907日目・・・「烏の羽」の記事の謎を解く(その2)・・・スベテ、抜粋記事・・・からの参照デス・・・アシからず・・・ゴメン・・・暇で興味のある人は次の「家頁」にゴホウモン下さい・・・「キンジられたアソビ」です・・・

http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/kojiki16.htm

 以下、参照抜粋記事を一寸(鳥渡)、カイサク・・・して貼り付けたモノです・・・以下に記した全部の「文字漢字」を「偏旁冠脚遶(堯+辶)」に「分解」て再度、ヨンで欲しい・・・例は「偏=イ+一+尸+冊」→「イ(ヒト)のイチ(ハジメ)、シカバネ(シタイ)のサツ(記録帳・束・札)」などと分解し、「同音異字漢字に変換」する・・・あるいは「元の熟語漢字をそのまま同音異字に変換」する・・・
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 百済王→一の白、氵(水)の斉の三の|(ボウ)
 敬福が→ケイフク=敬服・慶福・京福
 黄金→オウゴン=謳言・応言・王混
 九百→玖珀→王+久+王+白→キュウヒャク=扱比訳
 両を→リョウ=漁・量・猟・了=利用
 献上→南+犬+卜+一=ケンジョウ=謙譲=言+兼+言+襄
 聖武→耳+口+王+武=セイブ=西部
 天皇から→一+人+白+王=テンコウ=天候・転向・転校
 賜った→貝(目ハ)+易(日勿)=タマワッタ
 交野郡→亠+父(ハ乂)+里+予+君+阝(邑)
 中宮→チュウグウ=知有遇(寓・偶・隅・具烏)
 の→乃・野・埜・廼・之・述
 地は→壱拾壱也
 王辰爾→
 (おうしんじ)の
 旧館であった→
 三松氏→
 (百済王氏の
  後裔)→
 系図
 敏達→
 天皇
 朝廷で→
 活躍して→
 船氏らの→
 祖となった→
 王辰爾
 (王智仁)も→
 北河内
 足跡を→
 残した→

 王辰爾
 延暦
 九年七月の→
 津連真道→
 (つのむらじまみち)
 (菅野朝臣真道)の
 上表文によると、
 応神→
 天皇
 御代に→
 来朝した→雷鳥・羅医長・来聴
 百済
 近仇首王→
 (貴須王→接吻
  第14代
  百済国王)の孫、
 辰孫王→
 の四世の
 孫→
 敏達→
 天皇
 元年→
 五月の条→
 高麗の→
 国からの
 国書を誰一人解読することが出来なかった
 王辰爾
 ただ一人が→
 読み解いた→
 記事→
 高麗の→
 奉った文書は
 烏の→
 羽根に→
 書いてあったので
 誰も読めなかったが、
 彼は
 羽根を→
 炊飯の→
 湯気で→
 蒸した後→
 柔らかい
 上等な→
 絹布に→賢婦・兼譜(附・符)・県府
 羽根を→
 押しつけ→
 文字を
 写し取り、
 読むことが出来た
 「烏羽の表(からすばのひょう)」
 後世、
 懐風藻という→
 漢詩集の→
 序文の中に→
 引用→

 かれの一族・子孫
 船(ふね)、
 津(つ)、
 葛井(ふじい)、
 白猪(しらい)、
 菅野などの姓をを得て拡がっている
 王辰爾の孫に当たる
 王後の墓が
 柏原市
 松岡山にあり→
 その墓から出土した
 墓誌銘は→
 「船王後→
 (ふねのおうご)
  墓誌」→
 王辰爾と云う人物は
 間違いなく実在の人物・・・?

 太子→
 菟道→
 稚→
 郎子→
 (うじのわきいらつこ)は
 阿直岐
 (あちき)を
 師として
 経典を→
 学んでいた
 天皇がある時、阿直岐に「汝より優れた博士がいるか」と訊ねると、
 彼は王仁
 名を挙げた
 天皇
 上毛野→上下の
 君の→訓
 荒田別→新たに別(捌)ける
 巫別→座別(捌)→ミコベツ→見個別
 (かんなぎわけ)を
 百済に遣わして、王仁を召した
 応じた→「往時・往事・王子」他
     「鶯字・鷗字」他、太
 王仁
 来朝→雷鳥・羅医長・来聴・等意調
 論語
 十巻→
 千字本→
 一巻を
 貢進→
 菟道稚郎子
 師となった→
 彼の子孫は
 西文→西洋文
 (かわちのふみ)氏と称し、
 文、→
 武生、→たけう→他家鵜・武王
 桜野、→さくらの
 古志→古史
 (こし)
 などの
 諸氏となった

 延暦
 十年四月→
 文忌寸→
 (ふみのいみき)
 最弟の→裁定・再訂・最低
     最(日+取)低(人+氏+一)
 上表によると、
 漢の高祖の子、
 鸞の→
 後裔である→
 王狗が→王獣句→ライオン・トラ
 百済に移り住み、
 王狗の孫に当たる
 王仁
 仇首王の時に招かれて
 本朝に渡来した

 千字文
 六世紀→
 初頃に→
 作られたもの
 応神天皇の頃には
 未だこの世に存在していない
 記紀が記す
 王仁の渡来事情なるものは、
 津連→新連・信連
 真道の→振動
     震動(地震・雷音・轟音)
     新道
 上表文のなかにある
 辰孫王の渡来事情とほぼ同じもの

 船氏ら王辰爾の後裔と称する氏族と、
 文氏ら王仁の後裔を称する
 氏族とがあるものの、
 それらの始祖である
 王辰爾と
 王仁とについては
 混同→金堂・近藤
 されてしまっていたようである
 王仁と云う名が
 王辰爾
 (王智仁)と云う
 名前から作られたから

 『新撰姓氏録』→
 王辰爾の
 弟、→
 牛(うし)=宇志→丑・愛し・憂し
       得史・有詞・鵜示・胡史
 とも作り、
 麻呂→円・丸・磨侶・眞慮
 (まろ)とも呼ばれた
 氏祖
 百済
 第14代国王
 貴首王を出自
 「(百済)王」を
 氏名としていた
 敏達天皇3年(574年)に
 牛が
 「津史(つのふびと)」を
 賜氏→
 姓され→
 天平
 宝字2年→
 (758年)に
 「津連(つのむらじ)」と改賜姓
 延暦9年に→
 津連真道
 (後の
  菅野
  真道)
 等が
 朝臣姓の賜姓を請願してこれが許された
 居住地に→
 因んで→チナンで
 「菅野朝臣」を称した
 菅野は
 大和国
 宇陀郡
 菅野村
 (現奈良県宇陀郡御杖村大字菅野)を指す

 『姓氏録』
 同祖の氏族に
 葛井→
 宿祢→
 (ふじいのすくね)
 宮原→
 宿祢、→
 津→
 宿祢→
 (つのすくね)
 中科→
 宿祢→
 (なかしなのすくね)
 船連→
 (ふねのむらじ)
 葛井・宮原両氏との関係は、
 『続日本紀』に載せる
 延暦
 9年7月
 辛巳(17日)条の
 菅野
 真道
 等の上表
 (上述の改賜氏姓を願った際のもの)
 皇太子の師となる有識者を探していた
 応神→
 天皇の求めに
 応じた→
 貴首王が
 孫の
 辰孫王を→
 入朝
 辰孫王の
 長子→
 太阿→
 郎→
 王が
 仁徳→
 天皇
 近侍、→
 太阿郎王の
 孫の
 牛定君の→
 3人の子から
 3氏に別れた
 長子
 味沙→
 (みさ=味散)が
 葛井氏の、
 仲子→
 辰爾(王辰爾)が→
 宮原氏の、
 末子の→
 麻呂が→
 菅野氏の祖となった
 3氏の氏祖の親は
 『姓氏録』には
 塩君→
 (しおのきみ)とされている
 塩君が→円の訓・得ん訓
 牛定君→語定訓・義有定訓
 とも呼ばれた

 系譜
 貴首王→○→辰孫王→太阿郎王→○→塩君(牛定君)→
    味沙・・・・・・葛井氏
    王辰爾・・・・・宮原氏
    牛(麻呂)・・・菅野氏

『姓氏録』中科宿祢条
 宇志(牛)は
 塩君(牛定君)の孫
 上表自体が
 西史(かわちのふみ)氏の始祖、
 王仁の伝えをまねた始祖伝説

 東日本では
 菅野(かんの)という
 読み方の
 苗字が→ナエ字→名得字
     ミヨウな字
     「妙・名・命・明・観様」の字
 数多くある
 読み方は
 農民として
 分家して
 土着化した形態
 平安時代の学者の
 菅原道真の→
 系統も引いている

 日本書紀
 欽明
 天皇
 十四年七月紀
 「船史(ふねのふびと)」と
 「船連」という「姓」が登場する

 秋→
 七月→
 辛酉→
 朔→
 甲子、→
 幸樟→
 匂宮。→
 蘇我
 大臣→
 稲目→
 宿禰、→
 奉勅遣
 王辰爾、
 数録→
 船賦。→
 即以→則意・足意
 王辰爾
 為→名素
 船長。
 因
 賜姓
 為
 船史。
 今
 船連
 之
 先也。

 王辰爾
 百済系の渡来人の血筋
 詳細は
 『続紀』→
 延暦
 九年→
 七月の条に→
 書かれている
 この「王」という
 渡来系の姓が
 「船史」という
 新しい姓を賜った
 「辰爾」の記述は
 敏達→
 元年→
 五月の条→
 にも登場

 丙辰、→
 天皇
 執→
 高麗表、→
 授→
 於→
 大臣。→
 召→
 聚→
 諸史、→
 令→
 読解→
 之。→
 是時、→
 諸史、→
 於→
 三日内、→
 皆→
 不能読。→
 爰有→
 船史→
 祖→
 王辰爾、→
 能→
 奉→
 読釈。 →

 道昭と父の出自
 皇極天皇四年六月紀
 船史
  恵→景・ケイ・めぐみ
  ( え )
  尺→釈(解釈)・訳
  ( さか )

 己酉、→
 蘇我臣→
 蝦夷等→
 臨→
 誅、→
 悉焼→
 天皇記・→
 国記・→
 珍宝。→
 船史恵尺、
 即
 疾取→
 所→
 焼→
 国記、→
 而→
 奉献→
 中大兄。 →

 恵尺
 入唐
 学問僧で
 大僧都
 補任→
 道昭と→
 つながっていく
 文武→
 天皇
 四年→
 三月→
 紀→

 三月→
 己未、→
 道照→
 和尚→
 物化。→「モノに変化」とは「死亡」
     「物故」するとも
 天皇
 甚→
 悼惜→
 之、→
 遣使→
 吊賻→吊(口+巾)賻(貝+専)
 之。→
 和尚→
 河内国
 丹比→
 郡人→
 也。→ 
 俗姓→
 船連。→
 父→
 恵釈→
 少錦下。 →

 道昭は恵尺の息子
 道昭は→
 白雉→
 四年に→
 学問僧として入唐
 その
 一行に→
 内大臣
 中臣→
 鎌足の→
 長子→
 定恵が→
 加わっている
 
 船史は
 天武
 十二年に→
 「連」の→
 姓を賜わる。→
 敏達→
 天皇
 元年→
 五月紀→

 冬→
 十月→
 乙卯→
 朔→
 己未、→
 三宅→
 吉士→
 草壁→
 吉士
 伯耆
 造→
 船史(中略)
 併→
 十四氏→
 賜→
 姓→
 曰→
 連。 →

 夫子と延慶
 道昭が逝去して五十四年後に、
 「船連
   夫子→
  ( ふうし ) 」→
 という人物が、
 出家を理由に
 冠位を→カンムリの意
 辞退→事態・字体
 『続紀』に見られる。
 天平
 勝宝→
 六年→
 十一月紀→

 辛未、→
 大唐→
 学問生→
 無位→
 船連→
 夫子→
 授→
 外従→害獣
 五位下。→語意解
 辞→字
 而→字
 不受。→譜誦・附従
 以→意
 出家→出(山+山=サンザン=三山=纂竄)
    シュツケ→種つけ
 故也。→結え鳴り

 天平
 宝字
 二年→
 八月→
 延慶→
 冠位を→
 辞す→

 辛丑、→
 外従→
 五位下→
 僧→
 延慶、→
 以→
 形→
 異→
 於→
 俗、→
 辞→
 其→
 爵→
 位。
 詔→
 許→
 之。→

 「以形異於俗」・・・自分が僧であるから
 人物の同一性?
 延慶の俗姓も
 船史

 『唐大和上東征伝』
 鑑真→
 和上が→
 大宰府に入る→
 記述→
 (天平
  勝宝→
  五年→
  十二月→
  二六日)→
 延慶師→
 引→
 大和尚→
 入大宰府

 延慶→
 法師もまた、→
 船連の血筋

 王仁
 王仁(わに、生没年不詳)は、記紀に記述される百済から日本に渡来し、漢字と儒教を伝えたとされる人物。
 『日本書紀』では
 王仁
 『古事記』では
 和邇
 吉師→
 (わにきし)と
 表記→
 高句麗に→
 滅ぼされた
 楽浪郡の→
 漢人系の→
 学者

 『日本書紀
 「王仁百済王の使者阿直岐(あちき)という学者の推薦を受け、応神天皇の招待に従って応神天皇16年2月に百済から渡来し、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子の師となり、後に帰化した学者である。」

 王辰爾(おう・しんに)
 延暦九年七月の
 津連真道
 (つのむらじまみち)
 (菅野朝臣真道)の上表文

 応神天皇の御代に来朝した
 百済
 近仇首王
 (貴須王・
  第14代
  百済国王)の
 孫、
 辰孫王の
 四世の孫

 敏達天皇元年五月の条
「高麗の国からの国書を誰一人解読することが出来なかった中で、王辰爾ただ一人が読み解いて、天皇の激賞を受けたと云う記事があり、また、高麗の奉った文書は烏の羽根に書いてあったので誰も読めなかったが、彼は羽根を炊飯の湯気で蒸した後、柔らかい上等な絹布に羽根を押しつけて文字を写し取り、読むことが出来たと記している。この烏の羽根の故事は「烏羽の表(からすばのひょう)」と呼ばれて、後世、『懐風藻』序文の中に引用されている」
 高麗国は当時ない。
 百済
 伽耶
 高句麗だろう。

 漢詩
 『懐風藻』が引用したのならもしや漢文だったか?
 「生年: 生没年不詳
 6世紀中ごろの百済からの渡来人。「船首王後墓誌」には「船氏の中祖・王智仁首」とある。
 『続日本紀延暦9(790)年条の百済王仁貞の上表文には百済の貴須王の孫王孫王が応神天皇のときに渡来し,その曾孫の午定君の3子のひとりに辰爾の名がみえ,この時から葛井,船,津の3氏に分かれたという。
 『日本書紀』欽明14(553)年条には蘇我稲目の下で王辰爾が船の賦を数え録し,その功で船長となり船氏の氏姓を与えられたとする。
 敏達1(572)年条によると高句麗の使がもたらした鳥の羽に書かれた国書を王辰爾のみがよく解読できたので天皇に近侍

 一族・子孫
 船史(ふねのふひと)・・・王辰爾自身
 津史
 葛井(ふじい)史
 白猪(しらい)史・・・
 王辰爾の甥・王胆津(おう・いつ)
 菅野などの姓をを得て拡がる。

 これらはすべて
 地名や→
 職称である。→
 史は→
 書記官で、
 あるいは
 倭王武時代の上表文作成に関わった
 可能性もある。

 王辰爾の孫
 「王後の墓が柏原市松岡山にあり、その墓から出土した墓誌銘は「船王後(ふねのおうご)墓誌
 百済の仇首王の流れを引いた貴種であると称するのは擬制
 応神天皇の時に来朝したと称する程の古い渡来ではない
 来朝の始祖とする「辰孫王」と云うのも、王辰爾(王智仁)から作られた名前に過ぎない
などと研究者の間では見られている。

 王仁は来ていない?
 「王仁」(わに博士)と云う人物は、実在の人物ではなく、その名は、この王辰爾(王智仁)から作られた名前

 天皇がある時、阿直岐に「汝より優れた博士がいるか」と訊ねると、彼は王仁の名を挙げた。そこで天皇は上毛野君の荒田別、巫別(かんなぎわけ)を百済に遣わして、王仁を召した。それに応じて王仁は来朝し、論語十巻、千字本一巻を貢進し、菟道稚郎子の師となったと云う。
 彼の子孫は西文(かわちのふみ)氏と称し、文、武生、桜野、古志(こし)などの諸氏となって広まった。
 延暦十年四月の文忌寸(ふみのいみき)最弟の上表によると、
 漢の高祖の子、鸞の後裔である王狗が百済に移り住み、王狗の孫に当たる王仁が仇首王の時に招かれて本朝に渡来した
 と述べている。
 しかし、第一、
 千字文と云う書物は
 六世紀初頃に作られたもので、
 応神天皇の頃には未だこの世に存在していない。また、記紀が記す王仁の渡来事情なるものは、津連真道の上表文のなかにある辰孫王の渡来事情とほぼ同じものである。

 敏達
 びたつ
 天皇元年(572)五月の条の、高麗こまからの国書を諸史が三日かかっても誰も読みとれなかったのに、ひとり船史の祖王辰爾のみ解読したことから、天皇が王辰爾を大いに賞讃し、一方東西の諸史に「汝ら習う業、何故か就ならざる。汝等衆おほしと雖も、辰爾に及しかず」と叱責している
 欽明
 きんめい
 天皇十四年(553)七月の条に「蘇我大臣稲目宿禰、勅を奉りて王辰爾を遣わして、船の賦みつぎを数へ録しるす。即ち王辰爾を以て船長とす。因りて姓を賜ひて船史とす。今の船連の先なり」とある

 『日本書紀』では、諸氏の姓は、天武天皇十一年(682)五月以前のものを用いるのを通例としているのに、
 欽明天皇の条に、
 天武十二年賜姓の船連を記

 継体天皇十二年と二十年の間には、
 十七年と十八年の条
 の記載は、

  十七年夏五月 百済王武寧薨
  十八年春正月 百済太子明即位
 正史に相応しくない、不可解な言葉が載っています。
継体天皇)二十五年春二月、天皇は病が重くなった。七日、天皇は磐余の玉穂宮で崩御された。時に八十二歳(稗田阿礼の年は二十八)であった。
 冬十二月五日、
 藍野陵
 あいののみささぎ
 (摂津国三島郡藍野)に葬った。

 ・・・ある本によると、天皇は二十八年に崩御している。それをここに二十五年崩御としたのは、百済本記によって記事を書いたのである。その文に言うのに、

「二十五年三月、進軍して安羅に至り、乞屯城こつとくのさしを造った。この月高麗はその王、安を弑しいした。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」と。

 辛亥の年は、二十五年に当る。

 後世、調べ考える人が明らかにするだろう。

 後世考究する人に解明を託した
欽明天皇)二年春三月、
 五人の
 妃
 みめ
 を入れられた。前からの妃の皇后の妹を、稚綾姫皇女といった。
 この人は
 石上皇
 いそのかみのみこ
 を生んだ。
 次が皇后の妹で
 日影皇女
 ひかげのひめみこ
 という。
 ・・・ここに皇后の妹というのは、明かにいえば
 宣化
 せんか
 天皇
 女
 みむすめ
 である。しかし皇妃でありながら、母の妃の姓と皇女の名を見ない。どんな書から出ているかということがわからない。後世の考える人に待とう・・・

 敏達(びだつ)天皇元(572)年の5月15日、天皇は朝鮮・高句麗からの使節が持参した国書(上表文)を大臣の蘇我馬子に授け、お抱えの書記官に読み解くよう命じた。しかし3日たっても、だれも解読できない。

 国書はカラスの羽に墨で書かれていた。書記官の一人、王辰爾(おうしんじ)は羽に湯気を当てて墨を浮かせ、絹布に転写するという機転を利かせて解読に成功した。天皇は辰爾を大いにほめた。

 「烏羽(うば)の表(ひょう)」
 辰爾は百済系の渡来人で、その孫にあたる船王後(ふねのおうご)の墓誌(死者の系譜や業績を記した銅板)が江戸時代に大阪府柏原市から発見されている。
ーーーーー
 ・・・キンジられたアソビ・・・ミッシェ〜ル・・・

 ・・・ミッシェ〜ル・・・とは・・・ダレ?・・・
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/kojiki55.htm
 ・・・レオンも・・・