2040日目・・・時として「人間」は「人間であるコト」を忘れる存在らしい・・・と、云うよりも「人間」がナニモノで在るのかを生きている間に「考える時機」が多忙で少ないか、マッタク考えるコトが無いのか、自分自身の人生でその「悲惨・過酷・無残」に遭遇するのが少ないのかも知れないからなのかも・・・モチロン、個々人が「人間(自分自身を含め)であるコトを考える人」である時機(chance)に遭遇するのは様々である・・・

 人間が「エゴ(egoist)」から解放されるのが「ホトケ」のように「涅槃(寿命を全うした終業)の悟(覚)り」であるのは難しい。
 多分、「ホトケの悟り」は、「釈迦族の王・浄飯王(ジョウボンノウ)と、摩耶(マヤ)夫人の間に生まれ、姓をゴータマ(最上の牛)、名をシッダッタ(目的達成)と云う支配階級の皇子」であった彼自身の「修業」からのモノではなく、彼自身の人間社会の生活での「死に目の経験」にあってこその経験してのコトであったろう・・・「修業」への切っ掛けは「他者への心情」であったカモだが・・・自分自身の「エゴのサトリ」は別モノである・・・
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 その釈迦に先行して「人間の命の限界」を考えたのは「ギルガメシュ」でもあった。彼は「友人エンキドの死を見て自分も死すべき存在である」とし、「永遠の命」を求め、死活の冒険の旅で、神の大洪水で箱舟を造って「永遠の命」を手に入れた「ウトナピシュティム(アトラ・ハシース)」に会い、彼から不死の薬草のありかを聞きだし、手に入れるが、蛇に食べられてしまい、「ギルガメシュ」は失意のままウルクに戻った」・・・ココには「転生輪廻」はない・・・「ギルガメシュ」は命に限界を有する「人間」だった・・・
 「エンキド」は「ギルガメシュ」の友人だが、同音が類似する
 シュメール(メソポタミア)神話では
 「エンキ(Enki・水による創造力の神・バビロニアではエア)」でもあった・・・「片仮名」の同音異語は多分、「バビル」以前に共通する言語だった・・・?・・・
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 「涅槃=死亡=寿命」は「実体験(喜怒哀楽)の臨終」の結果である・・・「釈尊の人間存在としての悟り」は生き残った弟子たちの「美化譚=生活保障」であろう・・・
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 そして「釈迦」にとっての「人間が出来そうもない教え=サトリ」は彼自身の生活の危機的状況に遭遇した実際的な経験を踏まえてのコトだろう・・・「人間」は自然界の「食物連鎖の頂点」に存在しているのだから「殺生(狩猟・漁労・家畜)するな」は無理なハナシではある・・・釈迦は生きていた生身の人間で、「カミ」ではなかった・・・「転生輪廻」が「物質の存在の変化」なら灰と煙になった「塵(ちり)・芥(あくた)」が、その時間のプロセスで何らかへの「転生輪廻」の構成物になるのはアタリマエだろう・・・「魂=たましい=魄」の「輪廻」の問題は死んだヒトに訊けばイイ・・・
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 以下はブログ検索したモノを添付した・・・
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 「涅槃(ネハン)」・・・「涅=氵(水)+日+土(十一)」
                染め色の名・黒色
                黒色に褐色のまじった色
                くり・デツ・ネ
             「槃=舟+殳(几又)+木(十八)」
                ハン・バン
                たらい(盥・盆)
                おけ(槽)・水桶(みずおけ)
 「泥曰(ナイワツ)」
 「泥洹(ナイオン)」
 「涅槃那(ネハンナ)」
 などと音写
 漢訳で、
 「滅、滅度、寂滅、寂静、不生不滅」
 などと訳
 サンスクリットでは
 「廻って」という意味で
 接頭辞「pari-」を冠して
 「パリ・ニルヴァーナ(parinirvāṇa)」 、
 「偉大な(mahā-)」 を付して
 「マハー・パリ・ニルヴァーナ(mahāparinirvāṇa)」
 ともいわれ
 「円寂、大円寂」などと訳
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 「涅槃(ニルヴァーナ)」は、
 「さとり(証、悟、覚)と同じ意味・・・
 「ニルヴァーナ」の字義は
 「吹き消すこと・吹き消した状態」で、
 「煩悩(ボンノウ)の火を吹き消した状態」
 「滅、寂滅、寂静」と訳された
 「涅槃は如来の死そのもの」
 「涅槃仏」=「死んだホトケ」
 「人間の本能から起こる
  精神の迷いがなくなった状態」=「涅槃寂静
  釈迦が入滅(死去)してからは、
  「涅槃」の語にさまざまな意味づけがおこなわれた・・・
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 有余涅槃・無余涅槃
 灰身滅智・身心都滅
 善や浄の極致とするもの
 苦がなくなった状態とするもの
 などである
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 「涅槃」を
 「有余」
 と
 「無余」
 との二種に区別する際の
 「有余涅槃」=釈迦が三十五歳で成道して
        八十歳で入滅するまでの間の
        「さとり」の姿
 「無余涅槃」=八十歳で入滅した後の「さとり」の姿・・・
 「余」=「身体」
 で、身体の有無の「さとり」・・・
 「有余涅槃・無余涅槃」は、
 「パーリ語
  sa-upādisesa-nibbāna,
  anupādisesa-nibbāna」で、
 「余(ウパーディセーサ・upādisesa)」は、
 「生命として燃えるべき薪」
 「存在としてよりかかるべきもの」
 を意味・・・
 弟子たちは
 「有余無余」を、
 釈迦の生涯の上に見、
 釈迦の入滅こそ、
 「輪廻転生の苦からの完全な解脱」
 であるとした・・・
 このような「さとり」が
 「灰身滅智、身心都滅」
 「灰身滅智(ケシンメッチ)」=「身は焼かれて灰、智の滅した」
 「身心都滅(シンシントメツ)」=肉体も精神も一切が無
 「ナースティカ(虚無虚無主義者(nāstika)」とは呼ばれた・・・
 「菩提と涅槃」=「二転依の妙果」
 「煩悩の障りが涅槃の境地に転じ、
  智慧の障害であったものが転じて
  慈悲として働く。
  それを
  菩提(ボダイ)」
 という・・・らしい・・・
 「さとり」は、
 「涅槃の寂静」
 と
 「菩提の智慧」の活動とを内容とする・・・
 「涅槃の徳」=「常楽我浄の四徳」
 「さとり」=常住不変で、
       一切の苦を滅しているので楽、
       自在で拘束されないから我、
       煩悩がつきて汚れがないから浄
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 忖度(そんたく・ジュンド)
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 「相手の事情や心情をくみとること
  くみとって手加減すること」
 「あれこれ照らし合わせて取捨すること」
 「言動を控えめにすること・遠慮すること」
 「相手の心情を推し量るのが忖度
  推し量った上で、何か処置をするのが斟酌」
 「心情や感情・気持ちについてのこと」
 「忖度=忖、度も、はかる意)・推察」
 「相手の気持を―する」
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 斟酌(シンシャク)
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 「水または飲料などをくみわける意から」
 「あれこれ照らし合わせて取捨すること
  参酌(サンシャク・シンシャク)」
 「その時の事情や相手の心情などを十分に考慮し、
  程よくとりはからうこと」
 「手加減すること」
 「ひかえめにすること・さしひかえること・遠慮・辞退」
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 「忖度」するの言い換えや別の言い方
 「相手の立場を考えて物事を行うこと
  気をまわす・気遣いをする・気づかいをする・勘ぐる
  忖度する
  斟酌する
  思いを汲み取る・思いを汲む・思い遣る・思いやる」
 「忖」は「心をもってそっとおしはかる」
 「度」は「(席などの)長短、大小をはかる」が原義
 「忖」も「度」も同じ語義
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 ・・・「さとる」って、自分と相手の「相互利害」に対する「忖度」と「斟酌」・・・「慈悲=ジヒ=自費」では・・・ないだろう・・・
 兎に角、自然界の「水の動き」も、「土の動き」も気紛れである・・・だが、災難時では、先ずは「飲み水」、そして、「食い物」である・・・その場で生き残っている「人間」なら「最低限の衣食住分配」の「社会的公平」である・・・これは「煩悩」ではないだろう・・・