1353日目・・・「音吉(おときち」は、文政二年(1819年)〜慶応三年(1867年)一月十八日)、江戸時代の「水主(かこ)」で「漂流民」・・・後に「ジョン・マシュー・オトソン (John Matthew Ottoson) 」と名乗った。日本語名は「乙吉」とも表記されているが、「音吉の息子が乙吉?」・・・「Otto」+「son」=オトソン・・・?・・・「於兎(オトは森鷗外・鴎外の息子)・・・「於菟(長男)・茉莉(長女)・杏奴(次女)・不律(二男)・類(三男) 」・・・son・・・息子・せがれ・男の養子・

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 オットー
 Otto; Otho; Otmar; Ott; Ottor

 オットー (オーストリア公)
 Otto, Duke of Austria

 オットー(Otto, 1301年6月23日 - 1339年2月17日)は、
 ドイツ王アルブレヒト1世と
 王妃エリーザベト・フォン・ケルンテンの末息子

 オットー (マイセン辺境伯)
 Otto II, Margrave of Meissen
 オットー(Otto, 1125年 - 1190年2月18日)は、
 マイセン辺境伯(在位:1156年 - 1190年)
 辺境=ヘンキョウ
    a frontier (area)
    a border area
    a remote region
 辺境の町=a frontier town
      a town on the frontier
 辺境の守りを固める
      fortify (the defenses of) the frontier
 辺境伯(ドイツ語=Markgraf)
 ヨーロッパにおける貴族の称号の一種
 英語で辺境伯を「margrave」
 フランスなどドイツ地方以外の諸国では伯のうち実力のあるものが伯よりも格式の高い称号として
 「Markgraf」を起源とする
 「marquis」を名乗るようになり、
 この称号は
 「公と伯」の中間にある「爵位
 日本語では「侯爵」と訳される
 ・・・「Otto」の「son」は・・・「オトのムスコ」・・・ 
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 オトソン・おとサン・・・「音・乙・弟・父」+「ソン・サン」・・・
 類音の「ソン」は?
 タイ-ソン
 ty-son=táɪsən?
 タイ-ソン
 toss in?
 平気で会話に付け足す

 Osse-ssione?
 「郵便配達は二度ベルを鳴らす
 「The Postman Always Rings Twice」
 1934年に出版された
 ジェームズ・M・ケインの小説の題名
 イタリア語= Ossessione=「妄執」の意
 1942年(昭和十七年)製作の
 イタリア映画、
 ルキノ・ヴィスコンティ監督の長編処女作

 assa-ssin=əsˈæsn?
 (著名な政治家などをねらって殺す)暗殺者・刺客
 ・・・「安重根」だろう・・・
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 1819年(文政二年)
 尾張国知多郡小野浦(現愛知県知多郡美浜町)に生まれた
 1832年(天保三年)十月
 宝順丸(船頭は樋口重右衛門)で
 江戸に向けて
 鳥羽を出航(乗組員船頭以下十三名)
 途中の
 遠州沖で暴風に遭い難破
 十四ヶ月間、太平洋を漂流し
 陸地に漂着したときには、生存者は
 音吉
 岩吉(旧姓岩・松尾張国熱田出身)
 久吉
 の三名(三名を「三吉」と呼んでいた)のみ
 アメリカ太平洋岸の
 オリンピック半島
 フラッタリー岬付近にたどり着き
 現地のアメリカ・インディアン(マカー族)に救助
 インディアンには奴隷として使われ、
 ハドソン湾会社の持船のイギリス船に売られ
 オレゴン・カントリーの
 アストリア砦(現オレゴン州アストリア)に送られ
 ロンドンへ届けられた
 会社は三人を
 マカオ行きの
 ゼネラル・パーマー号に乗せられ
 ロンドンでテムズ川で十日間の船上にとどまり、
 上陸を許されて一日ロンドンを見学
 ロンドンに最初に上陸した日本人であった
ーー
 寛政五年(1793年)十二月二日
 鹿島灘で、
 若宮丸(弁才船 乗員十六名)が遭難
 漂流七ケ月後の
 寛政六年(1794年)五月十0日
 アリューシャン列島東部の島に漂着
 乗員十六名中
 一名は
 アリューシャン列島
 一名は
 イルクーツクで病死
 善六ら
 十名はロシアに残留
 日本に帰還したのは
 四名で
 津太夫ら四人がロンドン寄航しているも
 上陸は許可されていない
ーー
 遠州灘で遭難した宝順丸(弁才船 乗員十三名)の生き残り、
 音吉ら三名はイギリスのハドソン湾会社に保護され、
 ハワイ諸島、ロンドン、マカオを経て琉球に送られ、
 モリソン号に便乗したが帰国できなかった
ーー
 1835年12月
 パーマー号はマカオにつき、
 3人はドイツ人宣教師
 チャールズ・ギュツラフに預けられ
 彼と協力し世界で
 最初の邦訳聖書「ギュツラフ訳聖書」を完成させた
 1837年3月
 薩摩の漂流民
 庄蔵、
 寿三郎、
 熊太郎、
 力松
 ら四人がマカオに届けられ対面
 同年六月
 七人を乗せたイギリス船
 ローリー号は、マカオを出発し那覇まで来、
 ここで彼らは
 モリソン号に移乗し、日本へ向かった
 7月30日
 同船が
 三浦半島
 城ヶ島の南方に達した
 砲撃にさらされた
 モリソン号事件
 フェートン号事件以降、江戸幕府異国船打払令を発令
 日本沿岸に接近する外国船は、見つけ次第に砲撃
 モリソン号は非武装の商船で
 日本人漂流民を送り届けに来たことが分かり、
 渡辺崋山高野長英らが幕府政策を批判し
 幕府によって逮捕
 蛮社の獄
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 天保十年(1839年)
 蛮社の獄
 尚歯会の
 渡辺崋山 「慎機論」
 高野長英 「夢物語」
 小関三英 「天文方
       阿蘭陀書籍和解御用」
      「泰西内科集成」
       崋山に「耶蘇伝」を口訳
      「ナポレオン・ボナパルト」を紹介
      「西医原病略」・「輿地誌」など
 らに加えられた弾圧事件
 長英は
 永牢の沙汰判決を受け
 伝馬町
 牢屋敷に収監
ーー↓
 音吉=福音書→「馬太(マタイ)伝」・・・馬交(マカオ)・・・馬来西亜(マレーシア)・馬來西亞・馬來西亞・・・馬爾代夫(モルヂィブ)・馬爾代夫・馬爾地夫・・・馬拉維(マラウイ)・ 馬拉維・ 馬拉威・・・馬里(マリ)・馬利・・・聖馬力諾(サンマリノ)・聖馬利諾・聖馬力諾・聖馬利諾・・・蓀馬(デンマーク)・・・馬其頓(マケドニア)・馬其頓・馬其頓・・・馬耳他(マルタ)・馬爾太・ 馬耳他・馬爾他・・・羅馬尼亜(ルーマニア)・羅馬尼・羅馬尼亞・ 羅馬尼亞・・・玖馬キューバ)・玖瑪・・・危地馬拉(グアテマラ)・危地馬拉・瓜地馬拉・・・巴奈馬(パナマ)・ 巴拿馬・巴拿馬・・・巴哈馬(バハマ)・・・馬歇爾(マーシャル)・馬紹爾・・・羅馬(ローマ)帝国・・・
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 モリソン号は通商も、漂流民返還もできず
 マカオ澳門・媽閣・馬交)に戻った
 彼らは再びチャールズ・ギュッラフの元に預けられ、
 1838年(天保九年)アメリカ合衆国へ戻った
 後、
 音吉は
 上海に渡り、
 阿片戦争に英国兵として従軍
 後、
 デント商会(宝順洋行・Dent & Beale Company)に勤め、
 デント商会に勤める英国人女性(名称不明)と結婚
 彼女との間には娘
 メアリーが出来たが、娘は四歳九ヶ月で他界
 妻もその後、他界
 メアリーの墓は、シンガポールにあるらしい・・・
ーー
 1849年(嘉永二年)
 イギリスの軍艦マリナー号で浦賀
 この時は中国人
 「林阿多」と名乗った
 1853年
 アメリカのペリー艦隊に同行予定だった
 日本人漂流民(仙太郎ら栄力丸船員)の脱走を手引き
 後に清国船で日本へと帰国させた
 1854年9月
 イギリス極東艦隊司令長官
 スターリングが長崎で日英交渉を開始
 彼は来日し通訳を務めた
 この時に
 福沢諭吉などと出会った
 その後マレー人と再婚
 彼女もまたデント商会の社員
 彼女との間には、一男二女
 この頃、音吉の住む上海で、
 太平天国の乱
 1862年(文久二年)
 シンガポールへ移住
 その地で幕府の
 文久
 遣欧使節通訳の
 森山栄之助らに会った
 使節団には福沢諭吉も参加しており、再会
 音吉は清国の状況などを福沢たちに説明し
 これらの記録は福澤が
 「西航記」として著作
 1864年
 イギリスに日本人として初めて帰化
 ジョン・マシュー・オトソンと名乗った
 1867年(慶応三年)
 シンガポールで病死・享年49歳
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 息子の
 ジョン・W・オトソンは
 1879年(明治十二年)に日本に帰り、
 横浜で日本人女性と入籍許可を得て結婚
 名前は
 「山本音吉(乙吉)」となった
 日本の国籍法は
 1899年(明治三十二年)
 法律第66号であり、
 日本国籍人となるも不備
 「山本音吉」はその後妻子と共に
 台湾へ渡り、
 1926年8月、台北で死去
 音吉のシンガポールでの埋葬は後に記録が確認された
 最初の妻は、マカオで宣教活動をしていた
 スコットランド
 二番目の妻は、上海で同僚だった
 ドイツ人とマレー人の混血の
 シンガポール人、Louisa Belder
 子供は息子の
 John William Ottoson
 娘が三人(Emily Louisa Ottosonは4歳で没)
 美浜町で妹の子孫が旅館を経営・・・
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