1971日目・・・「陸奥(むつ)」の「陸(リク)=漢数字の六(ロク)」が「くが」の訓読みでもあったとは、迂闊だった。女優の「久我美子(よしこ・はるこ・ビシ・ミシ)さん(侯爵久我(こが)家の姫(長女)」は女子学習院中等科を中退、東宝にはいり、昭和22年「四つの恋の物語」でデビュー)」・・・ウイッキペデアには稲垣映画監督は久我美子について、「彼女を風林火山の由布姫役に起用したかった」、「彼女は日本が戦争に負けたおかげで、侯爵の姫君が女優となったのだが、もし戦争に勝っていれば美子さんは尼寺の人となっていたかも

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E7%BE%8E%E5%AD%90
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 今日の国会答弁のシュハンであるアベチャン、日本が戦争に負けたおかげで、GHQのおかげで、日本国憲法のおかげで、今現在の「自由+民主+問う」のポジションにいるコトにはアタマがまわらないらしい。戦争に勝っていればアベチャんは坊主になっていたかも。それとも生き残って帝国日本の傀儡政権の満州国の軍事官僚・・・キタのミサイルは発射前にサッサと先制攻撃するコトには賛成だが・・・迎撃ミサイルのボタンを押すんだか、ドウなんだか・・・あんな答弁じゃぁ、「日本国家のシュハンの主体性」には期待できないがネッ・・・それにしても、原発に向かって発射されるミサイルは一発じゃぁないだろう・・・
 漢字の読み方には音訓、色々ある・・・「幼名は伝蔵(デンゾウ)」、「君美(きみよし・クンミ)」、「勘解由(かげゆ・カンカイユ)」、「渾名が火の子、鬼」とは詰所が「本丸寄合」の「新井白石(あらいしろいし・あらいハクセキ・シンイハクセキ)」の諱(いみな)と「通称・官職名?」だが、第六代征夷大将軍-徳川家宣、七代-徳川家継に「御側御用人-間部詮房(まなべあきふさ・カンブセンボウ)」と共に仕えた側近である・・・「間部詮房」は元々が「申楽=さるがく=猿楽」の能楽師だった・・・
 以下の参照、参考も「ウイッキペデア」や他のブログ記事だが・・・漢字文字の「意味」も考えてみたいが・・・漢字は日本に伝来したが、大陸からの帰化人であったり、渡来人であったり、難民だった人びとが、その「漢字一文字・熟語」の「音」も、「意味」も知っていたのだ。それが「前提」であり、「原点」である。そして、その後、「日本語」に接し、日本語に「漢字を選択」して当てたのが時間的プロセスであろう。だが、その漢字の選択は「漢字音の借音」だけではない。一文字漢字の「意味・部首、一字形の意味」も選択したハズである。彼ら渡来人、帰化人にとっては「漢字がさきにありき」であり、「日本語(音声)は後にありき」である・・・
 「あ・い・う・え・お・・・」の「五十音」に当てる各漢音、各呉音、各唐音、各宋音などの「漢字」は多数ある。「日本語の音声と意味」に重ねて選択する「同音異字漢字」には不自由はない・・・
 「五十音、五十音図は、
  日本語の仮名文字(平仮名、片仮名)を
  母音に基づき
  縦に五字、
  子音に基づき横に十字とし
  国学者
  富樫広蔭が
  音義説(漢字の発音と意味を表した注釈書)の立場から
  『辞玉襷(文政十二年・1829年)』で
  50音の各字を仮名で書き分けた」
 ・・・「北原白秋」の詩の「五十音・五十音の唄・あいうえおのうた(1922年・雑誌「大観」)」があるらしい・・・
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 新井白石
 魏志倭人伝の研究の著書
 1716年(享保元年)成立・・・1718年?
 「古史通或問(コシツウワクモン」
 『或問(全三巻)』
 は問答形式
 『古史通』の記述事象の説明書
 大和説・・・「魏志倭人伝の国名」
       を古典にある地名にあてた
       対馬国対馬国
       一支国壱岐国
       末盧国=肥前国松浦郡
       伊都国=筑前国-怡土郡
       奴国=筑前国-那珂郡
 1722年頃に著した
 『外国之事調書』
 では
 九州説(筑後国山門郡)・・・

 漢字の「借音」で古語を記録した
 漢字文字の解釈の意味は無い・・・?
 
 本文は4巻構成
 第一巻-巻頭
 「神は人なり」
 「高天原」は「常陸国
 第二巻
 「高天原神話〜出雲神話
 第三巻
 「天孫降臨と国譲」
 第四巻
 「神武天皇の出自」

 音訓から日神が立たれた土地は
 日立国=常陸
 高天原の高は
 旧事紀で
 高国=常陸国多珂郡・・・
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 「高天原とは私記には師説上天をいふ也
  按ずるに虚空をいふべしと見えたり後人の諸説
  これに同じ此等の説
  皆是今字によりて其義を釋(トキ)し所也
  凡我國の古書を
  讀には古語によりて
  その義を解(ト)くべし
  今字によりて其義を釋くべからず
  高の字讀で多珂(タカ)といふは
  古にいふ所の
  高(タカノ)國
  舊事紀に見えしところなり
  多珂(タカノ)國常陸風土記
  即チ
  今ノ常陸ノ國多珂ノ郡の地是也
  天の字
  古事記に讀ンで
  阿麻(アマ)といふと注しき
  上古の俗に
  阿麻といひしは
  海也
  阿毎(アメ)といひしは
  天也
  天亦稱して
  阿麻ともいふは
  其語音の轉ぜしなり
  原の字
  讀ンで播羅(ハラ)といふ
  上古之俗に
  播羅(ハラ)といひしは
  上也
  されば古語に
  多訶阿麻能播羅(タカアマノハラ)といひしは
  多珂海上之(ノ)地といふがごとし」

  「古語に播羅(ハラ)といふは
   上也とは
   たとへば
   日本紀に川上の字を讀ンで
   箇播羅(カハラ)といふがごとし
   今も
   常陸ノ國海上
   高天(タカアマノ)浦
   高天ノ原等の名ある地
   現存せり」
 「神とは人のことであって
  我が国では、普通
  尊敬しなければ成らない人を
  加美とよんでいる。
  これは昔も今も同じで、
  相手を敬う意味であると思う、
  今はこれに
  神の字を充てて使って、
  上の字であらわす使い方の
  区別も出て来た」
  しかし
  上代特殊仮名遣の研究から
 「神」と「上」は古くは
  音が異なっていた・・・
 
 「神(カミ)とは人(ヒト)也。
  我國の俗凡其
  尊ぶ所の人を稱して
  加美といふ。
  古今の語相同じ。
  これ尊尚の義と聞えたり。
  今字を假用(カリモチ)ふるに至りて
  神(カミ)としるし
  上(カミ)としるす等の
  別(ワカレ) は出來れり」
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 「蝦夷志(えぞし)」
 日本最初の蝦夷地の地誌
 新井白石
 享保五年(1720年)
 松前藩の情報や内外の諸書を参考にして作成
 体系的な蝦夷地誌(漢文)
 北海道、樺太、千島の山川、風俗、産物が記され、
 この写本の巻末には十余枚の貴重な
 彩色アイヌ風俗画が付けられている。
 画家は不明であるが、
 アイヌの衣服など絵画が細密に描かれており、
 当時のアイヌの風俗を
 知るうえで重要な文献になっている。
 絵師が実際に
 アイヌ人らの生活を直接観察して描かれ、
 図版の繊細度、色彩等、
 現存の写本の中では保存状態がよい。
 序、
 蝦夷地図説、
 本文
 という構成で、
 本文はさらに
 蝦夷(北海道)、
 北蝦夷樺太)、
 東北諸夷(千島列島)
 の3部からなっている。
 巻末には
 人物や武具などの図が
 綿密かつ色彩豊かに描かれている。
 なお、
 白石は前年にも
 『南島志』を著しており、
 蝦夷(北海道)、
 琉球(沖縄)を
 政論的な意味で
 日本の周辺地域として注目していた」
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 ・・・新井白石にイチャモンをつけているワケではありません・・・