2031日目・・・ヒェ〜ッ、雪が降ってきた。冬の寒さのぶり返しである。サブイ、サビィ・・・庭に来るスズメ達も、この天候の変調にはウンザリだろうな・・・スズメも遊んでいる暇などはないだろう・・・「我と来て遊べや親のない雀 (われときて あそべやおやの ないすずめ)」・・・「話(分・和・倭・輪・環・羽・娃・把)例、解き(訳記)弖(𠂤・堆・氐・手・出・弟・照)、阿蘇部哉、嗚哉之、名意、素亠(事・図)目」・・・

 「われ、とき、て、あそ、べ、や、お、や、の、ない、すず、め」・・・例の如く、文字転換したら1763年6月15日〜1828年1月5日の人物、小林一茶の歴史的背景を再度検討してみたくなった・・・彼の問題は「継母」や「継母の子である異母弟」との「遺産相続」だった・・・それにしても「徘徊師」の存在とはナンだったんだろう?・・・「隠密スパイ(忍者)の下請け」の「情報提供者」・・・?・・・「陸軍中野学校」・・・「秋草 俊(あきくさ しゅん、1894年(明治二十七年)4月6日〜1949年(昭和二十四年)3月22日)は、昭和期の日本陸軍軍人・陸軍少将・陸軍士官学校(26期)卒。陸軍中野学校校長(初代)」ですか・・・みたよッ、市川雷蔵の映画「陸軍中野学校(1966年・大映)」シリーズを面白かった・・・だが、スパイの成れの果てが「殺し屋」になってしまった・・・
  ↓↑
 秋草 俊
 栃木県
 足利市出身
 秋草直右衛門の四男
 東京の同族・秋草晃の養子
 陸軍依託学生として
 東京外語学校に学び、
 後に
 ハルピンに留学
 参謀本部付、
 関東軍特務機関に務める
 1933年(昭和八年)
 ハルピン特務機関の補佐官
 諜報活動で対ソ諜報の第一人者
 1936年(昭和十一年)9月
 阿南少将発案による
 「科学的防諜機関」設立の準備委員に指名
 陸軍中野学校(後方勤務要員養成所)設立にかかわり
 1938年(昭和十三年)4月
 同校の初代校長
 敗戦後
 ソ連軍に投降、連行、抑留
 1949年(昭和二十四年)3月22日
 モスクワ郊外の
 ウラジミール監獄で死去。享年54
 ・・・・「ソ連軍に投降、連行、抑留」も作戦のうち、敗戦大日本帝国国家の為に「諜報活動」をやっていたんだろうな・・・
   ↓↑
 「中野代官所=水内郡(みのちぐん)」
 ・・・古くは「みのちごおり」、「みぬちごおり」と呼ばれた。奈良時代後半に全国から9人が各々の善行によって朝廷から褒美を得ていて、
 刑部知麻呂
 倉橋部真人
 の二人が当郡の人と「続日本紀」に記載。平安時代の『延喜式』、『和名類聚抄』にも「水内郡」の名が見られ、「善光寺」の名とともに広く知られていた。
 戦国期には越後国上杉氏に属した
 葛山氏
 が勢力を誇っていたが、
 甲斐国の武田氏は越後上杉氏との川中島の戦いにおいて
 弘治二年(1556年)頃から葛山氏に対する調略をしていた。
 郡衙長野市南長野の県町遺跡に比定・・・されているらしい。
   ↓↑
 1622年(元和八年)
 信濃国上田藩より
 真田信之が13万石で入封した後、
 明暦四年(1658年)
 三代幸道の相続時に分地の
 沼田領3万石が独立(1680年改易)
 以後10万石として幕末までこの地は
 真田家の所領・・・
 幕府における席次は
 帝鑑間詰(譜代大名待遇)
 八代藩主
 真田幸貫
 八代将軍
 徳川吉宗の孫である
 松平定信の実子で、
 真田信之の妻が
 徳川家康の養女
本多忠勝の実娘 or 徳川秀忠の養女)
 であること等の理由・・・
 支藩(分地)としては
 沼田藩以外に
 埴科藩もあったが、後年断絶
  ↓↑
 真田信之は上田藩時代より
 蓄財した20万両という大金をもって入封
 三代真田幸道の時代、
 幕府の手伝普請などの賦役により遺産を使い果たし
 1717年享保二年)
 松代城下の大火で幕府より1万両を借り、
 借財を抱えた・・・
 四代真田信弘
 質素倹約
 五代真田信安の
 1742年(寛保二年)
 松代城下を襲う水害(戌の満水)
 再び幕府より1万両を借財し
 千曲川の河川改修
 真田信安は河川改修の中心となった
 原八郎五郎を家老に抜擢し、
 家臣給与の
 半知借上、
 年貢の前倒し徴収などの財政再建
 1744年(延享元年)
 足軽によるストライキが勃発
 1751年(宝暦元年)
 原八郎五郎を罷免
 赤穂藩浪人と称する・・・・赤穂藩浪人?
 田村半右衛門
 (浅野家の家老であった大野知房の子・大野群右衛門)
 を勝手方として召し抱え財政再建に当たらせた
 改革は農民の反発を招き、
 「田村騒動」と呼ばれる
 藩内初の一揆が起こった
 田村もまた汚職を行ったとして、
 同年に江戸に逃亡したところを逮捕された。
 藩主真田幸弘は、
 1757年(宝暦七年)
 家老の恩田木工を勝手方に据え財政再建
 1758年(宝暦八年)
 真田幸弘
 藩校
 「文学館」を開館
  ↓↑
 八代真田幸貫が老中として幕政に関与
 真田幸貫寛政の改革を主導した
 松平定信の子(第八代将軍徳川吉宗の曾孫)
 で、
 幸貫以降
 真田家は国主以外で
 自分の領地の国主名を名乗れるという特権を得ている
 佐久間象山を登用
 1847年(弘化四年)
 善光寺地震
 藩債は10万両に達した
 九代真田幸教は、
 ペリーの浦賀来航時に
 横浜の応接場の警備を命じられ、
 その後も
 江戸湾の第六台場等の警備などを務めた
 これで、藩財政は破綻寸前
 1855年安政二年)
 先代真田幸貫が計画した新たな
 藩校
 「文武学校」開校
 1864年(元治元年)
 朝廷から京都南門の警衛を命じられ
 「禁門の変」で朝廷の守りについた
 ↓↑
 明治維新
 比較的早くから倒幕で藩論が一致
 朝廷から
 信濃全藩の触れ頭役を命じられた
 戊辰戦争では
 新政府軍に参加
 1871年(明治四年)
 廃藩置県により
 松代県となり、
 その後、
 長野県に編入
 1884年(明治十七年)
 華族令施行
 藩主家は子爵(のちに伯爵に陞爵)
 ↓↑
 「信濃北部
  北国街道
  柏原宿
 (長野県
  上水内郡=かみみのちぐん
  信濃町
  大字
  柏原)」
 ↓↑
 江戸幕府の直轄領(天領
 「松代藩は幕府領(中野代官所=水内郡31村、高井郡106村)」
 であった・・・
 「治承・寿永の乱源平合戦)の時代から戦国時代までは
  高梨氏の支配地
  高梨氏は
  川中島の戦い
  上杉氏に臣従
  上杉氏の
  会津移封に伴い、
  中野の地を去った。
  そのため多くの資料が当地には残っていない」・・・
  その後、江戸時代は
 「徳川幕府直轄地(天領)になった」
   ↓↑
 1868年(慶応四年)八月
     中野陣屋が廃止、跡地を伊那県中野分局
 1870年(明治三年)九月十七日 (旧暦)
     中野県成立・分局は県庁に昇格
     高井郡、水内郡、埴科郡、更級郡、
     小県郡、佐久郡の旧幕地を管轄
     中野村が中野町となる
 1870年(明治三年)十二月
     中野騒動(一揆)で庁舎焼失
     官側2名犠牲、6百余軒焼失
     主張は
     年貢削減、
     特権豪商告発、
     新税廃止
     数千名参加、
     逮捕者6百余名、
     死罪28名。
     現在の長野県庁が長野村に移るきっかけ
 1871年(明治四年)六月二十二日 (旧暦)
     中野県が県庁を移転して長野県
 2007年(平成十九年)7月16日
     柏崎沖を震源とする新潟県中越沖地震
     中野市豊津で震度5強
 ↓↑
 戸隠神社(とがくしじんじゃ)
 創建が
 孝元天皇五年(紀元前210年)
 縁起によれば
 嘉祥2年(849年)
 飯縄山に登った
 「学問」という僧が奥社の地で最初に修験を始めた
 「日本書紀の天武紀」には
 684年
 三野王(美努王)を
 信濃に派遣し地図を作らせ、
 翌685年
 朝臣三人を派遣して
 仮の宮を造らせた・・・
 持統天皇691年
 使者を遣わし、
 信濃の国須波
 水内などの神を祭らせた・・・
 この水内の神が戸隠神社とする説もある・・・らしい
 ↓↑
 戦国時代
 北信濃地域
 信濃侵攻を行う甲斐国武田晴信(信玄)
 と
 北信豪族の後ろ盾となった越後国上杉謙信
 との争乱に巻き込まれ
 善光寺の支配者の
 栗田氏が分裂
 衆徒らが約30年間にわたり
 水内郡小川の筏が峰(長野県上水内郡小川村)に
 大日方氏の庇護を受けて移り住む
 川中島の戦い
 多くの修験者と信仰者集団を抱えていた
 戸隠神社
 飯綱神社
 は
 武田、上杉両軍の双方にとって
 味方につけたい存在で、
 修験者は広く各地の情報に通じ
 多くの人々を牽引し戦況を占い、
 何より薬草の知識は
 従軍医師として大きかった
 このため
 善光寺や、戸隠、飯綱を
 味方にするか敵に回すかで
 これらをめぐって熾烈な戦闘が繰り返された・・・
   ↓↑
 「修験者」とは「忍者」であるカナ・・・
 ・・・以前にも同じようなコトを書き込んだかな・・・
ーーーーー
   ↓↑
 1763年の欧米状況
   ↓↑
 パリ条約(Treaty of Paris・Traité de Paris)
 ヨーロッパの七年戦争
 北アメリカ大陸フレンチ・インディアン戦争
 インドのカーナ ティック戦争
 などの講和条約
 イギリス、フランス、スペインの間で締結
 ↓
 北アメリカの
 フランス領を獲得した
 イギリスが
 1763年10月7日
 国王ジョージ3世の名で発した宣言
 イギリスの広大な北アメリカ領土を組織化し、
 西部辺境における
 毛皮取引、入植および土地の購入の規則を定め
 北アメリカ・インディアンとの関係を安定させること
 アメリカの植民地人に対しては
 アパラチア山脈の西側で入植や土地の購入を禁じ、
 イギリス王室が
 アメリ先住民族から購入した土地を
 独占的に取引する権利を宣言・・・
 ↓ 
 1763年のパリ条約で
 フランスから獲得した領土に住む
 北アメリカ・インディアンとの和平を保つこと
 五大湖地方に住み多くの先住民族
 フランスと長い間密接な関係を続けてきており、
 イギリスの支配下に入ったことで混迷・・・
 ポンティアック戦争 (1763-1766)
 以前フランスが領有権を主張していた土地を
 イギリスが占有することを阻止するために
 先住民族が起こした
 イギリス政府は
 アメリカ・インディアンに
 イギリスの規則を認めさせ、
 敵対的行動を抑えた・・・
 イギリスの植民地と、
 アパラチア山脈
 西側のアメリカ・インディアン保有地との
 境界線(宣言線)を定めた
 宣言線は
 白人とアメリカ・インディアンとの間の
 恒久的な境界を意図したものではなく、
 順を追って法的な手段でさらに
 西方に利用可能な土地を増やしていくためのものであった
 アメリカ・インディアンの土地をめぐって
 過去に問題を起こしてきた
 私的な取引を禁止し、
 「当該インディアンとの公的な集会あるいは議会で」
 イギリスの役人が土地の取引を行うこととしていた
 植民地人の宣言線を越えた移動と入植を禁じ、植
 民地の役人は
 本国の承認なくしては
 土地の所有権を特許してはならないものとした
 宣言は
 イギリス王室に
 アメリカ・インディアンから
 独占的に土地を購入する権利を与えていた
 先住民族には過去に占有していた土地に対する
 ある種権利があり、
 一方で先住民族の主張には関わり無く
 イギリスが土地の特許を行えるとした先例になった
 既に宣言線を越えて多くの入植者が入っており
 多くの土地に関する訴訟
 宣言自体は
 七年戦争に従軍した
 イギリス軍兵士に土地を特許されるようにしたもの
 植民者とイギリスの土地投機家が組んで
 イギリス政府に働きかけ宣言線を西に動かそうとした
 インディアンとの一連の条約により調整
 スタンウィックス砦条約
 ハード・レーバーの条約(共に1768年)
 ロッハーバーの条約(1770年)
 により、
 ウエスバージニア州
 ケンタッキー州
 の大部分がイギリス人に入植可能となった
 ↓↑
 1763年宣言
 植民地の拡張の取り決めを行う他に、
 新しく獲得した旧フランス領の管理方法も決めた
 4つの地域について政府を創った
 ケベック、西フロリダ、
 東フロリダ、グレナダ
 これらの地域は
 イギリス政府の指名する
 総督あるいは評議会の下で議会議員を選出、
 イギリスや植民地法に基づいて
 その地域固有の法律や条令を作ることになった
 新しい植民地は
 イギリス本国で生まれた者と
 同じ権利を享受することになった
 アメリカにおける
 イギリス人植民者が
 その権利獲得のために闘争を続けていた
 各州の政府は
 民事および刑事裁判所が控訴権までそなえて設立
 植民地では、
 1764年の砂糖法
 1765年の印紙法
 に違反して告訴された者は
 海事裁判所に掛けられ
 嫌疑が掛けられた者が
 無実を証明できるまでは有罪と考えられていた
 ↓
 アメリカ独立戦争 (1775〜1783)
 1763年宣言が
 植民地と母国との間の溝を深めた・・・
 ↓
 1783年
 パリ条約で問題の土地が
 イギリスよりアメリカに委譲
 1763年宣言は効力を失い
 合衆国政府は辺境における
 暴力を阻止する大問題に直面
 結果的には1763年宣言と類似した政策を採る
 一連のインディアンとの友好法の最初のものは
 1790年に決議
 アメリカ先住民の土地での
 違法な取引や通行を禁じた
 1823年
 ジョンソン対マッキントッシュ
 最高裁による判例で、
 私人ではなく
 アメリカ合衆国政府のみが
 アメリカ先住民から
 土地を購入できるものとなった・・・
 ↓
 1763年宣言
 イギリス領北アメリカ、
 特に
 アッパー・カナダ
 ルパート・ランド
 における
 先住民固有の領土については有効
 この宣言は
 カナダの先住民、
 ファースト・ネーションズ
 エスキモー
 メイティ
 の土地に関する所有権主張の基であり、
 1763年宣言は
 「カナダ権利と自由の憲章」の第25章にも言及
 ↓↑
 1744年 (延享元年)・神田に天文台設置
 ↓↑
 1763年=宝暦十三年 (癸未)
 1764年 (明和元年)・江戸大火
 1772年 (安永元年)・目黒行人坂火事
 1783年 (天明三年)・浅間山噴火
 ↓↑
 1763年ルソーの『民約論』
 1763(宝暦十三)年
    本居宣長が伊勢松坂で賀茂真淵に会い入門
 1764(明和一)年
    関東地方を中心に
    助郷反対の
    大百姓一揆(天狗騒動)、
    20万人あまりが参加
 1764(明和一)年
    平賀源内が火浣布を作る
 1765年イギリスのワットが蒸気機関の改良
 1767(明和四)年
    田沼意次側用人
 1767(明和四)年
    江戸で尊王を説いた
    山県大弐らが処刑(明和事件
 1768(明和五)年
    上田秋成の『雨月物語
 1769年イギリスのアークライトが水力紡績機発明
 1770(明和七)年後桃園天皇即位
 1771(明和八)年
    前野良沢杉田玄白らが、
    千住・小塚原で死刑囚の解剖を見て、
    『ターヘルアナトミア』の翻訳開始
 1771(明和八)年
    伊勢神宮への「おかげまいり」流行
 1771(明和八)年
    唐津藩
    「虹の松原」一揆
 1772(安永一)年
    田沼意次が老中
 1772(安永一)年
    江戸大火(行人坂火事)
 1774(安永三)年
    前野良沢杉田玄白らが
   『解体新書』出版
 1774年フランスでルイ十六世即位
 1775(安永四)年
    スウェーデン瑞典)の
    植物学者
    ツンベルグが来日
 1775年アメリカで独立戦争開始(〜83年)
 1776(安永五)年
    平賀源内がエレキテル器械完成
 1776年アメリカ独立宣言
 1776年イギリスのアダム・スミスが『国富論』著作
 1779(安永八)年光格天皇即位
 1783(天明三)年
    浅間山の大爆発
 1783(天明三)年
    東北地方を中心に
    全国的な大飢饉(天明の大飢饉
 1786(天明六)年
    田沼意次が老中失脚
 1786(天明六)年
    最上徳内
    千島地方を探検
 1786(天明六)年
    林子平が『海国兵談』著作
 1787(天明七)年
    米価急騰、江戸・大阪などで打ち壊し
 1787(天明七)年
    松平定信が老中、
    「寛政の改革」開始
 1789(寛政一)年
    クナシリ島でアイヌの大規模な反乱
 1789(寛政一)年
    幕府が旗本・御家人の借金に
    棄損令を出す
 1789(寛政一)年
    幕府が諸大名に囲米を命じる
 1789年フランス革命
    「人権宣言」発布
 1790(寛政二)年
    江戸・石川島に人足寄場
 1790(寛政二)年
    昌平黌において
    朱子学のほか
    異学講義を禁止(寛政異学の禁)
 1792(寛政四)年
    ロシアの使節
    ラクスマン根室に来て通商を求める
 1792(寛政四)年
    幕府が海防を厳重にし始める
 1792(寛政四)年
    『海国兵談』を絶版
    林子平、蟄居
 1792年フランスで
    パリ民衆が王制を廃止し
    共和制を宣言
 1793(寛政五)年
    松平定信が老中辞任
 1793(寛政五)年
    蘭学者
    江戸でオランダ正月(西暦)を祝う
 1796年清で
    「白蓮教徒の乱」
     清がアヘンの輸入禁止
 1798(寛政十)年
    本居宣長
    『古事記伝』完成
 1798(寛政十)年
    近藤重蔵
    エトロフ島に
   「大日本恵土呂府」の標柱を立てる
 1798年ナポレオンのエジプト遠征
 1799(寛政十一)年
    蝦夷地を幕府直轄領とし、警備強化
 1800(寛政十二)年
    伊能忠敬蝦夷地を測量
 1802(享和二)年
    十返舎一九の『東海道中膝栗毛』出版
 1803(享和三)年
    アメリカ船が長崎に来て通商を求める
 1804(文化一)年
    ロシアの使節
    レザノフが長崎に来て通商を求める
 1804年ナポレオンが皇帝
    ナポレオン法典が制定
 1805(文化二)年
    幕府が北辺警備の強化
 1805(文化二)年
    イギリス軍艦フェートン号が
    長崎港に侵入、
    オランダ人を捕らえる(フェートン号事件
 1806年神聖ローマ帝国が滅びる
 1807年アメリカ人
    フルトンが蒸気船の航行に成功
 1809(文化六)年
    間宮林蔵間宮海峡を発見
 1812年ナポレオンがロシアに遠征に失敗
 1814(文化十一)年
    滝沢馬琴
   『南総里見八犬伝』著作
 1814年ウィーン会議が開催
 1815年ナポレオンが
    ワーテルローの戦いで敗北
    セントヘレナ島に流刑
 1815(文化十二)年
    杉田玄白が『蘭学事始』著作
 1817(文化十四)年仁孝天皇即位
 1818(文政一)年
    イギリス人
    コンドルが浦賀に来て通商を求める
 1821(文政四)年
    伊能忠敬
   「大日本沿海輿地全図』完成
 1823(文政六)年
    ドイツ人
    シーボルト
    オランダ商館付き医師として
    出島に来る
 1823年アメリカがモンロー主義を宣言
 1824(文政七)年
    シーボルトが長崎郊外の
    鳴滝に塾を開く
 1825(文政八)年
    幕府が異国船打ち払い令
 1828(文政十一)年
    シーボルト事件
    幕府天文方
    高橋景保ほか多数が逮捕
 1830(天保一)年
    水戸藩の改革開始
 1830(天保一)年
    薩摩藩で砂糖の専売が強化
 1830年フランスで七月革命
 1830年ベルギー独立宣言
 1833(天保四)年
    天保の大飢饉(〜36年)
 1833(天保四)年
    安藤広重
   「東海道五十三次」の浮世絵ができる
 1834(天保五)年
    米価が急騰、
    各地で
    一揆や打ちこわし
 1834(天保五)年
    水野忠邦が老中
 1837(天保八)年
    大塩平八郎の乱
 1837(天保8)年
    アメリカ船
    モリソン号が
    浦賀に来て砲撃される 
   ↓↑ 
ーーーーー
 ・・・2016年、平成二十八年・・・この日本には「一揆」が起こる「条件」も「気配」も無いらしいが・・・アレから五年、キッと人びとは地震、大津波原発事故で多くの持ち物と家族、友人の命を失っても、生き残った人びとは「衣食住」には不自由していないらしいし、「不満の怒り」もないらしい・・・?・・・「一茶」さん、あんたが唯単に「自虐的」に日常生活を「俳句の文字」に託していたとは思われないのだが・・・「やれ打つな蝿(ハエ)が手をする足をする」って・・・同音異字カンジ文字への転換へのメッセージじゃぁないのカナ?・・・だが、「一茶」は当時の情報は知っていた・・・
 ↓↑
 小林一茶
 宝暦十三年五月五日
 (1763年6月15日)
  〜
 文政十年十一月十九日
 (1828年1月5日)
 本名
 小林弥太郎
 別号
 圯橋・菊明・亜堂・雲外
 一茶坊・二六庵・俳諧
  信濃北部の
 北国街道
 柏原宿
 (長野県
  上水内郡()
  信濃町
  大字
  柏原)
 長野県北部
 上水内郡信濃町
 父
 弥五兵衛
 母
 くに
 の長男として誕生
 北国街道柏原宿
 にあった一茶の家は、
 農業を営む傍ら、
 公用荷物を運ぶ
 伝馬役・・・・・・
 を勤めていた
 天明七年(1787年)には
 田畑で
 十三石超の収穫を得る
 「中級」農家
 三歳の時に生母を失う
 八歳で継母を迎える
 継母に馴染めず、
 安永六年(1777年)
 十四歳
 江戸へ奉公
 二十五歳
 俳諧
 最初に属したのは
 葛飾派・・・・・葛飾
 山口素堂の
 孫弟子
 渭浜(いひん)庵
 三世
 其日(きじつ)庵
 溝口素丸
 に師事
 同時に、同派の
 ニ六庵
 小林竹阿(ちくあ)、
 今日庵
 森田元夢
 らにも師事
  ↓
 寛政三年(1892年)
 二十九歳
 故郷に帰り、
 翌年
 寛政四年(1893)より
 三十六歳の年まで
 俳諧修行で
 近畿・四国・九州を歴遊
  ↓
 寛政十年(1899年)
 江戸に戻った一茶は、
 ニ六庵宗匠として
 葛飾派俳書に登載されるが、
 三年だけで、以降、
 葛飾派とは疎遠となり、
 これにかわって、
 当時江戸の
 三大家といわれた
 蔵前の
 札差(幕府から旗本・御家人に支給される米の仲介業とした者)
 夏目成美(せいび)・・・「夏目」?
 と親しくなる
 ↓
 享和元年(1801年)
 三十九歳
 帰省
 父を看病したが父は1ヶ月ほど後に死去
 以後
 遺産相続の件で
 継母と
 十二年間争う
 父の発病から死、
 初七日を迎えるまでの
 約一ヶ月を描いた
 『父の終焉日記』は、
 私小説の先駆け・・・・・・「私小説
 文化五年(1808年)末
 遺産の半分を貰うことに成功
 取り分は
 田4〜6反、畑3反歩、山林3ヵ所、
 他に家屋敷半分、
 世帯道具一式
 財産規模は
 柏原では中の上
 文化五年以降
 柏原村の本百姓として登録
 六年からは
 弥太郎名義で年貢を納める
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 「いざいなん江戸は涼みもむつかしき」
 という句を残して
 文化九年(1812年)十一月半ば
 江戸を経ち永住すべき郷里
 柏原村に向かった
 文化十年(1813年)
 弟との間に取り交わした
 熟談書付の事にある家屋敷分譲の実行と
 文化四年(1807年)以前
 の収入と利息を払えという
 遺産争い
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 文化九年(1812年
 五十歳で故郷の信州柏原に帰り、
 二年後
 二十八歳の妻
 「きく」を娶り、
 三男一女をもうけるが
 幼くして死亡
 「きく」も
 痛風がもとで
 三十七歳で死亡
 六十二歳で二番目の妻
 「田中 雪」を迎えるが
 半年で離婚
 六十四歳で結婚した三番目の妻
 「やを」との間に
 「やた」をもうける
 「やた」は一茶の死後に産まれ、
 一茶の血脈を後世に伝え、
 1873年に46歳で死亡
 一茶は
 脳卒中で58歳のときに半身不随
 63歳のときに言語症
 文政十年閏六月一日(1827年7月24日)
 柏原宿を襲う大火に遭い、
 母屋を失い、
 焼け残った土蔵で生活
 十一月十九日
 土蔵の中で
 六十四年半の生涯を閉じた
 法名
 釈一茶不退位
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 俳号「一茶」の由来
 『寛政三年紀行』の巻頭で
 「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。
  旦には上総に喰ひ、
  夕にハ武蔵にやどりて、
  しら波のよるべをしらず、
  たつ泡のきえやすき物から、
  名を一茶房といふ」
 と一茶自身が記録・・・「イッサ」は、インドの伝承では
             キリストの名前でもあったとか?
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 正岡子規
 「俳人一茶」(1897)の
 「一茶の俳句を評す」の中で
 「俳句の実質に於ける一茶の特色は、
  主として
  滑稽、・・・・酷刑?
  諷刺、・・・・附得詞?
  慈愛・・・・・字蛙意?
  の三点にあり」
 と述べている・・・らしい・・・
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 正岡子規
 1867年10月14日(慶応三年九月十七日)
  〜
 1902年(明治三十五年) 九月十九日
 俳人歌人国語学研究家
 名は常規(つねのり)
 幼名は処之助 (ところのすけ)
 後に升(のぼる)
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 ・・・愛媛松山中、共立学校で同級の「秋山真之」の親友だった「正岡子規」が自分自身の体験とドウ妄想しても構わないけれどネッ・・・
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 幼少期、「継子一茶」、義母との間の
 精神的軋轢の発想が
 自虐的な・・・・・
 句風となり
 風土と共に生きる
 百姓的な視点と
 平易かつ素朴な語の運びに基づく句作
 作風は
 与謝蕪村
 天明調に対して
 化政調と呼ばれる・・・
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 一茶の代表句
 雪とけて村いっぱいの子どもかな
 大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
 めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
 やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
 悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
 雀の子そこのけそこのけお馬が通る
 蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
 やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
 名月をとってくれろと泣く子かな
 これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
 うまさうな雪がふうはりふうはりと
 ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)
 我ときて遊べや親のない雀
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 ・・・コレラを各自が「文字転換」してヨンだら、ドウなるか・・・
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 一茶の作った句数
 一茶のつくった句
 約22,000句
 一茶の句は類似句や異形句が多い
 「我と来て遊べや親のない雀」にも、
 「我と来て遊ぶや親のない雀」と
 「我と来て遊ぶ親のない雀」の
 類似句がある・・・らしい・・・
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 平成に発見された一茶の句
 ちるひとつ咲のも一つ帰り花(2013年11月)
 けふもけふも霞はなしの榎かな(2011年4月)
 一株の芒をたのむ庵哉(2010年5月)
 稲妻のおつるところや五十貌(2010年5月)
 猫の子が手でおとす也耳の雪(2010年2月)
 菜の虫ハ化して飛けり朝の月(2009年4月)
 羽根生へてな虫ハとぶぞ引がへる(2009年4月)
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 代表句集等
 『旅拾遺』『さらば笠』『三韓人』
 などがあるが自身の俳書はない
 著名な『一茶発句集』『おらが春』は没後に刊行されたもの
 「寛政三年紀行」「父の終焉日記」「我春集」「株番」「志多良」
 もいずれも遺稿
 「寛政句帖」「享和句帖」「文化句帖」
 「七番日記」「八番日記」「文政句帳」
 など克明な記録は、
 出版を意図して書かれたものではなく、
 一茶のプライバシーまでも公にしている・・・
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 一茶発句集
 たびしうゐ(旅捨遺)
 さらば笠
 三韓
 おらが春
 寛政三年紀行
 父の終焉日記
 株番
 我春集
 志多良
 寛政句帖
 享和句帖
 文化句帖
 七番日記
 八番日記
 文政句帖
 浅黄空
 俳諧寺抄録
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 ・・・「人間は同じ石につまずく」デスか・・・ボクは何度も同じことを繰り返しているけれど・・・文政十一年四月に娘の「やた(46歳で明治六年没)が生まれ、彼女が父の遺作出版に関わった・・・?・・・