2649日目・・・『則天武后』と「現存・古事記」・・・「托卵」しながら、アッチこっちに彷徨(さ迷)い歩いたボクの「HP」・・・「遊郭=廓=くるわ=来るわ・繰るわ・刳るわ」・・・「彠=尋+蒦」とは「彠=はかる・ものさし・のり・クワク・ワク・カク・キャク・ヤク」・・・反物を測るのに用いられてきた和裁用物差の単位・・・「鯨尺(一鯨尺 = 37.8787879 cm・鯨尺一尺=曲尺 (かねじゃく) の1尺2寸5分に相当・37.88cm)」・・・「もと鯨の鬚(ひげ)で作られた」・・・「1958年(昭和33)の尺貫

 「鯨=くじら=魚+京・異体字は𩼃・䲔・巨京」
 「雌は鯢(ゲイ)・女久治良」
 「久地良・久知良・久治良・久慈理・区施羅・屈支羅」
 「『クジンラ(九尋羅)』が変化」
 「イサナ・勇魚・伊佐那・伊佐難・伊沙那・鯨名・異舎儺」
 「クロシラ(黒白)=くじら」

 ↓↑
 「訳(ヤク)=言+尺」の
 「ものさし
 (ruler・(measuring) rule [rod]・straightedge・measure)」
 ・・・辞典・事典・字典・・・
 「規彠=キカク・おきて・法度」・・・
 「尋(ひろ)=古代の中国や日本で使われた長さの単位」
 「古代中国で8尺・日本で6尺または5尺」
 「両手を左右に伸ばしたときの
  指先から指先までの長さを基準にし
  一尋は5尺=約1.515メートル
  ないし6尺=約1.816メートル」
 「海神 所乘駿馬者 八尋鰐 也 是 竪其鰭背 而在 橘之小戸
  第十段一書(三)」
 とあり、海神の乗る駿馬は「八尋鰐(わに)」・・・王仁和邇
 「異体字は、彟・蒦=艹+隻・卝+隻」・・・
 「彠=ヨエロ寸艹(クサカンムリ)隹又」
   尋(たず・たづ)ねる 
   ヨエロ(与重侶・世慧鹵)を
   ョ=鼠(子・シ)の頭・・・ネズミのカシラ・・・則天武后
                ネコのカシラ・・・・王皇后
     猪(亥・ガイ)の頭・・・豚(ぶた)の頭・・褚遂良
     鯨(くじら)の頭は括れていない・・・
   寸(はか・スム・一亅丶)る
        ・・・初(一・はじめ・イチ)に
           釣(亅・かぎ・鉤・鈎・つる)る
           天(丶・てん・点・典・あま・あめ)
   日下(くさか・艹)の無理(ムリ)・・・久坂の無理
    ・・・草(艹・艸)冠=くさかんむり
   執り(取=耳+又・とり・隹・鳥・鶏・酉・禽) 
 ↓↑
 「篗=竹+隻=糸を巻き取る道具・榬」・・・イトまき
 「榬=木+袁=異体字、楥・𥰟・楦」・・・
       十八(拾捌)の
       長袖(ながそで・袁)=sleeves
      「グリーンスリーヴス=Greensleeves」
 「䈅=竹+或=〔集韻〕に籆」・・・
ーーーーー
 高宗・・・太宗(李世民)の第九子
      母   長孫皇后
      姓・諱 李治
      字   為善
      小字  稚奴
      諡号  天皇-大聖-大弘孝-皇帝
      廟号  高宗
 の
 皇后
 王氏
 と
 蕭淑妃
 が対立
 武照の入宮
 武照が昭儀(後宮上位5番目の地位)
 として後宮に入宮
 ↓↑
 永徽六年(655年)六月
 高宗は武照を
 昭儀から新たに設けた
 宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとしたが
 宰相
 韓瑗・・・韓の瑗(王の爰=エン・オン・ここに?)・・・どこに?
 と
 来済・・・来済(救済に来た?)
 が反対
 同年
 中書舎人・李義府などの側近が
 皇后廃立と
 武照
 擁立の
 意図を
 揣摩(シマ)し
 許敬宗・・・許す敬の宗
 崔義玄・・・崔(もよおし)の義は玄(くろ)
       崔=山+隹=高くて大きい
 袁公瑜・・・猿の公の瑜(ユ)
       瑜=玉+兪
          兪=中をくりぬいた丸木船
            木の中身をそっくり抜くの意
            不純な部分を取り除いた上質な宝玉
            美しい宝玉
       賢瑜=三巻揃いの現存最古の
          「古事記」を写本
          ・・・瑜=ユ=諭=喩
               福沢諭吉・比喩=たとえ(喩)
 らの大臣が結託
 高宗に
 武照
 立后の上奏文を送った
 ↓↑
 高宗は
 王皇后を廃し・・・・・・・王仁・王邇・和邇
 武照を皇后に立てることの
 是非を重臣に下問
 ↓↑
 太宗(李世民)の
 皇后
 長孫氏の兄で
 高宗
 の伯父にあたる
  ↓↑
  長孫無忌・・・長の孫、忌(いみ・嫌・厭)は無し
 (チョウソン ムキ)
  ↓↑ ↓↑  開皇十五年(595)頃〜顕慶四年(659)
         唐朝の外戚
         字は輔機
         黔州・唐初の重臣
         鮮卑の拓跋の
         鮮卑系貴族
         本貫は河南郡洛陽県
         凌煙閣二十四功臣第一位
         隋書は・・・随所・随処・髄書・瑞書
         長孫無忌
         と
         魏 徴(ギチョウ)
         らの編纂・・・
  ↓↑ ↓↑    ↓↑
          「俀国」
     在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居
     ・・・都於「邪靡堆」
     則魏志所謂「邪馬臺」者也
     開皇二十年
          「俀王」
         姓「阿毎」
         字「多利思北孤」
         號「阿輩雞彌」
  ↓↑  遣使詣闕
    ・・王妻 號「雞彌」・・・
  ↓↑
 太宗に信任、直言をしていた
 褚遂良(チョ スイリョウ)・・・
       596年〜658年
       書家・銭塘(セントウ)の人
       字は登善
       楷書に巧みで書風は王羲之の流れ
      褚=衤(衣)+者+丶⇔異体字「𧝙」
        わたいれ・さいふ・ためる・あか・あかい
        チョ・シャ
      遂=䒑+乑+辶=彖+辶=彑+𧰨+辶
             彖(垂れた・タン)・・・豚の垂れた腹
             縁(ふち)・縁(へり)=糸+彖
             縁側・縁談・縁日・縁故・因縁
             手づる・えにし
      良=丶+艮=白+レ+乂(乀′・乀ノ・⺊)
       =異体字「𣌩」
 ↓↑
 高祖と同じ
 北周八柱国出身の
 于志寧・・・こころざしを寧(ねんごろ)にまわす
 ↓↑
 太宗の下で
 突厥討伐の戦功者
 李勣・・・木の子、責(せめる)チカラ
 ↓↑
 の4人
 長孫無忌
 と
 褚遂良は反対
 于志寧は賛成も反対も言わず
 李勣が
 皇后の廃立を消極的に容認
 ↓↑
 十月十三日(11月16日)
 高宗は
 「陰謀下毒」の罪により
 王皇后
 蕭淑妃
 を庶民に落とし投獄
 同2名の親族は
 官位剥奪
 嶺南へ流罪
 その7日後
 高宗は
 武照を立后
 諫言した
 褚遂良を
 潭州都督へ左遷
 ↓↑
 十一月初旬
 皇后の武照は
 王氏(前皇后)
 蕭氏(前淑妃)
 を棍杖で百叩きに処した上
 処刑
ーーーーー
 以下はボクの「HP」・・・
 『則天武后』と - Wix.com
haa98940.wixsite.com/.../『則天武后』と「現存・古事記」1
 が原文で・・・少々、添付
 ・・・彠=尋+艸+隻
         尋ねる久坂玄瑞の隻眼?
  一つの目・片目・ものを見抜く眼識・すぐれた識見
 独自の見識・独眼・隻眼・・・
 伊達政宗=幼名梵天丸・法名から貞山公
      幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目失明
      「独眼竜」の異名
      隻眼の伊達政宗をあえて
      李克用になぞらえた
      後唐の太祖武帝
 柳生十衛兵=柳生 三厳(やぎゅう みつよし)
       別名 七郎・十兵衞
       戒名 長岩院殿-金甫-宗剛-大居士
 ↓↑
 則天武后の父親
 『武士彠(尋+艸+隻)』は・・・獲得?
        ヨエロ寸艹(クサカンムリ)隹又
        武士彠=幷州-文水(山西省汾陽県)の人
 『隋王朝』の
 『煬帝』の
 『鷹楊府隊正』の部隊長で
 当時の
 『李淵
 や
 『世民』
 親子と縁があり
 『隋王朝』滅亡の時には
 『李淵』の配下の
 『大将軍府・鎧曹参軍』
 の地位にあった
 彼の最初の夫人が
 『相里氏』で
 後に再婚した別の夫人が
 『楊氏』で
 『隋王朝』の
 『観王(楊雄)』の
 姪であった。
 この夫人が「三人娘」を産んだ
 ↓↑
 『韓国婦人』は長女
     ・・・「調序・重所・聴如」?
 『照(則天武后)』は次女
        ・・・「自序・次序・爾汝・自助」?
 『郭素慎婦人』は三女
      ・・・「纂序・纂所・蒜如・讃女」?
      ・・・則天武后の妹の夫は
        「郭素慎」⇔「郭務悰」は血縁?
 ↓↑
 郭公
 《鳴き声から》カッコウカッコウ科の鳥
  全長約35 センチ
  頭部と体の上面は灰青色
  胸と腹は白く暗灰色の横縞
  尾羽は黒灰色で
  白い横縞が入り
  先端も白い
  雌には赤褐色型もある
  全体に灰色
  腹に黒い横斑がある・・・腹黒いって?
 カッコウ
 ノビタキ、モズ科、ホオジロ科、オナガ
 などに托卵
 腹のしま模様はツツドリより細く薄い
 雄は体を横にして翼を下げ
 尾を左右に振りながら鳴く
 ↓↑
 楊玄琰の長女
 崔峋に嫁いでいた
 韓国夫人に封じられる
 皇子、皇孫の婚姻は
 韓国夫人や
 虢国夫人に
 賄賂を贈れば思い通りになった
 至徳元載(756年)
 楊国忠が殺された後
 陳玄礼率いる兵士たちに殺された
ーーーーー
 『則天武后』と - Wix.com
haa98940.wixsite.com/.../『則天武后』と「現存・古事記」1
 ↓↑
 『武士彠』は
 『隋王朝』の
 『煬帝』の
 『鷹楊府隊正』の部隊長で
 当時の
 『李淵
 や
 『世民』
 親子と縁があり
 『隋王朝』滅亡の時には
 『李淵』の配下の
 『大将軍府・鎧曹参軍』の地位にあった
 李淵(唐高祖)の挙兵に参加し
 利州(四川省広元県)都督を授けられた
 広元県にある
 皇沢寺が
 娘の
 則天武后(武照)の生地
 彼の最初の夫人が
 『相里氏』で
 後に再婚した別の夫人が
 『楊氏』で
 『隋王朝』の
 『観王(楊雄)』の
 姪であった。
 この夫人が「三人娘」を産んだ
 ↓↑
 『韓国婦人』は長女
     ・・・「調序・重所・聴如」?
 『照(則天武后)』は次女
        ・・・「自序・次序・爾汝・自助」?
 『郭素慎婦人』は三女
      ・・・「纂序・纂所・蒜如・讃女」?
ーーーーー
 玄宗朝の妃
 楊貴妃(名は玉環)
 ↓↑ 735年(開元二十三年)
    玄宗と武恵妃の間の息子
    寿王李瑁、第十八子」の妃となり
    737年(開元二十五年)
    武恵妃が死去し
    翌年
    宦官
    高力士・・・光宅元年(684年)
          〜
          宝応元年八月十八日(762年8月31日)
          唐の第六代皇帝玄宗の腹心
    の薦めで
    李璵・・・姓・諱
         李嗣昇→李浚→李璵→李亨
         諡号
         文明武徳大聖大宣孝皇帝
         廟号
         粛宗
         景雲二年九月三日(711年10月19日)
         〜
         宝応元年四月十八日(762年5月16日)
    が皇太子に冊立
    740年(開元二十八年)
    玄宗に見初められ
    長安の東にある温泉宮で
    「女冠(道号を太真)」となった
    息子から妻を奪う形になるのを避けるため
    実質は内縁関係
    後、宮中の太真宮に移り住み
    玄宗後宮に入って皇后と同じ扱いをうけた
    後宮の人間からは
   「娘子(ニィァン ヅゥ・niáng z)」と呼ばれた
745年(天宝四載)、貴妃に冊立
    ・・・楊貴妃は後に「玄宗皇帝」の妃となる
           蜀出身・本籍は蒲州・永楽
           兄に楊銛
       叔父の楊玄珪は、光禄卿
       兄の楊銛は殿中少監
       従兄の楊贒は駙馬都尉
       に封じられ
       楊贒は玄宗の愛娘である
       太華公主と婚姻
 ↓↑
 「虢国」夫人
 (カクコクふじん)
 ?〜至徳元載(756年)
 名は不詳
 楊貴妃
 の姉
 姓は楊
 蜀州司戸の
 楊玄琰の二女
 裴氏に嫁ぎ
 子の
 裴徽と・・・後、延光公主と婚姻を結ぶ
 娘を一人産むが
 夫に死なれ寡婦
 天宝七載(748年)に虢国夫人
 楊国忠との密通の噂
 天宝十四載(755年)
 安史の乱の勃発
 至徳元載(756年)
 玄宗長安出奔後
 陳倉に赴いていたが
 楊国忠、韓国夫人、楊貴妃
 の死を聞き
 裴徽と娘、楊国忠の妻の裴柔を殺して
 自殺未遂
 後、のどに血が固まり死亡
 (虢
  河南省三門峡市上村嶺にある
  西周時代後期〜春秋時代前期の虢国
  虢は周と同姓の国であるが
  周の文王の弟
  虢仲が初めて封ぜられた西虢のほか
  文王の弟
  虢叔の封ぜられた東虢があり
  その後の移動によって
  南虢、北虢(山西省平陸県)がある)
 ↓↑
 姉の
 「韓国」夫人
 楊玄琰の長女
 崔峋に嫁いでいた
 韓国夫人に封じられる
 皇子、皇孫の婚姻は
 韓国夫人や虢国夫人に
 賄賂を贈れば思い通りになった
 至徳元載(756年)
 楊国忠が殺された後
 陳玄礼率いる兵士たちに殺された
 (韓
  戦国時代に存在した国
  戦国七雄の一国
  紀元前403年〜紀元前230年
  首都は陽翟
  地方名としての韓は
  河南省北部の一部
  山西省南部の一部
  陝西省東部の一部
  西は秦
  北は魏
  南は楚
  に挟まれた国)
  国姓 姫姓 韓氏
  爵位 侯爵
  国都 陽翟・・・翟=きじ・テキ・タク
            キジ(雉)の尾羽
            舞楽で舞人が右手に持つ
 ↓↑         雉の尾羽
 翟=羽+隹
   通仮字「挑・狄」
   耀
   翟・嬥・濯・趯・曜・藋・戳
   燿・躍・櫂・蠗・擢・䊮・𩱲
 (河南省禹州市)
 新鄭
 (河南省新鄭市)
 分封者 威烈王
 始祖  景侯
 存在時期 前403年〜前230年
 秦により滅亡
 ↓↑
 秦国夫人
 楊玄琰の三女
 楊貴妃の姉(排行は八番目・・・)
 柳澄という男に嫁いでいたが死に別れ
 子は
 柳鈞
 秦国夫人に封じられる
 天宝六載(747年)
 彼女が宮中に侍女の
 明珠を連れてきたことが
 楊慎矜失脚の原因の一
 天宝十三〜十四載頃に死去
 楊銛、楊贒、韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人
 の5家で楊氏五家
 楊国忠を含めて、楊氏六家という場合も・・・
ーーーーー
 『則天武后(武照)』は
 「貞観二年(628)」の
 生まれ年の干支は「戊子(ツチのエのネ)」?
 「戊子」は「ボシ」とも読む
 「古事記」や「日本書紀」の中では
 「ボシ」、「ホシ」、「ボジ」
 の同音異字に掛けられている・・・?
 「星」、「干」、「補詞」、「補史」
 「母子」、「母死」、「母字」、「母事」
 等の「模字」で、
 「母鼠」の誕生と「音図見とりの描写」・・・
 ↓↑
 『則天武后(武照)』
 は憎くっき「王氏」を
 「蟒(ボウ・モウ・うわばみ・おろち)」
 「蕭氏」を
 「梟(キョウ・シャオ・ふくろう・みみずく)」
 としてその記録上の
 「姓の漢字」を換えさせた
 後に
 「武氏」を
 「蝮(フク・まむし)」
 「李氏」を
 「キ(兀+虫=カイ・ケ)=まむし・とかげ・ひばかり」
 と凶悪な「字」をつけた
 「孝謙称徳女帝」が
 「和気清麻呂」を
 「汚麻呂」とした記録がある
 「キタナマロ」とは
 「記他名真賂」か、
 「企多名眞賂」・・・?
 「ヨゴレマロ」・・・
  世後例間ロ、予後例眞賂・・・
  余呉、余語、四語・・・
  等の例を萬慮と・・・
 『則天武后(武照)』は
 殺してしまった
 「王皇后」と「蕭淑妃」の
 亡霊、幽霊に悩まされて
 「竜朔三年(663)」に
 「西内の大明宮」から「蓬莱宮」に引越し
 さらには「長安」から
 「東都・洛陽」に住むようになった・・・
 唐王朝にとって
 「竜朔三年(663)」とは
 「白村江の海戦」での
 大勝利の年である・・・
ーーーーー
 以下、殆んど「by wikipedia.org/wiki/武則天」・・・
 ↓↑
 則天武后・・・「貞観二年(628)」生まれ?
 貞観二年(628年2月17日)〜   神龍元年(705年12月16日)
 ↓↑
 戊子(壬 癸)⇔正財印綬  病⇔乙巳
 甲寅(戊丙甲)⇔劫財正財 帝旺⇔戊子
 乙巳(戊庚丙)⇔  正財 沐浴⇔壬寅
  寅卯=空亡
 ↓↑
 武徳七年一月二十三日〜 神龍元年十一月二十六日
 (624年2月17日)Y ? (705年12月16日)Y
 ↓↑
 甲申(戊壬庚)比肩偏官 絶⇔乙巳
 丙寅(戊丙甲)食神比肩建禄⇔戊子
 甲午(丙 丁)--- 正財 死⇔壬寅
  辰巳=空亡
 ↓↑
 父 武士彠
 母 楊夫人
 少女期の
 媚娘は漆黒の髪
 切れ長で大きな瞳(目)
 雪のような肌
 桃色の唇
 薔薇色の頬
 大きな胸
 見る者を魅了する
 媚笑
 聡明な頭脳
 ↓↑
 出身県である
 文水県を
 武興県と改めた
 ↓↑
 武三思(ブ・サンシ・?〜707年)
 武則天
 異母兄弟である
 元慶の子(武則天の甥)
 右衛将軍
 武則天が政権掌握後
 夏官尚書に任命
 周朝(武周)が成立すると
 梁王に封ぜられ一千戸を賜る
 天官尚書を拝命
 695年(万歳登封元年)に
 春官尚書に転じ
 国史監修を担当
 698年(聖暦元年)
 検校内史
 699年
 特進
 太子賓客
 ↓↑
 懿安郭皇后=唐の憲宗の皇后
 郭子儀(カク シギ)
 神功元年(697年)
 〜
 建中二年六月十四日(781年7月9日)
 唐朝に仕えた軍人・政治家
 玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に仕えた
 客家人
 安史の乱で大功
 異民族の侵入を防いだ
 盛唐〜中唐期を代表する名将
 憲宗(在位805年〜820年)の
 皇后
 「郭」氏は
 子儀の孫
 ↓↑
 華州鄭県(陝西省渭南市華州区)の人
 字は諱に同じ
 諡号
 忠武
 後晋
 劉昫の撰した『旧唐書』に
 「子儀 長六尺餘」
 北宋・欧陽脩の撰した『新唐書』に
 「長七尺二寸」
 旧書の「六尺餘」は身長190cm
 父の
 郭敬之は
 綏州・渭州・桂州・寿州・泗州
 の刺史(地方長官)を歴任
  『新唐書』・百官志四下に
 「上州」刺史は「従三品」に当たり
 渭州・寿州などには
 中都督府が置かれ
 中都督は「正三品」であった
 府兵制が崩れる以前に
 都督・刺史の官は
 地方職(外官)としては高官
 「蔭官」(父祖の功によって官職に就くこと)
 ではなく
 武挙(科挙と同じく武官試験)で
 仕官を果た
 (『新唐書』本伝
  「武挙の異等なるを以て左衛長史に補さる」
   徐松 撰/孟二冬 補正『登科記考補正』巻27)
 後、単于副都護、振遠軍使に累進
 玄宗
 天宝八年(749年)
 木剌山に
 横塞軍
 と
 安北都護府を設置した際
 横塞軍使に命じられた
 李吉甫撰『元和郡県図志』巻4・天徳軍の条
 に
 「天宝八年、張斉丘
  又た西可敦城に横塞軍を置き
  又た中受降城より横塞軍を移して理む」
 呉廷燮撰『唐方鎮年表』巻1に
 天宝九年まで
 節度使
 張斉丘の配下
 後、
 節度使として赴任した
 安思順
 李林甫
 らに仕え
 天宝十三年(754年)に
 横塞軍の在所の地形が悪く
 耕作に向かず
 人口も少なく
 新たに
 永清柵の北側に築城して
 横塞軍と安北都護府とを移し
 横塞軍は
 「天徳軍」と改称
 子儀はあらためて
 天徳軍使となって
 九原太守を兼ね
 朔方節度右兵馬使に命じられた(新旧書)
 上司・節度使
 安思順は
 安禄山の従弟(姚汝能撰『安禄山事迹』上巻)
 ↓↑
 天宝十四年十一月
 安禄山の乱
 安思順は
 以前から禄山の叛心を進言し
 死罪は免れたが
 (新書・哥舒翰伝
  「始め、安思順 禄山の必ず反せるを度り
   嘗て帝が為に言はば、坐せざるを得」)
 中央に戻された
 後任として
 右兵馬使であった
 子儀が朔方節度使に昇格し
 衛尉卿(五監の一、衛尉寺の長官。従三品)
 に任ぜられ
 霊武郡太守を兼務し
 朔方郡の兵馬を率いて
 安禄山討伐に向うよう詔
 ↓↑
 粛宗の時
 安史の乱を平らげて
 国難を救う功
 衛尉卿、
 霊武郡太守、
 朔方節度使
 関内河東副元帥に任ぜられ
 汾陽王に封ぜられた
 ↓↑
 764年
 安史の乱の際に賊軍征伐をともに行った
 僕固懐恩が宦官との対立から叛乱
 太原に進攻したのを撃退
 ↓↑
 765年
 吐蕃ウイグルの叛乱を平定
 徳宗より
 尚父の号を賜り
 大尉・中書令に昇進
ーー↓↑ーー
 907年・・・唐王朝滅亡
 6月2日(天祐四年=開平元年四月十九日)
 朱全忠
 唐の
 哀帝から
 禅譲を受けて後梁を建国
 五代十国時代が始まる
 ↓↑
 延喜通宝を鋳造
 延喜格が完成
 ↓↑
 干支=丁卯
 中国
  唐=天祐四年
 五代
 後梁=開平元年
 十国
  呉=天祐四年(唐の元号を使用)
 前蜀=天復七年(唐昭宗の元号を使用)
  遼=太祖元年
 中国周辺
 渤海=大諲譔元年
 南詔=安国5年
 日本
 延喜7年
 皇紀1567年
 朝鮮
 新羅=孝恭王10年
 泰封=聖冊3年
 後百済=正開8年
 ↓↑
 朱 全忠
 ↓↑
 王朝 後梁
 在位期間
 907年6月1日〜912年7月18日
 都城 開封
 姓・諱 朱温→朱全忠→朱晃
 諡号  神武元聖孝帝・・・神武-元聖-孝帝
 廟号  太祖
 生年 大中六年十月二十一日
 (852年12月5日)
 没年 乾化二年六月二日
 (912年7月18日)
 父 朱誠
 母 王氏
 陵墓 宣陵
 年号 開平 907年〜911
    乾化 911年〜915年
 朱 全忠(シュゼンチュウ)
 五代後梁
 初代皇帝
 廟号は太祖
 諱は初め温
 黄巣の乱の際の功で
 唐朝より
 全忠の名が下賜
 皇帝即位後に
 晃と改めた
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 趁=走+㐱
     㐱=人+彡(たくさん)
   人の髪の毛がびっしりとつまっていること
   前の人にぴったりとついて追うこと
   追う
 ↓↑
  趁=おう・おもむく・ゆきなやむ・チン
    追う・おいかける
    おもむく・ゆきなやむ
    のる・のりこむ
    つけこむ
 ↓↑
 趁・趁着
 …のうちに・…に乗じて
 例
 趁热喝吧=熱いうちに飲みなさい
 趁好天气、我们快收割吧
 =せっかくよい天気だから
 ↓↑
 〜に乗じて
 持っている
 追いかける・追う
 異体字「趁・蹨・趂」
 趁乱・どさくさまぎれに・混乱に乗じて
 「趁著=thàn-tio̍h」=「〜のうちに」
 「…に乗じて・…のうちに・…を借りて」の意
 機会を利用する
 趁=おう・おもむく・ゆきなやむ
   チン
   走+㐱
   異体字「𢌝・趂・𧽃・跈・蹨」
   繁体字「趂」
 ↓↑
 㐱=𠆢+彡
 疹・沴の初文
 㐱=異体字「鬒」
 ↓↑
 㐱=人+彡
   鬒=镸(長)+彡+眞(真)
           眞=ヒ+目+乚+八
     人(𠆢)+彡=㐱
   髪が多い・髪が黒く美しい
   髟=ヒョウ・ヒュウ
   髟+α=髽髯髦髷髴髠
   α+彡=彭羏彩彲簓彫諺
       彦=立+丿+彡=亠+䒑+丿+彡
       彥=文+厂+彡=亠+乂+丿+彡
         文(模様)+厂(崖)+彡(模様)
「文+厂」→「产」で
         はっきり際立った模様
     彦=彥=顔立ちがはっきりした立派な男性?
 ↓↑
   𠘱=几+彡=シン⇔風・・・彡=空気の流れ
   𢒀=𢒁=乃+彡=𠘱
     羽が生えたばかりの鳥が飛ぶさま
 ↓↑
   𡯎=尢+彡=一丿乚彡=ナ(𠂇)乚彡=𡯎
     尤+彡
     尨(尢`彡)の異体字
     異体字「𡯎・狵・庬・𧱓・𧱦・𧳑
     むく・ボウ・モウ
     毛がふさふさとした犬
     雑色の
     大きい・入り乱れる=厖
 ↓↑
 曑・疹・診・駗・珍・胗・䪾・殄
 眕・趁・畛・袗・飻・沴・紾・軫
 抮・珍・殄・胗・昣・畛・袗・眕
 疹・紾・翏・參・聄・軫・趁・診
 跈・勠・摻・憀・慘・廖・滲
 㐱
 ↓↑
 翏(リョウ)
 「羽と㐱シンからなり高く飛ぶなり(説文解字)」
 「鳥の両翼と尾羽の形(字統)」
 㐱=尾羽
   髪飾り
 「羽かざりをつけた人のさま(角川新字源)」+「彡」
 ↓↑
 謬=言+羽+㐱
      㐱=𠆢+彡
        合+痕(あと・艮・傷痕・引掻き痕)
   誤謬(ゴビュウ・logical fallacy)
      ・・・言は
         呉(国)の
         言を
         羽(筆・pen)で
         𠆢(合わせるように)
         彡(引掻いた痕⇔文字痕・記録した痕)
      詭弁=詭辯≠誤謬
      キベン・σοφιστική・sophism
      意図的に欺く「すり替え論述」
      説明の関連性の不十分、
      弁証の欠陥性の
      誤謬とは区別される・・・
      ・・・言は
         危(国)の
         弁(辯)舌、弁(辯)言
 ↓↑
 蓼=艸(くさ)+翏(羽𠆢彡)
   たで・リョウ・リク
  「蓼国リョウコク」
   商=殷の時代から河南省にあった国
   紀元前622年に楚国により滅ぼされた
  「蓼科(たてしな・長野県の地名)」
 ↓↑
 寥=宀+翏(羽𠆢彡)
   さびしい・リョウ
   寂寥(セキリョウ)
   寥寥(リョウリョウ)
   静かなさま・空虚なさま
   うつろ・まばらなさま
 ↓↑
 勠=翏+力・・・羽𠆢彡力
   あわせる・リク・ロク
   ころす=戮(リク)
 ↓↑
 戮=翏+戈・・・羽𠆢彡戈
   リク・ころす・・・殲滅(センメツ)
   戈(ほこ)で殺す
   殺戮(サツリク)
   刑戮(ケイリク)
   戮辱(リクジョク)
   戮力(リクリョク)=勠力
 ↓↑
 眉毛(まゆげ・eyebrow)
 目の上部に弓状に生える毛・眉(まゆ)
 額から落ちる雨水や汗が
 目に入らないようにする機能
 雨水やほこりや小さなゴミが
 目にはいるのを避ける役割
 ↓↑
 眉墨=黛(まゆずみ)
 化粧品の一種
 眉の形を美しく見せるために
 眉を書き足すための化粧品、その化粧法
 アイブロウ
 ↓↑
 平安時代
 上流社会で、眉毛を抜いた上で
 「掃墨」という粉末状の墨で
 眉を描き
 引眉と呼ばれた
 江戸時代
 引眉の風習は既婚女性のものとなった
 引眉は
 明治三年(1870年)
 「お歯黒」とともに禁止令
 ↓↑
 眉唾(まゆつば)=騙されない心がけ
 眉唾物(まゆつばもの)=真偽不明の怪しいもの
 キツネに化かされないために
 眉に唾をつけるとよい
 キツネに化かされるのは
 眉毛の数を読まれるから・・・
 真偽の疑わしいものを
 「眉唾物(まゆつばもの)」
 イソップ
 鴉が大きな肉をくわえて高い木にとまった
 食べようとしたときに
 狐に声をかけられ
 容姿を褒められ
 鴉は肉を食べることを忘れ
 聞き入ってしまい
 狐が
 「きっと素晴らしい声をしているんだろうなあ
  ああ、声を聞いてみたい」
 と言うと、
 鴉は「カー」と高らかに鳴き
 くわえていた肉を落とし
 下にいた狐の口に収まってしまった・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・