1478日目・・・壮絶・・・ワールドカップ・ブラジル(伯剌西爾)大会、1日(日本時間2日)、アルゼンチン(亜爾然丁)VSスイス(瑞西)を延長戦の末にアルゼンチンが「1—0」で準々決勝へ。「ベルギー(白耳義)VSアメリカ(亜米利加)」も延長戦でベルギー「2—1」が勝った・・・「信じている」だけでは勝てない「世の中」・・・

 「世界史」も、それに繋がってきた「近、現代史」も知らないことが多いが、即、調べることが出来るコンピュータ、情報機器の時代である・・・
 「債務不履行=借金返済の約束などを実行しないこと」・・・「実行しない」と、「実行できない」とは異なるが・・・「生活しない」と、「生活できない」も異なる・・・「戦争しない」と、「戦争できない」も異なる・・・「15億ドルの借金返済金」と「3,500万ドルの優勝獲得金」の差額・・・不足14億六千五百万ドル・・・
        1,500,000,000
        −  35,000,000
         ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        1,465,000,000 
 億とは、 数字の100,000,000
         1萬×1萬=1億
 千萬とは、数字の10,000,000
 萬とは、 数字の10,000
  ・・・「徳政令」はナゼ、実行されたのか・・・
ーーーーー
 伯剌西爾・・・イ白朿刀西爾
        爾=丅XX冂爻爻 
 亜爾然丁・・・亜爾丁ク=犬丁
        爾=丅XX冂爻爻
        然=夕ヽ一人ヽ
 瑞西・・・・・王山而西
 白耳義・・・・白耳羊我
 亜米利加・・・亜米禾刀カ口
ーー↓↑ーー
 アルゼンチン(亜爾然丁
 アルゼンチン共和国
 República Argentina
 Argentine Republic
 漢字表記
 亜尓然丁、亜爾然丁、阿根廷
 独立当時
 リオ・デ・ラ・プラタ連合州(南アメリカ連合州)
 リオ・デ・ラ・プラタ
 (Río de la Plata)
  ラ・プラタ川=スペイン語で「銀の川」
 1516年
 フアン・ディアス・デ・ソリスの率いる
 スペイン人の一行が
 銀の飾りを身につけた
 インディヘナ(チャルーア人)に出会い、
 上流に
 「銀の山脈(Sierra del Plata)」
 があると信じられ、名づけた・・・
 アルゼンチン=Argentina=「銀の川」
 ラテン語の「銀」を意味する Argentum に
 女性縮小辞(ina)を添えたもの・・・
 スペイン語
 「ラ・プラタ」から
 ラテン語由来の名へと置き換えたのは、
 フランスのスペインへの侵略を契機として、
 フランス風の呼称である
 アルジャンティーヌ(Argentine)
 に倣ったものでもある・・・

 1602年
 マルティン・デ・バルコ・センテネラ
 の叙事詩
 「アルゼンチンとラ・プラタ河の征服」
 に
 「Argentina」が記録
 1825年
 公式国名を
 アルヘンティーナ(アルゼンチン)
 ↓
 アルゼンチンの最初の住民
 紀元前11,000年ころに
 ベーリング海峡を渡って
 アジアからやって来た人々だった
 彼らは
 パタゴニアに残る
 「手の洞窟」を描いた人々・・・
  ↓
 15世紀後半
 ペルーの
 クスコを中心に発展した
 ケチュア人の国家
 クスコ王国(1197年〜1438年)は
 インカ帝国(1438年〜1533年)の
 タワンティンスーユの
 皇帝
 トゥパック・インカ・ユパンキ
 と
 ワイナ・カパックによって征服
 北西部アンデス山脈地域は
 タワンティンスーユに編入
 征服された地域はタ
 ワンティンスーユ内の四州の内の一州、
 コジャ・スウユ
 (ケチュア語=Colla Suyo=南州)の
 辺境の地となり、
 30万人ほどの
 ケチュア人
 アイマラ人が住むようになった
 16世紀
 1516年
 スペインの探検家、
 フアン・ディアス・デ・ソリス
 最初のヨーロッパ人としてこの地を訪れ、
 先住民に殺害
 1536年
 「銀の山」を攻めるために、
 バスク人貴族の
 ペドロ・デ・メンドーサが
 率いる植民団によって、
 ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレ市が建設されたが
 インディヘナの攻撃に遭って放棄
 以後200年ほど
 ラ・プラタ地域の中心は、
 1559年に
 アウディエンシアの設置された
 パラグアイ
 アスンシオンとなった・・・
 ペルー副王領の一部に組み込まれたこの地は、
 ペルー方面から
 アンデス地域を軸に開拓が進み、
 1553年
 アルゼンチン最古の都市
 サンティアゴ・デル・エステロが建設
 1580年には放棄された
 ブエノスアイレスが再建
 1541年
 12頭の放牧馬が
 パンパの牧草を食べて大繁殖
 ガウチョが現れる・・・?
 1613年
 コルドバコルドバ大学が建設
 1776年
 ペルー副王領から
 リオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離
 ブエノスアイレスは副王領の首府となる
 1806〜1807年
 二度にわたる
 イギリス軍のラプラタ侵略を打ち破った
 後、
 スペインからの解放と自由貿易を求めた
 ポルテーニョ
 1810年5月25日
 五月革命を起こし、
 ブエノスアイレス自治を宣言
 1816年7月9日
 トゥクマンの議会で正式に独立宣言
 ベルグラーノ将軍は
 インカ皇帝を復活させて
 立憲君主制を導入しようとしていた
 ホセ・アルティーガスは
 アメリカ合衆国のような
 連邦共和制を求めた
 独立諸派の意見は全く一致しなかった
 アンデス軍司令官の
 ホセ・デ・サン・マルティン将軍が
 王党派の牙城リマを攻略するために遠征
 王党派軍を破って
 チリ、ペルーを解放
 本国では内戦が続いた
 1821年
 プエイレドンが失脚
 中央政府は崩壊
 1825年
 ブエノスアイレス州
 連合州の外交権を持つことを認められた
 1825年
 ブラジル帝国との間で
 ブラジル戦争
 イギリスの介入によって
 バンダ・オリエンタルを独立国とする
 モンテビデオ条約が結ばれ、
 1825年
 ウルグアイ東方共和国が独立
 1861年
 ブエノスアイレス国が
 ウルキーサを破り、
 アルゼンチン連合を併合して
 国家統一が達成
 1880年
 正式に
 ブエノスアイレスが国家の首都
 1916年
 急進党の
 イポリト・イリゴージェン大統領が選出
 第一次世界大戦を中立国として過ごした
 1928年
 イリゴージェンが再選
 1929年
 世界第五位の富裕国となったが
 1929年
 世界恐慌で政治は急速に不安定化
 イリゴージェンは
 1930年の軍事クーデターで追放
 1933年
 フスト政権
 イギリスとの
 ロカ=ランシマン協定で、
 アルゼンチンを
 イギリスのスターリング・ブロック
 (Sterling bloc)に組み込まれ
 アルゼンチンは
 イギリスの属国のようになった
 第二次世界大戦の最中
 イギリスと戦う枢軸国への
 好意的な中立を標榜した
 統一将校団の
 フアン・ペロン大佐
 ペロンは
 1946年
 大統領に就任
 第二次世界大戦で得た
 外貨を梃子に
 工業化、鉄道などの国有化、
 労働者保護などの
 経済的積極国家政策を推し進めた
 政策は当初成功したが、
 外資を使い果たし
 デスカミサードス
 から聖母のようにあがめられていた妻
 エバ・ペロン(エビータ)が死ぬ
 1954年
 離婚法を制定で
 カトリック教会との関係破綻
 支持基盤の労働者からも失望され
 1955年
 軍部保守派クーデター
 (リベルタドーラ革命)で
 ペロンは亡命
 ペロニスタ(ペロン主義者)
 と
 軍部の対立
 1962年
 急進党の
 フロンディシ大統領が
 軍部のクーデターで失脚
 1966年
 フアン・カルロス・オンガニーア将軍は
 ブラジル型の
 官僚主義権威主義体制を導入
 軍事政権は
 ペロニスタの
 モントネーロス
 や
 ペロニスタ武装軍団の都市ゲリラと抗争
 1969年
 コルドバ暴動で
 軍事政権は穏健政策に転じ、
 テロの応酬を収めるために
 ペロニスタを議会に戻すことを決断
 自由選挙を行った
 1973年
 正義党(ペロン党)が勝利
 亡命先から
 フアン・ペロンが帰国して
 三度目の大統領に就任
 1974年に病死
 1974年
 副大統領から
 世界初の
 女性大統領に
 妻の
 イサベル・ペロンが昇格
 1976年
 ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍が
 クーデター
 コンドル作戦で
 ペロニスタや左翼を大弾圧
 外資を導入で経済政策には失敗
 天文学的なインフレーション
 軍事政権で
 1982年
 就任した
 ガルティエリ大統領が
 イギリスが1833年以来
 実効支配を続けている
 マルビーナス諸島(フォークランド諸島)を
 奪還しようと軍を派遣、占領
 イギリスのサッチャー首相より
 マルビーナス戦争に発展
 イギリスの反撃に遭い敗戦
 軍事政権は崩壊した
 1983年
 大統領選挙と議員選挙
 大統領に
 ラウル・アルフォンシン就任
 チリやブラジルとの関係を改善
 軍部を文民の統制下に置くことに成功
 1989年に辞任後
 就任した正義党(ペロン党)の
 カルロス・メネムは、
 1990年の湾岸戦争
 南アメリカで唯一軍を派遣
 1991年
 非同盟諸国首脳会議から脱退
 核軍縮や徴兵制の廃止
 軍部の権力の制限を進めた
 当初公約で掲げていた
 ペロニスモ路線(社会民主主義
 とは異なる
 新自由主義政策を取った
 社会インフラや年金
 民営化した新自由主義政策
 対ドルペッグ固定相場政策で
 インフレを抑制
 1997年頃にはこの政策は破綻し始め
 1999年
 大統領選挙
 急進党の
 フェルナンド・デ・ラ・ルアが勝利
 だが、経済不安は
 IMFからの援助や
 公務員給与の削減などしたが
 ドルペッグ制の破綻
 2001年
 デ・ラ・ルアは
 デフォールトを決行
 デフォルト(default)=金融での債務不履行
 2003年
 正義党左派の
 ネストル・キルチネルが大統領就任
 新自由主義市場原理主義と決別
 富裕層優遇をやめ、
 貧困層を減らし中間層へと移行
 2007年10月
 正義党から
 キルチネルの妻の
 クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル
 が
 「選挙による女性大統領」として就任
 ・・・
  ↓↑
 2014年7月1日
 アルゼンチン
 債務利払い期限
 30日間猶予・・・
 2001年に債務不履行(デフォルト)
 15億ドル
 アルゼンチンは
 2014年6月30日
 国債の債権整理に応じた
 債権者への利払いの期限を迎えた
 米最高裁が利払いの条件とした
 国債を購入した
 米投資ファンドへの
 債務返済を巡る交渉はこの日は行われず、
 30日間の猶予期間に入る・・・
 米投資ファンド
 エリオット・マネジメントは
 アルゼンチン政府が交渉を拒否し、
 「国家をデフォルトの危機にさらしている」
 と強く非難した。
 30日間の
 返済猶予期間で、
 交渉がまとまらなければ、
 アルゼンチンは、
 支払いのための
 資金が手元にありながら、
 債務不履行となる
 「テクニカル・デフォルト」となる
 可能性が出てきた
 2014年07月01日
 14時23分
 Copyright © The Yomiuri Shimbun
 ・・・サッカーの優勝金額で返済する心算かも・・・?
 優勝国には「3500万ドル(約35億6000万円)」・・・それでも、「15億ドル」には不足・・・
  ↓↑
 朝日新聞
 6月25日付け朝刊
  ↓↑
 「アルゼンチン共和国 大統領府」による
 全面広告が掲載
 「アルゼンチンは債務返済を継続したいが、継続させてもらえない」
 2001年
 アルゼンチンの「デフォルト」
 債権者の92.4%が
 元本のカットに同意し、
 利息を支払い続けてきた。
 だが
 減額に応じなかった
 一部の債権者から
 格安で債権を買い取った
 投資ファンド
 全額の支払いを求め、
 米ニューヨーク連邦地裁に提訴。
 同地裁は6月16日、
 同国に対し
 15億ドルを
 6月末までに支払うよう命じた。
 同地裁は投資ファンドに全額を返済しない限り、
 ほかの債権者に対する
 利息の支払いを禁止した。
 このため同国は6月末までに
 15億ドルを投資ファンドに支払わないと
 再びデフォルトに陥る可能性がある。
 だが全額を支払えば、
 ほかの債権者は同じ扱い(全額返済)を
 求めることができるため、
 推定1200億ドルの支払い義務が生じてしまう。
 現在は
 投資ファンドとの
 和解に向けた交渉など、
 瀬戸際で解決策を模索している。
  ↓↑
 広告
 「債務返済を継続したいが、継続させてもらえない」
 「我が国は、少数のどん欲な
  投機家グループのせいで
  過去、現在、そして将来も
  アルゼンチン国民を苦しめ続ける
  この長く困難な紛争の解決に向け、
  公正で
  バランスのとれた交渉条件を推進する
  司法判断を期待します」
ーー↓↑ーー
 ベルギー(白耳義)
 ベルギー王国
 連邦立憲君主制国家
 オランダ、ルクセンブルクと合わせて
 ベネルクスと呼ばれる
 ブリュッセルEUの首都とも言われているが
 首都は、19の自治体から成る
 ブリュッセル首都圏の自治体の一
 ブリュッセル=ヴィル
 19世紀に
 ネーデルラント連合王国から独立
 言語紛争が続き
 1993年
 フランデレン地域
 ワロン地域
 ブリュッセル首都圏の
 連邦制に移行
 ガリア戦争を経て
 紀元前51年
 ガリア・ベルギカとして
 ローマ帝国の属州になる
 16世紀
 スペインの支配に反乱 (八十年戦争)
 ネーデルラント17州のうち
 ユトレヒト同盟を結んだ
 北部7州は
 1648年
 ヴェストファーレン条約
 ネーデルラント連邦共和国として独立
 南部諸州は
 スペインの支配下
 この
 南ネーデルラント
 ベルギー王国の起源
 ナポレオン戦争終結
 1815年
 ウィーン議定書によって
 現在のオランダと共に
 ネーデルラント連合王国として再編
 1830年
 ネーデルラント国王
 ウィレム1世の支配に対して
 独立革命、独立を宣言
 1831年
 ドイツの領邦君主の
 ザクセン=コーブルク=ゴータ家から
 レオポルドを初代国王として迎えた
 1839年
 ロンドン条約
 オランダはベルギーの独立を承認
 ベルギーは領有していた
 ルクセンブルク大公国
 リンブルフを、
 オランダと分割
 1873年
 岩倉使節団がベルギーを訪問
 ↓
 1885年
 第2代国王
 レオポルド2世が
 個人の所有地として
 アフリカに
 コンゴ自由国を領有
 コンゴ自由国は
 レオポルド王の統治で徹底的に搾取
 コンゴの人口は
 2500万人〜1500万人に激減・・・
 1908年
 ベルギー国家の所有に移され
 ベルギー領コンゴとして
 1960年まで支配
 1914年
 第一次世界大戦
 ドイツ帝国により中立を犯されて占領
 1919年
 ヴェルサイユ条約
 ドイツ帝国の植民地の
 ルワンダ
 ブルンジを獲得
 1940年
 第二次世界大戦
 ナチス・ドイツにより占領
 1960年
 コンゴ民主共和国がベルギーから独立
 ベルギー永世中立国
 カトリック国家ベルギー
 フランス革命以前には
 カトリック
 ハプスブルク=ロートリンゲン家
 飛び地領土
 南ネーデルランドであった
 フランス革命勃発後、
 ジャコバン派
 フランス革命国民義勇軍を主導
 国民義勇軍の将軍
 ジュールダン
 と
 公安委
 カルノー
 ベルギー戦線で、
 ロベスピエールの政治中の
 1793年10月
 オーストリア軍を殲滅
 1794年6月
 ジュールダン将軍と
 ベルナドット将軍は
 再度ベルギー戦線で
 オーストリア軍を殲滅
 後、
 南ネーデルランドを、
 フランス革命総裁政府のフランス軍が占領
 総裁政府の軍司令官
 ナポレオン将軍(28歳、第一統領就任以前)
 と
 オーストリアは、
 1797年10月
 カンポ・フォルミオ条約
 オーストリアハプスブルク家は、
 南ネーデルラント
 フランスへ割譲
 1815年
 ウィーン議定書
 ルクセンブルク大公国
 ドイツ連邦に加盟
 住民が
 オランダ系とフランス系からなる
 カトリックのベルギーは、
 プロテスタント
 ウィレム1世を国王とする
 ネーデルラント連合王国に併合
 1830年
 ベルギーは独立宣言
 1831年
 憲法を制定
 ブルジョワジー(財産家・資本家)男子による
 二院制と、
 国王の行政や軍事など
 最高の国家行為には
 首相の承認(副署)を要することを規定
 ベルギー憲法
 首相副署主義は新しい立憲的制度
 レオポルドは、
 ナポレオン戦争中は
 ロシア帝国軍の
 傭兵士官として戦い、
 戦争後の
 1816年
 イギリスに帰化して
 摂政王太子(国王ジョージ4世)の
 王女
 シャーロットの婿になった
 1837年
 女王ヴィクトリアの母は
 レオポルドの姉
 1831年
 レオポルド1世は
 立憲君主として
 初代ベルギー国王に即位
 1839年
 オランダとベルギーとの
 平和条約(ロンドン条約)が締結
 ベルギーは永世中立国の宣言
 プロテスタント国家
 オランダにとって、
 カトリック国家
 フランスとベルギーとの同盟による
 軍事的脅威をなくすものであった
 ベルギーの永世中立国化は
 オランダの安全保障が関わっていた・・・
  ↓
 レオポルド1世の
 後妻には
 フランス国王ルイ・フイリップの
 王女ルイーズ・マリーが迎えられ、
 その間の
 息子
 レオポルド2世が王位を継いだ
 (1865年〜1909年)
 アルベール1世(1909年〜1934年)
 ベルギー王家は
 イギリスやフランスと関係が深い
ーーーーー
 イズレにしても・・・一族郎党の主筋同氏の利害関係で「戦争」・・・