568日目・・・外交問題・・・「北朝鮮」、ヤツラが「本気」でヤッテも、日本単独の「ハリネズミ戦力」にさえも結果的には相対的に勝てんだろう。多分、「将軍さま」も充分にそのことに関しては「自覚」しているだろうサッ。で、「相対的」には、とは「双方の戦争結果の破壊、人命の数量的なダメージ」である。そして、戦争に於いては「兵器の優劣」と、その「使用破壊」の結果の「数量」であるが、一般論としては、戦争指導者の双方が、ここには「生きている人間の意識(覚悟)の問題」が欠落している、と思う。あるのは「用兵」としての「軍事

 「核兵器」は「大量破壊殺人兵器」で、「放射能汚染」を撒き散らすモノだが、ナイフ、刀、拳銃、猟銃などは常に「殺人兵器」に転用される。「パワーバランス」、「暴力・軍事力のバランス」があるのは現実だが、「戦争結果」によって「原爆」で死んでいった人々と「大空襲の焼夷弾」で死んでいった人々の違いはあるのだろうか・・・ウラン爆弾で殺された人間と拳銃で殺された人間の違いはあるのだろうか・・・殺された人間の数、使用された武器や兵器の違いではなく、「個々人が殺された」という事実・・・「中性子爆弾」なんてものもあるらしい・・・「ブラディ・マンデイ」・・・
 「財産」を持ちすぎると、それらの「維持」にのみ汲々とするのが「人間」と「人間の組織」である。無い人間は汲々しようがないけれど「寿命」までは生きたいだろう。
 「護るモノ」、「愛するモノ」がいれば、「人間は臆病」になるらしいけれど、同時にそうであればこそ「人間は捨て身」にもなる。戦争に駆り立てられて破壊しよう、奪おうとする相手も、当方も「同じ立場」であるには違いない(?)、と思う、のだが。これって、本人の「物欲、私欲(?)、我欲(?)」・・・ダレが、ダレのモノがまもられるのかねッ?・・・
 だが、「捨て身になる意識的な覚悟」をしていなくても、人間の日常生活は常に「捨て身を強いられている状況の中」で生きている。市民社会の生活も交通事故死、強盗殺人、誘拐、放火、道路陥没などの人災、そして地震、豪雨、土砂崩れ、台風、隕石、旱魃などの自然災害・・・老化を経て「寿命」を全うせずに殺されたり、死んでいくヒトもいる。
 「生きている個々人、諸人間」だけが未来への「あらゆる死」を「覚悟」できる。そして諸個人の「捨て身な覚悟の結束」は無駄で無益な死を避けるコトにもなる・・・「危機管理」は今現在生きている諸個人の生き残るコトを前提にした問題意識と備えであるが、未来的に、わが身と家族、友人、同胞に起こってしまうだろうコト(死)は、「結果論的」には未来的に生き残った人間の問題意識であるハズ・・・
 理不尽に「核兵器」で殺されるのも、「素手」で殺されるのもドッチもイヤだけれど・・・
 人間としての理を尽くした「生死の覚悟」と「実践」は地球を救えるかも・・・だが勝手で、自己本位な思い込みの「決意」と「覚悟」だけでは「自分自身」も、今現在生きて「愛して」いる人々も救えないだろう。
 「覚悟」とは「状況によっては他人を殺すかも知れない」と言う「覚悟」である。おっソロしい・・・
 偉大な「ガンジーの無抵抗主義の抵抗」には「覚悟の理」があった、とは思うけれど、その「手段」、ボクには「理不尽」であるように思える。
 「ホトケの悟り」も「覚悟」とは違う、とも思える・・・でも残虐無道、好戦的な「アッショカ王」は「仏陀の教えに帰依」し、「支配階級として実践」した。そして世界に広まったが、歴史的にも廃れてしまっている。「聖戦(ジハード)」には負けるのさ。だが、「アッショカ王」は人々を救ったワケではない・・・支配者として「階級社会」を秩序維持するために利用したのさ。あらゆる「生き物を殺しちゃいけない」って・・・多分「むやみに殺しちゃいけない」と言う但し書きがあったんだろう。でなければ、狩猟、漁労を生活している人々には「死ね」っていうことだから。敵対国家の無い統一国家としての帝国になったんだから、それでもヨカッタンダロウ、当時の人々は。「戦争での人殺し」は無くなったし、「現世で救われている」、更に「来世で救われる」と思っていたんだろうから。自分自身の「現実存在」が何であるのか「無自覚」であったのさ、考える手段(コトバ)は絶対権力者の王様とその陪臣達が独占していたんだから。
 「キリスト」も「汝、ヒトを殺す無かれ」って言っていたそうだけれど、「キリスト教徒の国家」はダレもその教えをまもっていないョ、なッ。最期に坊主を介して「懺悔」すれば皆救われるらしいから。利用した王様は、マザコンの「コンスタンチン」だった。多分、王様は「利用」されたんだろう、ローマ市民権を渇望していた「現実主義者のユダヤ人のダレか」に。
 ・・・自分自身の「存在を問え」、とは、今現在、ヤットコさ、個々人、自分自身を「考えるコト」が出来る「コトバ」を得、歴史的、社会的環境に人々は存在している、と言うことだ。
 そして、個々人が「意識的な覚悟」もできる存在になっているハズなのに・・・その要求されている「カクゴ」って・・・?