841日目・・・夜空を見上げた・・・天文学・・・以下全部、抜粋した記事です。「高橋景保」でクリックすれば、彼に関連する「以下のリンク記事」が満杯です。ボクの興味あるところだけ貼り付けただけのモノ・・・ねこ座(ねこざ、猫座、Felis)」・・・夜空で「キャッ」どもが「コジキ」になって「メモリ」をウタっている・・・

 
「ねこ座(ねこざ、猫座、Felis)」は、「ジェローム・ラランド」が18世紀に作った星座の1つ。

 ラランド自身のペットだったネコを星座にしたもので、今でいううみへび座とポンプ座の間にあった。ヨハン・ボーデの星図『ウラノグラフィア』にも載ったが、やがて使われなくなった。

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 ジョセフ=ジェローム・ルフランセ・ド・ラランド(Joseph-Jérôme Lefrançais de Lalande、1732年7月11日 – 1807年4月4日)はフランスの天文学者である。

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 ラランデ(Joseph Jerome Le Francais de Lalande)(1732-1807)は、フランスの天文学者でフランス航海暦の編集者でもあった。彼の著作による天文学の一般的教科書である ' Astronomie' 1764年 全3冊(フランス)が、オランダでストラッペ(Arnoldus Bastiaan Strabbe)によって訳され、日本に入ってきたのが、'Astronomia of Sterrekunde' 全5冊である。この本を「ラランデ暦書」と称している。

 幕府天文方で「寛政暦法」の改暦を行った高橋至時は、1803年に個人所有であったこの本を17日間だけ借りて読み、直接西洋天文学にふれ、その内容に感嘆し寝食を忘れて、抄訳に没頭したと云われている。

 「ラランデ暦書」の翻訳には高橋至時間重富、渋川景佑が関わっている。現在、国立天文台にはフランス本:全3冊、オランダ本は巻1が欠の4冊が残されている。また、天文台に残されている「ラランデ暦書」の和訳本には次の書がある。

18 ラランデ暦書訳述

間重富、写本6冊

国立天文台所蔵>

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 寛政9年(1797)に寛政の改暦を成し遂げて暫く後の享和3年(1803)、天文方高橋至時若年寄から仏人ラランデが著した天文学書のオランダ語訳本、通称『ラランデ天文書』を見せられる。至時はごく初歩のオランダ語の知識しかなかったが、一覧してその高度で精緻な内容に衝撃を受ける。その結果、全力をあげて解読に努め、半年後過労で死亡するまで、11冊の『ラランデ暦書管見』(現存8冊)を残した。自分が興味のある章、改暦に関係する部分を至時の解釈や疑問点と共に抄訳している。一部、光行差(地球の公転運動と光速が有限であるために星のみかけの方向が僅かにずれる現象)や章動(歳差の周期運動成分)はその概念自体が理解できなかった。しかし、他の大部分は基本的に正しく内容を把握していて、辞書もオランダ語文法の知識もなしでこれだけの成果を達成した至時の有能さに驚かされる。

 至時による自筆本は文化10年の火災で失われ、本史料以外に、間重富が筆写したもの(大阪の羽間文庫)と伊能忠敬が整理した史料(伊能忠敬記念館)が現存するのみである。本写本は、間重富が筆写したものの異本であろう。(中村・伊藤)

【参考】日本思想体系『洋学』下(岩波書店,1972)に「ラランデ暦書管見」の一部翻刻(中山茂)がある。


 渋川 景佑(しぶかわ かげすけ、天明7年10月15日(1787年11月24日) - 安政3年6月20日(1856年7月21日)は、江戸時代後期の天文学者で、江戸幕府天文方。幼名は善助。通称助左衛門。号は滄州・三角堂。高橋至時の次男で、天文方の渋川正陽の養子となった。同じく天文方の高橋景保の弟。子に渋川敬直(六蔵)、佑賢がいる。日本最後の太陽太陰暦である天保暦の作成者として知られている。

大坂定番井上筑後守組同心高橋至時の次男として大坂に生まれる。寛政7年(1795年)、父が天文方に召しだされて江戸に出た後も兄の景保と共に大坂にいたが、2年後に兄と共に江戸に出た。父の元で天文暦学を学び、父の死の翌年である文化2年(1805年)に伊能忠敬に従って東海地方・紀伊半島・中国地方の測量に従事した。

 文化5年(1808年)8月、天文方であった渋川正陽の養子に迎えられ、翌年養父の隠居によって23歳の若さで天文方に任じられた。渋川家は初代の天文方であった渋川春海以来の家柄であったが、春海の嫡男昔尹以来、当主の早世と養子縁組が相次いだために春海以来の学術は途絶え、名目のみの天文方の地位を代々引き継ぐだけの家となっていた。それを挽回するために高橋家からの養子を迎えたのであった。

 文政元年(1818年)より兄と共に父・至時がやり残していたジェローム・ラランドの『ラランデ暦書』の翻訳事業にあたっていた。ところが、シーボルト事件によって兄が捕らえられて獄死してしまう。景佑は縁座を免れたが、その後の彼の活動に大きな影響を与えることになった。その後も足立信頭の協力を得て『ラランデ暦書』の翻訳を続け、天保7年(1836年)に『新巧暦書』40冊・『新修五星法』10冊を完成させて幕府に提出した。

 天保9年(1838年)に幕府より天文観測記録を作成するように命じられ、合わせて父が現行の寛政暦を作成したものの、同暦の規則を記した暦書を完成させる前に没したために暦の理論が不明になっているとしてその作成を命じられた。天保10年(1839年)には鉄炮箪笥奉行格に任じられる。天保12年(1841年)に『新巧暦書』を元にした改暦を命じられる。天保13年(1842年)、九段坂上に新たな天文台の用地を与えられ、京都での改暦のための観測旅行後に九段に観測所を設置して天体観測にあたり、後に『霊験候簿』としてまとめられた。

 同年、景佑が中心となって作成した新しい暦である天保暦が完成、2年後の天保15年(弘化元年・1844年)に改暦が行われると共に、幕府からは寛政暦の暦書と平行して天保暦の暦書の作成が命じられた。また同年、寛政暦の暦書である『寛政暦書』35巻が完成(後に続編5巻を追加)、嘉永2年(1852年)には山路諧孝と共に天保暦の暦書である『新法暦書』を完成させた。また、安政元年(1854年)にはイギリスの航海暦を元にして日本最初の太陽暦暦書である『万国普通暦』を編纂した。

 景佑は江戸時代の天文学者の中でもっとも多くの著述を残し、最も優れた理論家の1人であった。また、古くから伝来した天文暦学に関する史料は零細な草稿・下書きまでを整理し、自己のものも同様にした。その他の著作には測量学についての『遠見町見手引書』(弘化4年(1847年))、古い時制について論じた『壷漏説』、蝦夷地の測量記録である『蝦夷地経緯度及び実測蝦夷沿海地図』、『新修彗星法』、『三統暦管見』、『明時館叢書』など数多い。また、実父・高橋至時と盟友間重富の間の往復書簡集『星学手簡』や渋川家の家譜である『渋川氏先祖書』をまとめたのも景佑であった。更に『新法暦書』及び同続編の中で、吉雄権之助の『玄真新書』及び『ラランデ暦書』に書かれた引力などの天体力学の知識を十分理解した上で理論付けられている。

 一方で、天文方の既得の立場や政治的に関わりそうな問題には忌避を示す傾向が強く、ミシェル・ブノワの地動説解説を引用しながら、「直鎔西洋之数理 容諸皇朝之型模」(元は中国・明の徐光啓の言)を引用して、地動説や太陽暦を容認せず、西洋の科学観や暦法観の根本的な受容には強く反対している。この態度は書物奉行水野忠邦の側近であった嫡男の敬直(六蔵)にも引き継がれ、天文方以外の蘭学禁止を忠邦や鳥居耀蔵に進言している。

 だが、天保の改革失敗後の弘化2年(1845年)に敬直は罪に問われて配流されたために、やむなくこれを廃嫡する(6年後に父に先立ち配流先で死去。耀蔵も配流、後藤三右衛門は斬首)。更に嘉永5年(1853年)の黒船来航を機に江戸幕府は開国を余儀なくされ、幕府・諸藩ともに積極的に蘭学などの洋学を導入し、天文方による蘭学独占策は呆気無く崩壊した。そのような状況下で景佑は病死してしまう。『天文台代々記』には安政4年(1857年)3月29日に隠居を許されたと記されているが、菩提寺である東海寺の墓碑・過去帳ともに没年月日は安政3年(1856年)6月20日とされており、相続の際に何らかの事情で喪を秘して隠居願を出したものと考えられている。法名は大機院仁翁滄州大居士。

 天文方は次男の佑賢が継いだが、安政4年に急死、孫で敬直の息子敬典が後を継いだ。彼と山路彰常を最後に天文方は廃止された。

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Historical Sources about Takahashi

Yoshitoki Owned by the Hazama Library

Tomokatsu INOUE

Osaka Museum of History, 4132, Ohtemae,

Chuo-ku, Osaka 5400008, Japan

Abstract: In this report, I overview the books

and archival documents relating to the Shogunal

astronomer Takahashi Yoshitoki, which are now

preserved at the Osaka Museum of History as

the Hazama collection. Although overall authenticity

of this collection is doubtless, I also

point out the importance of further pursuing

bibliographic studies of the materials on a

book-by-book basis, since they had not originally

been owned by the Hazama family but recollected

at a later time.

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注3:麻田剛立の門人の高橋至時は、幕府天文方となり蘭書の研究もした。三浦梅

園の孫弟子にあたる帆足萬里は、儒学者でありながら蘭書を読み、西洋の諸科学を

「窮理通」にまとめた。山片蟠桃は、ケプラーの第3法則には言及していないが、

その著書「夢の代」で、麻田の太陽系天体の運動の研究と志筑の「暦象新書」の地

動説の部分の引用し、自らの西洋書による天文学の研究を紹介した。

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 帆足 万里(ほあし ばんり、安永7年1月15日(1778年2月11日) − 嘉永5年6月14日( 1852年7月30日))は、江戸時代後期の儒学者経世家。父は豊後国日出藩家老の 帆足通文。字は鵬卿。号は愚亭など。三浦梅園、広瀬淡窓と共に豊後三賢の一人

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 ・・・コジキたち・・・