2667日目・・・国家間の約束、ダレが護るのか、ダレが信じるのか・・・オメデタイ・・・「朝鮮=日本人拉致誘拐・1965年日韓条約」、「北方四島=色丹島にアメリカ資本で発電所?・アメリカの建機メーカー、キャタピラー社がディーゼル発電所を建設・2018年9月完成」・・・「日ソ中立条約=1941年(昭和16年)に日本とソビエト連邦の間で締結された中立条約・正式名称は大日本帝国及ソヴイエト社会主義共和国連邦間中立条約」・・・「1941年4月13日、モスクワで調印した。ソ連側全権はヴャチェスラフ・モロトフ外務人民

 1945年(昭和二十年)8月8日
 モスクワ時間午後5時
 満州との国境地帯
 ザバイカル時間午後11時
 ポツダム宣言への参加を表明した上
 「日本がポツダム宣言を拒否したため
  連合国の参戦要請を受けた」
 として宣戦を布告、事実上条約を破棄した
 9日午前零時(ザバイカル時間)をもって戦闘を開始し
 南樺太・千島列島
 満州国朝鮮半島北部等
 へ侵攻、侵略・・・
 1917年・・・
 「自由ロシヤの目的は・・・
  他民族を支配することでもなく、
  彼らから
  その民族的な財産を奪取することでもなく、
  外国領土の暴力的奪取でもない。
  それは、
  諸民族の自決を基礎とした
  確固たる平和をうちたてることである」
 「わが連合国にたいして
  あたえた誓約は完全に遵守される」
 ↓↑
 不自然な「共同体」の追求・・・
 ↓↑
 アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー
 (Aleksandr Fyodorovich Kerenskii)
 1881年4月22日(ロシア旧暦)
 グレゴリオ暦では
 1881年5月4日〜        1970年6月11日
 辛巳(戊庚丙)傷官偏印 建禄⇔庚戌
 壬辰(乙癸戊)偏財比肩 冠帯⇔壬午
 戊戌(辛丁戊)  比肩  墓⇔壬戌(辛酉)
  辰巳=空亡
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 1917年2月23日
 国際婦人デー
 首都ペトログラードサンクトペテルブルク)での
 食料配給改善デモ
 デモは拡大し、市内の労働者の大半が参加
 2月26日
 ネフスキー大通りのデモに警官隊が発砲
 ↓↑
 兵士が下士官を射殺し、街へ逃走し
 連隊規模の
 兵士が反乱参加
 労働者と
 内務省・軍司令部・警備隊司令部・警察・兵器庫などを襲撃
 ↓↑
 2月27日
 にはモスクワ
 3月初めには他の都市でも革命
 2月28日
 ドゥーマ(国会)の解散を皇帝に命じられ
 議長ロジャンコは
 国会議員12名からなる臨時委員会を設置
 ロジャンコは政権を掌握を決定
 各省庁を接収
 ↓↑
 メンシェヴィキ
 ソヴィエトの結成が呼びかけ
 臨時委員会メンバーの
 メンシェヴィキ
 ニコライ・チヘイゼを議長に
 臨時委員会メンバーで
 社会革命党の国会議員
 ケレンスキーを副議長とし
 ペテルブルクのソヴィエトが結成
 執行委員15人の内、ボリシェヴィキは2名のみ
 ↓↑
 臨時政府は
 3月2日
 ニコライ2世皇帝の退位を要求
 弟の
 ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公
 に皇位を譲ったが
 ミハイル大公は
 3月3日にこれを拒否
 ロマノフ朝崩壊
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 ユリウス暦3月3日
 臨時政府が樹立
 ケレンスキー
 司法大臣として入閣
 後
 4月
 陸海軍相に就任
 ↓↑
 3月6日
 臨時政府は
 同盟国との協定を維持し
 戦争継続の声明を発表
 ↓↑
 3月9日
 「帝国主義戦争を内乱へ」
 従来のスローガンを維持
 ↓↑
 3月12日
 中央委員の
 カーメネフ
 スターリン
 が流刑地から
 ペトログラードに帰還し
 ボリシェヴィキ
 臨時政府に対する
 条件付き支持・戦争継続の容認
 「…われわれは
  銃弾には銃弾を
  砲弾には砲弾をもって
  自己の持場を固守するであろう」
 ↓↑
 3月14日
 ペトログラード・ソヴィエトは
 革命継続と世界各国の革命を訴えた
 ↓↑
 3月27日
 臨時政府は「戦争目的についての声明」を発表
 「自由ロシヤの目的は、
  他民族を支配することでもなく、
  彼らから
  その民族的な財産を奪取することでもなく、
  外国領土の暴力的奪取でもない。
  それは、
  諸民族の自決を基礎とした
  確固たる平和をうちたてることである」
 「わが連合国にたいして
  あたえた誓約は完全に遵守される」
 ↓↑
 3月28日
 臨時政府は
 「戦争目的は諸民族の自決と平和」
 であると声明
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 4月3日
 亡命地から帰国した
 レーニン
 四月テーゼ(10ヶ条のテーゼ)は
 4月24日〜29日
 「革命的祖国防衛主義の拒否」
 「プロレタリアートと貧農の手に
  権力を渡す第二の段階への過渡」
 「臨時政府の一切の拒否」
 「全権力のソヴィエトへの移行の宣伝」
 「議会制共和国の否定
  労働者・雇農・農民代表ソヴィエトの共和国設立
  警察、軍隊、官僚の廃止」
 「土地の国有化
  土地の処理を
  地区の雇農・農民代表ソヴィエトへ委任」
 「全銀行の統合と労働者代表ソヴィエトによる統制実施」
 「社会的生産と生産物の分配にたいする
  労働者代表ソヴィエトによる統制」
 「党大会の召集、党綱領の改訂、党名の共産党への変更」
 「社会排外主義と
  中央派に反対する新しいインターナショナルの創設」
 が
 ボリシェヴィキの党全国協議会で
 党の公式見解となる
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 5月5日
 第一次連立政府成立
 ↓↑
 7月8日
 第一次連立内閣の
 リヴォフ首相が辞任
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 1917年7月中
 (グレゴリオ暦7月16〜20日
  ロシア=ユリウス暦7月3日旧暦7月3〜7日)
 ペトログラード
 兵士や工場労働者たちが
 ロシア臨時政府に対して
 自発的に武装デモを起こし
 交戦状態に至った事件
 「七月の日々・七月危機」
 「七月事件・七月暴動」
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 ボルシェヴィキは当初
 デモ行動を阻止しようとしたが
 その後デモ隊支援を決定
 ↓↑
 武力衝突
 ボルシェヴィキ
 ウラジーミル・レーニンは逃亡と潜伏生活
 他の指導者たちは逮捕
 ロシア臨時政府による
 七月蜂起の鎮圧
 ボルシェヴィキ勢力の影響力は後退
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 7月21日
 ケレンスキーは首相に就任
 ↓↑
 7月24日
 ケレンスキーを首相とする
 第二次連立内閣が成立
 ↓↑
 8月
 陸軍総司令官
 ラーヴル・コルニーロフが
 ボリシェヴィキ排除を目指し
 ペトログラードに進軍
 ↓↑
 9月9日
 ケレンスキー
 コルニーロフを更迭
 ケレンスキーは自ら陸軍総司令官に就任
 ボリシェヴィキが勢力拡大
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 9月15日(ユリウス暦9月1日)
 ケレンスキーは国号を
 「ロシア共和国」に変更
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 十月革命
 10月上旬
 レーニンフィンランドから帰還
 ボリシェヴィキ
 臨時政府打倒を呼びかけ
 ケレンスキー
 11月5日(ユリウス暦10月24日)早朝に
 士官学校生徒などを動員し
 ボリシェヴィキの機関誌印刷所などを襲撃させた
 レフ・トロツキー率いる赤軍は反撃
 印刷所を回復、郵便局、発電所、銀行を占領
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 11月6日(ユリウス暦10月25日)
 ボリシェヴィキ
 ペトログラードで全面的蜂起(十月革命
 ケレンスキーが動員した戦力は
 「死の大隊」と呼ばれる
 2個女性大隊のみ
 赤軍に敗北し、全員が捕虜
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 ケレンスキーは冬宮殿を脱出
 臨時政府の閣僚は全員逮捕・監禁
 後に追放もしくは脱走・亡命
 プスコフに逃れた
 ケレンスキー
 同地の騎兵部隊を率いて
 ペトログラードを奪還しようと試み
 ツァールスコエ・セローを占領したが
 翌日
 プルコヴォで赤軍との戦闘に敗れ
 フランスに亡命
 ロシア内戦が勃発すると
 ケレンスキー
 白軍を「反革命右派」
 赤軍を「反革命左派」
 と非難
 1941年の
 独ソ戦開始後には
 ヨシフ・スターリン
 に支援を申し出た・・・
 ↓↑
 ケレンスキーの亡命後
 1939年
 オーストラリア人の元ジャーナリスト
 リディア・"ネル"・トリットン
 と再婚
 1940年
 ナチス・ドイツ
 フランス侵攻すると
 アメリカ合衆国に脱出
 1945年
 オーストラリアの
 ブリスベンに移住
 1946年2月
 リディアは脳卒中を起こし
 4月10日
 彼女と死別
 後、
 再びアメリカに戻り
 ニューヨークに居住
 カリフォルニア州で過ごし
 スタンフォード大学の講師
 フーヴァー戦争・革命・平和研究所の
 研究員として
 ロシア史や政治史に関する記録を残し
 革命政権時代に
 ロシアのユダヤ人、人権保護を訴え
 ユダヤ系人間から資金援助や支援を受けていた
 KGB
 「ピエロ」のコードネームを付けて
 ケレンスキーを監視
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 1970年
 ニューヨークの自宅で死去
 遺体はロンドンに埋葬された
ーーーーー
 ・・・???・・・
 日ソ中立条約・第3条
 本条約は 両締約国に於て
 其の批准を了したる日より実施せらるべく
 且5年の期間効力を有すべし
 両締約国の何れの一方も
 右期間満了の
 1年前に本条約の
 廃棄を通告せざるときは
 本条約は
 次の5年間
 自動的に延長せらるものと認めらるべし
 (大日本帝國
  及
  ソヴィエト社會主義共和國聯邦間中立條約、第三條)
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 ・・・