃の模様が発祥のものを
「定め小紋」
「留め柄」という
↓↑
庶民もこの小紋を真似するようになり、
生活用品など身近にある物を
細かい模様にして洒落を楽しんだ
宝尽くしなどの
おめでたい柄や、
野菜や玩具、動物や気象のもの
など柄
庶民の遊び心から発祥の柄を
「いわれ小紋」
と言いう
↓↑
江戸小紋は
型紙を使って染めるのが特徴
この型紙は江戸で作ることが出来ず、
伊勢に注文していた(伊勢型紙)
↓↑
大名が着用していたという経緯から
江戸小紋の中でも定め小紋は格式が高く、
柄は家紋の結晶を意味し、
裃の柄の大きさが
6段階あって
殿様に一番近い席に座る
上位の家臣がいちばん細かい柄を着用
下位になるほど柄は大きい
7段階以降の家臣は無地の裃を着用
定め小紋は無紋でも礼装着物
↓↑
「江戸小紋」の名称
1955年(昭和30年)
東京都の
小宮康助
が重要無形文化財保持者(人間国宝)に
認定された際に
「京小紋」
と区別するために名づけられた
↓↑
東京おしゃれ小紋
京染小紋の技法を用いながら
現代的な模様・染料を用いたもの
江戸小紋と区別し
「東京おしゃれ小紋」と呼ぶ
↓↑
京小紋
古くから型染め技法
型染めを駆使した
小紋生産が隆盛したのは
明治時代以降であり、
京友禅の派手な柄いき
と
型染めを融合させたものを
一般的に「京小紋」という
基本的には
単色染めで
絹しか使わない江戸小紋に対して
多色染めで
様々な生地を用いる
一つ一つの柄も
江戸小紋より大きく、
抽象柄より
具象柄が多く、
見た目が華やか・・・
↓↑
加賀小紋
「京小紋」の影響を受けて
石川県で作られ始めたのが
「加賀小紋」
色使いに
加賀友禅の技法が取り入れられている
一方で
「江戸小紋」
の影響を受けて作られた
「加賀小紋」も石川県には存在するらしい・・・
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↓↑
その後の
Eテレ
2016年6月12日(日) 午後11:30〜午前0:00(30分)
金星の周回軌道に入った探査機「あかつき」
見たことのない金星の姿を次々と捉えている
最大の謎が金星に吹き荒れる
超暴風「スーパーローテーション」
「双子の惑星」、地球と金星
金星の気温は摂氏460度
厚さ30kmの分厚い雲が全面を覆い、
秒速100mの超強風が吹き荒れている
見たことのない金星の姿を次々と捉えている
最新の観測から金星の謎に迫る!
出演者
宇宙航空研究開発機構 教授…中村正人
司会
竹内薫、南沢奈央
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・・・眠くなっては如何しょうもない・・・