533日目・・・「花粉症の季節」だけれど、「人間」って「記憶喪失症」や「健忘症・認知症」になりやすい「動物」なんだろうな。でも、想い出した・・・ボクの小学校三、四年生の頃は小雨や霧雨であっても「雨の日」はオフクロから傘や帽子をキチンとかぶりなさい、と言われたものだった。その理由がよく解からなかったが、「放射能の雨」でハゲになるとか、骨がぐしゃぐしゃなるとか、大きくならなくなってしまうとか・・・「放射能の雨=死のアメ」にアタッテも「日本茶(緑茶)」を飲めば大丈夫だとか友達のハナシを真剣に聞いていたコトがあ

naie2009-02-19

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 原水爆禁止署名
 1955(昭和30)年8月6日広島で開かれた第1回原水爆禁止世界大会は署名集約の場としての意味を持って準備された。この場で発表された署名総数は3158万3123筆にのぼった。

 第五福竜丸
1947年和歌山県古座町で造られたカツオ漁船・第七事代丸が静岡県焼津市でマグロ漁船に改造され、第五福竜丸命名された。被ばく後は政府に買い上げられ、東京水産大学練習船はやぶさ丸に。1967年老朽化により廃船になり、東京・夢の島に捨てられた。その後の保存運動の結果、現在は東京都立第五福竜丸展示館に保存されている。

 気象庁気象研究所
 茨城県つくば市にある国土交通省気象庁気象研究所。1950年代以降継続して、海水や雨などの環境における人工放射能の観測、研究を行っている。
 観測データによると、雨水に含まれる人工放射性物質(放射性降下物)は1963年にピーク、これは米ソの両大国が部分的核実験禁止条約締結前に駆け込みでおこなった核実験の影響と考えられている。その後、漸減しているが、1986年にはチェルノブイリ原子力発電事故の影響で、1960年代と同程度の放射性降下物が観測されている。

 マーシャル諸島ビキニ環礁
 マーシャル諸島はオーストラリアとハワイの中間に位置する人口5万人(2007年)の国家。200万平方キロの海域に5つの単独の島と29の環礁がある。環礁は火山の噴火口の縁に珊瑚礁ができて、輪の形に島々が生まれた場所。ビキニ環礁もその一つ。

 占領下での検閲
 1945年9月19日GHQ(連合国軍総司令部)によって出されたプレスコード(「日本にあたえる新聞遵則」)。
 「連合国に対し、事実に反し、またはその利益に反する批判をしてはならない」「進駐軍に対し、破壊的な批判を加えたり、同軍に対し、不信や怨恨を招くような事項を掲載してはならない」とされ、これによって原爆批判は非常に困難になった。

 冷戦下の核開発について
 1945年世界で初めて原爆開発に成功したアメリカだったが、核の独占は早くも1949年8月には、ソ連の原爆実験成功によって破られる。翌1月トルーマン米国大統領はより強力な水爆開発への取り組みを決定。
 1952年10月には世界初の水爆実験を行った。しかしこの時の水爆は2階建ての巨大な施設で実戦的なものではなかった。1953年8月ソ連アメリカに先駆けて飛行機に搭載可能な実戦的な水爆開発に成功。実戦的で強力な水爆開発への焦りのなか、マーシャル諸島ビキニ環礁での実験が強行された。

 「第五福竜丸被ばく」を報じた記事について
 1954年3月16日読売新聞朝刊。記事を書いたのは静岡支局焼津通信部の安部光恭記者。安部記者はこのスクープ記事で第3回菊池寛賞を受賞。「死の灰」という言葉もこの記事の中で使われた。

 アメリカの水爆実験
 1954年3月1日午前6時45分(現地時間、日本時間では3時45分)にマーシャル諸島ビキニ環礁アメリカが行った水爆ブラボーの爆発実験。キャッスル作戦と名付けられた作戦の一環だった。

 「死の灰」を分析した科学者
 東京大学木村健二郎教授を中心に静岡大大阪市大、金沢大、京都大など全国の科学者が第五福竜丸帰国の直後から「死の灰」の成分分析に取り組んだ。その結果、発見されたウラン237の存在などにより、第五福竜丸を被ばくさせた水爆が、強力な威力を持つ新型爆弾であることもわかった。

 放射能雨の観測について
 5月16日以降、放射能雨が各地で観測される。全体として太平洋側に強く、日本海側に弱かったため、アメリカがマーシャル諸島で繰り返していた水爆実験のものと考えられた。アメリカは3月26日に水爆実験「キャッスル作戦」を再開、5月13日に至るまで5回の実験を繰り返していた。また9月以降には、日本海側で相対的に強い放射能が観測され、ソ連の実験だと推測された。

 安井郁事務局長について
 安井郁事務局長は当時、法政大学教授で国際法が専門。杉並公民館館長をつとめ、社会教育に力を入れていた。杉並で始まった原水禁署名運動が全国協議会に発展していく過程で、事務局長に就任。
 1月17日から19日までオーストリアのウィーンで開かれたのは「世界平和評議会理事会拡大会議」。主婦を中心に日本の運動がすすめられていることに各国代表が関心を寄せたことが当時の新聞に掲載されている。会議のなかで安井事務局長は原水禁署名運動に各国で取り組むよう呼びかけ、採択された(ウィーン・アピール)。

 1955年のアメリカの核実験について
 2月から5月にかけて、アメリカはネバダ州の実験場を舞台に「ティーポット作戦」と名付けた14回の核実験を繰り返した。さらにアメリカ海軍が5月14日カリフォルニア州サンディエゴ市南西800キロの海中で原爆実験行っている。

 1955年8月6日の原水禁大会について
 8月6日から3日間、広島市公会堂を主会場に開催。参加者は国内外5000名(海外からは50数人、ただし会場の収容能力が1900人のため、会場外にスピーカーで大会の模様が流された。大会では、安井事務局長から署名が国内3158万3123に達したこと(8月15日には3238万に)ウィーン・アピールの海外の署名が6億を超えていることが報告。

 原爆医療法について
 1957年3月、国庫負担による被爆者の健康診断と治療を目的とした「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)が成立した。

 部分的核実験禁止条約について
 地下を除く大気圏内、宇宙空間および水中における核爆発を伴う実験の禁止を内容とする。1963年8月5日にアメリカ、イギリス、ソ連の3国外相によりモスクワで正式調印され、10月に発効した。発効までに108カ国(原調印国を含め111か国)がこの条約に調印した。

 対人地雷禁止条約について
 対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約。1991年アメリカとドイツのNGO等が呼びかけて条約への動きが始まる。97年に署名(日本も)、99年に効力発生。

 クラスター爆弾禁止条約について
 「クラスター弾に関する条約」あるいはオスロ条約ともいわれる、クラスター弾の使用や保有、製造を全面的に禁止する条約。2008年12月に署名され、今後各国の批准手続きを経て発効する。

 投書「沈めてよいか第五福竜丸」について
 1968年3月10日、朝日新聞「声」欄 26歳会社員・武藤宏一さんの投書より一部引用しました。番組での引用部分は下記。
(引用部分)
 「第五福竜丸
 それは私たち日本人にとって、忘れることのできない船。
 決して忘れてはいけないあかし。
 知らない人には心から告げよう。
 忘れかけている人には、そっと思い起こさせよう。
 3月1日。太平洋のビキニ環礁。そこで何が起きたのかを。
 第五福竜丸、もう一度、私たちは、この船の名を告げ合おう。
 平和を願う私たちの心を一つにするきっかけとして。」
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 「死の灰」のデータが無かった・・・無知にも米、ソ(ロシア)の核実験で「アメリカ国籍の軍人、兵隊、研究者」もその実験で「多数死亡」している。そしてイギリス、フランスでも・・・モチロン、中国でも。そしてインド、パキスタンでも。当然、北朝鮮の核開発にかかわった「北朝鮮の軍人、科学者」も・・・
 ・・・「日本階級国家=アメリカ階級国家の属国」は「原発地震列島」の上で、その生活を「謳歌」してきている・・・