2073日目・・・昨日の「オバマ」さんの「ヒロシマ演説」、その後、そして本日、朝からTVを観ていたが、世界、日本のジャーナリスト、解説者のコメントの「反響」、そして「ヒバクシャ当人のコメント」が興味深かった・・・あの結構長い演説にはボクもヒャヒャしながら次のフレーズ(phrase)でナニを喋るんだろうと・・・ジャーナリストの「青山」氏は、北海道文化放送のTV、「12:00〜13:00・胸いっぱいサミット!・えらいこっちゃニュース!緊急生放送SP!・・・オバマ大統領、広島訪問の裏側を青山繁晴がぶった斬り!

 だが、「原爆投下」は「人体実験」だったかも知れないが、「終戦間際の日本帝国陸海軍、帝国日本ジャーナリズ、帝国日本国籍民」も「原爆投下」後も「一億総玉砕」であり、天皇の「御聖断」と「玉音放送(昭和二〇年八月十五日正午)」があるまでの「長い、長い、帝国日本の一日」には、その天皇の意思(遺志)に反する「日本帝国国籍人」は多数いた。事実、「玉音放送後」にも皇居での自殺、自宅での自決、厚木から飛び立った「自決軍人パイロット」もいた・・・「長い、長い、帝国日本の一日」
 「オバマ」さんのハナシの核心は「戦争」そのものの「戦争指導者の道義的責任」ではあるが・・・
ーーーーー
 1945年(昭和20年)
 8月6日午前8時15分
 広島市への原子爆弾投下
 1945年(昭和20年)
 8月9日午前11時02分
 長崎市への原子爆弾投下
 ↓↑
 8月15日
 森岡寛大尉指揮の
 零戦8機と別働の雷電4機が
 米機動部隊のF6F6機と交戦、
 1機撃墜を報告
 田口光男大尉を含む
 3機を喪失
 302空の最後の空戦
 同日
 1945年(昭和20年)
 8月15日正午
 終戦
ーーーーー
 原爆投下6日(広島)から十日目
     9日(長崎)から七日目
 ・・・これらの「十日目」と「七日目」までは「原爆」を落されても「日本帝国国民」は「戦争」をしていたのである・・・しかも「終戦間際も終戦後」も・・・天皇が「御聖断・玉音放送」しても、老若男女の「愛国(神国)明治民族の帝国日本人」にとって「原爆投下は戦争の終わり」ではなかったのだ・・・「玉砕死命」はこびり付いていた・・・
 ボクに広島出身のアメリ日系人のオバァちゃんは「終戦」と聴いて、日本軍がアメリカ本土に進駐して来ると思っていた、と話してくれた。「敗戦」ではなかったアメリカは「終戦」だった・・・その「終戦」は、ブラジルでも移民日系人の「勝ち組」、「負け組」の対立があったらしい・・・「神国」が負けるワケがない、のである。
ーーーーー
 以下は「ウイッキペデア」を参照、参考にし、添付した・・・
 ↓↑
 厚木航空隊事件が勃発
 厚木海軍飛行場
 第三〇二海軍航空隊司令
 の
 小園安名大佐が騒乱
 玉音放送により
 日本は降伏終戦したが、
 小園は
 連合艦隊司令部と
 全艦隊に
 「302空は降伏せず、
  以後指揮下より離脱する」
 と伝達
 部隊に
 「日本は神国、降伏はない、
  国体に反するごとき命には絶対服さない」
 と訓示
 ↓↑
 「降伏の勅命は、真の勅命ではない。
  ついに軍統帥部は敵の軍門に降った。
  日本政府はポツダム宣言を受諾した。
  ゆらい皇軍には
  必勝の信念があって、
  降伏の文字はない。
  よって敵司令官のもとに屈した降伏軍は、
  皇軍とみなすことはできない。
  日本の軍隊は解体したものと認める。
  ここにわれわれは
  部隊の独立を宣言し
  徹底抗戦の火蓋を切る。
  今後は
  各自の自由な意志によって、
  国土を防衛する
  新たな
  国民的自衛戦争に移ったわけである。
  ゆえに諸君が
  小園と
  行動を共にするもしないも
  諸君の自由である。
  小園と共に
  あくまで戦わんとする者はとどまれ。
  しからざる者は
  自由に隊を離れて帰郷せよ。
  自分は必勝を信じて最後まで戦う」
 ↓↑
 飛行場の占拠、
 各地への
 檄文散布
 陸軍児玉飛行場への連絡飛行
 ↓↑
 翌
 8月16日から
 陸海軍、
 国民など
 各地で檄文を撒き呼びかけた
 小園司令は
 厚木航空部隊の独立宣言
 海軍の各部隊宛に緊急電報で発信
 陸軍や国民に
 檄文のビラを用意
 ↓↑
 「国民諸子に告ぐ」
 「神州不滅、終戦放送は偽勅、
  だまされるな。
  いまや敵撃滅の好機、
  われら厚木航空隊は健在なり。
  必勝国体を護持せん。
  勤皇護国」
 「皇軍なくして
  皇国の護持なし。
  国民諸君、
  皇軍厳として此処にあり。
  重臣の世迷言に
  迷わざることなく
  吾等と共に戦へ。
  之真の忠なり。
  之必勝なり」
 このビラは、
 航空機の
 零戦(首都圏)、
 月光(関東・東北)、
 彩雲(中部)、
 銀河(北海道・中国・四国)
 によって各地に撒布された
 ↓↑
 米内海軍大臣から
 翻意をうながす意向
 小園司令はこれを拒絶。
 米内は
 三航艦司令長官
 寺岡中将に
 小園の説得を命じたが
 三十分にわたる会見は決裂
 ↓↑
 8月17日
 マッカーサー
 厚木基地への進駐期限通達
 天皇は軍人にあて隠忍自重の勅語
 米内海相
 横須賀鎮守府
 厚木の断固強硬鎮圧を命じたが、
 寺岡司令の猛反対で
 実行はされなかった
 ↓↑
 8月20日
 菅原中佐、
 吉野少佐の二名が、
 高松宮殿下から
 「陛下の御心」を伝えられ、
 抗戦態勢の終結を決意し、
 三〇二航空隊の士官を説得
 ↓↑
 副長の
 菅原英雄中佐によって
 武装解除
 反対者も鎮圧
 ↓↑
 8月21日
 小園司令を逮捕強制連行
 小園が
 マラリアにかかったとし
 (軍が寝室に
  秋水の燃料補助剤をまいて
  錯乱状態にした・・・?)
 野比海軍病院
 (国立病院機構久里浜医療センター
 へ運び監視下に置いた
 三〇二航空隊は
 副長の
 菅原英雄中佐によって
 武装解除
 反対者も鎮圧
 山本栄
 第七一航空戦隊司令官
 三〇二空司令
 を兼任、解散訓示
 ↓↑
 小園司令は
 「抗命罪」に問われた
 ↓↑
 厚木基地では、
 士官、下士官、兵たちが
 降伏否定
 零戦・彗星・彩雲など
 32機が厚木から脱出
 零戦18機は
 陸軍狭山飛行場へ、
 彗星など13機は
 陸軍児玉飛行場へ降り立った
 翌日
 22日には
 厚木に連れ戻された
 ↓↑
 8月26日
 アメリカ軍先遣隊
 輸送機13機が厚木に着陸
 ↓↑
 8月30日
 連合軍最高司令官
 マッカーサー元帥
 厚木に到着
 ↓↑
 事件後
 ↓↑
 1945年10月16日
 横須賀鎮守府臨時軍法会議は、
 判士海軍少将
 小柳冨次(裁判長)
 法務官海軍法務大佐
 由布喜久雄
 判士海軍大佐
 小野良二郎
 の3名の裁判官で、
 党与抗命罪(海軍刑法56条)により
 「被告人ヲ無期禁錮ニ処ス」
 の判決
 検察官は海軍法務少将
 小田垣常夫干与
 この判決で官籍も剥奪
 青年将校以下
 69名も
 四年〜八年以下の禁錮
 軍法会議法における
 「戦時事変に際し
  海軍部隊に特設された
  臨時軍法会議
 であるため、
 法令により
 弁護人はいなかった
 小園らは
 横浜刑務所に収監
 ↓↑
 1946年11月3日
 日本国憲法の公布を
 機会として公布された
 大赦令第1条の赦免対象に
 海軍刑法の
 党与抗命罪も含められ、
 事件関係者は主犯である
 小園を除き赦免
 小園は無期禁錮から禁錮二十年に減刑
 1950年9月4日
 特別上申により
 禁錮十年に減刑
 同年12月5日
 熊本刑務所を仮釈放
 1952年
 平和条約発効に際し、
 政令百十七号の
 大赦令によって
 同年4月28日に赦免
 ↓↑
 終戦前後に
 抗命罪に値するものは
 厚木航空隊だけではなかった
 宮城事件で
 玉音放送用の録音盤の奪取
 ならびに
 放送の阻止を図った
 陸軍将校は、
 武力による
 実害が発生したにもかかわらず、
 自決した者以外は
 裁判もなされずに釈放
 ↓↑
 厚木と全く同様の
 抗戦を企てた者として、
 陸軍飛行九十八戦隊(児玉飛行場)の
 宇木素道少佐
 陸軍狭山基地の
 山田少佐
 台湾の
 海軍一三二航空隊が存在した
ーーーーー
 ・・・帝国日本にも、アメリカ合衆国にも「反戦主義者」は存在しただろう。だが、双方の人びとの殆んどは「愛国戦争に加担した」のである。
 双方の老若男女が「国家指導者」に「煽られた」にせよ、「騙された」にせよ、「洗脳された」にせよ、「無知だった」にせよ、自国の勝利の幻想(大本営発表の)を抱き、「自国領土内で戦っていた」のだ。
 古代にも、中世にも、近代、現代戦争にも「戦場の戦線は拡大」されるのは常識である。
 「銃後の生活の場」そのものが「戦場」であり、その「領土に属する人びと」は、結果「掠奪、虐殺」されてきたのである・・・
 「毒ガス」も「原爆」も自国の「軍事、軍隊」を勝利に導く「大量殺人兵器」であるのは事実である。ナポレオンは勝利の為には躊躇なく「大砲」を「敵陣」に撃ちこんだ・・・何時の時代にも「軍人の使命」は「どんな兵器」を使用したとしても「味方の勝利」である・・・
 だが全面戦争での勝利が信条の
 連合国軍最高司令官
 軍人マッカーサー朝鮮戦争
 「原爆使用」を目論み、
 大統領に却下され、
 司令官を解任された・・・
ーーーーー
 以下もウイッキペデアを参照添付・・・
 ↓↑
 マッカーサー
 「中国を1年間で屈服させる新しい構想」
 「最長でも10日で戦勝できる」
 「満州に50個もの
  原爆を投下し
  中ソの空軍力を壊滅させた後、
  海兵隊中国国民党軍合計50万名で
  中国軍の背後に上陸して補給路を断ち、
  38度線から進撃してきた
  第八軍と中朝軍を包囲殲滅、
  その後に日本海から黄海まで
  朝鮮半島を横断して
  放射性コバルトを散布し、
  中ソ軍の侵入を防ぐ」
  リッジウェイは
 「マッカーサーは、
  中国東北部の空軍基地と工業地帯を
  原爆と空爆で破壊した後は
  残りの工業地帯も破壊し、
  共産主義支配の打破を目指していた」
 「ソ連は参戦してこないと考えていたが、
  もし参戦して来たら
  ソ連攻撃のための措置も取った」
 と推察
 ↓↑
 この考えに基づき
 マッカーサーは、
 何度目になるかわからない
 原爆の前線への移送と使用許可を
 トルーマンに求めたが、
 トルーマンは返事を保留・・・
 マッカーサーへの返答前に、
 トルーマン
 朝鮮問題解決の道を開くため
 停戦を呼びかけることとし、
 統合参謀本部を通じて
 マッカーサー
 その内容が伝えられた
 マッカーサー
 トルーマンとの
 対決姿勢を鮮明にし
 この停戦工作に対する妨害を画策
 1951年3月24日に
 「国連軍は制限下においても中国軍を圧倒し、
  中国は朝鮮制圧は不可能なことが明らかになった」
 「中共が軍事的崩壊の瀬戸際に追い込まれていることを
  痛感できているはず」
 「私は敵の司令官といつでも会談する用意がある」
 などの
 「軍事的情勢判断」を発表
 これは中国への実質的な
 「最後通牒」の宣言だった・・・
 トルーマン
 「私はもはや
  彼の不服従
  我慢できなくなった」
 と激怒
 イギリスなどの同盟国は、
 マッカーサー
 中国との全面戦争を望んでいるが
 トルーマン
 マッカーサー
 コントロールできていない、
 と懸念
 「アメリカの政治的判断と指導者の質」
 に対するヨーロッパ同盟国の信頼が低下
 トルーマンは、
 マッカーサーの解任を決意
 ↓↑
 だが
 中国軍が中国東北部に兵力を増強
 ソ連軍も極東に
 原爆も搭載できる戦略爆撃機を含む
 航空機500機を配備し、
 中国東北部に最新レーダー設備も設置
 日本海には
 潜水艦を大規模集結
 ↓↑
 トルーマンは、
 これらの脅威に対抗すべく、
 マッカーサーの申し出通り
 原爆9個を
 グアムに移送決定したが
 マッカーサーの独断を警戒し、
 移送は
 マッカーサーには知らせず、
 原爆は
 マッカーサーの指揮下にはおかず
 戦略空軍の指揮下に置いた
 ↓↑
 トルーマン
 4月11日深夜0時56分
 記者会見で
 マッカーサー解任を発表
 4月16日
 マッカーサー
 リッジウェイ中将に業務を引継いだ
 ↓↑
 東京国際空港には
 沿道に
 20万人の日本人が詰めかけ、
 『毎日新聞
 『朝日新聞
 はマッカーサーに感謝する文章を掲載
 4月16日
 衆参両議院が
 マッカーサーに感謝決議文を贈呈決議
 東京都議会
 や
 日本経済団体連合会
 も
 感謝文を発表・・・
ーーーーー
 で、トルーマンはヨーロッパ、そしてソ連との政治的な関係もあろうが、東洋の朝鮮、中国を巡ってマッカーサーと政治的にも軍事戦略的にも、そして、「軍人マッカーサー」の「政治家トールマン」に対する傲慢な態度にも感情的に対立した・・・
 ・・・軍事司令官(王、帝王も含む)であろうとも「敗北」は「己自身の死」を意味するが、「勝利」したとしても、トールマンはアメリカ大統領であり、アメリカ軍のトップでもある・・・
 「戦争」そのものを「禁止」しないで「大量殺人兵器の戦争での国際禁止条約」とは哂っちゃうけれど、「戦争」が始まれば、ナンでもありの「ザル法」である・・・サッカーの反則禁止とは異なるのである・・・
 だが、「原爆戦争」は人類の生存を保障しない・・・もちろん、「国家システム」も、「エゴな階級意識社会」も・・・
 「帝国日本」の当時の「物理学者(戦後も有名な物理学者だった)」は「最終兵器」として「原爆製造の研究と開発」をしていたコトを忘れてはイケナイ・・・「兵器の効率化」とは「大量の殺傷」であるが・・・「人類滅亡」とあっては・・・無用の長物だが、小型化された戦術核兵器で「戦争」をするつもりらしい・・・
 だが、「オバマ」さんのコトバは・・・「兵器」ではなく、「兵器を使用する戦争の本質」そのものに疑問を投げかけているのだ・・・