1083日目・・・以前、「冬樹社」の「1984年7月20日初版第一刷、1985年2月10日第二刷発行・定価1480円・編者現代言語セミナー・企画編集アルシーヴ・発行者高橋直良」と記されてある「遊辞典」なるモノを名古屋の大須観音前の古本屋の店頭棚に、どれでも一冊200円とかで並べられていたのを買った。記憶としては1985年の夏頃から「大須観音様」と、「喫茶店・ローズ・セラヴィ」に縁が深くなったので、その前後の年に「遊辞典」を・・・すると、「28年前のコト」・・・むかし、むかし・・・今は昔のハナシ・・・記憶

 辞典には「アメリカ」の「表示漢字」が
 「亞(亜)米利加」(夏目漱石の「明暗」・永井荷風の「あめりか物語」・中村星湖の「少年行」)
 「亜米利迦」(仮名垣魯文の「西洋道中膝栗毛」)
 「阿墨利加」(十一谷義三郎の「唐人お吉」)
 「花旗連邦」(成島柳北の「柳橋新誌」)
 「花旗国」(十一谷義三郎の「唐人お吉」)
 「米国」(東海散士の「佳人之奇遇」・川上眉山の「大さかずき」・永井荷風の「あめりか物語」)
 と記されていた。中国では「美国」と記すらしいのだが・・・
 ボクの「あめりか」の発見・・・
 「雨理科」・・・天気予報
 「天理化」・・・天文学
ーー
 「甘利家(虎泰)」は、
  戦国時代の武田氏二十四将、
  武田信虎時代の武田四天王の一人
  甲斐国巨摩郡甘利郷(山梨県韮崎市旭町付近)を所領
  天文十一年(1542年)瀬沢の戦
  天文十六年(1547年)佐久郡北部の
       志賀城攻め・小田井原の戦
  天文十七年(1548年)
  二月十四日
  上田原の戦で初鹿野伝右衛門らと戦死
ーー
 「甘(飴)梨香」・「外郎(痰切飴)=ウイロウ=有為糧」
 「編め裏掛」・・・「編(変)纂の日本史」
 「蛙女鯉化」・・・「替える・音納・故意・掛」
 「海女里家」・・・「三重伊勢志の潜水婦(夫)」
 「尼理化」・・・・「鎌倉幕府北条政子
 「亜麻莉(毬)毛」・「栗毛の馬」・・
           「阿真理(鞠・萬理)解」
           「阿」は「曲がる・くまる」
 「阿毎履掛=阿毎王朝=卑弥呼」・・・「隋書倭人伝」
       「毎(マイ・バイ・メ・常に・何時も
        ごと・しばしば・頻りに・頻繁に
        その都度・あたる・雖も・その度ごと
        繁る・犯す・貪る・暗い・愚か)」
         ↓
        「毎」=「ノ一」+「毋・毌・母」
  「毋・毌」→「母」の部首は「毎の旧字体
        「ノ一」は「簪・篸・櫛→串」 
  「毎」は「母が頭に簪(かんざし・篸)をつけた形」
  「毎」は「母(ボ・ボウ・モ)が音符→モ→メ」
        ↓
      「はは」→「媽(ボ・モ・老婦・牝馬)」
           「嬢・孃(ジョウ・ニョウ・娘)」
           「嫗(ウ・オウ)=女+區(区)」
  「毎=メ」→阿毎利加(アメリカ)→「亜毎利加」
   ↓ 
 「阿毎」→「阿倍・阿部・安陪・安倍・安部」
 「あべ」→「阿武・虻」→「則天武后
      「あぶ」→「阿武隈」→「阿武隈山地
 「余り加=磐余毘古=神武天皇」・・・「日本書紀
 「亜米利加(理掛)」・・・「日米和親条約」=「不平等条約」・・・
 「TPP」・・・「メリケン呼=小麦(ショウバク)粉」・・・自由貿易・・・関税障壁・・・貿易紛争・・・「阿毎利加(アメリカ)・亜毎利加」・・・?
ーーー
 アメリゴ・ヴェスプッチ
  (伊: Amerigo Vespucci)
 1454年
 3月
 9日
 〜
 1512年
 2月
 22日
 セビリアで死去
 イタリア探検家、商人、
 フィレンツェ共和国フィレンツェ南部の
 モンテフィオラッレ (Montefioralle) で誕生
 ロレンツォ
 ・デ・・・・・・・出・弟
 ・メディチ・・・・目出位置・女弟位地
 と
 その息子の
 ジョヴァンニ・・・序盤爾→序文辞(字・事)
 に仕えた
 1492年、スペイン(西班牙)、
 セビリアにある・・・施備(尾・毘・日・美)
 メディチ銀行の
 支店に出向
 ポルトガル葡萄牙)王
 マヌエル1世の招待で、・・・魔奴選留
 1499年〜1505年の間に、
 南米の東海岸を探検する航海に
 オブザーバーとして何度か参加
 1500年
 カブラルが、
 ポルトガル王の命によって
 喜望峰を・・・記望報
 超えて
 インドに・・・印度
 向かう途上で、
 南緯
 十六度
 五十二分の地点で
 ブラジル(伯剌西爾)を発見
 ポルトガル
 トルデシリャス条約・・・取る弟子(出史)里夜州
 によって、この領土を主張
 ポルトガル
 マヌエル1世が派遣した探検隊では
 当初ヴェスプッチに指揮権は無く、
 ゴンサロ・・・言鎖賂
 コエーリョ・・声重理与
 (Gonçalo Coelho) の指揮下にあったが、
 最終的に
 ヴェスプッチが責任者となった。
 1497年〜1504年の間に、
 四度、新大陸へ航海
 ヨーロッパ人がアメリカ大陸を
 東アジアであると考えたのに対し、
 ヴェスプッチはアジアとは別の
 新大陸であると主張
 またコロンブスより1年早い
 1491年に到達したと
 虚偽の発表をした。
 彼の
 ラテン語
 アメリクス・ウェスプキウス
  (Americus Vespucius) の
 女性形から
 この新大陸に
 アメリカという名前が付けられた
ーーー
 Cristoforo Colombo、
 Christopher Columbus、
 1451年頃
 〜
 1506年
 5月20日
ーー↑
 1506年
 4月7日
 フランシスコ・ザビエル誕生
 宣教師、日本に初めてキリスト教を伝えた
 〜1552年

 牧野古白(成時)死亡・・・古いイワク
 戦国武将(生年不詳)

 雪舟死亡・・・・・・・・・接収
 水墨画家・禅僧
 〜1420年)
ーー
 日本語では
 「クリストファー・コロンブス
 英語では
 Christopher Columbus
 クリストファ・コランバス
 探検家・航海者
 コンキスタドール
 奴隷商人
 定説ではイタリアのジェノヴァ出身
ーー
 1492年
 8月3日
 第一回航海出発
 〜
 1493年
 3月15日
 10月12日
 バハマ諸島グァナハニ島に到達
 10月28日
 キューバ島
 12月6日
 イスパニョーラ島
 1493年
 9月25日
 第二回航海出発
 〜1496年6月11日
 1494年
 6月7日
 トルデシリャス条約
 スペインとポルトガル
 境界線画定
 1496年
 8月
 サント・ドミンゴ市の建設
 5月30日
 第三回航海出発
 〜1500年10月
 1502年
 5月9日
 第四回航海出発
 〜1504年11月7日
 1503年
 2月14日
 スペイン、
 植民地との貿易を統括する
 通商院を
 セビリャに設置
 12月20日
 エンコミエンダ制、
 イスパニョーラ島で公認
 1505年
 イスパニョーラ島
 黒人奴隷導入
ーーー
 今回、「阿女里香=あめりか」の文字を・・・ブログ記事の江戸時代の「かわら版と新聞錦絵・江戸読本・雑学の世界・補考」でミツけた・・・興味深い記事が沢山あったので、ここからの記事を抜粋させてもらいながら・・・ボクが「妄想」をタケテいる「日本語文字と数字のキスウ・グウスウ」を追求してみたい・・・抜粋記事、断りも無く、スミマセン・・・お許し下さい・・・
 で、ボクの「妄想」は「古代史」、「現存古事記・現存日本書紀」に関連するモノです・・・ヤジるし記号の「→・↑・↓・←」やテンテン記号「・・・」などの処が「ボクのモウソウ文」です・・・
 原文記事は以下ですので興味のある方は
かわら版 新聞錦絵 江戸読本 日本の歴史 雑学の世界
ーーーーー
 ニュースの誕生・小野秀雄・新聞錦絵と錦絵新聞・かわら版のはじまり・かわら版の情報社会・版の諸相・黒船来航・錦絵新聞とは何か・新聞錦絵と展開・幕末明治の浮世絵/新聞錦絵・明治「官報」・安政地震・政争と民衆・鯰絵/麻疹絵/戊辰戦争の風刺画・ニュースという物語・毒婦誕生・明治の声の文化・おもちゃかわら版新聞錦絵・小野とかわら版・ヨーロッパのかわら版・ええじゃないか・不二道・・・

 ■江戸読本 / 読本の形成・中本読本・読本の世界・読本の周辺・・・
 ■江戸読本諸説 / 書店古本屋・メディアとしての本・喰へぬ性格・明治期の妙文集・近世後期の出板界・清玄・江戸の出板事情・戯作者・後摺本と活版本・絵入本・黄鳥墳・草双紙の明治・鄭成功・板本から活字へ・南総里見八犬伝・江戸読本の文字と絵画・・・
 ■世界最古の金属活字 / 活字・証道歌字活字・金属活字「直指」・金属活字・金属活字の起源・・・
 雑学の世界・補考 
ーーー
 北亜墨利加大合衆国・・・阿女里香通人
 「阿女里香」とは「アメリカ」。
 アメリカの言葉を
 日本語と対応させて紹介する。
 ペリー来航についての
 かわら版に求められたのは交渉の経過やペリー艦隊に関する情報だけではない。踊る異国風人物や蒸気船をかたどった煙草盆、呪文のような言葉には、異国風情を楽しむ姿勢がうかがえる。下に記されたアメリカの言葉はどれも英語とは程遠いが、日本語との違いで異国らしさを感じさせる。

 当世流行とふ化狂歌(「あさぶくろ」)
 一首目は、
 「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も寝られず」
 が変形したもの。
 五首目にも蒸気船と上喜撰の掛詩がみえる。
 二首目は、
 「おそない」に御供え餅と海岸防備の「おそなえ(御備え)」を掛けている。
 三首目は、
 泰平の世に馴れた武士を「なまけた」と表現する。
 掛詩を楽しむ狂歌百人一首をもじったものなど、技巧をこらしたものが多く作られた。

 毛唐人なそとちやにして上きせん  たつた四はいてよるもねられぬ
 あめりかのこめのねかひをもちにつき  おそないはかりたんとてきます
 なかき御代なまけたぶしのみなみさめ  たしなみあるハここちよきかな
 七よふの星にもまけぬ九よふせい  ぢやのめとをなじひこのくまもと
 日本をちやにしてきたが上きせん  水かあらくてむまくのめない
 江戸まちの女唐人できたゆへ  あめりか人もやたらきたかる

 ●鎖文字(「あさぶくろ」)やぼたいし
  漢字を使った言葉遊び、「野保台詩(やぼたいし)」。
  出来事を様々な面から捉える姿勢がうかがえる。
  興味深いのは中央の字には
  「船、国、家、人、中」
  が選択され、日本と異国の
  国家間レベルでの力関係から、
  身近な世相までが対象となっている。
  このかわら版の買い手自身となる
  町人や武士の辛さなどにも目を向けている。

 野保台詩について
 古代の予言詩
 「野(耶)馬台詩」の形式をヒントに作られた。
 「野保台詩」は「野暮ったい」を掛けている。
 縦に三文字、
 横に三行の
 合計
 九つの漢字で
 一つのまとまり。
 中央の文字を
 重復して
 縦横斜めに読む。

ーーーーー↑
 ・・・どうやら当時の「瓦版記者」は、かなりの「日本古代史」に興味を持っていた「インテリ」だった。なんせ、「邪馬台国=野保台詩(やぼたいし)」。そして、文章の読み方の「方法」が「河図=九星学=風水=気門遁甲=魔方陣」である。 
ーーーーー
 相模国地震之図
 嘉永六年
 (1853)
 二月
 二日
 小田原城下に被害をもたらす地震が発生した。数年前の善光寺地震の記憶は強く、六年正月に起きた善光寺地方の地震情報も載せている。これ以降、大地震が連続発生する時期を迎える。地震の原因について、
 「天地不時の変動ハ陰陽混して雷雨となり、地にいれバ地しんをなす」
 が、神仏の力では如何ともしがたいと認識し始めている点が興味深い。
ーーーー↑
 「相模国」の国である。「佐賀見・嵯峨見」は「天照大御神」と「須佐之男」の「三姉妹・五兄弟」の誕生譚の「サガミにカミにカミて・・・」である。「大隈重信」は「佐賀県人」・・・「相模」は「三浦按針(ウイリアム・アダムス)」の「領地」であった・・・「倭(大和・日本)建=小碓命=倭男具那」が相模から走水(はしりみず)の海(浦賀水道)、房総半島に渡航する際に妻の「弟橘比売」が入水して暴風雨の荒波を鎮めた場所で、東征の帰途に足柄の坂で「吾妻はや」と嘆きそれが東国を「吾妻(あづま)」の起源になった。
 その後、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)を経て尾張で「宮簀姫=ミヤズヒメ=美夜受媛」と「同衾」・・・
ーーーー↓
 ○夫天地不時の変動ハ陰陽混して雷雨となる地に
  いれバ地しんをなすアゝ神仏の慈護も是を納事
  かたし頃ハ嘉永六丑どし二月二日ひる九ツ時より
  相州小田原大久保加質守様御領分御城下万町青物
  町板はしりやうし町すハ丁寺町御城角やくら並ニ
  町家をはしめとして東ハ田村川辺伊勢原あつ木
  萩の山中大久保長門守様御領分陶綾郡神戸井こ
  大磯宿平つか宿中村金子すゝ川ミのけ辺大山大に
  そんず石尊御社ハ別条なし子安かすやのへん
  人家のこらず大住郡近辺山々上村谷村おか本早
  川石ばし山二子山此辺ことごとくそんじひたち
  の国の同者十三人けがある箱根湯本をはじめ
  湯場七ケ所畑しん家辺のこらず同所権現御山内
  尤御社ハ別条なし同所湖水あふれさいの河
  原辺大にそんず豆州海辺山々真鶴網代海尻
  峠ノ岩渡峠とうバ峠あたミ伊東しゆぜん寺此外所々
  ミしま宿ハ大にそんじ焼失すするがの国ハぬまつ御城
  下原かん原よし原辺も中々のひゝきなり又小田
  原堂龍権現の御山大ニそんじ御社ハ別条なし
  愛甲郡ハ三増はし本辺あれる津久井郡上の原
  青の原とうし川辺鼠坂関野辺迄大かたのひゝき
  なり又藤沢かまくら所々江のしま大にあれる甲州
  ハ身のぶ山七面山大ニそんす御堂ハ別条なしはた
  こや町大工町青柳小むろ其外近郷近村ことごとく
  八王子辺迄も大かたのひゞきなり○又同月同日下野
  の国宇都宮大ぢしんにて池上伝馬町しん石町
  すべて明神下辺やけるなり尤かぬま合せんバ其外
  日光道中筋近辺山々余程の大地しんなりける
  が夜九ツ時過まで都合いく度といふ数を知らずと
  いへども大ゆれせしハ五度にしてやうやうゆり止り
  人々あんとなすよつて諸国のしんるいえん者へはやく
  知らせあんぴを告んか為かくハくわしくしるすになん
ーーーー↓
 ここで使用されている「数字」に注目・・・「数字」の「漢数字」に変換することと、数字の「同音異字漢字」への変換である。
ーーーー
 ○信州大地しんの記 
  当正月廿一日朝五ツ時信州善光寺近辺二郡すべて
  二百八十ケ村程の間地しんにて人々きやうふなす
  といへども人家のたをれるほどのこともなくゆり
  やミしかれども六日半の間度々のことにして
  やうやう廿七日九ツ半時頃まつたくゆりとゞまり
  諸人あんとをなしにける
ーーーー↓
 「信州」とは「長野県」、「諏訪の国」、「甲斐武田の国」である・・・「甲斐(コウビ)=かい=蝦夷(カイ)」・・・「斐(ヒ・ビ)」・「ヒ(呉音)(漢音)」、「訓よみ」は「あや・あやる・い・あきら・よし」。「あやあやがあって美しい。熟語「斐紙・斐然」である。漢字分解では「斐」は「非+文」である。
ーーーー
 ●伊勢国地震略図
  嘉永七年
  (1854) かわら版では、
  三重県伊賀上野、伊勢、滋賀県近江辺の山や川が損じたとだけ記されているが、家屋の倒壊も各地で激しく、被害は20000軒以上に及んだ。地図を使って地震の範囲を表しているが、被害については具体的な情報はほとんど記されていない。
 ここでも、天変地異は、陰陽二行の気の対抗関係で発生すると書き出している。
ーーーー↓
 三重県は「小碓命」=「倭男具那」=「日本建」=「大和建」の「多芸(タギ)、多芸(タギ)」しく「脚萎(あしなえ)た所」である。
ーーーー
 ●関東大地震
  嘉永七年
  (1854)
  十一月
  四日
  東海地方、続いて五日南海地方を、津波を伴う強い地震が襲った。この地震は、安政東南海地震津波と呼ばれている。広範囲にわたって、家屋倒壊、浪害、死傷者を出したが、近代社会と異なり、被害はそれぞれの国でまとめられたから、当初は、災害全体に対する認識は生まれにくかった。このかわら版は関東の太平洋沿岸の被害を報ずる。
ーーーー↓
 「安政の大獄」は安政五年(1858)〜六年、大老井伊直弼が十三代将軍家定の継嗣問題で南紀派の推挙で大老就任後に一橋派を左遷処罰し、幕政批判志士を弾圧した事件である。
 嘉永七年十一月二十七日(1855年1月15日)に内裏炎上、地震、黒船来航などの災異のため改元して「安政」とした。そして「安政七年三月十八日(1860年4月8日)」に「万延」に改元
 朝廷は「文長」を希望していたが、幕府よって「安政」に差し替えられ、実施日も前将軍徳川家慶の月法要(毎月二十二日)終了後に変えられた。
 「文長(ブンチョウ・ふみおさ)→史の訳語田」の意味は、「歴史の長文」化か、「改竄」である。
 で、「年号のズレ」の説明はウイッキペデアの注釈に、
 和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えて年を1つ増し、その時点で嘉永から安政への改元が行なわれたため、西暦上は「1855年の改元」であり、安政グレゴリオ暦1855年1月15日から始まる。しかしながら、嘉永七年は最後の「十五日間」を除くと「1854年」であり、西暦的には安政元年と嘉永七年とは「同じ年」であると見なすため、「安政元年」は計算上は「嘉永七年」と同じ「1854年」とならざるを得ない。
 実際、安政二年一月一日は1855年2月17日であり、それ以降の「1855年の出来事」が全て「安政二年の出来事」となるため、安政元年=「1854年」と見なさざるを得ない。
 と、説明されていた・・・
ーー
 嘉永七年=安政元年(1854〜55年)
 一月十六日(2月13日)
 ペリーが前年に引き続き江戸湾に再来
 一月二十四日(2月21日)
 一朱銀を通用開始。お台場銀と呼ばれる
 日米和親条約(神奈川条約)を締結
 四月六日(5月2日)
 京都の大火により内裏を焼失
 六月十五日(7月9日)
 伊賀上野地震安政伊賀地震
 十一月四日(12月23日)
 安政東海地震東南海地震含む)
 津波でディアナ号遭難
 十一月五日(12月24日)
 安政南海地震
 十一月七日(12月26日)
 豊予海峡地震
 十一月二十七日(1855年1月15日)
 安政改元
 十二月二十一日(1855年2月7日)
 日露和親条約締結
ーー
 安政二年(1855年
 安政内裏を再建
 二月一日(3月18日)
 飛騨地震
 十月二日(11月11日)
 安政江戸地震
 小石川の水戸藩邸で藤田東湖戸田蓬軒圧死
ーー
 安政三年(1856年)
 七月二十一日(8月21日)
 ハリスが下田に着任
 通貨の交換率など幕府との交渉にあたる
 七月二十三日(8月23日)
 安政八戸沖地震
 陸奥八戸で強震、津波被害
 八月二十五日(9月23日)
 安政三年
 台風で江戸に猛烈な暴風と高潮
 死者十万人
ーー
 安政五年(1858年)
 福沢諭吉
 蘭学塾(慶應義塾の前身)を創立
 二月二十六日(4月9日)
 飛越地震北陸地方で大きな被害
 六月十九日(7月29日)
 江戸幕府
 日米修好通商条約
 安政の五か国条約に無勅許調印
 九月五日(10月11日)
 大老井伊直弼による反対派弾圧(安政の大獄
 〜
 安政七年にかけてコレラが大流行
ーー
 安政六年(1859年)
 五月二十五日(6月25日)
 開国による小判流出防止の目的で、
 正字金および二朱銀を鋳造開始
 ハリスらの抗議により、
 発行後
 八月十一日(9月7日)に鋳造停止
 小判流出
 六月二日(7月1日)
 横浜港開港
 十二月二十七日(1860年1月19日)
 政字銀を通用開始。最低品位の銀
 安政七年(1860年
 一月
 歌舞伎
 『三人吉三廓初買』江戸市村座で初演
 二代目河竹新七(黙阿弥)作
 三月三日(3月24日)
 大老井伊直弼江戸城
 桜田門外で暗殺(桜田門外の変
ーーーー
 ●大阪川口大つなみ混雑記
  嘉永七年
  (1854)
  十一月
  五日に起きた
  安政南海地震津波での大坂の被害を報ずる。大坂市中の被害と、天保山沖の大船が津波によって川を逆流、川筋に掛かる12の橋が落ちたことを挿絵を交えて伝えている。
ーーーー↓

ーーーー
 ●諸国大地震
  嘉永七年
  (1854)
  安政東南海地震では、江戸には大きな被害が出ていない。その上、東海道が寸断されたため、当初は江戸には各地の被害情報が入って来なかった。しかし、徐々に大規模な災害であることが判明した。これは、全国規模の被害状況をまとめた最終段階のものと推定される。災害速報としてだけでなく、名所絵的な構図に被害地域の説明が描き込まれている。
ーーーー↓

ーーーー
 ●東海道筋並上方筋大津波地震之事
  嘉永七年
  (1854)
  安政東南海地震は、東海道を寸断した。このため、一時江戸・大坂間の三度飛脚は途絶えた。これは、大坂三度飛脚問屋島屋佐右衛門(在江戸)による東海道各宿場の被害状況を伝える摺物で、附紙に九州地方の被害を続報として刻し、得意先に配ったと推定されるもの。売買されたものではないが、現在残されている災害を伝える摺物のうちにはこうした類のものも少なくない。
ーーーー
 ●江戸出火
  年不明
  二月
  十九日
  江戸出火
  年不明
  三月十日
  江戸三度飛脚問屋尾張屋惣右衛門(在大坂)が配った江戸の火事についての摺物。木活字印刷によるものであることから、幕末期と推定される。小野コレクションには、こうした出火を知らせる飛脚屋の摺物が多数蔵されている。
ーーーー↓
 安政二年(1855年
 江川英竜(享年五十五)
 安政四年(1857年)
 阿部正弘(享年三十九)
 安政五年(1858年)
 徳川家定(享年三十五)
 島津斉彬(享年五十)
 安政六年(1859年)
 安島帯刀(享年四十九、大獄で切腹
 梅田雲浜(享年四十五、大獄で獄死)
 橋本左内(享年二十六、大獄で刑死)
 頼三樹三郎(享年三十四、大獄で刑死)
 吉田松陰(享年三十、大獄で刑死)
 安政七年(1860年
 井伊直弼(享年四十六、桜田門外の変で害死)

ーーーー
 ●大洪水細見図
  慶応四年
  (1868)
  明治元年
  近畿地方は大洪水に見舞われた。これが、翌年、維新政権の成立を危うくさせるほどの凶作を引き起こした。こうした最中であっても、かわら版には、災害を伝える情報のみが掲げられている。
ーーーー↓

ーーーー
 ●磐梯山噴火之顛末
  明治二十一年
  (1888)
  七月
  十五日
  磐梯山噴火後出たかわら版。ただし、この時は出版条例に基づいて、発行人の住所、氏名などを明記することなった。内容は、読売新聞の記事をそのまま写したものである。発行人岡田常三郎は、当時、書籍行商社を営んでいた。江戸時代のかわら版業者の系譜を感じさせる。
ーーーー↓

ーーーー
 ●諸人安堵乃為火事場急報
  明治十三年
  (1880)
  十二月
  30日
  神田鍛冶町出火の火事のかわら版。警部巡査や、消防隊の「御ほねおり」で、まもなく鎮火したという。明治十年代以降も依然として、版元も明記されない江戸時代的なスタイルのかわら版が発行されていた。
ーーーー↓

ーーーー
 ●岐阜罹災之統計略表
  明治二十四年
  (1891)
  十月
  28日
  濃尾地震は、岐阜・愛知両県で7000人を超える犠牲者を出す大災害であった。岐阜市は、倒壊率が甚だしかった上に出火して、壊滅的打撃を受けた。しかし、震災後わずか二日にして、銅版刷りの被害図が印刷されている。元図となった「フランス式ケバ」を用いた地図は、既成のものを利用している。
ーーーーー
 原文ブログ
かわら版 新聞錦絵 江戸読本 日本の歴史 雑学の世界
ーーーーー
 ・・・ツヅキは後ほど・・・