1381日目・・・「夫餘」・・・オフクロの姉は「きさよ」、2番目の姉は「はぎの」、そして三番目の末っ子の「おふくろ」の名前だけれど・・・父祖の最初の奥さんの名前と同名の「ふよ」・・・?・・・なんとなく、「ジィさん」の気持ちが・・・最後の奥さんは「三番目のバァさん」で、この「夫」の子供を七人産んで、「道楽ジィさん」よりも、苦労して早く亡くなった「最後の女性」だった・・・真相はワカラナイけれど、明治、福島生まれの彼女は、彼を極寒の北海道まで追っかけてきて「夫婦」になった・・・


 「夫餘(フヨ)」は「夫の餘り」か・・・漢字を分解すれば、「夫」は「一の大」、「二の人」、「十一の人」、「土の人」で、「餘」は「食(しょく・おす・ジキ)のアマリ」・・・?・・・「夫=おっと」は「夫人=婦人」でもある。古語では「夫」の漢字は「接続詞」の「そもそも・いったい」で、「ひとつ」のコトバ、あるいは出来事の内容説明を、別な視点から説明するコトバであるらしい・・・「夫」=「背の君」とも・・・「せ(背・夫・兄・妹)は主として女性から兄・弟・恋人・夫など、または他の男性を親しんで呼ぶ語」・・・「弟=おと−うと=弟人」、「(妹=いも-うと=妹人)」の訛り?・・・弟人→乙人=乙女→乙姫・・・「妹背(いもせ)」は「妹と背」で、「男女・夫婦」のコトバであるが・・・「妹背(いもせ)」はどうなるのか?・・・問題は「背=北(爿匕・爿ヒ)+月(肉?)」の漢字である。「北」そのものが「そむく・叛く・背反・二心」である・・・「爿(ショウ・ソウ)=爿は牀(ベッド・カウチ・寝台・長椅子)」・・・「妹の背反」・・・「妹(マイ・メ・いもうと)=女+未」で、「?→未、末の類字(=+|+八・十+木)→(バツ・バイ・マツ・マチ・あざな)=女+末」である・・・「wife of the last ruler of the Xia dynasty=夏王朝の最後の妻=?喜(バッキ)は、夏王朝の最後の帝桀の妃の一人・?(=+|+八)喜、末嬉、?(=+|+八)嬉とも書かれる」・・・「?」は「未・末」の「二」の部分が同じ長さの「=」・・・
 「いも」は「芋=艸(サ・廾)+于(ここに・ゆく・ウ)」で「イのモ」だろう・・・「廾=両手で捧げ持つ」、「拱に通じ」て「こまぬく=両手を組む」だげ、文字発音の道理の漢字転換なら「高麗(狛・駒・独楽)貫く」だろう・・・「主として」だから、「主ではない」詮索はヤメテおこう・・・
ーー
 余(餘)
 ヨ・あまる・あます・われ
 必要な分をこえて残る
 引き続いてあとに残る
 あまり
 余韻・余剰・余震・ 余地・余熱
 余白・余分・余命・余裕・余力
 刑余・月余・残余・剰余
 代名詞の「わたくし・自分」
 自称の人称代名詞で「男性」が用いる
 奥の細道
  「よもいづれの年よりか、
   片雲(へんうん)の風に誘はれて、
   漂泊(へうはく)の思ひやまず」
ーー
 余事象
 ↓
 サイコロを振った
 結果は6面の
 ヒトツの目しか出ない。
 出なかった
 「他の目」の
 残りの目を
 「余事象」と云う

 サイコロを一回のみ振る前の
 予想の確率(1/6)の目は一つ
 予想以外のは目は
 残りの「5/6」

 全事象の1つである
 事象Aに対して
 余事象は
 全事象から
 事象Aを除いたもの
     ↓
 除(のぞく・ジョ)=邑+余(∧一ホ)
          「くに」の余り
          「ユウ」の余り
           部首の「阝」は
          「左=邑」で「右=阜」
          「余=∧+一+ホ」
          「余=∧+二+小」
          「余=∧+工+小」
          「余=∧+T+一+亅+八」
 除く=のぞく=覘く・覗く・・・之属
    の=埜・野・乃・廼
     ぞく=粟・族・足・賊・続・俗
     そく=捉・促・測・束・則・息
        素句
 除(のぞく・ジョ)=邑+余(∧一ホ)
          「くに」の余り
          「ユウ」の余り
           部首の「阝」は
          「左=邑」で
          「右=阜」
          「余=∧(人)+一+ホ」
          「余=∧(人)+二+小」
          「余=∧(人)+工+小」
          「余=∧(人)+T+一+亅+八」
 除く=のぞく=覘く・覗く・・・之属
    の=埜・野・乃・廼
     ぞく=粟・族・足・賊・続・俗
     そく=捉・促・測・束・則・息
        素句
 除(のぞ)く・・・省(はぶ)く=少+目
       ・・・少な目→すくなメ→宿名目
          少名彦名のメ
          スクナビコナスクナヒコナ
          少名毘古那
          須久那美迦微
          少彦名
          少日子根
          神皇産霊神
         (かみむすびのかみ・古事記)の子
          高皇産霊神
         (たかみむすびのかみ・日本書記)の子
          少名彦名のメ
       波の彼方より
       天乃羅摩船
      (アメノカガミノフネ)に乗って来た
       大国主の国つくり助勢に際し、
       天乃羅摩船に乗って来、
       オホナムチ(大己貴)大神の命によって
       国造りに参加
       大己貴(オホナムチ)同様の
       山や丘の造物者、命名神
       悪童的な性格(日本書紀・八段一書六)
       後、常世国へと渡り去る・・・
          ↓
       常世常陸→茨城→水戸
       水戸→徳川光圀→大日本紀
       水戸黄門隠元
ー↓ーーーーーーーーーー↓
       隠元は弟子の
       也嬾性圭を日本に派遣したが、
       途中船が座礁して客死
       自ら
       良静・良徤・独痴・大眉・独言
       良演・惟一・無上・南源・独吼ら
       二十人ほどの弟子を率いて、
       鄭成功が仕立てた船にり、
       承応三年(1654年)
       七月五日夜に長崎へ来港
       月洲筆「普照国師来朝之図」
       弟子の良静ら十弟子は翌年に帰国
       十弟子が日本に留まり
       大眉・南源・独吼は日本に帰化
       渡日当時、
       中国は明末清初の騒乱期
       隠元興福寺に入る
       明暦元年(1655年)
       妙心寺元住持の
       龍渓性潜の懇請により、
       摂津嶋上(高槻市)の普門寺に晋山するが
       幕府によって、寺外に出る事を禁止、
       寺内の会衆も200人以内に制限
       帰国を決意するが、
       龍渓らが引き止め工作に奔走
       万治元年(1658年)
       江戸幕府四代将軍
       徳川家綱との会見
       万治三年(1660年)
       山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、
       翌年、新寺を開創
       故郷の中国福清と
       同名の
       黄檗
       萬福寺と名付けた
ー↓
 全事象が10の可能性があるとし
 結果の「一つ」の事象が起これば
 残りの「九つ」は
 余事象・・・
ー↓
 餘慶寺(ヨケイジ)
 岡山県
 瀬戸内市
 邑久町
 北島にある寺
 宗派は天台宗
 山号は上寺山(うえてらさん)
 本尊は千手観世音菩薩秘仏
 三十三年に一度開帳
 直近では
 平成二十四年(2012年)
 十一月開帳
 中国
 三十三観音霊場
 第二番札所
 本尊・東向き観音の霊験
 天平勝宝元年(749年)
 報恩大師によって開山
 別称
 日待山日輪寺
−−
 以下ウイッキペデアより・・・参照、参考抜粋し、少々改作して添付・・・
ーー↓ーー
 夫余(フヨ・夫餘)
 建国の地
 濊(わい)族が住んでいた
 松花江上流の
 弱水(奄利大水、拉林河)
 南進して
 夫余を建国する以前の
 慶華古城(濊城・黒龍江省賓県)が発見
ーー
 神話
 「論衡・後漢書東夷伝・魏略」
 「昔、
  北夷の
  索離国があった
  国王は侍女が妊娠したので殺そうとした
  女は
  以前、空にあった
  鶏の卵のような
  霊気が私に降りてきて、身篭りました
  と言い、彼女は男子を生んだ
  王が命じて
  豚小屋の中に放置させたが、
  豚が息を吹き掛けたので死ななかった
  次に
  馬小屋に移させると、
  馬もまた息を吹き掛けた
  それを王は神の仕業だと考え、
  母に引き取って養わせ、
  東明と名づけた
  東明は長ずると、
  馬に乗り弓を射ること巧みで、
  凶暴だったため、
  王は東明が
  自分の国を奪うのを恐れ、
  再び殺そうとした
  東明は国を逃れ、南へ走り
  施掩水にやって来て、
  弓で川の水面を撃つと、
  魚や
  鼈が浮かび上がり、
  乗ることが出来た、
  そうして
  東明は
  夫余の地に至り、王となった」
ーーー
 ・・・「魚や鼈」にのったとは「浦島太郎」に似ている・・・
ーーー
 「魏書」、「三国史記
 高句麗
 始祖
 朱蒙も夫余の出身
 衆を率いて
 夫余から東南に向かって逃れ、
 建国したと記録
 「三国史記・三国遺事」
 「解夫婁(カイフロウ)」が
      ・・・?「カイの夫の婁」
 治めていたがのちに
 太陽神の
 「解慕漱(カイボソウ・カイボス)」が
      ・・・?「カイを慕うウガイ」
 天降ってきたので
 解夫婁は東に退去し
 別の国(東夫余)を建てた
ーー 
 吉林省東団山一帯で発見された
 南城子の調査結果から
 紀元前200年頃に存在
 夫余王の王室には
 「濊王之印」が伝来
 夫余王および夫余の老人たちは
 自らを「亡命者」と称していた
 漢四郡を設置した際の記述中に
 夫余の名
 東夫余
 東夫余は
 高句麗を臣属
 紀元前6年1月
 太子
 「都切」を人質へ差し出すことに応じなかった
 高句麗
 十一月に五万の兵で
 高句麗を攻めたが大雪と厳寒により
 凍死者を出し軍を撤退
 三年後、王の
 帯素が再び使者を派遣
 高句麗は服属した
 王莽が「新国」を作り
 異民族に対する
 蔑視政策のため、離反
 建武年間(25年〜56年)
 東夷諸国が後漢に来朝し、中国に方物を献上
 建武二十五年(49年)
 光武帝
 夫余王が遣使を送って朝貢
 安帝の
 永初五年(111年)
 夫余王は歩騎7〜8千人を率いて
 玄菟郡を寇鈔し吏民を殺傷
 再び帰附
 永寧元年(120年)
 夫余王は嫡子の
 尉仇台を遣わし
 印闕貢献してきたので、
 安帝は尉仇台に
 印綬金綵を賜った
 翌121年
 高句麗が1万の兵を率いて
 漢の
 玄菟城を囲むと、
 夫余王は嫡子の
 尉仇台に2万の兵を率いさせて援軍に遣り、
 高句麗軍を壊滅
 翌122年(延光元年)、
 高句麗
 馬韓
 濊貊と共に
 遼東へ侵攻したので、
 兵を派遣して打ち破り救った
 順帝の
 永和元年(1336年)
 夫余王は京師(洛陽)に来朝
 桓帝
 延熹四年(161年)
 夫余の遣使が
 朝賀貢献
 永康元年(167年)
 夫余王の
 夫台は2万余人を率いて
 玄菟郡を侵略したが、
 玄菟太守の
 公孫域によって撃破され、
 千余名が斬首
 霊帝
 熹平三年(174年)
 夫余は
 再び冊封国として貢ぎ物を献じた
 夫余はもともと
 玄菟郡に属していたが、
 献帝(在位は189年〜220年)
 夫余王の
 尉仇台が遼東郡に属したいと申し出
 遼東郡に属した
 この時期は
 玄菟郡、遼東郡は
 公孫氏の支配下
 東夷諸国は公孫氏に附属
 高句麗
 鮮卑が強盛だったので、
 公孫度はその二虜の間に在る
 夫余と同盟を組み、
 公孫氏の
 宗女(公孫度の娘、or妹)を
 尉仇台の妃とした
ーー 
 魏の
 黄初元年(220年)
 夫余が魏に朝貢
 君主は
 「夫余単于
 尉仇台が死んで
 簡位居が立った
 位居には適子がいなかったが、
 孽子の
 麻余という者がい
 位居が死ぬと、
 諸加(諸大臣)は共に
 麻余を立てた
 牛加(官名)の兄の子である
 位居は大使(官名)となり、
 善政をしき
 国人はこれに附き、
 年々中国に遣使を送って朝貢
 正始年間(240年〜249年)
 幽州刺史の
 毋丘倹は
 高句麗を討伐し、
 玄菟太守の
 王頎を夫余に遣わした
 大使の
 位居は
 大加(官名)を遣わし
 王頎らを郊外で出迎え
 軍糧を供えた
 季父(おじ)の
 牛加に二心があったため、
 位居は
 季父父子を殺し、
 財産を没収し、
 帳簿に記録し、
 使者を派遣してその帳簿を官に送った
 麻余が死ぬと、
 6歳の
 依慮が立って王になった
ーー
 西晋時代
 武帝(在位は265年〜290年)
 夫余国は
 西晋朝貢
 太康六年(285年)
 鮮卑
 慕容部の
 慕容廆に襲撃され、
 王の
 依慮が自殺
 子弟は
 沃沮に亡命して
 「東夫余」を建国
 武帝は夫余を救援する詔を出したが、
 護東夷校尉の
 鮮于嬰が従わなかったため、
 彼を罷免して
 何龕をこれに代えた
 明年(286年)
 夫余後王の
 依羅が遣使を送って
 何龕に救援を求めてきたので、
 何龕は
 督郵の
 賈沈を遣わして兵を送り、
 遼寧省開原市に
 夫余国を再建
 賈沈は
 慕容廆と戦い、大敗させ、
 夫余の地から慕容部を追放
 依羅を復国させた
 その後
 慕容廆は夫余に侵入し
 の民衆を捕まえて
 中国に売りさばいた
 武帝は夫余人奴隷を買い戻させ、
 司州,冀州では
 夫余人奴隷の売買を禁止させた
ーー
 東晋時代
 永和二年(346年)正月
 夫余王の
 玄は
 前燕
 慕容皝に襲撃されたが
 西晋は夫余を後援する力なく、
 王と部落5万人余りが捕虜として連行
 夫余王の
 玄は
 燕王の娘を娶った
 夫余は
 前燕の属国
ーー
 東夫余
 「広開土王碑」、
 410年
 高句麗の広開土王が
 東夫余を討伐
 東夫余の5集団が来降
 435年
 東夫余は高句麗に併合され消滅
ーー
 北夫余
 夫余国は北魏の時代まで存在
 太和十八年(494年)
 勿吉に滅ぼされた
 夫余族の
 苗裔は
 豆莫婁国と称して
 唐代まで続いた
ーー
 夫余
 長城の北方、
 玄菟から夫余の王都まで
 北へ千余里
 南は高句麗
 東は挹婁、
 西は鮮卑と接している
 北には
 弱水がある
 国の広さは
 二千里四方
 戸数は八万戸
 人々は定住生活
 城郭、宮室、倉庫、牢獄があり、
 山や丘や広い沢が多く、
 東夷地域では最も広い平坦な所である
ーー
 衣食住
 白の衣服を尊重
 白布の大きな袂の袍や袴を着て革鞜を履く
 国外に出るときは、
 絹織物、繍、錦織、毛織物などを
 身につけ金銀で飾る
 大人は、
 狐、狸、狖(黒猿)、白貂、黒貂などの
 皮をまとい、
 金銀で帽子を飾る
 食飲は俎豆(ソトウ=食器、作法)を用い、
 宴会での立ち居振舞いは謙虚
 殷歴の正月
 天を祭り、大会を開き、連日飲食、歌舞
 この祭を
 「迎鼓」という
 祭りの時期には
 刑罰を行なわず、
 囚人を解放する
ーー
 統一的な君王
 古い夫余の風俗において、
 天候不順で五穀の生育が順調でない時には
 その責任を
 王のせいにし、
 或いは王を易えるべきだと言い、
 或いは王を殺すべきだとした
ーー
 官職の名称
 六畜の名
 馬加,牛加,豬加,狗加
 の諸加
 諸加はそれぞれ
 四出道を守り、
 勢力の大きな者は数千家、
 勢力の小さな者は数百家を支配
 諸加の下に
 大使、大使者、使者の諸使
 邑落には豪民と呼ばれる奴隷を持った豪農
 下戸と呼ばれる隷属農民や奴隷、奴僕と呼ばれる
 奴隷がいる
ーー
 夫余の生業は主に農業
 鉄製農具を使用
 農業技術や器具は同時代の
 東夷の中で最も発達
 金銀を豊富に産出する土地であり、
 金属を糸状に加工して飾り付けた物など、
 金銀の加工に関しては
 高い水準だった
 紡績に関しても
 養蚕が営まれ絹や繍・綵など様々な種類の
 絹織物が作られたほか、
 麻織物や
 毛織物が作られ
 東夷の中で最も発達
 牲の牛を多く養い、
 名馬と赤玉,貂,狖,美珠を産出
 珠の大きなものは
 酸棗(やまなつめ)ほどもある
−−
 刑罰
 人を殺せば死刑
 家族は奴婢
 盗みは盗んだ物の12倍で償わせる
 男女の私通、
 婦人の嫉妬は死刑
 妬みによる罪をもっとも憎んでおり、
 その罪により死刑にされると、
 死骸は国の南の山上にさらされ、
 腐爛するまで放置
 死骸が腐爛したのち、
 その婦人の家人がその
 死骸を引き取りたいと望んで
 牛馬を連れていけば、死骸を与える
ーー
 兄が死んだ場合、
 兄嫁を
 弟が妻とする
 匈奴
 同じ「習俗(レビラト婚)」
ーー
 有力者が死ぬと、
 夏期であればみな氷を用い、
 人を殺して殉葬
 多い時には
 殉葬者が数百人
 死者を厚葬し、
 遺体を納める
 棺(ひつぎ)があるが
 槨(かく)はない
 喪に停すること五ヶ月
 男女は皆純白の喪服を着用
 婦人は布面衣(布製のベール)を着用
 環珮(腰に付ける環状の玉)を去らす
ーー 
 人々の体格は非常に大い
 性格は勇敢で、謹み深く親切
 あまり他国へは侵略しない・・・?
ーー
 通訳が言葉を伝える時、
 みな跪いて両手を地につけ、
 小声で話をする
ーー
 戦争を始めるときは
 天を祭り、
 牛を殺して
 その蹄を見て開戦の吉凶を占う
 蹄が開いていれば「凶」
 蹄が合わさっていれば「吉」
 戦争
 諸加はすすんで戦う
 下戸は食糧を担いで
 諸加に従い、諸加は下戸の荷う食糧を飲食
ーー
 東夫余と北夫余
 東夫余という名は
 「広開土王碑」に記録
ーー
 夫余の言語は高句麗と同じ
 沃沮と濊もほぼ同じ
 東の
 挹婁は独特の言語を使用
 夫余の言語と異なる
 ツングース語系
 粛慎系、靺鞨、勿吉とともに
 夫余もツングース系であるとされている
 ツングースモンゴル語系説
 比較言語学的研究により、
 穢貊系(濊系、扶余系)の語彙の多くが
 ツングース系の語彙と共通し、
 かつ
 モンゴル系の語彙も含む
 夫余・高句麗語はツングース系をベースとした
 モンゴル系との混成語であるとする説
 粛慎系の言語は
 モンゴル系などが混じっていない
 「純ツングース系」とされる
 夫余語系説
 比較言語学的研究により、
 「三国史記」所載の高句麗地名から抽出した
 高句麗語語彙が、
 ツングース系語彙よりも
 日本語や中期朝鮮語語彙に多く共通するとして、
 アルタイ祖語は
 夫余・日本・朝鮮・韓共通語と
 テュルク・モンゴル・ツングース共通語の
 二つに分離し、
 前者が
 原始韓語と
 原始夫余語とに分かれ、
 ついで
 原始夫余語が
 高句麗語と
 原始日本語とに分かれたとする説
 モンゴル語系説
 北夫余の故地に在った
 豆莫婁の言語は、
 室韋
 庫莫奚
 契丹と同じであることが
 「魏書」に記録」
 「新唐書」にある
 北夫余の末裔を自称した
 達末婁が同じ国であるため、
 言語的にも末裔であれば
 これらの言語系統は
 モンゴル系になる
 しかし
 支配層と民衆の言語が異なる可能性も有る
 古シベリア(古アジア)系説
 中国史書の記述から
 粛慎系の言語系統と
 濊系の言語系統が異なると判断し、
 粛慎系をツングース系と仮定すれば、
 濊系は古アジア系となる説
ーー
 歴代君主
 東夫余
 解夫婁王(在位年不詳)
 2.金蛙王(在位年不詳)
 3.帯素王(?年 - 22年)
 4.曷思王(22年 - ?年 ※夫余王か疑問)
 5.都頭王(?年 - 68年 ※夫余王か疑問)
ーー
 北夫余
 夫台王
 2.尉仇台王
 3.簡位居王
 4.麻余王
 5.依慮王
 6.依羅王
 7.蔚王(※夫余王か疑問)
 8.玄王
 9.居王
ーーー
 百済の王族名→扶余氏
 朝鮮半島北部と
 南満州における特定の
 古代言語→扶余諸語
 吉林省松原市に位置する県→扶余県
 大韓民国
 忠清南道の郡→扶余郡
ーーーーー
 ・・・???