1436日目・・・小保方晴子さん・・・理化学研究所(理研)は5月8日、STAP細胞の論文に「不正があった」とする調査結果に対する小保方晴子ユニットリーダーの不服申し立てを退け、小保方氏の求めていた再調査は行われず、研究不正の認定が確定・・・?・・・論文の取り下げも勧告。懲戒委員会を設置し、小保方氏らの処分を決める・・・調査委員長の「石井俊輔」・上席研究員にも、論文不正の疑いが持たれている問題について、理研の野依良治は委員長は「結論に影響しない」と説明?・・・ひょっこり「氷炭」島の出来事であるらしい・・・

 「癸 亥(戊・甲・壬)年」
 「戊 午(丙・ ・丁)月」
 「戊 子(壬・ ・癸)日」
    ↓↑
 「辛 酉(庚・ ・辛)大運」日破
    ↓↑
 「甲 午(丙・ ・丁)年」月自刑・日沖
 「丁 卯(甲・ ・乙)月」年三合乙・月破・日刑
              大運沖
 「甲 申(己・壬・庚)日」年害・日三合壬
ーー
 以下、原文は「ウイッキペデア」を参照、参考・・・

 「打払令無謀を批判」
 「戊戌夢物語」
 「イギリスは日本へ対し敵国にはこれ無く、謂はゞ付合もこれ無き他人に候処、今般漂流人を憐れみ、仁義を名とし、態々送り来たり候者を、何事も取合申さず、直に打払いに相成り候はゞ、日本は民を憐まざる不仁の国と存ずべく候。若又万一其不仁不義を憤り候はゞ、日本近海にイギリス属島夥しくこれ有り、始終通行致し候得者、後来、海上の寇と相成り候て、海運の邪魔に相成り候哉も計り難く、左候はゞ自然国家の大患にも相成り申すべ」
 「戊戌夢物語・高野長英・1838年(天保九年・戊戌年)」著書
 「モリソン号事件(Morrison Incident)
  1837年(天保八年)、
  日本人漂流民(音吉ら7人)を乗せた
  アメリカ合衆国商船を日本側砲台が砲撃した事件」
 モリソン号を打ち払い事件・・・「モリ(Morri)−ソン(son)」・・・
 「モーリス・モリス(Maurice, Morris)」は
 英語圏、フランス語圏などの男性名、姓
 色の暗い、住人のモーリタニアの呼び方
 Maurice
 男の類似名=Minori, Murray, Mari, Maher, Monroe, Muir
 女の類似名=Marie, Maria, Mary, Mira, Mayar, Myra
 「Maurice」はラテン語
 「マウリティウス(Mauritius)」
 「肌の色が黒い」に由来
  ↓
 「メメント・モリ(羅: memento mori)」
 ラテン語
 「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という警句
 「死を記憶せよ」などと訳され、
 芸術作品のモチーフとして広く使われる・・・
  ↓
 古代ローマ
 「将軍が凱旋のパレードを行なった際に使われた」と伝えられ
 将軍の後ろに立つ
 使用人(給仕・執事)は、
 「将軍は
  今日絶頂にあるが、
  明日はそうであるかわからない」
 ということを思い起こさせる役目を担当
 使用人は
 「メメント・モリ」と言うことによって、
 それを思い起こさせていた・・・
  ↓
 当時、「メメント・モリ」の趣旨は
 「carpe diem(今を楽しめ)」ということで、
 「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」
 というアドバイス・・・
 ホラティウスの詩には
 「Nunc est bibendum, nunc pede libero pulsanda tellus.」
 (今は飲むときだ、今は気ままに踊るときだ)・・・
 この言葉は、
 その後のキリスト教世界で違った意味を持つ
 「天国、地獄、魂の救済」が重要視されることにより、
 死が意識化され、キリスト教的な芸術作品において、
 「メメント・モリ」は
 キリスト教の文脈では、
 「メメント・モリ」は 「nunc est bibendum」とは
 反対の、徳化された意味合いで使われ、
 「楽しみ・贅沢・手柄・名誉」を否定し
 来世に思いをはせるものとなった・・・
  ↓
 「墓石」
 腐敗した死体を表現した墓は、
 15世紀にヨーロッパの富裕階級の間で流行
  ↓
 「死の舞踏」
 「メメント・モリ」の芸術的テーマで、
 死神が貧乏人と金持ちを等しく連れ去っており、
 これはヨーロッパの多くの教会に飾り付けられた
 植民地時代のアメリカでも、
 ピューリタンの墓には
 翼を持つ頭蓋骨、骸骨、
 蝋燭を消す天使が描かれている・・・
  ↓
 「静物画」
 「ヴァニタス・(羅: vanitas=空虚)」
 と呼ばれていた
 静物画を描く際には、
 死を連想させるシンボル、
 骸骨(頭蓋骨)や、
 花びらが落ちつつある花などが描くべき
 シンボルとして使用された
  ↓
 「写真」
 写真が発明で
 親族の死体の写真で
 記録することが流行
  ↓
 「時計」
 現世での時間の減少を示すものとし
 公共の時計には、
 「ultima forsan
  (ことによると、最後〈の時間〉)」
 「vulnerant omnes,ultima necat
  (みな傷つけられ、最後は殺される)」
 という銘が刻まれた
 「tempus fugit(光陰矢のごとし)」
 ドイツのアウクスブルクにあるカラクリ時計は、
 「死神が時を打つ」・・・
 スコットランド女王
 「メアリー」は、
 銀の頭蓋骨が彫られ、
 ホラティウスの詩の一文で飾られた、
 大きな腕時計を持っていた・・・
  ↓
 文学作品
 トーマス・ブラウンの
 「Hydriotaphia, Urn Burial」
 と
 ジェレミー・テイラーの
 「聖なる生、及び聖なる死」
 トーマス・グレーの
 「Elegy in a Country Churchyard」
 エドワード・ヤングの
 「Night Thoughts」
 など、テーマは同じ・・・
ーー↓ 
 「蛮社の獄」・・・高野長英・・・
  ↓↑
 「戊戌の変法」
 清(シン)王朝時代
 光緒二十四年(1898年、戊戌の年)
 四月二十三日(6月11日)
  〜
 八月六日(9月21日)
 光緒帝の支持の下、
 士大夫層の
 康有為
 梁啓超
 譚嗣同
 などよって行われた
 政治改革運動・・・
 西太后によって失敗・・・セイタイ後・・・
  ↓↑
 道光15年10月10日(1835年11月29日)
 干支乙未年(天保六年)
  〜
 光緒34年10月22日(1908年11月15日)
 干支戊申年(明治四十一年)
 清(シン)の
 咸豊帝の妃
 同治帝の母
 満州・旗人(鑲藍旗人)の
 葉赫那拉(エホナラ、イェヘ=ナラ)氏の出身
  ↓
  赫(あかい・かがやく・カク・キャク)
 赫奕・赫焉・赫赫・赫奕・赫怒・赫然
ーー↓ーー
  辰=辰砂・丹砂・赤色の顔料・赤い色
    に・丹朱・丹青・丹頂
    丹砂を配合した不老不死の仙薬・丹
   ↓
 十二辰
 天球分割法の一
 天球を
 天の
 赤道帯にそって
 東から西に
 十二等分した
 十二区分
 戦国期以降に
 太陽・月・惑星の位置や運行の座標系
 東から西への日周運動の方向
 太歳紀年法
 木星は約12年で天球を1周
 木星の「十二辰」は
 一辰=12分割された天球
 木星の天体実働の移動は
 「十二支」とは逆回り
 木星が回る円軌道に直径を引き、
 その直径を境に
 木星と対称の位置に存在する
 「太歳」と呼ばれる
 仮想の惑星を想定し、
 「十二支」における太歳の位置で
 一年を記録するようになった
 太歳紀年法
 その後、十二辰のまえに十干も使われるようになり、
 年が干支により記述されるようになった
 木星実働周期、約12年・・・公転周期は11.862年
        約86年で、太歳の位置は1辰ずれる
 月 実働周期、約12ヶ月
 太陽実働周期、約365日
ーー
 辰
 ↓
 十二支の
 第五位の年月日、時刻、方位
 十二方位は東南東
 年は西暦を
 12で割って
 余りが
 8の年
 夏暦では
 三月
 時刻は
 朝の
 七時〜九時の間
 五行は
 土
 陰陽は
 陽
 十二生肖では
 龍
 ↓
 辰国(辰韓)は
 朝鮮半島南部にあった国
 三韓馬韓弁韓辰韓)の一
 ↓
 辰州は
 中国の古地名(湖南省
 ↓
 辰=天球の赤道を十二等分したもの
   十二辰
 辰=房星・蠍(さそり)座の頭部
 ↓
 辰=厂(がけ・がんだれ・カン・ガン)
   +
   二
   +
   レ
   +
   弋
   辰→厂+衣
 漢字の意味
 震える・動く・伸びる
 天体の総称
 北極星
 日時
 太陽と月とが会合、交合・・・日食
 「晨(シン・ジン)」と通用して「朝」
 などの意味がある。
 字形
 蛤(はまぐり)などの二枚貝が、
 足を出しているところの象形
 蜃(蜃気楼)との関係による解釈
 辰は蜃の初文・・・?
 貝殻を農作業に用いたからなど・・・
 甲骨文で
 石の字形との関係から石製の農具の象形説
 説文解字
 「震なり。
  三月、
  陽气動き靁電(雷電)振るふ。
  民の農時なり。
  物皆生ず。
  乙、匕に從ふ。
  匕は芒達(草木の芽生え)に象る。
  厂は聲(こえ)なり。・・・「厂」が声?
  辰は
  房星、
  天時なり。
  二に從ふ。
  二は古文上字なり」・・・「二」=「上」?
  ・・・「二」は「一+一」・・・
 音訓
 音読み・・・シン
 訓読み・・・かい・とき・たつ
       名のりは
       のぶ・のぶる・よし
ーー
 太歳紀年法
 木星の鏡像である
 太歳の天球における位置に基づく紀年法
 木星は天球上を
 「十二次」に沿って
 西から東に進むが、
 「十二辰」
 (天球を天の赤道帯に沿って
  東から西に十二等分した区画、
  十二支が配当された)
 に対しては、
 運行の方向と順序が逆
 木星の円軌道に
 一本の直径を引き、
 その直径を境に木星
 線対称の位置に存在する
 太歳という仮想の星を設定し、
 その十二辰における位置で
 年を記すようにしたもの
 中国の戦国時代
 この直径は
 寅の起点と
 申の起点とを結んで引かれ、
 「太歳在寅(太歳、寅に在り)」という記述があれば、
 その年は
 「太歳(仮星)が寅の位置」に存在する年、
 つまり
 「木星(実星)が丑の位置」に存在する年
 その翌年は
 「太歳在卯」となり、
 「木星は子」に位置
 「太歳」の各位置を
 「年」とした
ーー↓
 「超辰」
 太初の改暦
 太初元年(紀元前104年)
 丙子から
 丁丑に改めたが、
 後の三統暦では遡って
 太初元年を
 丙子に戻し、
 太始二年(紀元前95年)を
 乙酉から
 丙戌に変更
 後漢においては
 超辰を補正しなかった
 以後、太歳の位置とは関係なしに
 機械的に干支を進めて
 60年一周を繰り返す
 干支紀年法が使われ、
 現在まで継続
 いつから
 干支紀年法が使われたかは不詳
 見かけ上、
 太初暦の太歳紀年に基づけば
 太初元年から、三統暦の
 太歳紀年に基づけば
 太始二年からの干支が
 現在まで連続
ーーー
 古くは
 十日十二辰、
 十母十二子とも呼称
 起源は
 商(殷)代
 日・月・年のそれぞれに充てられ、
 60日(約、2か月)、
 60ヶ月(約、太陰太陽暦五年)
 60年などをあらわす
 日本
 「干支(えと)」の
 「十二支」
 十干と十二支の組み合わせが
 「干支」であり、
 「えと」と言う読みも
 十干の兄(え)と弟(と)に由来
 ↓
 10と12の
 最小公倍数は
 60なので、干支は60回で一周
ーー
 1日(24時間)を
 十二支に分けた時期は漢代
 十二支に対して十二獣を充当することは
 秦代にも見られるが、
 文献における初出は
 後漢代から
 干支による紀日
 干支紀日法
 殷代の甲骨文に現れている
 西洋では1月を4分割して「週(7日)」
 中国では1月を3分割して「旬(10日」
 十干という順序符号をつけた
 山東省臨沂県(りんぎけん)
 から出土した銀雀山漢墓竹簡、
 および
 武帝七年(元光元年、紀元前134年)の
 暦譜竹簡の例が最古
ーーー
 木星の公転周期は正確には11.862年
 実際には1年に一次と少し進んでいることになり、
 約86年に一次(太歳は一辰)ずれる
 これを「超辰」と呼ぶ
 超辰によるずれを解消するため、
 秦の
 顓頊暦では、
 太歳を設定するための直径を
 丑の起点と
 未の起点に引き、
 秦の
 始皇帝元年(紀元前246年)を
 木星が亥にあり、
 太歳が寅にある年と
 基準を設けた

 前漢
 太初元年(紀元前104年)
 改暦(太初暦)では、
 超辰を行い、
 丙子を丁丑に改めた
 後に
 三統暦の補正では
 超辰は
 114年に一次ずれるとし、
 太初元年を再び
 丙子に戻し、
 太始二年(紀元前95年)を
 乙酉から丙戌へ超辰するとした
 三統暦による
 太歳紀年と後の干支紀年は
 太始二年から見かけ上、同じ
ーー
 干支紀年法
 後漢
 建武二十六年(西暦50年)は、
 劉歆の三統暦の超辰法に従うならば、
 「庚戌」を「辛亥」とすべき年であった
 光武帝の学者たちは
 超辰を行わず、
 庚戌のまま紀年を続けた
 元和二年(西暦85年)
 改暦で三統暦の超辰法自体が廃止
 これ以後、
 木星を観測して、その位置で年を記録することはなくなった
 木星の運行とは関係なく、
 60年周期の干支を1年ごとに進めていく
 干支紀年法が用いられるようになった
ーー
 生肖紀年法
 十二支と十二獣の結びつき
 1975年
 湖北省雲夢睡虎地の
 秦代の墓から出土した竹簡
 に動物が配当
 されている様子が伺われる
 後漢
 王充が著した
 「論衡・物勢篇」
 十二支を動物名で説明
ーーー
ベトナム 鼠 水牛 虎 猫 竜 蛇 馬 山羊 猿 鶏 犬 豚
モンゴル 鼠 牛  豹 兎 竜 蛇 馬 羊 猿 鶏 犬 猪
ロシア  鼠 牛  虎 猫 竜 蛇 馬 山羊 猿 鶏 犬 豚
ベラルーシ鼠 牛  虎 猫 竜 蛇 馬 羊 猿 鶏 犬 豚
ーーー
「ネコ」は「ねずみ(鼠)」ではなく、「ウサギ(兎・兔)」が重なっている・・・「子→刑←卯」・・・「卯=猫」・・・ハナシがチガウ・・・