選ぶ・・・「木綿(you・もめん)のハンケチ」・・・?

 2942日目・文字霊日記
 ・・・「センユウ」・・・専有・占有・仙遊・先憂・泉友・戦勇・戦憂・・・
     撰 結有(遊)・・・選ぶ「木綿(you・もめん)のハンケチ」・・・?
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 「せんゆう」
 真下 飛泉(ましも ひせん?) 作詞
 三善 和気(みよし わけ?) 作曲
 明治三十八年
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 ここは おクニを何百里(なんびゃくり)
 離れて遠き 満洲(まんしゅう・萬集)の
 赤い夕日に照らされて
 友は 野末(のずえ)の 石の下
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 思えば かなし昨日(きのう)まで
 真先(まっさき)かけて突進し
 敵を散々(さんざん) 懲(こ)らしたる
 勇士は ここに眠れるか
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 ああ 戦(たたかい)の最中(さいちゅう)に
 隣りに 居(お)った この友の
 俄(にわ)かに はたと 倒れしを
 我は おもわず カケ寄って
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 軍律 きびしい中 なれど
 これが 見捨てて 置かりょうか
 「しっかりせよ」と 抱き起し
 仮繃帯(かりほうたい)も 弾丸(たま)の中
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 折から起る 突貫(とっかん)に
 友は ようよう 顔あげて
 「お国の為だ かまわずに
  後(おく)れて くれな」
 と目に涙
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 あとに 心は 残れども
 残しちゃならぬ この体(からだ)
 「それじゃ行くよ」
 と別れたが
 永(なが)の 別れとなったのか
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 戦(たたかい)すんで 日が暮れて
 さがしに もどる心では
 どうぞ 生きて居てくれよ
 ものなと 言えと 願(ねご)うたに
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 空(むな)しく 冷えて 魂(たましい)は
 故郷(くに)へ 帰った ポケットに
 時計ばかりがコチコチと
 動いて居るのも 情(なさけ)なや
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 思えば 去年 船出して
 お国が 見えず なった時
 玄海灘(げんかいなだ)で 手を握り
 名を 名乗ったが 始めにて
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 それより後(のち)は 一本の
 煙草(たばこ)も 二人 わけてのみ
 ついた手紙も 見せ合(お)うて
 身の上ばなし くりかえし
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 肩を 抱いては 口ぐせに
 どうせ 命(いのち)は ないものよ
 死んだら 骨(こつ)を 頼むぞと
 言いかわしたる 二人仲(ふたりなか)
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 思いもよらず 我 一人
 不思議に 命ながらえて
 赤い夕日の 満洲
 友の塚穴(つかあな) 掘ろうとは
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 くまなく 晴れた 月今宵
 心しみじみ筆とって
 友の最期(さいご)を こまごまと
 親御(おやご)へ 送る この手紙

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 ジョン万次郎(ジョン まんじろう)・・・「字読む萬字賂得」?
 John Manjirō
 中浜 万次郎(なかはま まんじろう)
 中濱 萬次郎(チュウ ヒン マンジロウ)
       注    品  萬字賂得
            品=ほん=本
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(文政十年一月一日)
 1827年1月27日
 ~
 1898年11月12日
 (明治31年
         1889年10月(62歳)~
                 戊申傷官
         1899年10月(72歳)
                 己酉食神
 ┏丙戌(辛丁戊)劫財・傷官 養⇔┏戊戌傷官
 ┗辛丑(癸辛己)偏財・食神 墓⇔┗癸亥偏官
  丁丑(癸辛己)  ・食神 墓⇔ 己卯食神
  丙午(丙 丁)劫財・比肩建禄⇔ 庚午正財
   申酉空亡
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 土佐高知藩知行中ノ浜村
 (高知県土佐清水市中浜)
 出身
 日米和親条約の締結に尽力
 後、通訳・教師
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 宇佐浦(土佐市宇佐町
 14歳
 足摺岬沖で
 鯵鯖漁に出航する漁船に炊係
 船頭の
 筆之丞(38歳・伝蔵と改名)
 筆之丞の弟で漁撈係の
 重助(25歳)
 筆之丞の弟で櫓係の
 五右衛門(16歳)
 寅右衛門(26歳)
 足摺岬の南東15キロメートルで
 操業中
 強風に船ごと吹き流され
 遭難
 5日半(10日間)漂流後
 伊豆諸島の
 鳥島に漂着
 143日間を生き延び
 1841年6月27日
 辛丑・偏財
 甲午・印綬
 壬戌・正官
 丙午・劫財
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 船長
 ウィリアム・ホイットフィールド
 率いるアメリカ合衆国
 捕鯨船
 ジョン・ハウランド号の
 乗組員によって発見、救助
 1841年11月20日
 辛丑・偏財
 己亥・食神
 戊子・傷官
 戊午・傷官
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 ハワイのホノルルに寄港
 救助された5名のうち
 万次郎を除く4名は
 宣教師
 ハワイ王国の顧問
 Gerrit P. Judd
 の計らいでこの地で降船上陸
 寅右衛門はそのまま移住
 重助は5年後に病死
 筆之丞(伝蔵)
 と
 五右衛門
 はのちに帰国
 万次郎は捕鯨船員となって
 アメリカ本土へ
 アメリカ人の乗組員から
 船名にちなんで
 「ジョン・マン (John Mung)」
 と呼ばれた
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 1843年5月7日
 癸卯・偏官
 丁巳・比肩
 辛巳・偏財
 甲午・印綬
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 ジョン・ハウランド号は
 マサチューセッツ州
 ニューベッドフォードに帰港
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 スコンチカットネック・スクール
 に通い
 1844年(弘化元年)
 甲辰・印綬
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 フェアヘーブンの
 バートレット・アカデミーで
 英語・数学・測量・航海術・造船技術
 などを学び首席となる
 ホイットフィールド家の教会が
 人種差別で
 万次郎の立ち入りを拒否したため
 ホイットフィールド家は
 ユニテリアン教会に移った・・・
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 1850年12月17日
 庚戌・正財
 戊子・傷官
 壬寅・正官
 丙午・劫財 
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 宣教師
 Samuel C. Damon
 の協力で上海行きの商船
 サラ・ボイド号に
 伝蔵と五右衛門と共に乗り込み
 購入した小舟
 「アドベンチャー号」も載せて日本へ出航
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 嘉永四年
 1851年2月2日
 庚戌・正財
 己丑・食神
 己丑・食神
 庚午・正財
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 薩摩藩服属の
 琉球にアドベンチャー号で上陸
 翁長で
 牧志朝忠から英語で取り調べを受け
 地元住民と交流した後に
 7月30日
 辛亥・偏財
 乙未・偏印
 丁亥・比肩
 丙午・劫財
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 薩摩本土に送られ到着
 た(7月30日着)
 薩摩藩の取調べ
 藩主
 島津斉彬
 は
 万次郎に海外の情勢や文化等について質問
 斉彬の命により
 藩士や船大工らに
 洋式の造船術や航海術について教示
 後
 薩摩藩はその情報を元に
 和洋折衷船の
 「越通船」を建造
 斉彬は
 万次郎の
 英語・造船知識に注目し
 薩摩藩の洋学校(開成所)の
 英語講師として招いた
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 薩摩藩での取調べの後
 万次郎らは長崎に送られ
 江戸幕府長崎奉行所等で長期間尋問
 長崎奉行所で踏み絵により
 キリスト教徒でないことを証明させられ
 外国から持ち帰った文物を没収された後
 土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ
 土佐に向った
 高知城下において
 吉田東洋
 らにより藩の取り調べを受け
 その際に
 中浜を同居させて聞き取りに当たった
 河田小龍
 は
 万次郎の話を記録し
 『漂巽紀略』を記した
 約2か月後、帰郷が許され
 帰国から約1年半後の
 嘉永五年
 (1852年)
 壬子・正官
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 漂流から
 「11年目」
  ・・・「十一・拾壱・足壹・Ⅺ」子武女?
 にして故郷に帰った
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