2019日目・・・「風雲真田(上田)城」の「真田昌幸(天正七年・1580年〜 )従五位下」はナゼ「安房国(アワのクニ・日本律令制度の地方行政区分)の守」の「官位(官職と位階)」だったのか?・・・現在の千葉県南部、別称は「房州(ぼうしゅう)・安州(あんしゅう)・南総(なんそう)」・・・「安房」の源流は「阿波(四国徳島)」であった・・・「古代、徳島県の北の地域は粟の生産地・粟国。南の地域は長国。『古語拾遺』によれば、神武東征において忌部氏を率いて、木国の材木を採取し畝傍山の麓に橿原宮を造営した天富命が、肥沃

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 天正九年(1581年)
 武田勝頼の命で真田昌幸
 新たに
 韮崎へ築城された新府城の人夫動員を通達
 新府城築城に関しては
 昌幸は作事奉行の説も・・・
 が、昌幸は麾下の諸将に
 人夫動員を通達しているに過ぎず、
 作事奉行であったとする見方を慎重視する説も・・・
 同年、
 元沼田城主・沼田景義が旧領奪回を図ったが、
 昌幸は家臣の
 金子泰清に命じて景義を討ち取った。
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 「安房守(天正七年・1580年〜)従五位下
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 「官位は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称。古代朝鮮史高句麗百済新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のこと。中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当。各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という」・・・らしい・・・「武家官位とは、主として戦国期から江戸期にかけて、武士が任官または自称した官位(官職と位階)」・・・
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 真田昌幸
 生誕 天文十六年(1547年)
 死没 慶長十六年六月四日(1611年7月13日)
 改名 武藤喜兵衛真田昌幸
 別名 幼名:源五郎、通称:喜兵衛
 戒名 長谷寺殿・一翁千雪大居士・一翁閑雪大居士
 武家官位 安房守(天正七年・1580年〜)従五位下
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 勝海舟 安房守(文久三年・1864年・二月五日〜)従五位下
 ・・・ナゼか「勝海舟」が「安房守(文久三年」」である・・・?
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 「安房」の名称と由来
 『古語拾遺』によれば、
 阿波国において穀物や麻を栽培していた
 天富命は、
 東国により良い土地を求め
 阿波の
 忌部氏らを率いて黒潮に乗り、
 房総半島南端の
 布良の浜に上陸し開拓を進めた。
 そして
 阿波の
 忌部氏の住んだ所は、
 「阿波」の名をとって
 「安房」と呼ばれたという。
 上総国阿幡郡、
 上総国阿波郡、
 上総国安房
 という表記の
 木簡があり、
 古くは
 「阿幡」、
 「阿波」
 とも表記された。
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 国府は現在の
 南房総市府中付近に置かれ、
 古代末期から中世にかけて
 丸氏、長狭氏、安西氏、神余氏
 などの武士団が活動し、
 平安時代末期には
 源頼朝の再起の地
 鎌倉時代の守護は不明
 室町時代の守護には
 結城氏、
 上杉氏
 が就いた
 15世紀半ば頃より
 里見氏が台頭し、
 戦国期には
 安房統一を果たして
 上総から下総の一部に至るまで勢力を張った
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 豊臣秀吉による小田原城攻め以後
 安房一国が里見氏の領地
 関ヶ原の戦いでは、
 里見氏は徳川家康を支援、加封
 慶長十九年(1614年)
 里見忠義
 が
 大久保忠隣・・・・オオクボ・おおくぼ?
 改易に連座
 伯耆国
 倉吉に転封・・・・倉吉?・・・蒼頡(ソウケツ・倉頡)
                漢字の発明者の名前
                「蒼鴂」?
 その後は、
 東条藩、
 勝山藩、
 上総
 百首藩、・・・・・百首・・・「小倉百人一首
 北条藩、
 館山藩
 などの諸藩と、
 幕府領・旗本領が置かれた
 村数は
 280ヵ村(天保期)
 明治二年(1869年)
 安房では
 勝山、館山、北条
 の三藩に、
 新たに
 長尾藩、
 花房藩
 の二藩が置かれた
 この地の幕府領・旗本領は
 安房上総知県事
 柴山典・・・・・・・・・柴の山の典
 の管轄となり、
 翌年に
 宮谷県が置かれて
 柴山典が権知事となり、
 安房四郡の
 約5万6千石を管理
 明治四年(1872年)
 廃藩置県
 木更津県に編入・・・・・記作等通懸に編入
 明治六年(1874年)
 木更津県と
 印旛県・・・・・・・・・印版の懸
 の合併により
 千葉県に編入・・・・・・千(知)の葉(場)
 明治三十年(1897年)
 安房国四郡が統合
 千葉県
 安房郡に再編
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 明治六年(1873年)六月十五日
 木更津県が
 印旛県に統合して
 千葉県が発足
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 安房坐神社は
 名神大社
 名神大社(みょうじんたいしゃ)
 日本の律令制下において、
 名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社
 古代における社格の1つとされ、
 その全てが
 大社(官幣大社国幣大社)に
 列していることから
 「名神大社」と呼ばれる。
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 『続日本紀
 天平二年(730年)十月庚戌(二十九日)条
 「渤海」からの貢物を・・・渤海
           ・・・略称は魯
              太行山脈の東方
              山東
              北は渤海
              東は黄海に面し
              黄河下流に位置
              泰山
              主要都市は
              青島、泰安、威海等
 諸国の
 「名神社」に奉った
 弘仁十二年(821年)正月四日付
 太政官符に
 名神
 「或は農の為に歳を祷り、
  或は旱の為に雨を祈る。
  災害を排すに至り荐(しきり)に徴応有り」
 とある
 『日本後紀』以後
 次第に仏教用語の意味合いを含んだ
 「明神」と混用記載
 律令制の弛緩に伴って、
 名神社は
 二十二社へと
 収縮固定されて
 名神祭も廃絶した
 中世以後は
 社格の意味を持たない
 「明神」にとって代わられた
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 真田昌幸
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 武田信玄の時代
 天文二十二年(1553年)八月
 甲斐武田家への人質として
 七歳で甲斐国へ下り、
 武田晴信武田信玄)の
 奥近習衆に加わった
 『甲陽軍鑑
 信玄は
 昌幸の父
 幸隆にも劣らぬ才能を認め、寵愛
 父と兄の
 信綱、
 昌輝と並び、
 武田二十四将
 父と兄弟3人が
 武田二十四将に数えらた
 「奥近習衆」は
 『軍鑑』によれば
 昌幸の他に
 金丸平八郎、
 曽根与一、
 三枝勘解由、
 三枝新十郎、
 曽根総次郎
 が挙げられている
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 昌幸は
 永禄年間に
 信玄の母系
 大井氏の支族である
 武藤家の養子となり、
 「武藤喜兵衛」を称し
 足軽大将に任じられ、
 その軍役は
 騎馬十五騎、
 足軽三十人
 武藤家は
 武藤三郎左衛門尉の時に
 実子の
 武藤与次
 が早世したため、
 昌幸を
 養子(鳥子・擒・虜→訳理拠)にとった
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 永禄七年(1564年)頃
 山手殿(山之手殿、信幸、信繁らの母)を
 妻に迎えた
 山手殿は公家
 「菊亭晴季」の娘(女)・・・規矩綴葉留記の音名(納)?
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 初陣は『甲陽軍鑑
 永禄四年(1561年)九月
 第四次
 川中島の戦い
 足軽大将として武田家奉行人にも加わった
 昌幸は十五歳
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 永禄九年(1566年)春、
 甲府一蓮寺での歌会で
 奥近習衆として
 信玄の配膳役を勤めた
 永禄十年(1567年)十一月
 武田勝頼の嫡男・信勝が生まれた際には
 山県昌景馬場信春内藤昌豊(昌豊)・土屋昌続(昌次)
 と共に信玄の使者として
 高遠城の勝頼の下に出向いた
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 永禄十二年(1569年)十月六日
 北条氏康・氏政・氏照
 親子との
 三増峠の戦いでは
 先陣の
 馬場信春・・・・葉場埜部葉留?
 への使番を務めた
 『軍鑑』によれば
 北条軍との戦いで
 一番槍の高名を挙げた
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 元亀三年(1572年)十月
 信玄の
 西上作戦に参陣・・・・似史上作撰に纂字務
 十二月
 三方ヶ原の戦いにも参加
 この際に
 昌幸は浜松城に敗走した
 徳川家康らを
 追撃・総攻撃すべきという意見に反対
 『軍鑑』によれば、
 昌幸は
 「武藤喜兵衛尉、
  騎馬十五騎、
  足軽三十人」
 を率いて出陣
 信玄の晩年には武田家の奉行人に列
 元亀三年(1572年)二月四日
 佐久郡
 岩村田
 竜雲寺宛の
 竜朱印状の
 奉者として確認
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 武田勝頼の時代
 元亀四年(1573年)四月
 信玄が病死すると家督を継いだ
 武田勝頼に仕えた
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 天正二年(1574年)
 父・幸隆が死去
 真田氏の家督
 長兄
 真田信綱が継いでいた
 天正三年(1575年)五月二十一日
 長篠の戦い
 信綱と次兄・昌輝が討死
 昌幸は真田氏に復して家督を相続
 武藤家の家督
 武藤一族の武藤常昭が継承
 所領に関しては真田領のみの相続
 家督相続後、昌幸は
 真田領の仕置のために在国し、
 勝頼への
 甲府出仕も多かった
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 天正六年(1578年)三月
 越後の
 上杉謙信死後に
 御館の乱を経て甲越同盟が成立
 天正七年(1579年)九月
 昌幸は勝頼の命令で
 北条氏政の所領であった
 東上野の沼田領へ侵攻
 天正八年(1580年)閏三月
 沼田城攻撃を再開し、
 金子泰清や藤田信吉らを投降させて
 五月に沼田城を開城させた
 同時に利根郡みなかみ町にあった
 猿ヶ京城も攻め落とした
 同年に喜兵衛尉を改め
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 従五位下
 安房
 に叙任する・・・・
 ↓↑
 天正九年(1581年)
 勝頼の命で新たに
 韮崎へ築城された
 新府城
 人夫動員を通達
 新府城築城に関しては
 昌幸は作事奉行であったとする説
 昌幸は麾下の諸将に
 人夫動員を通達しているに過ぎず、作
 事奉行であったとする見方を
 慎重視する説も・・・
 同年、
 元沼田城主・沼田景義が
 旧領奪回を図ったが、
 昌幸は家臣の
 金子泰清に命じて景義を討ち取った。
 ↓↑
 天正十年(1582年)三月
 織田信長徳川家康連合軍による
 甲州征伐が開始
 昌幸は
 武田勝頼
 甲斐国を捨てて
 上野国吾妻地方に逃亡するように進言し
 岩櫃城へ迎える準備をしていたが
 勝頼は郡内領主
 小山田信茂の居城である
 岩殿城を目指して落ち、
 途中で
 信茂の裏切りに遭って最期を遂げた
 ↓↑
 武田氏滅亡後、
 昌幸は織田信長の家臣となって本領を安堵
 織田氏重臣
 滝川一益の与力武将となった
 沼田城には滝川益重が入った
 昌幸は次男の
 信繁を人質として
 滝川一益に差し出した
 ↓↑
 天正壬午の乱
 織田氏に従属してから
 僅か3ヶ月後の
 天正十年(1582年)六月二日
 本能寺の変で信長が横死
 甲斐・信濃の旧武田領はこの事変で
 森長可、毛利秀頼、道家正栄
 ら
 信長から
 旧武田領の統治を任されていた
 織田家臣らは相次いで
 美濃方面に逃走し、
 甲斐・信濃諏訪郡支配を担っていた
 河尻秀隆
 は殺害された
 無主の旧武田領を巡り、
 徳川家康上杉景勝北条氏直
 らが争奪戦を繰り広げた(天正壬午の乱
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