ミカンの缶詰・・・歴史をミカンのカンヅメにするヤツ・・・時軸・解き字句

 2950日目・文字霊日記
 蜜柑・柑橘・・・橘・・・た・ち・ば・な・・・
 2019年~2020年~
 ・・・似ているのは奈良時代の「橘      宿禰  諸兄」の時代
               (たちばな の すくね もろえ)
 ↓↑              立場 奈 之 鋤く根 諸 重?
    蜜柑・柑橘・・・橘・・・た・ち・ば・な・・・
                多 知 葉 名?
                多 千 葉 納?
 ミカンの缶詰・・・ミカンのカンヅメ・・・
 漢字で「蜜柑・蜜橘・樒柑」・「柑橘・柑桔」
 中国名で早生温州蜜柑(わせうんしゅうみかん)
 原産地 日本・・・田道間守は何處へ行ってキタンだか・・・?
 明治以後の名称・・・
 それ以前は「紀州蜜柑」・・・「紀伊国屋文左衛門」のミカンだった!

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 肥後国八代(現熊本県八代市)に
 浙江省から小ミカンが伝り
 高田(こうだ)みかん
 として栽培され
 肥後国司より朝廷にも献上されていた
 15~16世紀ごろ
 紀州有田(和歌山県有田郡)
 に移植され発展
 柑橘=みかん・・・オレンジ色・・・橙色・・・「橙=木+登」・・・
ー↓↑ーーー
 区別=distinction
    ディィス-ティィン(グ)ク-シャン
    ディスティンクション
 差異・相違
 特徴
 特質
    動詞
    distinguish
    ディィスティィン(グ)グゥィシュ
    ディ ステ ィン   グイッシュ
    よく似た物事の間にある違い
    差異・相違
    区別する・違いが分かる
    …を見分ける・識別[弁別]する
    …を…と区別する
 There is a subtle distinction between
  the smell of an orange
  and a tangerine(lemon).
 オレンジとタンジェリン(レモン)の
 匂いには
 かすかな違いがある
    distinct=違う=different
    形容詞
    distinguished
    名高い・抜群に優れた・際立った
 ↓↑
 distinguishable
 区別できる・識別できる
 indistinguishable
 区別ができない・見分けがつかない
 ↓↑
 差別=dis-crimi-nation
    ディィス-クリィマァ-ネェィシャン
差別・冷遇・識別
 分別
 区別
   =ラテン語「分離する」
    discrimination
    discriminating
    discriminatory
    動詞
    dis-crimi-nate
    dɪs-krimə-neɪt
    ディィス-クリィマァ-ネェイトゥ
    ディス  クリミ ネイトゥ
    デス   クリミ ネイトゥ
    ディス  クリ マ ネイト
 ↓↑
 ハマグリ(蛤・文蛤・蚌・浜栗)
     「蛤御門の変会津藩+薩摩藩VS長州藩の衝突」
      禁門の変=元治の変
      元治元年七月十九日(1864年8月20日
      京都で起きた武力衝突
 マルスダレガイ上科
 マルスダレガイ科
 分類される
 二枚貝
 蛤
 clam
 クラム
 clam
 ↓↑
 shout
 s cream
 ex claim
 「悲鳴を上げて叫ぶ」
 scream=スクリィーム
 exclaim=イクス-クレェィム
 ・・・ボクには
   「cream(クレェィム)」
   「claim(クリィーム)」
 が 「クレム」としか聴き取れない・・・
 城達也
 「ジェット ストリーム 夜間飛行」
  Jet    St  ream=ジェット気流
  ジェット スト リーム(ストゥリーム)
 は聴き取れた・・・
 ↓↑
 creamy=クリーミィ
 クリーム状の
 クリームのような
 クリーム色の
 クリーミィ
 ↓↑
 クリームパン  =cream bun
 クリームドーナッ=cream doughnut
 ↓↑
 ・・・crime bun?
 ・・・crime doughnut?
 ↓↑
 クライム・・・climax=クライマックス=絶頂・最高潮
        緊張や興奮が最も高まった状態
 ↓↑
 climb(クライム)
 「~が登る」
 「抜け出る・はい出す」
 「(植物が)伸びる・上る」
 「増大する・上昇する」「出世する・昇進する」
 ↓↑
 「~に登る」
 「~に、手足を使って(よじ)登る」
 ↓↑
 「登ること」
 「上昇すること」
  climbing
 ↓↑
 crime(クライム)
 「犯罪・罪」
 「愚かな行い」
 「反道徳行為」
ー↓↑ーーー
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 「日本書紀
  第十一代・・・壱拾壱・足位置・・・
  垂仁天皇
 が
 「田道間守(たじまもり)」
    ・・・田道間守(デン ドウ カンシュ)
            伝  導  看 取?
            田  頭  管 守?
            田斎の王、or 王族?
 を
 常世(とこよ)の国に遣わして
 「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」
 (時を選ばずに香る果実)
 を探させた
 十年後
 橘の実を手に入れて帰ってみると
 天皇は1年前に既に亡くなっており
 彼は嘆き悲しんで死んでしまった
 ↓↑
 欽明天皇・・・欽=金+欠(あくび・欠=勹+人)
        明=日+月(つき・肉=ジク)
 第二十九代天皇
 在位
 539年12月5日?
 宣化天皇・・・表明、宣言、宣告をカエる?
 四年十二月五日   宣=宀+亘
             宀+一+旦
             宀+一+日+一
             セン
             のたまう
             のべる
             考えを広く知らせる
             行き渡らせる
             のたまう
             みことのり・天子の言葉
             あまねし・広く行き渡る・明らか
 ~
 571年4月15日?
 欽明天皇
 三十二年四月十五日
      百済より仏教が公伝(552 or 538)
      任那滅亡(562)
 先代   宣化天皇
 次代   敏達天皇・・・敏=毎+攵・・・敏捷・敏感
   每+攵
   𠂉+毋+攵
   𠂉+母+攵
   𠂉+毋+𠂉+乂
   𠂉+母+𠂉+乂
             攵=攴=ホク・ボク
                 うつ・たたく
                 軽くたたく
 誕生   509年?
 崩御   571年5月24日?
 陵所   檜隈坂合陵?
 漢風諡号 欽明天皇・・・欽=金+欠
 和風諡号 天国排開広庭天皇
     (あめくに おしひらき=排開
              ・・・排除・排気・排管
          ひろにわ
          の すめらみこと)
          開広庭⇔広開土王=好太王を排除?
 諱    シキ?
      ・・・史記=シキ
           =敷=屍鬼=子規
           =巳記=邪己=ヨコシマの岐
           =詩記(万葉集・和歌
               漢詩=カンシ=鉗子
                  柑 子=柑橘)
           =志紀
 別称   志帰嶋天皇    嶋に帰ることを志ざす
      斯帰斯麻天皇   帰還する志眞?
     (しきしまのすめらみこと)
      かかる、カエル、かく、アサ
      懸かる 変える 書く 朝(朝廷・朝鮮・朝夕)
 ↓↑    ↓↑
      斯=其+斤
        卄+=+一+八+斤
        一+丨+=+丨+ 一+八+斤
        シ
        かかる
        かく
        この
        これ
        きる・切りさく・切り離す
       「この・これ・ここ」と読み
        近くの物事を指し示す意
       「かく」と読み
       「このように」の意
       「すなわち」と読み
       「~であれば~となる」
       「~したら~する」
 父親   継体天皇・・・継=糸+乚(乙)+米
 母親   手白香皇女
 皇后   石姫皇女

 子女   敏達天皇
      用明天皇
      推古天皇
      穴穂部皇子
      崇峻天皇
 ・・・天皇になった子が四人も・・・?
 皇居   難波祝宮
      磯城島 金刺宮・・・金を刺す宮?
 ↓↑
 敏達天皇
 第三十代天皇・・・三重・丗・卅・参(參)拾
 在位
 572年4月30日?
 敏達天皇元年四月三日
 ~
 585年9月14日?
 敏達天皇十四年八月十五日
 先代   欽明天皇
 次代   用明天皇・・・用(もちいる)明(アキらか)
 誕生   538年?・・・・仏教伝来説の一、他は552年
 崩御   585年9月14日?
 陵所   河内磯長中尾陵
 漢風諡号 敏達天皇
 和風諡号 渟中倉  太 珠 敷  天皇
     (ぬなくらのふとたましきのみこと)
      沼名倉  太 珠 敷  命      
 諱    他田、訳語田・・・訳語、田(た・かる・デン)
 別称   渟中倉太珠敷尊
      他 田 天皇
      訳語田 天皇・・・譯語拿?
     (おさだのおおきみ)
      訳語田渟中倉太珠敷天皇

 父親   欽明天皇
 母親   石姫皇女・・・石=岩=磐=巖

 皇后   広姫
      額田部皇女(推古天皇)

 夫人   老女子(おみなご)
      采女 菟名子(うなこ)

 子女   押坂彦人大兄皇子
      竹田皇子
      糠手姫皇女

 皇居   百済 大井宮
      訳語田幸玉宮
ー↓↑ーーー
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  橘       宿禰  諸兄
 (たちばな の すくね もろえ)
 684(天武十三)~757(天平勝宝九)
 「美努王(みののおおきみ)」の子
 「栗隈王」の孫
 敏達天皇
 から
 五世(または六世)の裔
 初め
 「葛城王」と称す・・・葛城皇子中大兄皇子
 母
 県 犬養 三千代
 橘 宿禰 三千代
 「光明皇后(安宿姫)=聖武天皇皇后」
 は異父妹
 ↓↑
 生誕 天武天皇13年(684年)
 死没 天平勝宝9年1月6日(757年1月30日)
 改名 葛城王橘諸兄
 別名 井手左大臣・西院大臣
 墓所 京都府
     綴喜郡・・・綴(つづり)を喜(よろこぶ)
     井手町
     南開
 官位 正一位左大臣
 主君 元明天皇元正天皇聖武天皇称徳天皇
 氏族 橘朝臣
 父   美努王
 母   橘三千代
 兄弟 諸兄
     佐為
     牟漏女王
 妻   藤原多比能(藤原不比等の娘)
 子   奈良麻呂
     照夜の前 藤原豊成の後妻
         中将姫の継母
         橘諸房の息女とするものも・・・
 和銅三年(710年)
 従五位下
 和銅四年(711年)
 馬寮監
 霊亀三年(717年)
 従五位上
 養老五年(721年)
 正五位下
 養老七年(723年)
 正五位上
 神亀元年(724年)
 聖武天皇の即位
 従四位下
 神亀六年(729年)
 長屋王の変
 三月
 正四位下
 九月
 左大弁
 天平三年(731年)
 藤原宇合・麻呂兄弟
 多治比県守
 らとともに
 参議・公卿
 天平四年(732年)
 従三位
 天平八年(736年)
 弟の
 「佐為王」
 と共に母
 「橘三千代」の氏姓である
 「橘宿禰」姓を継ぐことを願い許可
 「橘諸兄」と名乗る

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 ↓↑
 天平九年(737年)四月~八月
 天然痘流行
 太政官の首班
 右大臣・藤原武智麻呂
     藤原四兄弟
     (武智麻呂・房前・宇合・麻呂)
 中納言多治比県守
 ら議政官が次々に死去
 九月
 出仕の公卿は
 参議の
 「鈴鹿王」
 「橘諸兄
 のみ
 「鈴鹿王」を知太政官
 「諸兄」を大納言に任命
 天平十年(738年)
 「諸兄」は
 正三位・右大臣
 太政官の中心的存在
 国政担当
 渡唐経験者
 下道真備(吉備真備
 玄昉
 を抜擢、聖武天皇を補佐させ
 天平十一年(739年)正月
 「諸兄」は従二位
 母の
 「県犬養三千代」の同族
 「県犬養石次」を
 従四位下に昇叙させ
 四月
 「大野東人
 「巨勢奈弖麻呂
 「大伴牛養」
 を参議に任じ
 「橘諸兄」政権成立
 ↓↑
 天平十二年(740年)八月
 大宰少弐
 「藤原広嗣」が
 政権批判
 僧正「玄昉」
 右衛士督「下道真備」
 の追放上表
 九月
 「藤原広嗣」が
 九州で兵を動かして反乱
 十月末
 聖武天皇
 伊勢国行幸
 乱平定後、平城京に戻らず
 十二月
 「橘諸兄
 自らの本拠地(山城国綴喜郡井手)に近い
 恭仁宮に遷都
 ↓↑
 天平十五年(743年)
 従一位左大臣
 天平感宝元年(749年)四月
 正一位
 正一位の状態で政務にあたったのは
 「藤原仲麻呂藤原永手
 「諸兄」
 三人のみ・・・
 ↓↑
 八月
 孝謙天皇即位
 国母・光明皇后の威光を背景に
 大納言
 兼紫微令
 「藤原仲麻呂」が台頭
 天平十七年(745年)
 諸兄の子息
 「橘奈良麻呂」が
 「長屋王」の遺児
 「黄文王」を擁立して謀反の企図を始める
 五月十一日
 多治比国人邸
 五月十八日
 橘奈良麻呂
 十一月二十八日
 橘奈良麻呂
 十一月
 聖武上皇が病気で伏し
 酒の席で
 上皇について不敬の発言
 謀反の気配がある旨
 側近の
 「佐味宮守」から讒言
 聖武上皇が取り合わなかったが
 「諸兄」は
 翌 天平勝宝八歳(756年)二月
 辞職を申し出て致仕
 天平勝宝九歳(757年)一月六日
 薨去・享年7
 最終官位
 前左大臣正一位
 七月
 「橘 奈良麻呂の乱」を起こし
 「奈良麻呂」獄死している
 ↓↑
 母は橘三千代
 光明皇后(安宿)の同母兄
 橘 奈良麻呂の父
 葛城(葛木・唐木・桂木)王
 736年(天平八)十一月
 臣籍に下り
 母の氏姓を許されて
 「橘宿禰諸兄」と称する
 750年(天平勝宝二)一月
 朝臣姓を賜る
 731年8月
 藤原宇合
 藤原麻呂
 らとともに
 「諸司の挙」・・・諸司=諸兄(ショケイ)?
 によって
 参議となった
 737年
 天然痘の流行で
 廟堂が壊滅状態
 九月
 生き残った参議
 「鈴鹿王」は
 知太政官事(ちだいじようかんじ)
 「橘 諸兄」は
 大納言になった
 ↓↑
 聖武天皇天平八年
 諸兄は
 「和銅元年十一月二十一日
  大嘗祭が行われ
  二十五日に御宴が開かれた
  ・・・橘宿祢の姓を賜はらんことを請ひ
  即ち詔を以て
  姓 橘宿裲
  を賜つた」
 ↓↑
 冬十一月
 左大弁
 葛城王等に
 橘の氏をたまへる時の御製歌一首
 ↓↑
 橘は実さへ花さへその葉さへ
 枝えに霜降れど
 いや常葉(とこは)の木(万6-1009)
 ↓↑
 初代橘氏長者
 「仙覚」は『万葉集』を
 橘諸兄
 大伴家持
 の2人共撰説を唱えた
 『万葉集』に「七首の歌」・・・八首?
 ↓↑
 あぢさゐの八重咲くごとく八つ世にを
 ゐませわが背子見つつ偲[しの]はむ
            『万葉集』4448 橘諸兄
 ↓↑
 葎(むぐら)延(は)ふ 賤(いや)しきやども
 大君の座(ま)さむと知らば  玉敷かまし
              巻19-4270 橘諸兄
 ↓↑
 降る雪の白髪(しろかみ)までに
 大君に仕へまつれば貴くもあるか
 ↓↑
 「玉井頓宮」
 聖武天皇
 平城宮から恭仁京へ遷都
 740年(天平十二年)十一月八日
 肆宴(シエン)され
 その際に
 橘諸兄が詠んだ万葉歌
 ↓↑
 葎(むぐら)はふ 賤(いや)しきやども
 大君の
 坐さむと知らば 玉敷かまし
              巻19-4270
ー↓↑ーーー
 橘 奈良麻呂(たちばな の ならまろ)
 奈良時代
 左大臣
 「橘諸兄」の子
 官位 正四位下・参議
    贈正一位太政大臣
 二代目 橘氏長者
 ↓↑
 聖武天皇
 天平十五年(743年)
 従一位左大臣
 天平十二年(740年)五月
 聖武天皇
 諸兄の相楽にある別邸に行幸
 奈良麻呂
 无位から従五位下に直叙
 十一月
 従五位上
 天平十三年(741年)
 大学頭
 摂津大夫・民部大輔
 天平十五年(743年)
 正五位上
 天平十九年(747年)
 従四位下
 天平二十一年(749年)
 従四位上
 聖武天皇の皇女
 藤原氏の血を引く
 「阿倍内親王」が皇太子
 「奈良麻呂」は
 聖武天皇の唯一の皇子
 「安積親王」の擁立を目指す
 天平十六年(743年)
 「安積親王」急逝
 天平十七年(744年)九月
 聖武天皇
 難波宮で病気に倒れる
 「阿倍内親王」を
 皇嗣と認めない
 「奈良麻呂」は事変の発生を予想し
 「多治比国人
  多治比犢養
  小野東人
  佐伯全成」
 らを勧誘し
 「黄文王」を
 皇嗣に擁立する動き
 ↓↑
 天平勝宝元年(749年)七月
 聖武天皇譲位し
 「阿倍内親王孝謙天皇)」が即位
 「奈良麻呂」は
 「大伴兄麻呂
  藤原清河」
 と共に参議・公卿
 「黄文王」擁立に
 「佐伯全成」を誘うが拒絶される
 「光明皇后
 「孝謙天皇
 に寵愛された
 「藤原仲麻呂」が台頭し
 「橘諸兄」と対立
 天平勝宝四年(752年)
 但馬因幡按察使
 天平勝宝六年(754年)
 正四位下に叙任
 天平勝宝七歳(755年)十一月
 諸兄が酒席で
 聖武上皇に対して無礼な発言があったとの密告
 天平勝宝八歳(756年)二月
 諸兄は致仕
 天平勝宝九歳(757年)一月
 死没
 天平勝宝八歳(756年)七月
 聖武上皇崩御
 遺言により
 「道祖王」が立太子
 天平勝宝九歳(757年)三月
 孝謙天皇
 「道祖王」の皇太子を廃止
 五月
 「仲麻呂」が推す
 「大炊王淳仁天皇)」立太子
 六月
 「奈良麻呂」は
 右大弁
 「奈良麻呂」は
 「藤原仲麻呂」の専横に不満で
 「大伴古麻呂
  小野東人」
 らと
 「藤原仲麻呂」排除を画策
 「山背王」が
 「藤原仲麻呂」に対して
 「奈良麻呂」らが兵器を準備と密告
 七月二日
 「上道斐太都」が
 「小野東人」から
 「奈良麻呂」らの
 謀反への参加を呼びかけられたと密告
 「小野東人」
 らが捕らえられ訊問、拷問で白状
 ↓↑
 「奈良麻呂」らが兵を起こし
 「仲麻呂」を殺し
 皇太子を退け
 駅鈴と玉璽を奪い
 右大臣
 「藤原豊成
 を奉じて天下に号令し
 「孝謙天皇」を廃し
 「塩焼王道祖王安宿王黄文王
 の中から天皇を推戴・・・
 翌3日
 「奈良麻呂
  道祖王
  黄文王
  大伴古麻呂
  多治比犢養
  賀茂角足」
 等は一斉逮捕
 「奈良麻呂」は
 中納言
 「藤原永手
 の訊問に
 「政治が無道だから兵を起こして
  その上で陳情しようとした」
 と答えた
 永手が
 「何ゆえ政治が無道なのか」と問うと
 奈良麻呂
 「東大寺などを造り人民が辛苦している」
 と答えた
 永手が
 「東大寺はお前の父の時代に造ったものだ
  お前の言うべきことではない」
 と問い詰めると「奈良麻呂」は答えに窮した
 「佐伯全成」の自白
 奈良麻呂が謀反を考え始めたのは
 天平十七年(745年)
 聖武天皇が難波に行幸したときで
 その時に初めて謀反に誘われたと答えた
 訊問後
 「佐伯全成」
 は自害・・・
 ↓↑
 孝謙天皇
 謀反者を死罪に処すところ
 死一等を減じて流罪と詔
 「藤原仲麻呂」は
 翌日、謀反に関わった
 「道祖王黄文王、古麻呂、犢養」
 らに対し
 「永手、百済王敬福、船王」
 らの監督のもと
 全身を「訊杖」で拷問
 既に拷問された「東人」も含め
 次々と獄死
 「奈良麻呂」も獄死・・・?
 「奈良麻呂」の孫の
 「嘉智子」が
 嵯峨天皇
 「皇后(檀林皇后)」
 となった・・・
 「奈良麻呂」の死後に生まれた息子
 「橘清友」の娘
 「嘉智子」が
 嵯峨天皇の妃となって後の
 「仁明天皇」を生み
 承和十四年(847年)
 「橘仲麻呂
 が失なった
 正一位
 太政大臣の官位を贈られた・・・
 ↓↑
 系譜
 父  橘 諸兄
 母  藤原多比能 藤原不比等の娘

 妻  大原明女 大原麻呂の娘?
 長男 橘安麻呂(739~821)

 妻  大伴古慈斐の娘
 男子 橘島田麻呂(750~?)

 妻  藤原宇合の娘?[3]
 男子 橘入居(?~800)

 妻  粟田人上の娘
 男子 橘清友(758~789)

 生母不明の子女
 男子 橘清野(750~830)
ーーーーー
 ・・・???・・・立場・・・奈(なんぞ)・・・?