1987日目・・・今日は三笠の従姉が息子と一緒に来てくれた・・・彼女も視たと先週日曜日の「NHKスペシャル・新・映像の世紀・第5集・若者の反乱が世界に連鎖した」にハナシが及んだ。あの映像の「一コマの時代」に彼女もボクも生きてきたんだ、と・・・今現在も知らないコトが多いし、あの当時も知らないコトばかりだった・・・知り様にも「知識」は貧困、状況の渦の中に存在して居るにも関わらずその「是非の判断」も、「情報」も曖昧な中で生きていたんだと今更ながら思う・・・

 「シリタイ願望」は今も、あの時も、お変わりなしではあるが、行動に駆り立てるモノはハッキリしている。単純に「戦争には反対」と云うことである。だが、「ナゼ、戦争の殺傷現場に存在しない自分が反対なのか?」がアイマイだったのである。「戦争反対」には自分自身の肉体的、精神的なイタミや、身近なヒトビトの「生死の現実性」を同時体験や、経験をしないかぎり遠くて軽い・・・そして、そうであっても、その「共同経験した後」にこそ、助けてくれる人が存在しないと、人間は「孤独」に襲われるの当然である・・・
 肉体的なダメージを受けた人間をダレが助けてくれるのか?・・・
 ホトンドは「共同経験した仲間」ではない・・・その時、その状況経験後の「仲間」も同じような状況に陥って、仲間を助ける余裕がないのが現実である・・・個々人は「戦う前」に「戦った後の覚悟」が必要なのだ。
 だが、ダメージを受けた個々人をフォローしてくれるのは、ごく「社会的な常識(?)」に生きている「血縁の身内」である・・・
 経験的な時間と状況は個々人それぞれである。だが、命にカカワル共通体験があったとしても、その後、バラバラになって行きつく先、生きる場所は・・・現状維持の「血縁の身内・一族郎党」である・・・その「血縁の身内・一族郎党」も「?」ではあるが・・・
 コトが自分自身に降りかかっているとき、「情を武器」にして近ずいてき、「フォロー(?)」してくれるのは「アウトロー」かも・・・「一宿一飯」のアリガタさは「理屈」ではないから・・・?・・・
 池に投げた小石が水に落ち、その波紋が自分自身の足元までに何時になったら到達するんだろう、と眺めている。足元に来ても少々濡れる程度かも・・・その小石が池の中のサカナを直撃しているなんてコトは思いも寄らない・・・サカナは人間ではないし・・・
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 「蝦夷(カイ・えぞ)とはナニか?」
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/ezo1.htm
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 ・・・「IS」との戦争では「国際反戦DAY」は起こらない?・・・