1111日目・・・「壱千壱百壱拾壱」・・・「壱壱壱壱」・・・「千百十一」・・・「一一一一」・・・「位置・市・位地・移地」・・・「異地・意知・委値・亥致」・・・「土佐日記」の作者は「紀貫之(キのツラユキ)」だそうだが、「紀・貫・之」って「名前」がボクにとっては「?」である。「紀(き)」を「貫(つらぬ)」く「之(し)」・・・怪しい・・・「日本書紀」を貫く「史・詞・詩・支・死・師・始・諮・施・私・指・氏」・・・「ヲトコ(音呼)、もす(模諏・百舌)なる(名留)・日(比)の記・とい(問)・ふ(符)・も(模)の・を
ーー
ミンナがウソつきにナレば・・・どうなるのか?・・・「アガサ・クリスティ」に訊いてみたい・・・答えは「皆で仮の紀貫之を創作し、実在の人物として、各々がツルンで日記に書いたら如何でしょう」で、あった・・・「六歌仙」・・・とは「陸河川」・・・
ーー
「土佐日記・(とさにっき)」
「紀貫之」が
「土佐国」から京に帰る最中に起きた出来事を、
「虚構」を交えて綴った日記文学(?)
成立は
承平五年(935年)頃
古くは
「土左日記」と・・・「十一」は「よこしま(左)」の「比の記」
表記されていた。
「紀行文」に近い要素をもっており、
その後の
「仮名」による表現、特に
「女流文学」の発達に大きな影響を与えた
『蜻蛉日記』
『和泉式部日記』
『紫式部日記』
『更級日記』
などの作品に影響を及ぼした可能性が大・・・?・・・
延長八年(930年)から承平四年(934年)
「貫之」は
土佐国に国司として赴任
土佐から京へ帰る
「貫之」ら
一行の
五十五日間の旅路の話を、
書き手を
女性に・・・・助成・助勢・女婿・女声
序所為・序歳→「古事記序文」
仮託し
ほとんどを
仮名で
日記風に綴った作品
五十七首の
和歌を含む
土佐国で亡くなった
愛娘を思う・・・・「愛娘」=まなむすめ・まなこ(愛子)
心情、
旅の行程の遅れによる
帰京を・・・・・・棄教・奇矯・桔梗・気胸・記今日
はやる思い
諧謔表現
(ジョーク、駄洒落などといったユーモア)を
多く用いている
ーー
帰京の途上で
漢文の日記をつけ、
「土佐日記」を執筆する際にはそれを
参照したと考えられる
「土佐日記」そのものは
虚構を交えたものであり、
実録の日記そのものではない
文学作品である
・・・あるらしい・・・
当時の
男の
日記は漢文であった・・・?
和歌は男女ともに
仮名文字を用いていた・・・
で、あるらしいが・・・
誕生
貞観八年(866年)・・・・貞て観る葉知を撚(よ)る
または
貞観十四年(872年)・・・貞て観る重て詞(シ・ことば)を撚る
頃?
死没
天慶八年五月十八日
(945年6月30日)?
・・・「文学史上の大家」なのに「生死没」が「不明」とは、実在の人間ではなかった・・・?・・・
改名
阿古久曽
(幼名・あこくそ)・・・「阿」は「お」とも発音
出雲の国の→「阿国(おくに)」
お子のクソ(糞)→句素
貫之
官位
従五位上
木工権頭
贈従
二位
主君
醍醐天皇・・・醍醐=酉(是+胡)
朱雀天皇・・・朱雀=(牛木+少隹)・朱雀=諏作句(索・座句)
氏族
紀氏
父
紀望行・・・・紀の行を望む
子
時文・・・・・トキのフミ
ーー
紀望行の子。幼名を「内教坊」の「阿古久曽(あこくそ)」と称した。貫之の母が「内教坊」出身の女子だったので、貫之もこのように称したのではないかといわれる。
ーーー↓
母が「内教坊」出身の女子なのは判るが、彼の幼名の「阿古久曾(麻呂)」の説明にはなっていない。「くそ=屎(シ)・糞(フン)」なら、当時は魔物は汚物は嫌うので魔除のためわざと「屎」を名前に使う習慣があった。「丸」も同じ理由で「おまる」は接頭語の「御」と、「まる」の結合で、「まる」は「大小便をする排便、排尿」の動詞「まる(放る)」であるそうだ・・・アイヌ語の名前「ポイション(ポンション)」も「小便たれ」で、豊臣秀吉も淀君の子供には「おすて(お捨て)」と名づけた。厄払いの風習である。ボクも三角山のふもとの橋の下で蜜柑箱に入れられて、捨てられていたのを拾われたと、伯母から聞かされて育った・・・「うんこ・しっこ」をするとは古語では、「まる」と呼んでいた。 漢字の当て字は「おまる=御虎子」だが、「うんこ」は「虎の黄色と、その座している姿か、尻尾の丸まった形?」の相似かららしい・・・音を採るなら「運弧・運児」だろう。
だが、「まる」は動詞の「かが−まる(屈まる)」、「し−まる(締まる・絞まる・閉まる、「はじ−まる」、「おさーまる」もある。トイレでの排便には「力んだ踏ん張り」が必要だ。この「力んだ踏ん張りの様子や形相」は「憤怒の形相」に近いだろう。「おまる=御虎子」は「虎の子」を傍(側・そば)にした「母虎」の威嚇の形相であるカナ。「虎の子」とは一般的に「お金」だが、歴史的には「天武天皇(虎に翼をつけた人物)の子」だろう・・・では「阿古」とは何か?・・・「東京都三宅島三宅村阿古700−6」、「宮城県仙台市青葉区国分町2丁目11−11の料理店名?阿古」、「英虞湾」・・・人物を調べると、「阿古耶姫物語」・・・「阿古耶姫」は大職冠・「藤原鎌足の曾孫」、陸奥の信夫(現 福島県)の国司・中納言「豊光卿の娘」・・・そして、
ーー↓
「阿古御局(おこごのつぼね・あこごのつぼね)」
天正十八年(1590年)
〜
慶長二十年五月八日(1615年6月4日)
戦国時代から江戸時代初頭に生きた女性
名は菊
淀殿のちに豊臣秀頼の侍女
「大上臈」
「中将」
「弁宰相阿古大上臈」
「和期の方(あるいは和期の局)」
(ともに「わご」と読む)
十二歳で秀頼のもとへ出仕。翌年、秀頼公参内に同車にて参内。公家衆より武士の娘を参内するとはと非難されたが、陽光院勅定により平重盛の子孫のため仮親を立てずとも参内可能という特例を得た。
三ヶ月奉公し、弁宰相阿古大上臈」の官位を得る。
「大坂の役」では
「山里曲輪の糒蔵」で・・・・・・・糒(ほしいい・ヒ・ビ)
秀頼・淀殿と共に命運を共にした
大坂城の祠には
「三十二義士」の一人と記録
院号は青松院
菩提寺は
北野神社および青松院
ーー↓
「内教坊(ないきょうぼう)」は
日本古代の
律令制における
令外官である。・・・両解の刊
略称は
坊家。・・・・・・・坊=(十一方)=亥(北北西)の家
内教坊は
設置時期は明らかではないが、
淳仁天皇の時代には存在していた
職掌は
舞踊・音楽の教習
内教坊では主に
女性に対して教習
教坊(きょうぼう)
唐以降の中国王朝における宮廷に仕える楽人や妓女たちに宮廷音楽を教習させるための機関をさす。
楽曲や歌舞の習得を主な目的とするが、
官妓にあたる
妓女を統括する役割もあった。
その後の王朝に引き継がれ、清代まで続いたが、
雍正帝の時に廃止された。
唐の
李淵の統治時代である
武徳年間に
宮城内に・・・宮城(みやぎ)県
内教坊が
創設され、
玄宗の
開元二年(714年)に、
音楽を司る
太常寺から伝統的な音楽である雅楽を残し、俗楽と散楽を分けて、それを習得するために
長安と洛陽にそれぞれ左右教坊が設置
また、
内教坊は
大明宮に移され、
梨園も設立
長安の
右教坊は、光宅坊に置かれ、歌に長けたものが多く、
左教坊は延政坊にあり、舞に巧みなものが多かった。
「安史の乱(安禄山の乱・755年〜763年)」以降に衰退したが、その後の王朝でも、引き続いて設置されたが、清代初期に民間から楽人をつのることとなり廃止された。
現代の「女子十二楽坊」の名前の由来
唐代・教坊の妓女
崔令欽「教坊記」によると、唐代の教坊に在籍する妓女は、宮妓だけでなく、広い範囲から選ばれ、容貌と芸に優れ、選抜されて、太極宮にある宜春院に入ったものが「内人」(または前頭人)と呼ばれた。内人は重んじられ、その中でも
皇帝から寵愛を得たものを
「十家」と呼ばれ、宮城に屋敷を与えられた。
「内人」は毎月、
二または十六日、
もしくは
誕生日に家族と面会できた。
また、
他の妓女とは異なり、
「魚袋」を身につけていた。
ーーー↓
「魚袋」・・・日本語訓読みでは「まなぶくろ・さかなぶくる」?
束帯装束に用いる装飾品。
石帯に・・・石帯(せきたい)・・・関の鯛→壬申の乱の十市媛の秘文
束帯装束のときに用いられる黒皮製の帯
皮製の帯部分に、
瑪瑙(メノウ)や犀角(サイの角)などの
飾り石を縫い付けている
吊るすもので、
古代中国で用いられた
割符が装飾品化したものといわれる。
唐の初期には魚の形に帛(絹)を結んだ
武后(則天武后)の時代には
亀袋にかえられたこともあった・・・
一説に亀(かめ・キ)を玄武、魚(うお・さかな・)を鯉(こい・リ)即ち唐の皇室の姓「李(リ)」の音通とする説もある
形状
右腰に下げる(二個を同時に用いることはない)。
原型は定かではないが、
現在のものは
拍子木のような
木製の
芯の四方に
鮫皮を張り、表面に
金属製の
四つの
魚と
波型の飾りを付け、
裏側には
魚を一つだけつける。
輪状の革紐を取り付け、これを旅行かばんのタグのようにして石帯にひっかける(近世では石帯着装に先立ちあらかじめ石帯にかけておく)。
普通の体格なら右端の石から1石半くらいの位置になる。
四位の参議以上の公卿は
金魚袋といって飾りが金製のものを、
殿上人とは
銀魚袋といって銀製の飾りのものを使う。
これの原型は中国の律令で定められた
魚に似た形の割符(曹魏では亀の形という)と皮袋に由来すると言われるが、日本では装飾品として扱われた。したがって節会参列の公卿・五位以上の官人や賀茂祭の勅使をはじめとする
重儀の奉仕に際してのみ使用され、束帯着用時でも通常は使用しなかった。近代では即位関連儀礼でも使用はなく、
唯一
賀茂祭の・・・・賀茂真淵?
勅使が使用するだけである。
・・・で、あるらしい・・・
ーーー
延喜五年(905年)、
醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である
『古今和歌集』を
紀友則
壬生忠岑
凡河内躬恒
と共に編纂
仮名による
序文である
仮名序を執筆
(真名序=漢文の序を執筆したのは
紀淑望)
「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。また『小倉百人一首』にも和歌が収録されている。
理知的分析的歌風を特徴とし、・・・・なに、コレ?
家集『貫之集』を自撰した。
勅撰歌人としては
「古今和歌集・(壱百壱首)」以下の
「勅撰和歌集」に「四三五首の和歌」が入集している
「三代集」時代の絶対的権威者であった
・・・らしいのだが?
ーーー↓
土佐日記
男もすなる日記といふものを、
女もしてみむとてするなり。
それの年
(承平四年)の
しはすの
二十日
あまり
一日の、
戌の時に門出す。
その
よし
いさゝか
ものに
かきつく。
ある
人縣の
四年五年はてゝ
例のことゞも
皆しをへて、
解由など
取りて
住む
たちより
出でゝ
船に乘るべき所へわたる。
かれこれ
知る知らぬ
おくりす。
年ごろ
よく
具しつる
人々(共イ)
なむ
わかれ難く
思ひてその
日頻に
とかく
しつゝ
のゝしる
うちに
夜更けぬ。
廿二日(にイ有)、
和泉の國までと
たひらかに
ねがひたつ。
藤原の
言實
船路なれど
馬の餞す。
上中下ながら
醉ひ過ぎて
いと怪しく
しほ海の
ほとりにて
あざれあへり。
廿三日、
八木の
康教といふ人あり。
この人
國に
必ずしも
いひつかふ者にも
あらざる(二字ずイ)なり。
これぞ
正しきやうにて
馬の餞したる。
かみがら
にや
あらむ、
國人の心の常として
今はとて
見えざなるを
心あるものは
恥ぢずき(ぞイ)
なむ
きける。
これは物によりて
譽むるに
しも
あらず。
廿四日、
講師馬の餞しに
出でませり。
ありとある
上下
童まで醉ひしれて、
一文字を
だに
知らぬ
ものしが、
足は
十文字に
踏みてぞ遊ぶ。
廿五日、
守のたちより
呼びに
文もて來れり。
呼ばれて
至りて日
ひとひ夜
ひとよ
とかく
遊ぶやうにて明けにけり。
ーーーーー
「枕草子」
(四段)
ことごとなるもの
法師の詞(ことば)。
男女の詞。
下司(げす)の詞に、
かならず
文字
あまり
したり。
(五段)
思はん子を
法師になしたらんこそは、いと心苦しけれ。
さるは、
いとたのもしきわざを、
唯(ただ)木のはしなどの
やうに思ひたらんこそ、
いといとほしけれ。
精進物の
あしきを食ひ、寐ぬるをも、
若きは
物も
ゆかしからん。
女などのある所をも、
などか
忌みたるやうに、さしのぞかずもあらん。それをも安からずいふ。まして驗者などのかたは、いと苦しげなり。
御獄(みたけ)、
熊野(くまの)、
かからぬ山なく
歩くほどに、
恐しき目も見、
驗(しるし)ああり、
聞こえ出できぬれば、ここかしこに呼ばれ、
時めくにつけて、
安(やす)げもなし。
いたく
煩(わずら)ふ人に
かかりて、
物怪(もののけ)調(ちょう)ずるも、いと苦しければ、
困(こう)じて
うち眠れば、
「ねぶりなどのみして」と
咎(とが)むるも、いと所狹く、いかに思はんと。
これは昔のことなり。
今樣(いまよう)は
やすげなり。
ーーーーー
・・・「異常」の参照、参考原文は殆んどが「ウイッキペデア」です・・・