871日目・・・「ざんこく」って、「残告」・・・「纂刻」・・・残す語の句・・・「虎はシンでも皮を残す」・・・泥鰌シンでもゼイ残す・・・残酷な税金収奪・・・


 ・・・「残酷」って、「酷」が「残る」・・・
 ・・・「酷」って、「酉」が「告げる」・・・
 ・・・「酉」って、「樽」のコトだけれど・・・
 ・・・「樽」って、「木(キ)」の「尊(ミコト)」だけれど・・・
 ・・・「キのミコト」って、「記」の「三言・命」・・・
 ・・・「ミコト」は、「ミコ」の「ト」だけれど・・・
 ・・・「ミコ」は、「巫女・皇子・皇女・御子・神子」で・・・
 ・・・「ト」は「賭・途・斗・都・杜・堵・砥・登・図・度・頭・鍍・菟・渡・妬・塗・兎・十・止・土・吐・屠・都・戸・徒」・・・
 ・・・「酉(とり・ユウ)」って、「鶏(にわとり)」を「誘(さそう)」で、「トぉゥ、トット、トぉゥ、トット、トぉゥ、トット、」・・・
 ・・・「酉」って「ユウ」で、「邑・友・夕・祐・優・・・・・言う・有」で、「結う」・・・は「むすぶ」でした。
 今日の朝食は「半熟」の「卵(たまご・ラン)」と「バン」で・・・
 ・・・「凡(アマネシ)の乱(ミダレ)」・・・叛の乱・汎(ミズの凡)を覧(閲覧)・版(出版)の濫(氾濫)・判(ナカばのカタナ)の蘭(蘭学)・・・中津藩の藩熟(ハンジュク)の蘭学・・・頒(ハン)=分ける頁・・・と、頻(ヒン)=歩く頁・・・
追文・・・以下の文の追加は「ウイッキペデア百科辞典」から抜粋デス・・・
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 中津藩(なかつはん)は、豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した藩。藩庁は中津城に置かれた(一時、藩庁は小倉城に移る)。

藩史 [編集]天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐後、黒田孝高が入部し、12万3000石(一説には16万石)を領有した。その後、関ヶ原の戦いで戦功のあった子の長政が慶長5年(1600年)、筑前福岡藩に52万石で加増移封された。

 代わって同年、同じく関ヶ原の戦いで東軍方に付いた細川忠興が丹後宮津より39万9000石で入封し、江戸期の中津藩が成立した。忠興は慶長7年(1602年)、藩庁を小倉城に移して小倉藩となる。中津城は支城となり城代が置かれた。寛永9年(1632年)、第2代藩主・忠利は肥後熊本藩に移封となった。

 同年、播磨国明石藩より小笠原忠真小倉藩主として小倉城に入り、豊前北部15万石を領した。支城であった豊前中津城には忠真の甥・長次が播磨龍野藩より8万石で入封し再び中津城が藩庁となった。元禄11年(1698年)、第3代藩主・長胤は失政・日常の不行跡を咎められ藩領没収、本家の小倉藩・小笠原家へ預かりとなった。しかし「祖先の勤労」(『徳川実紀』)により弟の高円が半減の4万石をもって跡を継いだ。享保元年(1716年)、第5代藩主・長邕が7歳で夭逝したため、その弟・長興が播磨安志藩(1万石)に移封立藩となった。

 享保2年(1717年)、奥平昌成が丹後宮津藩より10万石で入封。以後、明治4年1871年)の廃藩置県まで9代・155年間支配するところとなった。廃藩置県の後、中津県・小倉県・福岡県を経て大分県編入された。1844年(弘化元年)、藩校『進脩館』に小幡篤次郎が入門、明治4年福沢諭吉の弟子となり、校長に就任。のちに『中津市学校』に改組され9代藩主・奥平昌邁と共に藩士らは江戸藩邸慶應義塾へ移った。

 奥平時代の同藩の出身者として、藩医であり『解体新書』を著した前野良沢、下級藩士出身の福澤諭吉がよく知られている。また、福沢とは親戚にあたる増田宋太郎の2名をして、郷土の英雄として位置付けられている。西南戦争の時には旧中津藩士によって中津隊が結成され、西郷軍に参加した。
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 『解体新書』を著した前野良沢
 下級藩士出身の福澤諭吉
 「コジキ」を改竄(?)した人物は『進脩館』、『中津市学校』、「慶應義塾」のダレかカモ・・・