835日・・・今夜の7時30分(1月17日)のNHK「クローズアップ現代」の「ぼくらは大津波を生きた」をみた。今現在、生きているスベテの人々に見てもらいたい「番組」であると思う。

 「自然災害時にはテンデンばらばらに生き延びよ、ッ!!」の「テンデン」を、「片田 敏孝(群馬大学大学院教授)氏」が「絆(きずな)」に加えるコトに「家族・トモダチの相互に於ける信頼関係」をベースにした「主体的判断」、「主体性」であった、と言っていた。オレもオマエも「其の時は、個々人、テンデンばらばらであっても、生き延びるコトに全力を尽くせ、ッ!」、そして「お互いが生き延びようとするコトに一所懸命」でアル、アルだろうに違いないと「確信するコト」、そしてアッタだろう、アッタのだ・・・と、「生きていくタメの信頼関係」である「キズナ」を前提にしているのだ、と・・・
 「キズナ」とは「誰彼が生きていく関係性」の、そして「生き延びているモノ同士の結びつきがカタクなっていくコト」である。そのカタクなっていく「キズナ」とは「信頼関係」が前提である。「自然災害」に遭遇しそうになった時、あるいは遭遇した時の「個々人のテンデンばらばらの判断、行動」とは、「いま現在、其の時の自分自身の命の余裕」である。自分自身の命の余裕があってコソ、「自分自身以外」の「他者の命」を救うコトが出来るのだ・・・子供が海や川で溺れているのを見、泳げないのにも関わらず助けようとし、その「本人が溺死」したと言うニュースは毎年、夏の定番である。ヒトは「客観的」に状況を判断できない時がある。・・・そして「美談」としてカタラレル・・・自然災害でもなくても、事件、事故に遭遇して「他人のタメ」に「犠牲的に命を落とすモノ」もいる。その「犠牲」は「美徳」なのか?そして、新聞記事の見出しには「英雄」の文字が・・・だが、多分、瞬時に、考えるイトマも無く、咄嗟に「身体が動く」のだ・・・他人の危機的状況が自分自身の肉体に憑依するかのように重なって、自己の命もかえりみずに「危険」をオカして、その「他人」を救った、と言うコトにもなるのだ・・・その時の「理由?」って、「理屈」なんかはナイ。そして、その「行為」は「他人からは美徳」とも言われる。「本人の意思(?)・意識(?)」とは裏腹かも・・・その「行為」は殆どの生命体の「母親」が「幼い子供の命をまもるタメ」に脳ミソにプログラミングされた「母性本能(?)」とは違う・・・我が身の命をかえりみず他者の命を助ける・・・すり込まれた「喜捨(?)」・・・また、生まれ変わってくるコトが出来る、と言う「思想」・・・今、現在の生きている命は、「転生輪廻」などと言うヒマな奴が吐くコトバの真偽は死んだ後にあの世で、ユックリと考えるベキである。あらゆる「命」は生きている限り、「火宅」に存在しているのだ。人間の脳ミソが思惟、思考、意識する、しないとは関係なく、自然界も人間界も生きている肉体維持に忙しいのである。
 ・・・ハリウッド映画の「ベンジャミン」は老人から青年、少年、幼児、赤子、胎児(?)へとなって死んでいった。アレは「生きて存在」してきた奴の「今現在から過去への記憶の遡りの思惟、認識」である。アルのは今現在、息を吸い、心臓を鼓動させ、モノを喰って、トイレで排泄の繰り返しをしている「命」である。痛みに泣くのもワメクのも、ノノシルのも、屈託にワラウのも、生きている今である。明日ではない。
 東北大震災・・・なおかつ、自分以外の他者を救えなっかたモノは自身の生きているコトに煩悶している・・・あの時、一緒に死んでいれば・・・死んでいたら「他人に迷惑」を及ぼすのに・・・オマエのイタイはドコにアルんだ・・・海の底か、瓦礫の中か、と・・・そして「絆の根源」が、漢字の字面どおりの「迷惑」と言うモノなのだ。アル事態に直面して相互に「迷い」、「惑う」関係なのである。そして、生きていればコソである。
 「他人の危険状態」を「我が身のもの」と出来る人間のみが「結果」はドウでアレ、自分も他人も救える・・・「赤紙」で徴兵され、南方戦線に派遣され、生き残ってきた兵隊は90過ぎても自分自身を許せず無言で、孤独にこっそりと泣いていた。玉砕も出来ず、「人肉」さえも喰って、捕虜となって生き延びてきたのだ。凍てつくシベリヤ抑留の「降伏日本兵、降伏職業軍人」は仲間を売った・・・「共産主義=一国家社会主義スターリン」と言う「思想」を信じて仲間を売ったワケではない。生きて「家」に、「故郷」に帰りたかっただけである。だが、ヒトの命を売ったのは「絆=一億総玉砕」などと幻想をばら撒き、「国家」を操った「支配階級」であった。そして、今現在の「諸国家」・・・なんで、「国家=国+家」は「国」と「家」からナル漢字なのか?・・・支配階級がバラ撒いた幻想の根幹がココにアル・・・
 ・・・小便を引っ掛けるアメリ海兵隊。自分達の命を奪う敵を殺ったのだ。無防備な獲物の鹿を殺ったのではない。当然である。恥じるべきはアメリ国務長官自身であり、大統領であり、大資本家をバックにしたアメリカ政府に戦争加担を許したヒトビトである。彼等の「人生」もイズレは小便排泄が出来なくなる状況に真っ当するのだ。だが「他人の小便の意味」を自分に重ねることの出来ない奴等である・・・イタリアの豪華客船の「船長」は、我先に、と、逃げた?・・・ハドソン河に墜落した飛行機、そして我が身の命綱を他人に譲り、凍結した河に身を沈めた男性がいた。あるいはエンジントラブルで意図的に飛行機を河に着陸させ、最後まで乗客の安否とケアをした機長がいた。南米鉱山の落盤事故で生死を賭して生還してきた労働者達は「ハリウッド映画のシナリヲ契約(?)」をしたらしい。中国大陸の「新幹線事故」や、「JR西・福山線の事故」や、炭鉱での1000人規模の落盤、爆発事故死。事業者当人のトップは責任を取るべき人間なのに「キズナ」の欠片さもないが、家に帰れば「キズナ」はあるに違いない・・・生き残った家族は「カネの問題じゃぁナイ」と言う。じゃぁ、生きている両親、親族は、死亡したジジババ、オジオバ、父母、息子、娘、孫、曾孫、夫、妻、兄弟、姉妹、従姉妹、従兄弟、従姉弟、従兄妹、ハトコの「命の代償」としての「カネ」を貰わないのか?・・・血の繋がって連鎖する「イトコ・いとこ」までも「糸の子」であるが、「カミのカネ」で繋がっている「擬装人間社会」である。生きている人間生活の問題である・・・「北の将軍様の死」で、スーパーのエスカレーターの手すりに縋って泣き叫ぶ人々のキズナとはナニ?キズナも無く、飢えで啼く声も出せず野畑で死んでいった女性や、ソレを見守った人々(?)。
 原発事故で電気料金を値上げする東電の厚顔無恥放射能汚染に晒した砂利の危険性を指摘されながらも「規制・注意・警告」をすることもしなかった経済産業省、その親分の内閣官房は機密費バラマキも明らかにせず、政党助成金を手にして消費税をたくらんでいる「野田政権」。そして、「国家内階級分裂の二極化」を推し進める其の他大勢の政治屋達・・・「国家幻想」を与えるにしても「階級国家」の安定維持は「階級妥協」の要である「意識的に中間層」であると「思い込む階層」のパーセントの比率増大である。この「幻想プラン」をブチ壊し、ボンクラ頭の面々が「民主党」である。いまや「自民党」以下の血税寄生虫である。ナニが「泥鰌」か・・・ドジョウの生態をもっと勉強すれ・・・デある。
 ・・・去年も30000人を超える自殺者・・・「死を選択した根本原因」を追究することも無く「数字」を報道するマスコミ・・・
 「釜石小学校の子供達の主体性」とは「学校で徹底的に叩き込まれた生きるコトの執念」である。「10センチ、50センチ、1メートルの波、動く水の恐ろしさを知れ」である。そして「自然の恐ろしさを知れ」である。イザと言う時には「既成の考えに縛られるな、ッ」である。「その時はテンデンばらばらであっても個々人が自分自身の命に責任を賭して臨機応変に行動しろ、ッ」である。「安全」と言うコトバに「洗脳され生きてきた大人のコトバと行動」を信用するな、である。「イイことをもっともらしく言う人間には注意しろ、ッ」である。そして、この恐ろしい自然が自分達の命を育んでいるのを忘れるな、ッ」である。
 「自然」以上に恐ろしいのが「テンデンばらばらのタマ」を「数珠繋ぎ」にする紐を見つけることの出来ない、「キズナのヒモ」を意識しない「人間」である。「ヒモ」とは「シンライ」なのか?・・・では、「シンライ」とはナンぞや?・・・「相互の信に於いて相互に頼れる関係」、「相互の生命維持依存のネット」・・・多分、人間社会の「善悪の約束事」を超えた「つながり」である。命を与えてくれたモノ、命を育んでくれたモノ、今現在の命を存続させてくれているモノに対する相互の「尊敬と畏怖、迷・惑」・・・子宮にへばり付いた命の出発点のキズナとは「ヘソの緒」である・・・そして切れるのである。次にへばり付くのはオッパイである・・・そして切れるのである。次にへばり付くように握るのはお手々である。このテンデンばらばらの手の数は増えていく・・・そして命を支えてくれる手は「相互に嫌がることをするな」と、切れたり繋がったりしていく、そして意識的に切ったり、繋げたり・・・自然災害が襲おうとも・・・

 ・・・そのむかし、「主体性とは何か?」との問いかけが「学生・知識人・学者・労働者」等に「流行った時期」があった・・・多分、誰しもが「主体性」などとの「コトバ」の意味も知らず、脳ミソが真っ白状態のままで「主体性と言うコトバ」に「時代のアル人々」は「洗脳されまくった」のではないか?・・・「北の将軍様」を支えてきたのも「主体性」をブロックする「主体性思想」であるらしい。「有無」を言わせず「命」を無自覚に「主人=他人の私欲=みんなの主人」に預けてしまう「忠誠、忠義の思想」であるらしい。その「代償」は喰わせて貰う「レベルの保障=安堵」である。アメリカも「愛国忠誠法」なるものを作っている。どちらも命を預けた主体性欠落の「国家の傭兵の生活保障、安堵」である。
 「主≠客」の思惑の一致点とは「主≒客」でしかない。「合理的な理解認識度の相互の共通化・一般化」であるが、「現実社会」は理屈で「割り切れない」のが「人間の感情=快・不快=好き・嫌い」である・・・個々人は「生まれながらに能力、体力、生活環境」が「平等」でないからである。求められるのは、「平等」ではなく、「社会的公平」である。
 「主体と客体」に「性」がくっ付き、「主観と客観」に「主義」がくっ付き、「主観主義と客観主義」に「的」がくっ付き・・「的」とは中国語本来の意味は「ハッキリしているコト・確かなコト」で、的中、的確、的暦であるが、加えるに大修館漢和辞典の説明には英語の「・・・-tic」の「翻訳、当て字で、・・・上の、・・・性の、・・・むきの、・・・風の、・・・のような、・・・に関する」である、と記されている。「ロマン-チック(tic)=浪漫的(tic)」とはねッ。ロマンチック、これは「希臘的→羅馬的」ではないのか?・・・他の漢和辞典「伝奇的・空想的・華想的」とあるが「華想的」とは「仮想的」で、中国、中華、「唐王朝」の「荒唐無稽なハナシ」であろうが、「仮想」とは「哲学思考の前提」である。
 兎に角・・・「的(テキ・チャク・まと)=白+勺(勹ゝ)」とは「太陽の光の明らかな様子」である。「太陽の光=景=日光」で、「景」とは「光の影」でもある。眼に視えるモノは光の明暗度、すなわち、対象物の陽景と陰影の差による。そして「勺」とは「柄杓(ヒシャク)」の俗字である。天体に存在する「北斗七星」の大熊座の柄杓である。
 「主人(あるじ・あろじ・ぬし・うし)」と「客人(まらうと・まらひと・まれひと)」のモノの見方の立場の問題である。「或る字(アルジ)と真例(間列・馬令・マレイ)日渡・比斗」の認識、対象関係でもある。「主ー従」、「主ー僕」、「君ー臣」なら「ぬし」と「やっこ」。「在る・或る・有る」と「わかる・わける・さばく(捌く)」である。「捌く」とは「撚ったモノ」の「分解区別」である。「つね・なみ・いつも(常)」と「まれ・たかし(ひくし)・たがう(異)」・・・「まろ」とは「円・圓(麻呂)=囗+員(丸い形の数・人数)」である。「方(四方・大地)に載った円天、天球(天体)」である。
 「的=白+勹+ゝ」・・・「勹(つつみがまえ)」はヒトが抱え込む姿の形象で「ゝ・ヽ」は「しるし、てん、ぽち、灯火」である・・・古代エジプトの天体壁画にはイシス女王が星々天体を抱え込んでいる姿の暦、昼夜の時刻を示唆するように描かれているモノがある。
 生きて認識存在が存在するモノを「主星」とするならば「地球」であり、「客星」とは「彗星」、「新星」である。「惑星」とは天体を迷う「木(歳星)・火(蛍惑)・土(填星・鎮星)・金(太白)・水(辰星)」の五惑星である。「神話」では太陽は「天照大神」であった。月は「月読」であった。「鼻祖」とは「須佐之男」の「海(朝夕・波)」であり、「母の国、黄泉の国」へイキタイと啼いた「男神海王星(第8惑星・海王星・1846(丙午)年9(丁酉)月23日に発見)」であった。星座では「オリオン(傭兵巨人リゲルの左足・觜宿)」であろう。多分、「イヅモ(出雲)」の「鼻(はな・ガン)の祖」とは「華の祖」であろう・・・「コヨミ(かよみ)のモト」は「中華の天文学」である・・・キヅナは「絆=糸+半」で、編むのにはマドウのである。

 ・・・・以下、NHK「クローズアップ現代」より抜粋・・・
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子どもが語る大震災(2)
 ぼくらは大津波を生きた

 釜石市沿岸部にある釜石小学校。3月11日、年度末の短縮授業で児童はいつもより早く下校し、家でゲームをしたり、友だちと遊んだりするなど、大人の管理下を離れて自由な時間を過ごしていた。大津波にのまれる町を目撃した親や教師たちは、「子どもたちはもうだめ・・・」と覚悟を決めた。
 しかし子どもたちは大人の予想をはるかにこえる行動をとっていた。防災学習の知識をいかし自力で安全な場所へ避難。184人の児童は一人の犠牲も出ることなく全員無事だった。さらに、子どもたちは小さな兄弟の手を引いたり、体の不自由な友人をおぶったり、大人に避難をよびかけるなど多くの命を救っていた。
 番組では当日の避難行動のシミュレーション動画や証言などをもとに、子どもたちがどう巨大津波を生き抜いたのか分析。あの日の体験を生きる力に変え、未来へ向かって進もうとする子どもたちの姿を伝える。

 出演者片田 敏孝さん(群馬大学大学院教授) 群馬大学大学院
 災害社会工学研究室