805日目・・・5月28日土曜日、NHK「たけしのア−ト&ビート」で「たけし」が「TAPの神様セヴィアン・グローバー」にインタビューし、彼のタップが紹介されていた。

 セヴィアンの「タップの音」が様々な形で「音楽」として表現され、そのタップが高速度カメラで映し出されていた・・・タップの名人の肢が奏で出すタップの音、スゴイナァ〜ッ・・・人間の「内面(?)」を表現していると、その最後に紹介されたセヴィアンの「タップの足音」が記憶として何処かで聴いたことがある「音」と重なる・・・のだが・・・そのボクの「記憶」が曖昧である。世界的に有名であるらしいタップダンサーの「セヴィアン」も今回のTVで初めてみた人物だし・・・「たけしの座頭市」では下駄を履いて踊りまくるタップダンスの映像場面に圧倒されたが・・・あの記憶の音じゃぁない。
 ・・・思い出した・・・セヴィアンのタップダンス、この「足音」はボクの棲んでいるボロ屋敷のトタン屋根に強弱緩慢に降り注いで、フライパンの中で煎り豆の弾けるような、あるいは、ドラムを敲いているように聴こえていた「アメの弾ける音」だった。一昨日あたりから梅雨に入ったのでベットの中では何時も聴いている音だった・・・
 このセヴィアンの足音を「ビートたけし」は「日本の巫女さんが踊る時の宗教的な音楽(?)」を連想していたみたいだけれど、セヴィアン自身は「音」を出すと言うことは自分自身のアイデンテティを内面から発する(?)「人間コミュニケーションの最初の表現形式」であるようなコトを言っていた。
 「面白くなければ芸術ではない」が「タケシの持論(自論)」らしいけれど、かっての某TV番組の「だれでもピカソ」でも表現するコト自体が「面白いコトがダレでもピカソの条件」だったようだ。TVの娯楽番組としは「面白いコト」が条件なのは当然だろう。
 あらゆる「対象化された表現」は「表現した主体」と、その表現されたモノを「鑑賞、享受する主体」を区別して考える必要がある。
 「表現・創作」者にとっての作品形成の動機が「いと面白い=興味深い」コトが出発点であろうが、文字道理の「オモシロイ」ではない。「オモシロクナイコト」も「表現・創作」の動機にもなっている。
 この「現実社会の商品的価値観」では表現、創作、創造主体者が「ダレもがピカソのような芸術家(?)にはなれない」のは当然である。そして、ピカソの「ゲルニカ」はその歴史的な創作の裏事情を知らなければ、その創作動機は「面白くない(ナチスの爆撃に対する怒りだ)」し、鑑賞者のボクには「面白くない作品」である。しかも完成された貼り絵のような動きの無い「ゲルニカ(完成前の怒りのオリジナルや、修作の絵が数点ある)」にはボクには「怒り」も「憎しみ」も感じられない。理由を知って「ヘェ〜ッ、そうだったんだ」である。
 「爆笑問題」の大田ヒカル君もピカソの「泣くオンナ」を観て衝撃を受けたそうだけれど、彼にとっては「内面感情のオンナの衝撃的イメージが表現された作品」であったらしい。あの絵がネッ、「オンナのヒステリーを起こした直後の泣き顔」を脳裏にイメージしたモノなんだ・・・なるほど、とても、「写実的・具象的」に表現するのはムリだ。既に脳ミソ自体が内面で抽象化したモノの「表現」らしいから・・・でも、個々人の鑑賞者にその感想説明を訊いても、「面白い・面白くない・好き・嫌い」は千差万別であろう。
 人間も人間以外の動物も認識対象に対して「面白く(興味)」なければ、自己表現、自己行動しないのは当たり前である。
 だが、「芸術作品」は「表現、創造」の技術的、技能的なレベルが自己自身にも、鑑賞、享受者からも要求されるモノとしてある。単なる「面白いモノ」ではないだろう。「ナニかが面白いレベルのモノ」であるに違いない。そして、この現実社会での評価基準の価値単位は「カネ」である。ネコに小判と言う諺もある。
 ・・・「自ら発」する「音」も外からであれ、内からであれ、対象との関係性でしか生じない。そんな事はわかり切っているコトだが「足音」はアシの動作が踏みしめる大地か、床との関係で、その音を発している。だが漢字では文字通りの「足の音」で、その「音の発生」は「アシとナニかの関係性」から発するコトを「文字自体」では示していない。そしてコトバとしての「足音」自体は「概念・本質・範疇」の共通理解された「意味内容」を有するモノとされている。
 どんな「音」も「自然」である。しかも「音」には高低、大小、響き、そして、それらの「組み合わせ」でもある。人間の好みが選択した「音の組み合わせ」が「音楽」である。人間のアイデンテティが発すると言う「足音」も「自然」である。タップダンスを踊る人間そのものが「自然」である。
 だが「自然の音」も人間が遭遇し、経験した「喜怒哀楽」に重なっていくのも当然である。「地震、雷、火事、親父」に伴う「音」は恐ろしいに違いない。生産と収穫、狩猟の恵みを大地や森林、河川、大洋から得るときに伴う「音」は歓喜に満ちているに違いない。「お袋から授乳される時の音」も・・・人間の発する「あらゆる音」も同じだろう・・・カミやアクマが存在しなくても・・・「人間のアイデンテティ」とは「自然に対する自覚」である。
 ・・・雑文でした・・・