妙見信仰聖地・能勢妙見山(豊能郡 能勢町)・北辰一刀流・千葉周作

 2955日目・文字霊日記


 佐賀美邇 迦美 而・・・(自佐下六字以音、下效此)
 ↓↑
 「but・although・even though・however」
 ↓↑

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 妙見信仰
 インドの菩薩信仰が
 中国で道教
 北極星・北斗七星
 信仰 と習合し
 仏教の天部の一つとして
 日本に伝来した
 ↓↑
 妙見菩薩(みょうけんぼさつ・めうけんぼさつ)
 北極星
 北斗七星
 を神格化した仏教の天部の一
 尊星王(そんしょうおう)
 妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)
 北辰菩薩(ほくしんぼさつ)
 などとも呼ばれる
 ↓↑ 
 名  妙見菩薩
 梵名 スドリシュティ(Sudṛṣṭi)
 別名 妙見尊星王、北辰菩薩、妙見天 等
 経典 『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経』
 ↓↑
 北辰一刀流
 ↓↑
 北斗七星(ほくとしちせい・Big Dipper, Plough)
 おおぐま座の腰から
 尻尾を構成する
 7つの明るい恒星の星列
 北斗、北斗星、七つの星、七曜の星
 とも呼ばれ
 「柄杓」の形をしてい
 「斗」の名が付けられた
 日本では
 「四三の星
  七剣星」
 とも呼ばれた
 ↓↑
 「柄杓」の器の形象

 「天枢、天璇、天璣、天権」
 の4つを
 「魁(カイ)」
 ↓↑
 「玉衡、開陽、揺光」
 の3つを
 「標」or「杓(ヒョウ)」
 ↓↑
 あわせて
 「斗」と一字でもよぶ
 「杓・枓・柄杓=ヒシャク」の形
 ---⨿・---⨆・一一一凵・・・𡰣・己・・・・ ̄ ̄ ̄㇗㇘
 「⠁⠁⠁⠅⠅」・・・・七点
 ↓↑
 「又」、「ヨ」
 5倍ほど延長すると
 ポラリス北極星)に突き当たる

  バイエル符号 固有名 天官書 大正
     新修大蔵経
                      北斗
                      七星延命経
おおぐま座α星
α Ursae Majoris、α UMa ドゥーベ(Dubhe)  天枢=貪狼
おおぐま座β星
β Ursae Majoris、β UMa メラク (Merak)  天璇=巨門
おおぐま座γ星
γ Ursae Majoris、γ UMa フェクダ(Phecda) 天璣=禄存
おおぐま座δ星
δ Ursae Majoris、δ UMa メグレズ(Megrez) 天権=文曲
おおぐま座ε星
ε Ursae Majoris、ε UMa アリオト(Alioth) 玉衡=廉貞
おおぐま座ζ星
ζ Ursae Majoris、ζ UMa ミザール(Mizar)  開陽=武曲
おおぐま座η星
η Ursae Majoris、η UMa アルカイド、ベネトナシュ
            (Alkaid、Benetnasch)揺光=破軍
 ↓↑
 神祇伯家行事傳
 北斗七星の名前
 「魁・𩲃・𩵄・䰢・魓・𩳐・魒」
 とあり、神符の通伝
 ↓↑
 雲笈七籤
 王真人氣訣
 「肺魁・肝𩲃・心𩵄・脾䰢・膽魓・左腎𩳐・右腎魒」
 ↓↑
 妙見信仰 由来・拡散
 妙見菩薩
 中国の星宿思想から
 北極星を神格化したもので
 名称は菩薩でありながら
 実質は大黒天や毘沙門天弁才天
 と同じ天部に分類されている
 ↓↑
 天部(てんぶ・devatā)=デーヴァ (deva) =神
 仏教において天界に住む者の総称
 インドの古来の神が
 仏教に取り入れられて
 護法神となった
 ↓↑
 道教
 北極星(北辰)は
 天帝(天皇大帝)とされ
 これに仏教思想が流入
 「菩薩」の名が付けられ
 「妙見菩薩」と称するようになった・・・
 「妙見=優れた視力」
 「善悪や真理をよく見通す者」
 ・・・洞察力のある者?
 ↓↑
 最古の経典
 晋代失訳
 『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経』
 (西暦317~420年
 「大正蔵(1332)」
 ↓↑
 妙見信仰の発展
 北斗七星の
 「破軍星」の影響で
 「妙見菩薩=軍神」とされるようになった
 密教経典
 『仏説北斗七星延命経』
 (唐代成立・大蔵経1307)
 「破軍星」が
 「薬師如来」と同視され
 「妙見菩薩薬師如来の化身」とみなされる
 「薬師如来」のほか本地仏
 「十一面観音」
 「釈迦如来
 を当てる例もある・・・
 「妙見菩薩の神呪」を唱えることで
 国家護持の利益を得られる・・・
 ↓↑
 唐代
 妙見関連の経典や行法は流布し
 「円仁」の旅行記
 『入唐求法巡礼行記』から
 当時の中国では妙見信仰が盛んであった・・・
 ↓↑
 日本へ伝わったのは7世紀(飛鳥時代
 「高句麗百済」出身の渡来人によってもたらされた
 正倉院文書(752年頃)
 仏像彩色料として
 「妙見菩薩一躰並彩色」の記事
 『続日本紀(巻三十四)』
 上野国群 馬郡(群馬県高崎市
 の
 「妙見寺」に関する記載

 千葉氏が使用した
 「九曜紋」の中央の星が
 北極星妙見菩薩)を表す・・・説
 中世
 千葉氏
 九戸氏
 が妙見菩薩を一族の守り神としていた
 千葉氏は特に
 妙見信仰
 平将門伝承を取り込み
 妙見菩薩氏神とし
 一族の結束を図った
 千葉妙見宮(千葉神社
 源頼朝から崇拝を受け
 日蓮も重んじた
 ↓↑
 玄天上帝(真武大帝)
 中世初期
 中国から伝来し
 陰陽道に取り入れられた
 「太上神仙鎮宅七十二霊符」
 (「太上秘法鎮宅霊符」)
 と呼ばれる72種の護符を司る
 鎮宅霊符神(道教の真武大帝に比定)とも習合
 大阪府
 小松神社(星田妙見宮)では
 元治元年(1865年)の
 鎮宅霊符の版木が伝わって
 現在もこの霊符が配布されている
 妙見信仰の聖地
 能勢妙見山豊能郡能勢町
 鎮宅霊符神
 と
 妙見菩薩
 は同一視
 ↓↑
 地域によっては
 水神、鉱物神・馬の神としても信仰
 能勢がキリシタン大名
 「高山右近」の領地で
 キリシタンの多い土地に
 日蓮宗の僧侶が送り込まれたことから
 隠れキリシタン
 日蓮宗系の
 妙見菩薩像(能勢妙見)を
 天帝(デウス)に見立てた・・・
 ↓↑
 明治維新
 神仏分離令
 「菩薩」を公然と祀れなくなって
 妙見神社の祭神」に改められた
 ↓↑
 像容
 星宿信仰に
 道教密教陰陽道
 などの要素が混交し像容も一定していない
 他に甲冑を着けた武将形で
 玄武(亀と蛇の合体の北方鎮護の守り神)
 に乗るもの
 唐服を着て笏を持った陰陽道系の像
 など、さまざまな形がある・・・
 ↓↑
 故爾
 各中
 置
 天安河而、
 宇氣布時、
 天照大御神、
 先乞度
 建速須佐之男命

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 所 佩十拳劒、打折 三段而、
 奴那登母母由良邇
 (此八字以音、下效此)
 振滌
 天之眞名井而、
 ↓↑
 佐賀美邇・・・「佐賀の靡に・相模に」?
 迦美 而・・・「加美・噛み・上・守」?
 (自佐下六字以音、下效此)
 ↓↑
 於 吹棄 氣吹 之
 狹霧所成神 御名、
 多紀理毘賣命
 (此神名以音)、
 亦 御名、謂
 奧津嶋比賣命。
 次 市寸嶋上比賣命、
 亦 御名、謂
 狹依毘賣命。
 次 多岐都比賣命。
 三柱、
 (此神名以音)。
 ↓↑
 速須佐之男命、
 乞度
 天照大御神
 所
 纒 左御美豆良
 八尺 勾璁 之
 五百津之美須麻流珠而、
 奴那登母母由良爾、
 振滌
 天之眞名井而、
 ↓↑
 佐賀美邇・・・「佐賀の靡に・相模に」?
 迦美而、・・・「加美・噛み・上・守」?
 ↓↑
 於 吹棄氣吹 之
 狹霧所成神
 御名、
 正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命。
 亦 乞度 所
 纒 右御美豆良之珠而、
 ↓↑
 佐賀美邇・・・「佐賀の靡に・相模に」?
 迦美而、・・・「加美・噛み・上・守」?
 ↓↑
 於 吹棄氣吹 之
 狹霧所成神 御名、
 天之菩卑能命
 (自菩下三字以音)。
 亦 乞度 所
 纒 御𦆅之珠而、
 ↓↑
 佐賀美邇・・・「佐賀の靡に・相模に」?
 迦美而、・・・「加美・噛み・上・守」?
 ↓↑
 於 吹棄 氣吹 之
 狹霧所成神 御名、
 天津日子根命
 又 乞度 所
 纒 左御手之珠而、
 ↓↑
 佐賀美邇・・・「佐賀の靡に・相模に」?
 迦美而、・・・「加美・噛み・上・守」?
 ↓↑
 於 吹棄 氣吹 之
 狹霧所成神 御名、
 活津日子根命
 亦 乞度 所
 纒 右御手之珠而、
 ↓↑
 佐賀美邇・・・「佐賀の靡に・相模に」?
 迦美而、・・・「加美・噛み・上・守」?
 ↓↑
 於 吹棄 氣吹 之
 狹霧所成神 御名、熊野久須毘命
 (自久下三字以音)。
 幷五柱。
 ↓↑
 ・・・佐賀県・・・相模原・・・サガミにカミにカミて・・・
 松浦武四郎・・・榎本武揚・・・
 小笠原長行・・・
 ↓↑
 1868年
 戊辰戦争
 旧幕府軍に与して
 蝦夷
 箱館まで転戦・・・
 ↓↑
 加唐島(かからしま)
 東松浦半島
 最北端の
 波戸岬から約4km北の玄界灘にある島
 佐賀県
 唐津市に属し
 大字は
 唐津市
 鎮西町
 「加唐島
 『百済武寧王生誕の伝承』
 ↓↑
 神宮皇后
 (神功・成務天皇40年~神功皇后69年4月17日)
 伝承地の一
 懐妊していた神宮皇后が島で
 着帯の式をあげた
 島の西岸には「オビヤの浦」という地名
 「オビヤ」は「帯祝い」が訛った・・・
 ↓↑
 百済が日本に派遣した使者団に
 「武寧王の母親」がいて
 立ち寄った
 「加唐島」で産んだと記され
 百済
 「武寧王」が生誕した島・・・シマ大臣=蘇我蝦夷
 ↓↑
 馬渡島(まだらしま)

ー↓↑ーー
 松浦党
 by Wikipedia
 平安時代から戦国時代
 肥前松浦地方で組織された
 松浦氏の武士団の連合
 一族は48つに分かれ
 松浦四十八党とも呼ばれ
 水軍
 ↓↑
 嵯峨源氏の流れ
 渡辺綱にはじまる
 渡辺氏を棟梁とする
 摂津の
 滝口武者の一族
 水軍として瀬戸内を統括した
 渡辺党の分派
 祖の
 松浦久(渡辺久、源久)は
 渡辺綱源綱)の子の
 奈古屋授(渡辺授、源授)の孫
 延久元年(1069年)
 松浦郡
 宇野御厨の荘官(検校)となり
 松浦郡に所領を持ち松浦を名乗る
 ↓↑
 延久元年より以前
 嵯峨源氏の系統
 嵯峨天皇の皇子
 源定の孫
 肥前
 源浮
 藤原実資
 の日記『小右記』の
 長和五年(1016年)の条の記述
 源聞が肥前守に任じられ
 実資の所に御礼言上のため訪れていた
 彼らは
 遥任国司であった・・・
 その子孫が定着した・・・
 寛仁元年(1019年)
 「刀伊の入寇
 の防戦に当たった
 前肥前
 源知
 が存在し
 「刀伊の賊徒」を射殺し
 一人を生け捕りにした
 ↓↑
 一族は、それぞれの拠点地の地名を苗字とし
 一族の結合体を
 「松浦党
 居住した地域が
 「多島」海沿岸で
 朝鮮半島、中国大陸と
 船を利用して日宋貿易
 ↓↑
 松浦氏と安倍氏
 嵯峨源氏
 渡辺党
 松浦氏系のものが大半だが
 一部に
 奥州
 安倍氏の生き残り
 源義家に敗れ
 宗像の
 筑前
 大島に流された
 「安倍宗任」の子孫の
 「安倍宗任」系のものがいる・・・
 ↓↑
 摂津の渡辺党
 摂津源氏
 源頼政一族の配下にあったが
 肥前松浦党
 平家の家人で
 源平合戦で当初
 平家方の水軍
 「壇ノ浦の戦い」で
 源家方の勝利に大きく貢献し
 鎌倉幕府
 西国御家人となり
 九州北部の
 「地頭職」に任じられた
 13世紀
 「元寇」の時
 佐志氏
 山代氏
 が活躍し
 肥前国
 松浦郡
 蒙古軍と戦った
 佐志房と三人の息子
 「直・留・勇」は戦死し
 松浦党数百人が討たれ生け捕りにされ
 松浦は
 壱岐対馬
 同様に蒙古軍に蹂躙された
 ↓↑
 南北朝時代
 後醍醐天皇
 倒幕勢力蜂起
 博多の鎮西探題
 北条英時
 守護であった
 大友氏・島津氏・少弐氏
 などに攻められて滅亡
 松浦党諸家は
 それぞれの家長の判断によって
 後醍醐天皇
 の軍勢催促の綸旨に応じ
 ある者は
 北条英時
 の元に馳せ参じた
 ↓↑
 建武三年(1336年)三月
 京都で敗れた
 足利尊氏
 九州に逃亡
 松浦党の一部の家々は
 これを迎え撃った
 菊池武敏側の軍にあった
 が
 「多々良浜の戦い
 で尊氏の勝利し
 松浦党はたちまち尊氏側に寝返った
 松浦党は足利氏と
 同じ源氏の一族であることを主張
 ↓↑
 松浦一揆
 足利尊氏
 「一色範氏
 を九州探題として留置
 一方南朝方も
 菊池氏を中心とする南朝勢力結集のため
 興国三年(1342年)
 後醍醐天皇の皇子
 懐良親王が征西将軍宮として薩摩国に上陸
 「観応の擾乱
 足利氏内部の対立抗争により
 尊氏の庶子
 「足利直冬」が下向
 九州は三つの勢力に分かれて争われた
 ↓↑
 応安四年(1371年)
 九州探題
 今川了俊
 は松浦党に対して
 地縁的関係による
 一揆契約を結ばせる政策
 松浦党一揆契諾状は
 応安六年(1373年)~明徳三年(1392年)
 までに4回結ばれた
 ↓↑
 戦国大名から平戸藩主へ
 松浦党
 上松浦党
 下松浦党
 とに大別
 上松浦党
 松浦久以来の松浦地方の
 岸岳城を中心に大きな勢力を誇ったが
 最大勢力
 波多氏は、戦国時代をへて滅亡
 下松浦党の傍系
 平戸松浦氏は
 戦国大名として
 関ヶ原の戦い以降
 旧領を安堵され
 平戸藩6万3千石の外様大名として存続
 ↓↑
 鎌倉時代
 嘉禄元年(1225年)頃
 松浦党
 高麗に押しかけ
 「倭寇
 「藤原定家の日記『明月記』」
 嘉禄二年(1226年)
 対馬が高麗と抗争
 松浦党が兵船数十艘で
 高麗を侵した・・・
 『吾妻鏡
 貞永元年(1232年)閏九月十七日条
 肥前国
 鏡社(佐賀県唐津市鏡)
 の住人が
 高麗に渡り夜討ちをし
 珍宝を盗み取り帰国
 高麗は鎌倉幕府使節を送り
 取り締まりの強化を申し入れた
 幕府は
 肥前国守護
 武藤資頼
 に命じ
 対馬島人90人を捕らえ
 高麗国使の面前で斬首した
 この中には松浦党も多数含まれていた
 「元寇」の以後は甚だしくなり
 朝鮮国王は使をよこして
 「禁寇交渉」を行い
 室町時代
 嘉吉元年(1441年)~文明三年(1471年)
 松浦党
 「歳遣船の約」を結んだ
 ↓↑
 寛仁三年(1019年)
 「刀伊の入寇
 肥前
 源知
 がこれを撃退
 第八代
 松浦久
 以後の松浦党海上で活躍
 元寇に勝利を得てから
 中国沿岸との貿易に従事し
 辺海を掠めて海賊化し
 倭寇の勢力を増し
 松浦地方はその根拠地となった
 ↓↑
 天文十一年(1542年)
 明國人
 王直
 領主
 松浦隆信
 の優遇を受け
 平戸を根拠地として
 密貿易を開始
 中国沿岸
 ルソン、安南、シャム、マラッカ
 等に航路を求め
 大陸物資の導入に努め
 平戸は殷盛
 後は
 李旦
 鄭芝竜
 が来
 中国と松浦党の関係は密になった
ーーーーー
 ・・・
 小笠原 長行(おがさわら ながみち)
 文政五年五月十一日(1822年6月29日)
 ~
 明治二十四年(1891年)1月25日
          大運1885年4月(62歳)
               癸丑印綬
 壬午(丙 丁)偏印・傷官 死⇔庚寅偏官
 丙午(丙 丁)食神・傷官 死⇔己丑正財
 甲申(戊壬庚)  ・偏官 絶⇔辛亥正官
 庚午(丙 丁)偏官・傷官 死⇔甲午比肩
  午未空亡
  氏宿・甲申
 ↓↑
 改名 行若(幼名)・敬七郎・長行
 号  明山
 戒名 顕忠院殿深信長行日解大居士
 墓所 東京都世田谷区の幸龍寺
 官位 従五位従四位
    壱岐
    図書頭
 幕府 江戸幕府 奏者番若年寄老中格・老中
 主君 徳川家茂慶喜
 藩 肥前 唐津藩 世嗣
 氏族 小笠原氏
 父母 小笠原長昌・松倉氏
    小笠原長国
 兄弟 長行・森忠徳継室
 妻 小笠原長国娘
 子 長生・艶子
 ↓↑
 肥前国唐津藩の世嗣(藩主)
 江戸幕府の老中
 外国事務総裁
 1868年
 戊辰戦争
 旧幕府軍に与して
 箱館まで転戦
 ↓↑
 小笠原家
 譜代 6万石(1817年~1871年
 長昌
 長泰
 長会
 長和
 長国
 長行 藩主に数えない場合がある
 幕末の領地
 肥前国
 松浦郡のうち
 186村
ーーーーー
 ・・・???・・・