1379日目・・・ジィジィとバァバァは「孫の顔」をみたいらしい。「子」よりも「孫」にナニを期待しているのだろう?「子(こ・ね・シ・ス)」は「親の生き方」に批判的で反抗的だし、知ったかぶりで、理屈ぽい、時にはライバル意識で親に対峙する。「孫」は・・・ただただ「めごい・めんこい・面濃・めんごい・めんこ・面子・可愛い・愛(いと)しい」・・・メ語彙?・・・「翰苑」の「後漢書」に「倭面上国王・帥升」、「唐類函・変塞部倭国の条」、所引の「通典」には、「倭面土地王・帥升」・・・の記録・・・「面濃い」って、「顔の彫りが
ーー↓
爾
大久米命、
以
天皇之命詔其
伊須氣余理比賣之時、
見其
大久米命・・・耐久、於補救米命
黥利目而=ゲ・ゲイ・ケイ・いれずみ・利き目の爾
解・刑・景・黒京・利の目爾
芸・迎・桂・刺青(シセイ)
市政・利・目次
黥=里烈火(灬)京
思奇歌曰、
阿米都都=あめつつ?・・・・・阿毎の都の都
亜米利加の都
知杼理麻斯登登=ちどりましとと?
杼=ショ・ジョ・どんぐり
那杼佐祁流斗米=などさけるとめ
爾大久米命、答歌曰、
袁登賣爾=をとめに
多陀爾阿波牟登=ただにあはむと
和加佐祁流斗米=わがさけるとめ
ーー
・・・それとも「お面」そのものをかぶったヒトなのか・・・「埴輪の面」なのか・・・
漢字の
「子(こ・ね・シ・ス)」と
「孑(ぼうふら・ひとり・ケツ・ケチ)=孒」は、
「蚊」の幼虫の「孑」の漢字はほとんどが「子」と同じで区別がつき難い。
「子・孑」を分解すれば「一+了」で「始と終」である。
熟語なら「始終・終始」である。
「孑」に「棒振」の漢字を当てる場合もある。「歌舞伎の舞踊の一つ」であるらしい。文字の「棒振」の説明文でみるかぎり、「フラダンス」か「ベリーダンス」である。字面どうりに理解するならば、「棒振り」は交響楽団か、合唱団の「指揮者」である。あるいは、戦場で軍兵を配置指揮する「采配の指揮棒」、「軍配団扇」を振るう大将である。そして、相撲の勝敗を示す「軍配団扇」を持つ「行司」である・・・指揮棒に旗が付けば「手旗信号」の旗振りである。海上の軍戦艦同士、交通道路工事の旗振りオジサンである・・・寒い日も暑い日もタイヘンである・・・指揮棒を持たなく、左右両手と身体で交通整理するお巡りさんも・・・時には警棒を振るうコトもあるけれど・・・
漢字ソノモノの意味は
「孑=右腕を欠損した子供」、
「孒=左腕を欠損した子供」であるらしい。音楽での「燕尾服」着用の指揮者の左右の片手、あるいは両手による「五線上の楽譜記号のお玉杓子」のイメージの采配指揮である。両棲類の「オタマジャクシはカエルの子」である・・・ゲロ、ゲロ、ゲロ・・・「カエルのウタ」は何時の時代のものか・・・明治・・・
ならば
「了」は「両腕のない子供」になってしまう。楽曲の指揮は完了、終了である。観客の拍手があるか、どうか・・・
兎に角「蚊=中+ム+亠+乂」の幼虫である。
「孫(まご・のがれる・ソン・スン・ソウ)」の漢字は
「子+系」ではなく、活字で見る限り
「孑+系」である。
「燕の」
「燕王」の
「公孫」の字面からすれば「公」の「孫」・・・
「呉王」の
「孫権」は「名前」であるように思うが
「氏姓」が「孫」・・・すると「権」が一字の名・・・?
「呉」−「燕」−「孫」・・・「権」
倭=「俀」・・・ヒミコ・邪馬(靡)台国・・・
ーー↓
「趙飛燕(? - 紀元前1年)」
前漢成帝の皇后となる
成帝の姉
「陽阿公主」に奉公
歌舞を研鑽
「飛燕」の如く・・・で、
成帝の後宮に入る
元の名は
「宜主」
「環肥燕瘦」の「燕痩」が「趙飛燕」
「環肥」が「楊貴妃・幼名は玉環」
妹は
「趙飛燕」の妹が
「趙合徳(趙昭儀)」
成帝は
前18年12月に
許皇后を廃立し、
前16年に
「趙飛燕」を
立皇后
前7年
成帝が崩御
成帝の死因が
妹の趙合徳であるとされ
趙合徳は自殺
その後
哀帝の即位で
皇太后
前1年
哀帝が崩御し
平帝が即位
王莽により
皇太后から
孝成皇后へ降格
そして
庶人に落とされ
自殺
ーー↓
「燕の公孫氏」と「呉の孫氏」の繋がりの記録には・・・「卑弥呼」も存在するが・・・「孫」と「燕」、「呉」・・・を漢字で繋ぐモノは・・・
「孫悟空」と
「西海竜王・敖閨の第三太子」の
「白馬=玉龍(美女・足に怪我)」か、
1910年(明治四十三年)に
「支那暗殺團」を結社した
「孫文=孫中山」・・・?
「孫」=まご=「馬子」・・・蘇我馬子・・・?
ーー↓
「乳母=馬命婦=馬婦」
「小馬命婦=清少納言の娘」
(こうまのみょうぶ・こまのみょうぶ)
別称は「馬古曽(むまこそ)」
数ならぬ身は
はしたかの
鈴鹿山
とはぬに
何の音を
かはせむ
(玉葉和歌集1568)
ーー↓
「尊卑分脈」系図
藤原南家
藤原棟世の娘
「範永朝臣集・詞書」
清少納言であることが知られ、
一条天皇の皇后の
上東門院彰子に仕えた
円融朝の
「小馬命婦」と区別し
「上東門院小馬命婦」と称
ーーー
「児孫のために美田を買わず」では
「子孫」ではなく「児孫」で、
「児孫」=「兒孫」・・・旧(臼)+儿→「舊+儿」
「児=兒」ならば「臼のヒト(儿)」である。
ーー
呉
222年〜280年
三国時代に
孫権が
長江流域に建てた王朝
姓は
「孫」氏・・・?
首都は
建業(南京付近)
孫呉、東呉とも呼ばれる
222年
魏に対して称臣していた
孫権が
「黄武」と言う新しい元号を使い始め、
魏からの独立を宣言した年
呉の建国
孫権が
皇帝を称して即位したのは
229年
ーー
孫権の
父は
孫堅
兄は
孫策
ーー
孫堅は
「孫子の著者」の
「孫武」の末裔を称していた
↓ 「孫子」は「兵法書」の署名だが・・・
↓ 「孫」の「子」はナニを意味しているのか?
↓・・・後に「武経七書」の一・・・
↓「呉」は「兵法書」の
↓「呉子」を指す場合もある
↓
春秋戦国時代に著作され
「呉起」を主人公とした物語形式
現存は「呉子・六篇」だが、
「漢書・芸文志」には
「呉子・四十八篇」と記録
部隊編制の方法、
状況・地形毎の戦い、
↓ 兵の士気の上げ方、
↓ 騎兵・戦車・弩・弓の運用方法など
↓ ・・・?
↓ 1)序章
呉起と武侯との出会い
2)図国
政治と戦争について
3)料敵
敵情の分析の方法
4)治兵
軍兵の統率原則
5)論将
戦争指導者について
6)応変
臨機応変(法家思想)について
7)励士
士卒の激励と鼓舞について
「和して、しかる後に大事をなす」
四不和・・・戦争の訓戒、禁止
国内の不和
軍内の不和
部隊の不和
戦闘時の不和、不調
「戦争勝利は治による」
「治とは即ち、規律秩序」
「進退節度・合図号令遵守」
連絡不調でも陣容をくずさず、
散開しても隊列をくずさない
これを指して「父子の兵」と言う
死に栄ありて生の辱なし
軍将の心得
1)理(管理)
軍兵管理監督
2)備(準備)
3)果(決意)
4)戎(警戒、自戒)
5)約(簡素化)
「一の力で十の敵を撃つ」
険しい山地で戦う
狭い谷間で戦う
「多数を率いるものは、平坦な戦場
少数を率いるものは、狭隘な戦場
を選ぶ」
「賞罰を公正しても、
賞罰はそれ自体で、
勝利の保証とはならない。
号令に、
喜んで服従する
動員命令で、
喜んで戦場に赴く
敵と刃を交えれば、
喜んで一命を投げ出す」
「どうすればよいか?」
「功績者を、抜擢して手厚く遇し
且つ、
功績のない者に対しても
↓ 激励のコトバをかけてやる」
↓
「孫武」は、紀元前500年ごろ
当時の「呉」に仕えた人物・・・
孫武の子孫で
斉に仕えた
「孫臏」も兵法書を著す
「漢書・芸文志・兵権謀家類」
孫武のものを
「呉孫子兵法・八十二巻・図九巻」
孫臏のものを
「斉孫子兵法・八十九巻・図四巻」と記録
両書はそれぞれ異なる著作
↓
呉孫子兵法
十三篇
1)計篇−序論
戦争を決断する以前に考慮すべき事柄
2)作戦篇
戦争準備計画
3)謀攻篇
戦闘に拠らずして、謀略の方法
4)形篇
攻撃と守備の態勢
5)勢篇
態勢から生じる軍勢の勢い
6)虚実篇
戦争での主導性の発揮
7)軍争篇
敵軍対する機制、機先
8)九変篇
戦局の変化に対応する九の対処戦術
9)行軍篇
10)地形篇
地形による戦術の対処変更
11)九地篇
九種類の地形地勢に対応した戦術
12)火攻篇
火攻め
13)用間篇
敵情偵察
↓ 間諜、スパイがもたらす情報、分析、判断
↓ (竹簡孫子・宋本十一家注孫子)
↓ 好戦、長期戦の戒
↓ 「百戦百勝は善の善なるものに非ず。
↓ 戦わずして
↓ 人の兵を屈するは
↓ 善の善なるものなり(謀攻篇)」
↓ 「彼を知り己を知れば
↓ 百戦して殆うからず(謀攻篇)」
↓ 「善く攻むる者には、
↓ 敵、其の守る所を知らず。
↓ 善く守る者は、
↓ 敵、其の攻むる所を知らず(虚実篇)」
↓ 「兵は国の大事にして、
↓ 死生の地、存亡の地なり。
↓ 察せざるべからず」
↓ 「国を(防衛)全うするを上と為し、
↓ (敵)国を破るは之に次ぐ」
↓ 「百戦百勝は善の善なるものに非ず」
↓ ・・・「孫子」は国家存亡の
↓ 「戦略・政略」を重視・・・
ーー↓
孫堅は
黄巾の乱で
朱儁の配下
戦後に
別部司馬(別働隊の武将)
辺章・韓遂の反乱の鎮圧で
長沙太守
「江東の虎」と評された・・・虎
189年
洛陽で
董卓が関東諸豪族の反感を買い、
反董卓連合軍が結成され、
孫堅も出兵し、その途中で
荊州刺史
王叡
南陽太守
張咨を殺し、
袁術の配下に入って
破虜将軍・豫州刺史となった
孫堅は
董卓の武将
華雄(葉雄)を討ち取り、
呂布を撃退
董卓は洛陽を焼き払い、長安へ去った
後、
反董卓連合軍は内部対立で崩壊
191年(192年?)、
孫堅は
劉表と争い、
劉表の部将
黄祖の軍を打ち破るが、
追撃途中で戦死
ーー
孫策
孫堅死後、
軍団は伯父の
孫賁の指揮の元で
袁術の旗下に入り、
孫策は
江東(長江の東、江蘇省・安徽省)の
劉繇
王朗らを撃破
江東を制覇
孫策の周りには
程普・黄蓋・韓当
周瑜・太史慈・張昭・張紘・魯粛
などが結集
197年
袁術が皇帝を僭称
袁術と絶交し、
献帝を奉じていた
曹操の配下となる
曹操の弟の娘が
孫策の弟の
孫匡に嫁ぎ同盟
孫策は
討逆将軍・呉侯の位を得
長江の北部の
劉勲を討ち、
黄祖を破った
200年
孫策は許都侵攻作戦を企てが
許貢の息子に襲撃され死亡
ーー
孫権
継いだのが、
弟の孫権
呉建国以前から居住していた
漢民族は
宗部・宗伍などと呼ばれた
208年
孫権は
黄祖を討伐
曹操は官渡の戦いで
旧袁紹領をすべて併呑、華北を統一
208年に軍を南下させ
荊州の劉�懿は曹操に降伏
曹操は、劉備を追い散らし、江東へと侵攻
孫権は
劉備と同盟を結び、
周瑜・程普を大都督として
赤壁で曹操軍を撃退
(赤壁の戦い)
孫権は、妹の孫夫人を劉備に嫁がせ
荊州の数郡を劉備に貸し与えた
後、蜀は劉備に占拠された
210年
孫権は
歩騭を
交州刺史に任命して交州に派遣し、
士燮を服属させ、
呉巨を謀殺した
212年
呉から建業へと拠点を移した
214年
孫権は呂蒙・甘寧を率いて
曹操領の皖城を降し、
廬江太守の
朱光を捕らえた
劉備が益州刺史の劉璋を攻め降して益州を領有
孫権は劉備に
荊州の長沙・桂陽・零陵の三郡の返還を要求
孫権は軍隊を派遣し、長沙・桂陽・零陵を奪った
曹操が漢中に侵攻
劉備は孫権と和解し、
長沙・桂陽を孫権に返還し、
同盟友好関係を回復
217年
劉備に対し
孫権は曹操と和睦して称臣
219年
荊州を攻め落とし、関羽を捕らえて処刑
孫権は荊州の南部をすべて領有
220年
曹操が死去
曹丕が献帝より禅譲を受け
魏の皇帝を称した
221年
劉備は魏に対抗して
皇帝を名乗り、蜀漢を建てた
孫権は
魏の
曹丕に対して臣従し、
呉王に封ぜられる。
皇帝となった劉備は、荊州奪還で呉に侵攻
呉の
陸遜が全軍の指揮を執り、
蜀軍に大勝
(夷陵の戦い)
大勝した孫権は、
黄武の元号を立てて
魏から独立
大敗した劉備は
223年に病死
劉禅が継ぎ、
諸葛亮が政治・軍事の全てを司る
以降、蜀漢と呉は再び和睦して
魏に対抗
229年
孫権は皇帝に即位
元号を黄龍と改め、
建業に遷都
ーーー
その後、
孫権は
遼東の
公孫淵に使者を送って
魏を挟撃しようとしたが失敗
東の夷州・亶州(台湾・沖縄諸島)に
兵を派遣したが、
亶州には辿り着けず、
夷州から数千人の住民を連れ帰った
231年
潘濬に命じて武陵蛮を討伐し、鎮圧
234年
蜀軍との同盟により、
諸葛亮の北伐と共に荊州と合肥を攻める
236年
五銖銭500枚、
238年
五銖銭1000枚の
価値を持つ貨幣を発行
246年に廃止
皇太子
孫登の死後、
三男の
孫和を皇太子に立てたが、
243年頃から四男の
孫覇との間での継承争い
(二宮事件)
250年
孫和を庶子に落とし、
孫覇に対して自殺を命じ、
皇太子には
七男の
孫亮を即ける
ーー
孫亮・孫休
252年
孫権は死去
十0歳の
孫亮が皇帝
太傅・大将軍の
諸葛恪が政権を握る
皇族の
孫峻によるクーデターで
諸葛恪は殺される
258年
孫権の六男
孫休が擁立
ーー
孫晧
孫休が死去し、
孫権の三男で
廃太子であった
孫和の子の
孫晧が擁立された
279年
晋が呉へ侵攻
280年3月
晋軍は建業に達して
孫晧は降伏、呉は滅亡
・・・・???
ーーーーー↓
公孫氏 (遼東)
公孫氏(こうそんし)
三国時代の中国において栄えた氏族
二世紀後半
後漢の地方官だった
公孫度が
黄巾の乱以来の混乱に乗じて
遼東地方に半独立政権を樹立
漢民族
領土
朝鮮半島中西部
帯方郡を境に
南は
韓と接し
東北は
高句麗
西北は
烏丸・鮮卑と接する
公孫康の時代以後
韓や倭は帯方郡に帰属
189年
公孫度は後漢により
遼東太守に任命
後に後漢から自立
朝鮮半島の北端である
楽浪郡や、
山東半島まで伸張
204年
公孫度の嫡子である
公孫康が
楽浪郡の
南に
帯方郡を設置
韓や倭を勢力下に置く
「魏志韓伝」
曹操の後漢
公孫康に服属
左将軍の官位を授けられた
公孫康の後継には
弟の
公孫恭が立ったが、
228年に
公孫康の子
公孫淵が謀叛
叔父から位を簒奪
後漢が崩壊し
魏・呉・蜀の
三国に分立
公孫淵は三国の
魏に臣従を装い
呉と同盟工作
236年
魏の皇帝
曹叡から上洛を求められ
公孫淵は
魏に反発
燕王を称した
翌年には年号を
紹漢と定めた
公孫淵
一度は魏の
幽州刺史の軍勢を退けたが
238年
太尉
司馬懿の討伐を受け
国都
襄平を包囲され降伏
公孫氏の勢力は消滅
(遼隧の戦い)
公孫恭は魏への忠義を貫いたとして
処刑されなかったが、
子がおらず
公孫恭の死により
公孫度の子孫は滅亡
ーー
黄巾の乱の前後に
倭国大乱
公孫氏滅亡後
卑弥呼による魏への遣使まで
倭に関する記事が無い
公孫氏滅亡直後に
遼東経由で
遣使された
公孫氏が
倭の勢力が
中国本土へ朝貢する道を遮って、
倭からの朝貢を
公孫氏が受けていた可能性・・・
「新撰姓氏録」の記録には、
「常世連」なる帰化人は
公孫淵の末裔であると記述・・・
ーー
公孫延ー公孫度ー公孫康ー公孫晃
| |
公孫恭 公孫淵ー公孫脩
ーーー
公孫度(コウソンド・コウソンタク)
?〜204年
字は升済
初名は豹
漢末期の群雄
幽州
遼東郡
襄平県の人
「後漢書・謝弼伝」では
玄菟郡の出身
ーー
家系は公孫氏
父は公孫延
子は
公孫康
公孫恭
孫は
公孫淵
公孫晃
ーー
父は
玄菟太守の
公孫琙に官吏
公孫琙の早死した
子の名が、
公孫度の
初名と同じ「豹」だった
尚書郎から
冀州刺史に転じたが、
謡言を理由に職を追われた
董卓が実権を握ったとき、
友人であった
徐栄の推挙で
遼東太守
後漢が衰退し
董卓が死んだ後は、
公孫氏による
独立国のような体制となった
公孫度
襄平の名門を滅ぼし支配を固め
高句麗や
烏桓を討伐し
実権を握った
曹操に賞され、
武威将軍
永寧郷侯の地位を与えられたが
臣従を嫌い
遼東王を称した
ーーー
公孫氏
字義通り、公(諸侯)の孫を指す
?・・・「ダレの公」の「孫」なのか?
公の子である
公子までは公族
公孫からは臣籍
公孫を「氏」とすることが多い・・・?
ーー
公孫氏
公孫竜・公孫僑(子産)・公孫鞅(商鞅)
公孫述・公孫瓚・公孫度・公孫淵(遼東公孫氏)
など
公孫氏は、多くが
楽浪から
襄平・北平・薊(北京)など、
遼東を含む河北の北部に存在
ーーー