461日目・・・「太田総理」・・・「少年・少女」とは「義務教育」を修了した「年齢」まで、としたらどうだろうか?・・・犯罪を犯した少年少女の「実名公表」が「少年犯罪」をクイ止めることにはならない。「犯罪動機の質」は違え、何時の時代でも少年少女を「犯罪に引きずり込む社会的状況」はあったし、これからもあるに違いない。現在の学校に「ワル仲間」を仕切る、「校友」を守る、「反権力」としての「番長」が存在しないのでは・・・かっての「番長」は学校生活に密着したその道の「ネゴシエーター」としての「プロ」で、「暴力の限界と

 ・・・昔なら市民社会で罪を犯し、刑期を終えた「犯罪者」を受け入れてくれる場所は殆どが「ヤクザ社会」だった・・・事情はどうであれ、「生活」に困窮していた「犯罪予備軍」を受け入れてくれる組織が「ヤクザ社会」だった。「ヤクザ社会」は「市民社会のルール」以上にも厳しい「掟」がある。「反社会的」と言われるが「義理と人情の掟社会」で「一宿一飯にを賭けた恩義」である。
 市民社会での「社会的犯罪者」は刑期終えたとしても、その市民社会が受け入れてくれるか、どうかは状況次第、相手次第である。そして、それは「運」次第である。その後の人生はどちらに転んでも「犯罪者の覚悟」である。「市民社会の犯罪」がチャラになると考え、考えてきたヤツは「選挙違反」で逮捕された「政治屋」や、「横領したカネ」を返せばイイと言って憚らない「官僚屋」や、「薬害殺人」の責任をとらない「官僚屋」である。
 だが、一般市民は「犯罪」を犯すならば一飯市民社会から疎外されて「村八分」される覚悟は当然である。犯罪人を法が時間的経過で許しても「被害者」の「怨念・怨恨」は許さないのだから。
 「老人の犯罪」は「牢屋でメシが食えるコト」が目的らしい・・・が・・・再犯者の殆どが「生活の場」は「刑務所」と願っているらしい・・・気の許せる仲間もいるし・・・
 過去に犯罪を犯し、その務め終えたものです、と「立場」をハッキリと「自己宣言」し、再度「市民社会の一員」として認めてもらう、と言う今回の「キン女史」が経験した「歴史的な立場」の発言は「正当」で、社会復帰に於ける心情的心理としてはワカるが、「例え」が違う。「犯罪」が問題なのである。「罪の意識」が問題なのである。「社会的罪を犯してしまった犯罪者の意識的立場」と「植民地的支配に加担し、差別された人々の意識的立場」の「意味」はまったく次元が違う。「犯罪刑期を終えて許されのる」と「法的、公的人権が認められる」の次元が違うのはアタリマエだ・・・
 昔の刑罰に「島流し」と言う「掟・法」があったが・・・如何なる年齢であろうが「過失傷害致死」以外で「市民社会」で「殺人・強盗・詐欺」を犯した「人間」は、そこで「自給自足の社会生活」をしてもらう・・・「眼には眼、歯には歯」が「刑事罰」の鉄則である・・・
 「強盗殺人・強盗殺傷・性的暴行殺傷・詐欺強奪」を行った者に生涯、その「人間的人権」があろうハズはない。
 だが、「少年少女」の「可能性」を毟り取るのはどうか?・・・一族郎党を「類罪」とするのも・・・
 「親子関係」を「友人関係」にすり替えるなッ!
 「子ども」を「友達」にするな!・・・ましてや「ペット」に!