1508日目・・・「カエサル」と「クレオパトラ七世」を同音異字漢字に転換したら・・・「替(かえ)申(さる)」等、複数・・・「暮(く)れ緒(お・を)葉(は)虎(とら・寅)」・・・ナニを変えたのかは「暦」である・・・ローマ暦からエジプト暦へである・・・そして「カエサリオン」は日本の「呉」に来た・・・「7月7日」・・・文政六年「七月七日」(グレゴリオ暦1823年8月12日)「シーボルト」がオランダ商館の医師として長崎・出島に着任・・・

  ↓
 以下ウイッキペデアから
 嘉永十一年七月七日
 (グレゴリオ暦1634年7月31日)
 「森忠政」、
 初代津山藩主死去(1570年〜1634年7月31日)
 津山藩(つやまはん)は、
 美作国の大半を領有した藩。
 藩庁は津山城岡山県津山市
 慶長五年(1600年)
 関ヶ原の戦いの後、
 美作国
 備前岡山藩
 小早川秀秋の領有
 慶長七年(1602年)
 小早川秀秋
 無嗣子での死去により廃絶
 慶長八年(1603年)
 信濃川中島藩より
 森可成の弟
 森忠政
 美作一国で入封
 津山藩が立藩
 この地は従来、
 鶴山と呼ばれていた
 森忠政により津山と改名
 翌慶長九年(1604年)
 美作の府庁として
 津山城の築城に着手
 元和二年(1616年)完成
 元禄十年(1697年)
 4代
 森長成が死去
 養子として
 2代
 森長継の
 第24子で家臣となっていた
 関衆利が迎えられた。
 同年、
 関衆利は継承挨拶のため
 江戸に出府途中に
 伊勢で発狂
 幕府は美作津山藩を召し上げたが
 森氏は
 森長継が健在であり、
 森長継が備中西江原藩(2万石)、
 森長俊が播磨三日月藩(1万5000石)、
 関長治が
 備中新見藩(1万8000石)をそれぞれ立藩
 元禄十一年(1698年)
 結城秀康を祖とする
 越前松平家
 松平宣富が10万石で入封
 廃藩置県まで松平氏が治める
 享保六年(1721年)
 家督を継いだ嗣子
 松平浅五郎が
 享保十一年(1726年)に
 16歳にて死去
 松平宣富の弟で
 白河新田藩主
 松平知清の
 三男の
 松平長熙を迎え、家督相続
 のち、
 八代藩主に
 十一代将軍家斉の子の
 斉民を養子として迎える
 入封の年には
 元禄一揆(高倉騒動)・・・「高倉」は神武救援
 享保十一年には
 山中一揆(さんちゅういっき)
 幕末には
 改政一揆と農民一揆が頻発
 幕末から明治にかけて
 藩医であった
 宇田川家
 箕作家
 からは洋学者を輩出
 津山藩士の
 津田真道
 「皇紀」という
 「紀元」を確立・・・?皇紀元年
        キリスト紀元(西暦)前660年
 明治四年(1871年
 廃藩置県により
 津山県となる
 北条県を経て
 岡山県編入
  ↓
 池田 長発(いけだ ながおき)
 1837年8月23日
 (天保八年七月二十三日)
  〜
 1879年(明治十二年9月12日)
 幕末の旗本で
 「備中国
 井原の領主
 備中松山藩初代藩主
 池田長幸の三男、
 池田長信を初代とする
 井原領主の池田家の
 十代目
 幕末に外国奉行を務め、
 1863年文久三年)〜1864年(元治元年)
 遣欧使節団を率いて
 フランスを訪問
 その後開国論を唱え、蟄居処遇となるが、
 慶応三年(1867年)には軍艦奉行
 官位は従五位下筑後
 維新後に正五位を贈
 1837年(天保八年)
 幕府直参旗本の
 池田長休(いけだながやす)の
 四男として江戸に生まれ、
 井原領主
 池田長溥(いけだながひろ)の養子となった
 最初は小普請組
 1862年文久二年)
 目付
 1863年文久三年)
 火付盗賊改・京都町奉行
 同年9月に対外交渉を行う
 外国奉行に抜擢
 官位は
 筑後
 長発が外国奉行に就任直後
 10月
 攘夷派とみられる浪人3人が横浜近郊で
 フランス軍士官を殺害
 井土ヶ谷事件
 幕府は、
 事件に対するフランス側の非難と
 国内の攘夷圧力の両方に押され、
 事件の解決、謝罪、
 および
 横浜鎖港(朝廷や攘夷派を懐柔すべく開港場だった横浜を再度閉鎖する)の交渉に当たらせるため、
 池田筑後守長発
 及び
 河津伊豆守祐邦らを
 欧米諸国へ派遣を決定
 池田長発は27歳にして、
 34名からなる
 遣欧使節
 (第二回遣欧使節、または横浜鎖港談判使節団)を
 正使として率いることとなり、
 1863年12月にフランス軍
 軍艦ル・モンジュ号で日本を出た。
 上海やインド等を経由し、
 スエズからは陸路でカイロへ向かい、
 途中ギザの
 三大ピラミッドと
 スフィンクスを見学し写真を撮っている。
 1864年文久4年・元治元年)3月、マルセイユに入港してパリに着いた一行は
 皇帝ナポレオン3世に謁見し、フランス政府に事件を謝罪し、195,000フランの扶助金を遺族に支払った。
 パリのグランドホテルに滞在した一行は
 「フィリップ・フランツ
 ・フォン
 ・シーボルトジーボルト)」
 にも会っている。
 横浜の鎖港に関する交渉は、横浜を対日貿易・交渉の拠点と考えるフランスの抵抗にあい失敗。
 また池田長発自身も
 開国の重要性を感じ、
 交渉を途中で打ち切り、
 フランス政府と
 「パリ約定」を結んだ。
 一行は他の国には寄らずそのまま帰路に就き、
 同年
 1864年文久4年・元治元年)暮れに帰国。
 この時
 長発は、物理学、生物学、工業、繊維、農業、醸造等多数の書物や資料をフランスから持ち帰っている。
 長発は帰国後、開国の重要性を力説したが、幕府は「パリ約定」を破棄、長発の石高を半分に減らし蟄居を命ずる等の罰を与えた。
 長発は隠居して、実兄
 池田長顕の五男で
 養子の
 長春家督を譲った。
 1867年(慶応3年)には一転して罪を許され
 軍艦奉行並となったが、
 健康を害していたため
 数カ月で職を辞して
 井原に戻り、以後政治にはかかわらなかった。
 井原に学問所を作り青少年を育てることを構想していたが、1879年(明治十二年)に死没。
  ↓↑
 「実業史研究情報センター」より抜粋添付
 慶応三年丁卯
 一月
 十一日
 (1867年2月15日)
 (26歳)
 渋沢篤太夫渋沢栄一)、
 徳川昭武随行員として横浜を出港
 (『渋沢栄一伝記資料』第1巻掲載)
 「徳川昭武に随ひ、横浜より乗船して仏国に向ふ。上海・香港・柴棍(サイゴン)・新嘉埠(シンガポール)・錫蘭(セイロン)・亜丁(アデン)・蘇士(スエズ)・該祿(カイロ)・亜歴散大(アレキサンドリア)・馬塞里(マルセーユ)・黎繡(リヨン)等を経て、三月七日巴里(パリ)に着し、カプシンヌ街のガランドホテルに館す」
 出典:『渋沢栄一伝記資料』
  1編 在郷及ビ仕官時代
  天保十一年-明治六年
  ↓↑
ーーーーー
 以下、ウイッキペデアから抜粋、添付・・・全文は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%9A%A6
  ↓↑
 「ローマ暦は、
  古代ローマで使用されていた暦法
  狭義には、
  古代ギリシア
  太陰暦を元にしてつくられた暦法
  ローマ建国紀元とは異なる。
  広義には、その後使用された
  ユリウス暦もローマ暦に含める。
  さらに広義には、
  ユリウス暦を改変して使用された
  グレゴリオ暦も含む」
  ↓↑  
 1年の長さは304日で、12月30日と3月1日の間に、日付のない日が約61日間続いた。農耕暦だったので、畑仕事のない季節に日付は必要なかったとされる。
 当時のローマ人は1年の長さが約365日であることを知らなかったため、日付のない日は厳密に61日間ではなく、春めいてきた日に王が新年を宣言するという形をとったと考えられる。
 紀元前713年、ローマ国王ヌマ・ポンピリウスによって改暦が行われ、
 Jānuārius(ヤーヌアーリウス、29日間)、
 Februārius(フェブルアーリウス、28日間)
 がつけ加えられた。このときヌマは、
 日数が30日だった月の日数を
 すべて29日に変えた。
 平年の1年の長さは355日になる。
 2年に1度、
 2月の日数を23日に減じ、2月23日の翌日に
 Mercedinus(メルケディヌス)という名の
 27日間または
 28日間の
 閏月を挿入した。
 この時期はまだ
 年始は3月1日であった。
 この暦法は、布告した王の名をとり
 ヌマ暦と呼ばれる。
 ほとんどの月の日数を
 29日と31日にしたのと、
 1年の長さを月の運行に合わせた
 354日にしなかったのは、
 ヌマの信仰が
 偶数を嫌ったからだとされている。
 ロムルス暦とヌマ暦で決められた月名は、後に改名されたQuīntīlisとSextīlis、および後のユリウス暦では必要のなくなったMercedinusを除き、語形変化を被りつつも、ほぼそのまま英語等の現代語にまで受け継がれている。また、QuīntīlisからDecemberまでの月名は、ラテン語の数詞5-10(quīnque, sex, septem, octō, novem, decem)に由来し、第5月から第10月を意味する。
 月の順序と月名との間にずれが生じたのは、
 紀元前153年の改暦による
 ↓↑
 改暦
 最も大きな改暦は
 紀元前153年1月1日に行われた。
 この年から、
 年の始まりが
 3月1日(MartiusのKalendae)ではなく、
 1月1日(JānuāriusのKalendae) に移った。
 このとき、月の順序と月名との間にずれが生じた。
 紀元前46年まで使われていた最終期のローマ暦は、
 1年は12か月、355日だった。
 年始は1月1日であった。
 1月から順にそれぞれの月の日数は次のとおり。
 29,28,31,29,31,29,31,29,31,29,29,29
 平年の1年の長さは
 355日で、
 2年に1度、
 2月23日と
 2月24日の間に
 22日間または23日間の閏日を挿入した。
 閏年の1年の長さは
 377日または378日になる。
 閏日が2月23日の翌日におかれるのは、初期のローマ暦が閏年の2月の日数を23日に減じたことに由来する。なお、最終期のこの暦法もヌマ暦と呼ばれている。
 閏日の挿入は最高神祇官の職責であったが、この官職の職務は軽視されがちであり(当時のローマの神祇官は専門の神官ではなく、選挙で選ばれる一種の名誉職であった)、規則どおり閏日を入れないことがしばしばあった。政治的な理由で、1年の長さを恣意的に操作するため、閏日を挿入したりしなかったりすることもあった。
 そのため、暦の上の日付と季節がまったく合致しなくなった。末期には90日のずれを生じた。
 このため、
 ガイウス・ユリウス・カエサル
 紀元前46年にローマ暦を廃し、
 紀元前45年からユリウス暦を採用。
 カエサルは、前述の
 90日分を補正するため、
 紀元前46年の日数を
 445日とした (355+90) 。
 記録に残る限り、最も1年の日数が長い年はこのローマ暦での紀元前46年である。
 カエサルはこの年を
 ultimus annus confusionis(最後の混乱の年)と呼んで自らの功績を誇ったが、
 ローマ人達は単に
 annus confusionis(混乱の年)と呼んで皮肉ったという。
 ↓↑
ーーーーー
 9)カイザリオンのその後
   カエサル
   クレオパトラ七世の子ども
   ↓↑
 ウイッキペデアより抜粋、添付・・・
   ↓↑
 カエサリオン
 (ラテン語・羅典語
   Caesarion
  ギリシャ語・希臘語
  Καισαρίων)
 または
 プトレマイオス15世
 (Πτολεμαῖος ΙΕʹ Φιλοπάτωρ Φιλομήτωρ Καῖσαρ)
 紀元前47年6月23日〜紀元前30年8月
 プトレマイオス朝
 最後のファラオ
 (在位・紀元前44年〜紀元前30年)
 共和政ローマの将軍
 ユリウス・カエサル
 と
 クレオパトラ7世の子
 カエサリオンは「小カエサル」を意味
 異父弟妹に
 アレクサンドロスヘリオス
 クレオパトラ・セレネ
 プトレマイオス・フィラデルフォス
 母クレオパトラ7世
 と
 エジプトを共同統治していた
 プトレマイオス14世が
 紀元前44年に死去すると、
 プトレマイオス15世となった
 紀元前30年
 クレオパトラ7世の死後
 オクタウィアヌスに捕らえられて殺害
 プトレマイオス朝は滅亡
 クレオパトラ
 マルクス・アントニウス
 もうけていた
 クレオパトラ・セレネなど、
 子供たち3人は、
 アントニウスの前妻である
 小オクタウィアに預けられ、
 ローマで
 オクタウィアヌスの親戚として厚遇
 カエサリオンは
 オクタウィアヌス
 同じく
 「カエサルの後継者である」
 可能性を持つため殺害された・・・?
ーー↓↑ーー
 プトレマイオス朝はエジプトの伝統を取り入れて血族結婚を繰り返したとされ、200年以上エジプトを支配しながらエジプト人の血が混じらずマケドニア人の血脈を保ったとされていたが、クレオパトラ7世の妹であるアルシノエ4世とされる骨の分析の結果、マケドニア系とアフリカ系の特徴を持っていたことが分かり、マケドニア人の血脈を保っていたという定説は覆った。
 ↓↑
 代々「プトレマイオス」という名前を持った王が、姉・妹・叔母・姪などにあたる「ベレニケ」「アルシノエ」「クレオパトラ」という名前を持った女王と共同統治した。
 しかしプトレマイオス朝は一族内での殺し合いが頻繁に行なわれ、紀元前80年に同王朝の直系が断絶し、これに介入したローマにより、紀元前30年に滅ぼされた。
 ↓↑
 在位年が重複している箇所は
 すべて複数の
 ファラオによる共同統治
 ↓↑
 プトレマイオス1世
 前285年退位。 前305−前285年
 ベレニケ1世 (女王)
 プトレマイオス1世の后 ?−前285年
 ↓↑
 プトレマイオス2世 前288−前246年
 アルシノエ1世 (女王) プトレマイオス2世の后
 トラキアリュシマコスの娘 前284−前274年
 ↓↑
 アルシノエ2世 (女王) プトレマイオス2世の后
 前277−前270年
 ↓↑
 プトレマイオス3世 前246−前222年
 ベレニケ2世 (女王) プトレマイオス3世の后
 キュレネ王マガスの娘 前244−前222年
 ↓↑
 プトレマイオス4世 前222−前204年
 アルシノエ3世 (女王) プトレマイオス4世の后
 前220−前204年
 プトレマイオス5世 前204−前180年
 クレオパトラ1世 (女王) プトレマイオス5世の后
 シリア王アンティオコス3世の娘 前193−前176年
 ↓↑
 プトレマイオス6世 前180−前164年
 クレオパトラ2世 (女王) プトレマイオス6世の后
 前173−前164年
 ↓↑
 プトレマイオス8世 前171−前163年
 プトレマイオス6世 復位 前163−前145年
 クレオパトラ2世 (女王)
 プトレマイオス8世の后、
 反乱軍を率いて夫を放逐し単独統治 前163−前127年
 ↓↑
 プトレマイオス7世 プトレマイオス6世の子
 8世に殺害 前145−前144年
 ↓↑
 プトレマイオス8世 復位 前145−前131年
 クレオパトラ3世 (女王)
 プトレマイオス8世の二番目の后 前142−前131年
 プトレマイオス・メンフィティス
 母クレオパトラ2世により王とされるが、
 プトレマイオス8世により殺害 前131年
 ↓↑
 プトレマイオス8世 復位 前127−前116年
 クレオパトラ3世 (女王)
 プトレマイオス8世とともに復位 前127−前107年
 クレオパトラ2世 (女王)
 プトレマイオス8世と復縁、
 プトレマイオス8世
 および
 クレオパトラ3世と共同統治 前124−前116年
 ↓↑
 プトレマイオス9世 前116−前110年
 クレオパトラ4世 (女王) プトレマイオス9世の后
 クレオパトラ3世により放逐 前116−前115年
 クレオパトラ5世セレネ (女王)
 プトレマイオス9世の二番目の后、
 クレオパトラ3世により離婚
 クレオパトラ5世と数えるかは異論
 前115−前107年
 ↓↑
 プトレマイオス10世
 クレオパトラ3世に
 擁立されるが、対立し廃位。 前110−前109年
 ↓↑
 プトレマイオス9世 復位
 母クレオパトラ3世に廃位 前109−前107年
 ↓↑
 プトレマイオス10世 復位
 母クレオパトラ3世を暗殺し、
 ベレニケ3世と結婚 前107−前88年
 ↓↑
 プトレマイオス9世
 プトレマイオス10世の死で復位 前88−前81年
 ベレニケ3世 (女王)
 プトレマイオス11世と強制結婚
 19日後に殺される 前81−前80年
  ↓↑
 プトレマイオス11世
 プトレマイオス10世の子、少年
 ベレニケ3世殺害に怒った群衆により虐殺
 在位80日 前80年
 ↓↑
 プトレマイオス12世
 プトレマイオス9世の子 前80−前58年
 クレオパトラ5世(6世) (女王)
 プトレマイオス12世の后、ベレニケ4世の母
 前79−前57年
 クレオパトラ6世 (女王)
 プトレマイオス12世の子とされるが、
 5世と同一人物との説がある ?−前57年
 ↓↑
 ベレニケ4世 (女王)
 プトレマイオス12世の子 前58−前55年
 ↓↑
 プトレマイオス12世 復位 前55−前51年
 クレオパトラ7世 (女王)
 一般にクレオパトラとして知られる女王。
 前51−前30年
 プトレマイオス13世
 クレオパトラ7世の弟 前51−前47年
 アルシノエ4世 (女王)
 クレオパトラ7世の妹、
 プトレマイオス13世の姉 前48−前47年
 ↓↑
 プトレマイオス14世
 クレオパトラ7世とプトレマイオス13世の弟
 前47−前44年
 ↓↑
 プトレマイオス15世(カエサリオン)
 クレオパトラ7世の子、
 父はユリウス・カエサル
 3歳のとき
 クレオパトラ7世が
 共同統治者に指名 前44−前30
ーーーーー
 ・・・「カエサリオン=プトレマイオス15世」は古代エジプトから遙々(はるばる)と極東の「日本」にやってきた・・・「カエ・サ・リ・オン」・・・