1190日目・・・「う‐づゑ(え)」・・・何を云いたかったんだか・・・「佐賀 潜(さがせん・1814年3月21日〜1970年8月31日)」は、「推理作家、検察官、弁護士。本名は松下幸徳・東京生まれ」・・・「父親を含め先祖代々が佐賀・鍋島藩」の・・・出身・・・では、「宇能 鴻一郎(うの こういちろう・本名は鵜野 廣澄・1934年7月25日)」は、どうしているんだか・・・「北海道札幌市出身」、「東京府士族の鵜野二弥と、佐賀県士族の綾(旧姓は徳久)」の長男・・・官僚の父の転勤で各地を転々とし、奉天から敗戦で引

さがみに、かみにかみて、ふきちらし・・・(現存・古事記)」・・・
 以下の参照参考原文は殆んどが「ウイッキペデア」、あるいは「ブログ辞典」からです・・・「行の頭だしのコトバ」と「数字(元号、西暦年月日、代数、第数)」の「掛け言葉の探索」と「歴史の重なりの探索」、それへの「?」な「モウソウ探索」ですので・・・アシカラズ・・・
ーー↓佐賀 潜の作品・・・タイトル
 非情の顔・ 第三の殺人・ むらさきの女・ 華やかな死体・ 黒の記憶・ 特捜圏外(埼玉鉄道事件)・ 検事城戸明・ 701号法廷(太陽信用組合事件)・ 銭の踊り・ 赤い血黒い血(弁護士鳴海五郎物語)・法律事務所SAGA・ 恐喝・ 白檀が匂った・ 黒幕・ 暗殺 明治の暗黒・ 猫眼石・ 黒の初夜・ 黒の構図・ 謀略者・ 脱税者・ 掠奪者・ 会社泥棒・ 赤い傷痕・ 黒の勝敗・ 略奪(明治の暗黒)・ 会社喰い・ 黒の追跡者・ 黒の捜査・ 黒の疑惑・ 黒い悦楽・ 深夜の目撃・ 倒産会社・ 総理大臣秘書・ 黒い会社・ 小説経団連・ 札束の軌跡(黒の告発書)・ 代議士逮捕・ 黒の社長室・ 黒い爪痕・ 弁護士槙弾正の告白・ 逃亡者・ 闇の極意・ 女の法律・ 倒産心中・ 幻の工場群・ 詐欺師・ 銭と女・ 抜け穴・ 乱花(藤原薬子の乱)・ 女の罠・ 殺意の蔭に・ 影の棲息者・ 夜を撃つ・ 社長の椅子・ 完全犯罪入門・ 五号という名の女・ アダムとイブの判例集・ 地図にない沼・ 殺人の報酬・ 真昼の醜聞・ 黒い策謀・ 小説法律入門・ 六字の遺書・ 文明開化帳・ 幻の殺人者・ 闇の図録・ 女体の幻影・ 華麗なる殺人(残酷犯罪調書)・ 夜の法律・ 悪の捕物帖・ 黒い昼夜・ 刺青源八捕物控・ 黒い頭脳集団・ 影絵のアルバム・ 佐賀潜捕物帖・ 燃えた札束・ 悲風川中島・ ある殺意・ ある疑惑・ 二本の指(明治掏摸物語)・ 清兵衛流極意(明治泥棒物語)・・・
スゴイねッ・・・同じ土俵の上で無自覚に「アク」も知らない人物のモノガタリ・・・高校時代に勉強もせず夜鍋してヨンだモノもある・・・
ーーーーー
 枕草子
 (八三段)・・・八拾参段・八十三段・八参段・捌足参段
         8+3=11=十一=壱拾壱=壱壱=足壱
         8×3=24=二十四=弐拾四=念肆

 ここち・・・個々知
 よげ・・・・与解
 なる・・・・名留
 もの・・・・模之
 卯杖の・・・「う‐づゑ(え)」之
ーーーーーーー↓
     正月初の卯の日に、魔よけの具として用いる杖
     柊(ひいらぎ)・桃・梅・柳などの木を
     5尺3寸(約1.6メートル)に切り
     2、3本ずつ5色の糸で巻いたもの
     昔、宮中では
     六衛府などから朝廷に奉った
      ↓
     柊=木+冬→記をトウ(問う)の音訓字のスベテ
     桃=木+兆→記をチョウ(調)の音訓字のスベテ
     梅=木+毎→記をマイ(埋)の音訓字のスベテ
     柳=木+卯→記をウ(得)の音訓字のスベテ
       キ(記)の音訓字のスベテ
      ↓
「桃の節句」=上巳の節供(三月三日)
     陰暦三(卯)月の
     最初の巳(み・蛇・蝮・波布、飯匙倩)の日
    「踏青(とうせい)」・・・「青踏社」
     古来中国の除災の風習
     川辺で青い草を踏み、
     川の流れで身を清める禊を行い、
     酒を酌み交わして穢れを祓った
      ↓
     ・・・「踏青(草)」とは「草叢」の
    「毒蛇」を追い出す作業と宴会の場所の設定
    「草ならし」だろう・・・・?
    「青踏社」は
     1911年(明治四十四年)、
    「平塚らいて」の結社した
     女流文学者、フェミニストの団体
    「蛇=男」を踏みつけるの象徴意だろう・・・
      ↓
     後に「上巳の節供」は
     「曲水の宴」へと発展
     「第二十三代
      顕宗天皇元年(485年乙丑年)」に初めて宴会
      ↓
     別名
     弘計(をけ)・・・緒懸
     来目稚子(くめのわくご)
     袁祁王(をけ)
     袁祁之石巣別命
    (をけのいわすわけのみこと・古事記
      ↓
     緒懸之言わす訳の見事
      ↓
     袁奚天皇播磨国風土記
      ↓
    「ひな祭」の料理
     ちらし寿司・菱餅・白酒
     雛霰(ひなあられ)
     蛤(はまぐり)=中+ム+合
     蛤は女の子の美徳と貞節・・・?
     ちらし寿司の具である
     蓮(れんこん)や
     蝦(海老・エビ)
     飾り物は
    「雨水」日
     太陽黄径330度
     立春から数えて15日目頃。
     および
    「啓蟄」日までの期間が吉とされる
ーーーー↓蛇足
    「485年・乙丑年」
     北魏が均田制を実施
    「第23代アメリカ合衆国大統領
     ベンジャミン・ハリソン
    (1833年8月20日〜1901年3月13日)
     祖父は第9代大統領ウィリアム・H・ハリソン
     1888年、大統領に当選
     マッキンリー関税と
     シャーマン法を含む経済政策
     初めて10億ドルの連邦政府の年間支出・・・
ーー↓卯杖(ウジョウ)→羽状・有情→野口雨情
    「古猫の相伴にあふ卯杖かな・許六」
ーー↓許六
 森川許六(もりかわ きょりく)
 明暦二年八月十四日
 (1656年10月1日)
    〜
 正徳五年八月二十六日
 (1715年9月23日)
 近江蕉門・蕉門十哲の一人
 名は百仲
 字は羽官
 幼名は
 兵助、
 または
 金平
 別号は五老井・無々居士・琢々庵・碌々庵
    如石庵・巴東楼・横斜庵・風狂堂など
 近江国
 彦根藩士
 佐々木高綱を遠祖とする
 三百石取りの彦根藩
 森川與次右衛門の子
 彦根城
 下藪下生まれ
 父親が
 大津
 御蔵役を勤めたことから
 七年間大津に住んだ
 剣術
 馬術(悪馬新当流)
 槍術(宝蔵院流槍術十文字槍)の名人
 絵は狩野探幽の弟で
 奥絵師の
 狩野安信に習った
 1670年代前半に
 和歌や俳諧
 北村季吟・田中常矩などに学んだ
 談林派の俳諧に属していた
 元禄二年(1689年)頃
 近江蕉門の古参
 江左尚白に弟子入り
 元禄四年(1691年)
 江戸下向の折に
 蕉門十哲
 宝井其角
 服部嵐雪の指導を受けた
 元禄五年(1692年)
 江戸深川で
 芭蕉に入門し、芭蕉より「許六」と言う号を授けられた
 「十団子も 小粒になりぬ 秋の風」の句を
 芭蕉は激賞
 芭蕉は許六に俳諧を教え
 許六は芭蕉に絵を教えた
 元禄六年(1693年)
 彦根に帰る際に芭蕉から
 「柴門之辞」と・・・司馬文之字
 俳諧の奥伝書を授けられた
 彦根では、
 芭蕉遺愛の
 桜の木を切って
 芭蕉像を作り
 河合智月(智月尼)に贈った
 芭蕉の門人で
 彦根西郊平田にある
 明照寺の・・・名証
 住職
 河野李由と
 元禄十五年(1702年)
 俳書
 「韻塞(いんふたぎ)」
 「篇突(へんつき)」などを共同編集
 宝永三年(1706年)
 「十三歌仙」
 正徳二年(1712年)
 「蕉風彦根躰(ひこねぶり)」
 聖徳五年(1715年)
 「歴代滑稽伝」
 門人として
 直江木導・松居汶村・北山毛紈
 寺島朱迪などを指導・・・寺=ジ
             島=トウ
             朱=シュ
             迪=テキ・ジャク・みち
                ↓
             字問取擢(適・摘)
             持統朱雀(主弱)
 宝永七年(1710年)
 家督を養子の
 百親に譲る
 晩年は
 癩病を病み、
 正徳五年八月二十六日
 (1715年9月23日)
 死去
 俳文集
 宝永三年(1706年)九月
 「本朝文選」、後に「風俗文選」と改題
 十巻九冊(五冊本もある)
 井筒屋庄兵衛から刊行
 蕉門俳人
 二十八の俳文約百二十編を
 「古文真宝後集」に倣って
 辞・賦・紀行などの
 二十一類に分けて収められた
 代表作(句)
 秋も早 かやにすぢかふ 天の川
 うの花に 芦毛の馬の 夜明哉
 茶の花の 香や冬枯の 興聖寺
 苗代の 水にちりうく 桜かな
 水筋を 尋ねてみれば 柳かな
 もちつきや 下戸三代の ゆずり臼
 紫陽花図には
 紫陽花の絵と共に・・・アジサイ→亜字差意掛
                 安治・鰺・味・庵治
 「あちさいの花は
  色白に肥ふとりたるが
  ちかくよりみれば
  白病瘡の
  あとのすき間もなくて
  興さめてやみぬ」
 と言う文が記録
 「風俗文選の山水の譜」には
 唐の
 王維の
 画論を基に自説
 「絵をよくするには、
  まず
  風雅を知らなければならない。
  古人が
  画中の詩、
  詩中の画と言っているのは
  このことを言っている」と記した
 風雅=詞句=愛=絵・・・?
 「詩画一致」の論理
 自ら
 「蕉門二世」と称し、
 「先師(芭蕉)の
  発句の作り方の
  前後をよく知り
  俳諧の底を抜いて
  古今にわたる者は五老井一人だ」と
 自負
 龍潭寺襖絵(彦根市
 井伊家の菩提寺龍潭寺
 許六の「牡丹に唐獅子」をはじめ、
 五十六面に及ぶ襖絵がある・・・らしい・・・
ーーー↓「う‐づゑ」の「ゑ=恵」
 「恵」は草体「ゑ」
 「衛」は片仮名「ヱ」、「we」 と発音
 「エ」は [e] と発音
 「ヤ行のエ」は「[je」 と発音・・・???
ーー↓ー
 奈良時代
 ヱは [we] と発音され、ア行のエは [e] と発音されて区別されていた。また、ヤ行のエも [je] と発音されて区別されていた。
 「ヱ」を表すための万葉仮名
 「咲」「面」「廻」「恵」
 ア行の
 「エ」は
 「衣」「依」「愛」「榎」
 ヤ行の
 「エ」は
 「兄」「江」「吉」「曳」「枝」「延」「要」「遥」「叡」
 と区別されていた。
 漢字音では、
 合拗音の「クヱ」「グヱ」(当時は小書きはされていない)
 という字音があり、それぞれ
  [kʷe] 、[ɡʷe] と発音され、
 「ケ」「ゲ」とは区別されていた。
ーー↓
 平安時代
 ア行の「エ」と
 ヤ行の「エ」が合流するものの、まだそれらと
 「ゑ」は区別されていた。
 十一世紀中期から後期頃の成立と考えられる
 「いろは歌」には、
 「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」
 とあり、
 「ア行のエ」と「ヤ行のエ」が合流するものの、
 「ヱ」は区別されている
 (ただしもとはア行のエも含まれていた可能性が指摘)
 寛智による
 「悉曇要集記(承保二年・1075年〉」には、
ーー
 アカサタナハマヤラワ一韻
 イキシチニヒミリヰ一韻
 ウクスツヌフムユル一韻
 オコソトノホモヨロ一韻
 エケセテネヘメレヱ一韻
ーー
 とあり、
 「ヤ行のエ」、「ワ行のヲ」が
 省かれている。このことから、当時の「音韻状態」は、
 「ア行のエ」と「ヤ行のエ」や、
 「ア行のオ」と「ワ行のヲ」は区別を失い同音になっていた一方、
 「ア行・ヤ行のエ」と「ワ行のヱ」は依然として区別されていた。
 「ア行のエ」と「ヤ行のエ」は十世紀後半以降同音になった・・・
 合流した
 「ア行とヤ行のエ」については、「ア行のエ」の発音が [je] に変化して、元々 [je] だった「ヤ行のエ」に合流したと見られている。
 「ヤ行のエ」を表す仮名は使われなくなっていき、
 「エ」に統合された。
ーー
 『和名類聚抄』(承平年間、931年〜938年頃成立、ア行とヤ行のエの区別がない)には、
 「机 和名、都久恵(つくゑ)」とあり、本来はヤ行のエを含んでいた「つくえ」を「つくゑ」と誤記した例がある。このように、ア行・ヤ行のエ([je])とワ行のヱ([we])を混同する例も出てきていたが、平安時代にはあまり混同は多くなかった。
 語中の「ハ行音」が「ワ行に発音」される現象(ハ行転呼)が奈良時代から散発的に見られ、十一世紀初頭には一般化した。
 この現象により、語中・語尾の
 「ヘ」の発音が
  [ɸe] から [we] に変化し、
 「ヱ」と同音になった。
 これにより語中の
 「へ」と「ゑ」の使い分けに混同が見られるようになった。
 十二世紀末には、
 『三教指帰注』(中山法華経寺蔵、院政時代末期の加点)に
 「酔はす(ゑはす)」を「エハス」とする例があるなど、
 「ヱ」と「エ」の区別を失うものも散見
ーー
 鎌倉時代に入ると「ヱ」と「エ」の混同が顕著になり、十三世紀に入ると「ヱ」と「エ」は統合した。
 「ヱ」が
 [we] から [je] に変化することによって
 「エ」と合流した・・・
 漢字音の
 「クヱ」、「グヱ」もそれぞれ
  [ke] 、[ɡe] と発音されるようになり
 「ケ」、「ゲ」に合流・・・
 「ハ行転呼」やいくつかの
 音節の統合により、
 同じ発音になった
 仮名が多数生じ、
 仮名遣いに動揺・・・
 「藤原定家」は
 『下官集』の
 「嫌文字事」で
 六十ほどの語例について
 「を・お」
 「え・へ・ゑ」
 「ひ・ゐ・い」の
 仮名遣いの基準を示した。
 藤原定家が基準にしたものには既に「ハ行転呼」が生じて表記が動揺していたものも含まれており、
 本来は「へ」である「行方(ゆくへ)」が「ゑ」とされ、
 本来は「ゑ」である「絵(ゑ)」が「え」に、
 「故(ゆゑ)」、「植ゑ(うゑ)」、「酔ふ(ゑふ)」が
 「へ」とされるなど、
 元々の発音とは異なる表記が採用されたものもあった。
ーー
 南北朝時代
 行阿が
 『仮名文字遣』(1363年以降成立)を著し、
 対象語数を1000語以上に大幅に増やした。
 以後
 『仮名文字遣』の仮名遣いが
 「定家仮名遣」として一般に広く受け入れられた。
 「定家仮名遣」は特に
 和歌や連歌など歌道で広く使われたが、
 それ以外の分野では
 「ゑ」、「え」
 および語中・語尾の
 「へ」の書き分けが混同したものがしばしば見られる。
 十六世紀(室町時代後期)の
 キリシタン資料における
 ローマ字表記では、
 元々の「ヱ」、「ア行のエ」、「ヤ行のエ」は
 いずれも語頭・語中・語尾に関わらず
 「ye」 で書かれており、
 発音がいずれも
 [je] だったことが分かる
 ・・・?・・・「ャエ」が「ジェ」・・・ですか・・・
ーー
 江戸時代の
 契沖(1640年〜1701年)は、
 『万葉集』、『日本書紀』などの
 上代文献の
 仮名遣が
 定家仮名遣と異なることに気付き、
 源順の
 『和名類聚抄』
 (承平年間、931年〜938年頃成立)
 以前の文献では
 仮名遣の混乱が見られないことを発見した。
 そこで、
 契沖は
 『和字正濫鈔』(元禄八年〈1695年〉刊)を著し、
 上代文献の具体例を挙げながら
 約30000語の
 仮名遣を明らかにして、
 仮名遣の乱れが生じる前の
 上代文献に基づく
 仮名遣へ回帰することを主張した。
 契沖の仮名遣は契沖の没後に
 次第に一般に受け入れられていき、
 定家仮名遣での誤りの多くが正された。
 いっぽう
 本居宣長
 字音仮名遣を研究し、
 『字音仮字用格』(安永五年〈1775年〉刊)で
 それを完成させたが、
 この中で
 合拗音のうち
 直音との発音の区別が当時まだ残っていた
 「クヮ」、「グヮ」のみを残し、
 「クヰ」、「グヰ」、「クヱ」、「グヱ」は
 それぞれ
 現実の発音に従って
 直音の
 「キ」「ギ」「ケ」「ゲ」に統合させた。
ーー
 十八世紀中頃には、
 「エ」や「ヱ」の発音が [je] から [e] に変化し現代と同じになった。
 明和八年(1771年)に
 上方で成立した
 『謳曲英華抄』には、
 「江ハいより生ず、江といふ時舌に触て最初に微隠なるいの音そひて江といはる」とあるが、
 この本は
 実際の口語と異なる謡曲の発音を教えるものであるから、既にこの頃には上方の口語でも [e] になっていたと見られる。しかし19世紀になっても [je] の発音は一部に残っていたらしく、
 蘭語辞典を写したと言われる
 メドハーストの
 『英和・和英語彙』(1830年刊)には、
 「え・エ」の
 ラテン文字化として
 「e」と共に
 「ye」の表記が見られる。
 ヘボンは日本語のラテン文字表記の際に、当初は
 メドハーストに倣って
 「エ」を「ye」と表記した
 『和英語林集成』(初版1867年)が、
 後の
 第三版(1886年)では、現状にあわせて
 「エ」を
 「e」 に変更している。
ーー
 明治六年(1873年)
 契沖の仮名遣いを基礎に、
 古文献を基準とした
 歴史的仮名遣
 『小学教科書』に採用され、
 これ以降
 学校教育によって普及し一般に広く用いられた。
 字音仮名遣は
 本居宣長のものを
 基本としたものが使われた。
 しかし
 昭和二十一年(1946年)には
 表音式を基本とした
 『現代かなづかい』が公布され、
 現代の発音を反映した
 仮名遣いが採用された。
 これにより、
 歴史的仮名遣における
 「ゑ」は
 全て
 「え」に書き換えられ、
 「ゑ」は一般には使われなくなった。
 ・・・イヤァ〜ッ、アレコレ面倒くさいね・・・学者の仕事は・・・兎に角、すきにさせてもらう・・・・ョッ・・・
ーーー↓枕草子・卯杖の「う‐づゑ(え)」のからのツヅキ
  「卯杖」だけれども「卯」の説明が無い・・・「フワフワした軟毛のある、穂のついた花・いね科の一年草・地中海沿岸原産・葉を含め花全体にフワフワした軟毛がある・茎の先端に小穂を蜜につけた長さ3センチ位の卵状の円錐花序をつける・高さ20〜30センチ・和名は花序の形がうさぎの尻尾に似ている為」・・・ウサギちゃん・・・歯列は (順に 門歯・切歯・小臼歯・大臼歯、上下は上下顎)で、計「二十八本の歯」を持つ・・・肉食ではなく、草食・足は跳躍走行に適している。前肢の指は五本、後肢の趾は四本で、指趾には爪が発達する。体全体は丸みを帯び、尻尾は短く丸い。盲腸は長いく、尿と糞は一つの穴(総排泄口)から排出する・・・灰色や褐色等の毛色を有し、積雪地帯では冬には白毛に生え変わる在来種ニホンノウサギは、日本の固有種。特別天然記念物の「アマミノクロウサギ」は、世界でも奄美群島の一部のみに生息・・・「奄美の黒ウサギ」・・・「因幡の白兎」・・・「ウサギが走るとき、前足より後ろ足が前にくる」・・・前の足(たり・あし・ジュウ)より、後の足(たり・あし・ジュウ)が前にでる・・・「ハロルド1世(Harold I、またはハロルド兎足王 Harold Harefoot・1015年頃〜1040年3月17日)は、イングランド王(在位1035?、1037?〜1040年)・あだ名の「兎足王」はハロルドの足の速さと狩猟家としての技術を指していらしい・・・が、敵に「ハロルドの遺体は掘り出され、頸(首)を切られ、テムズ川に隣接する沼地に放り投げられた」・・・らしい・・・後にこの遺体と首は支持者に回収され「セント・クレメント・デーンズ(St. Clement Danes)」教会に埋葬された・・・「江藤新平佐賀の乱)」・・・

「ラビッツ・フット(兎の足・ the rabbit's foot・rabbit foot)は、お守りの一種・・・「足=王」・・・「ウサギの尻尾」は「杖(木+丈)=記、紀の條」にぶら下る「兎の足(rabbit foot)」か、「尻尾(Rabbit Tail)」のことだろう、な、「宇佐神宮」は「魔よけ」だから・・・ワケの・・・「麻呂」→阿倍皇女(女王)怒る→「汚(穢)麻呂」→汚名回復→「清麻呂」・・・?
ーーー↓枕草子
 祝言
 神樂の
 人長。
 池の
 蓮の
 村雨
 あひたる。
 御靈會の
 馬長。
 また
 御靈會の
 振幡。
ーーーーー
 ・・・平仮名、片仮名で書かれたら・・・「うづ・ゑ(え)」には困った・・・「渦の絵」、「欝(鬱)の重」→「躁鬱のウツの重なり」、「打つ・討つ・撃つ」の「江・獲・得」・・・「江藤新平を撃て」・・・?・・・
 江藤 新平
 天保五年二月九日(1834年3月18日)
   〜
 明治七年(1874年)4月13日)
 肥前国
 佐賀郡
 八戸村生まれ
 佐賀藩士、政治家
 幼名は恒太郎・又蔵
 諱は胤雄・胤風
 号は南白
 朝臣としての正式な名のりは
 平胤雄(たいら の たねお)
 維新の十傑の1人・・・
 江藤家
 肥前
 小城郡
 晴気保の
 地頭
 千葉常胤の末裔
 父は江藤胤光
 母は浅子
 父は
 「手明鑓」という身分の下級武士
 窮乏生活の折
 「人智は空腹よりいずる」を口癖にした
 嘉永三年(1850年)
 枝吉神陽
 義祭同盟を結成すると、
 大隈重信副島種臣大木喬任島義勇らとともに参加
 安政三年(1856年)
 意見書
 『図海策』を執筆
 安政四年(1857年)
 結婚
 藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務める
 文久二年(1862年)脱藩
 長州藩士の
 桂小五郎木戸孝允)や
 公家の
 姉小路公知らと接触
 二ヶ月ほどで帰郷し
 藩主
 鍋島直正の直截裁断により
 永蟄居(無期謹慎)に死罪を軽減
 新政府が誕生すると
 佐賀藩も参加し
 新平は副島種臣と京都に派遣
 戊辰戦争
 東征大総督府軍監に任命
 西郷隆盛勝海舟の会談で江戸開城が決定するや、
 江藤は
 城内の
 文書類を接収
 京都へ戻り、
 大木喬任と連名で
 岩倉具視に対して江戸を東京と
 改称すべきこと(東京奠都)を献言する。
 彰義隊
 大村益次郎らとともに
 討伐を主張し、
 軍監として上野戦争で戦い
 彰義隊勢を
 寛永寺周辺に追い詰め、
 佐賀藩
 アームストロング砲を
 遠方射撃
 明治二年(1869年)
 賞典禄百石を賜う
 新政府が設置した
 江戸鎮台の長官の下の
 六人の判事の一人として
 会計局判事に任命
 明治三年(1870年)一月
 佐賀に帰郷
 着座(準家老)に就任
 中央に呼び戻され、
 十一月に
 太政官中弁
 十二月
 虎ノ門佐賀藩の卒族に襲撃され負傷
 明治四年(1871年)二月
 制度取調専務として国家機構の整備に従事し
 大納言
 岩倉具視
 30項目の答申書を提出
 近代的な
 集権国家と
 四民平等を説き、
 国法会議や
 民法会議を主催し
 箕作麟祥らとともに
 民法典編纂に取り組む
 明治五年(1872年)
 司法卿、参議と数々の役職を歴任
 その間に
 学制の基礎固め
 四民平等
 警察制度整備など近代化を推進
 司法制度の整備
 (司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績
 政府内における
 急進的な民権論者
 「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として
 牛馬解放令とも呼ばれた
 司法省達
 第二十二号
 (娼妓解放令)、
 民衆に行政訴訟を認めた
 司法省達
 第四十六号
 官吏の汚職に厳しく
 長州閥
 山縣有朋が関わったとされる
 山城屋事件、
 井上馨が関わったとされる
 尾去沢銅山事件を
 激しく追及、二人を一時的に辞職に追い込んだ
 三権分立の導入を進める
 江藤に対して
 行政権=司法権と考える
 政府内の保守派から
 激しく非難された
 急速な裁判所網の整備に
 財政的な負担が追いつかず、
 大蔵省との確執を招いた
 明治六年(1873年)
 朝鮮出兵を巡る征韓論問題で
 西郷隆盛板垣退助後藤象二郎副島種臣と共
 十月二十四日に下野
 明治七年(1874年)一月十日
 愛国公党を結成
 一月十二日
 民撰議院設立建白書に署名
 帰郷を決意
 大隈・板垣・後藤らは
 江藤が帰郷することは
 大久保利通の術策に嵌るものであるとし
 慰留を試みるが
 全く無視
 一月
 十三日に船便で九州へ向かう
 直ぐには佐賀へ入らず
 二月
 二日
 長崎の深堀で様子を覗う
 大久保は
 一月
 十三日に
 佐賀討伐
 総帥として宮中参内
 二月五日
 佐賀に対する追討令を受けた
 江藤は
 二月
 十一日
 佐賀へ入り、
 憂国党の
 島義勇と会談
 二月
 十二日
 佐賀征韓党首領として擁立
 政治的主張
 全く異なる
 征韓党と憂国党が共同して反乱計画
 二月十六日夜
 憂国党が武装蜂起し
 「佐賀の乱」が勃発
 佐賀軍は県庁として佐賀城に駐留する
 岩村通俊の
 熊本鎮台部隊
 半大隊を攻撃、
 その約半数に損害を与えた
 大久保利通
 直卒する
 東京、大阪の
 鎮台部隊が九州に到着
 佐賀軍は福岡との県境へ前進して、
 政府軍部隊を迎え撃った
 政府軍は、
 朝日山方面へ
 野津鎮雄少将の部隊を、
 三瀬峠付近へは
 山田顕義少将の部隊を前進
 田手、境原で激戦が展開
 政府軍の火力の前に
 佐賀軍は敗走
 江藤は征韓党を解散して逃亡
 三月一日
 鹿児島
 鰻温泉
 福村市左衛門方で
 西郷隆盛に会うが薩摩士族の旗揚げを拒否される
 三月二十五日
 高知
 林有造・片岡健吉に武装蜂起を説くが拒否
 岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる
 途上、
 高知県
 安芸郡
 東洋町
 甲浦付近で
 捕縛
 佐賀へ送還
 手配写真で捕らえられたものだが、
 この
 写真手配制度
 江藤自身が明治五年(1872年)に確立したもの
 制定者の江藤本人が被適用者第一号となった
 裁判
 四月八日
 江藤は急設された
 佐賀裁判所で
 司法省時代の部下であった
 河野敏鎌によって裁かれ
 四月
 十三日
 除族の上
 梟首の刑
 その日の夕方
 嘉瀬刑場において
 処刑
 江藤の首は
 千人塚で
 梟首された
 辞世
 「ますらおの 涙を袖にしぼりつつ 迷う心はただ君がため」
 明治二十二年(1889年)
 大日本帝国憲法発布に伴う
 大赦令公布により
 賊名を解かれ
 大正五年(1916年)
 四月十一日
 贈正四位
 墓碑銘は
 副島種臣が手がけた
 神野公園には銅像
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