2471日目・・・2月3日・・・昨日の続き・・・「木更津(きさらつ・モクコウシン⇔摸句考申・黙考口唇・木工光伸)」・・・如月・・・「如意(ニョイ)の輪(わ)の観(み)る音(おと)」・・・


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 「延長」
 延喜二十三年閏四月十一日
 (ユリウス暦923年5月29日)
 改元
 延長九年四月二十六日・・・「延長」・・・「誕=言+延」
 (ユリウス暦931年5月16日)
 承平に改元
 出典
 『文選』東都賦
 白雉詩・・・・・「白雉=しろきじ=皎(白交)記事」
             代 記字=邕記事=子路生地
             史郎記事=素記字=詞賂既知・・・
             ハクチ⇔白痴・白地=新羅
             葉句知
 「彰皇徳兮?周成
     兮(ケイ・ゲ)=八+丂(コウ)=乎・・・助詞
     「兮=・・・〜たり」・「乎=・・・〜か」
     矣(イ)・焉(エン)・也(ヤ)
  永延長兮膺天慶」
      膺=むね・うける・あたる・ヨウ・オウ
        心にとどめて忘れないこと・銘記
        服膺(フクヨウ)
        䧹+月=䧹+⺼
        異体字は𦢻・𩪠・𦢖
            䧹鷹膺応(應)
        説文解字で「匈(むね・胸)なり
              肉に従ひ、𤸰(よう)が聲附
      膺懲=敵や悪者を打ちこらしめること
         処罰・成敗
      「膺(䧹+月)」の類字は「贋(雁+貝)」
 醍醐天皇の勅勘
 ↓↑
 彰皇紱兮?周成。
 永延長兮膺天慶。・・・「永延-長兮、膺(贋)天慶」
 皇帝の徳を彰(あきら)かにし、
 周の成王のために
 なされたことと?(同じよう)にする。
        ?=イ+牟=ひとしい・そろう・したがう
              つとめる・とる・はかる
              ボウ・ム
 永(とこしえ)に皇位は延長され、
 必ず天の慶示を膺(わすれることならん)や。
 (白雉(ハクチ)の詩
 靈篇を啟(ひら)きて
 瑞圖(ズイト)を
 披(ひら・かぶり)き、
 白雉を獲て素烏(ソウ)を效(効)
 流懸黎之夜光。
 (懸る黎は流れ、これ夜の光)
   黎=多い・民衆・老いる・及ぶ・靴の糊
     黒い
     履の黏(のり)・履の黏を作るに黍米を以てする
     (説文解字・巻七)・・・黎=黍・・・黎明=夜明け
 綴隨珠以為燭。
 (隨の珠玉は
  綴り合わせて
  燭(火蜀)とする。・・・・蜀=罒(編む)+勹+中+ム(私)
 ↓↑
 日本の「うどん」=日本「烏冬」
      ・・・「饂飩=うどん=烏冬・素烏」
            =素烏冬面(麺)
            =烏冬面(麺)
 「素盞烏」尊神社(すさのおのみことじんじゃ)
 大阪市北区大淀南に鎮座する神社
 「須佐之男」実言
 「素+盞+烏」見事・・・素盞嗚
            素戔嗚
            素盞鳴
 ↓↑
 延長二年
 一月
 藤原忠平、正二位
 長兄
 故本院左大臣
 藤原時平
 延喜九年(909年)
 早世以来
 空席となっていた左大臣に昇進
 醍醐天皇の伯父
 藤原定方
 右大臣昇進
 四月
 故(九州左遷で死んだ)
 菅原道真
 本官右大臣に復し
 正二位を追贈
 三年
 六月十九日
 藤原時平の外孫
 皇太孫の
 慶頼王
 数え年
 五歳で薨去
 菅原道真
 の怨霊憑依と噂された
 代わりに叔父で、父の
 保明親王
 同母弟(母は藤原時平・忠平の妹の藤原穏子)
 の寛明親王朱雀天皇)が立太子
 十二月
 諸国に
 「風土記」を勘申
 五年
 藤原忠平らにより
 延喜式完成
 八年
 六月二十六日
 清涼殿に落雷
 正三位権大納言
 菅原道真の排斥にも関わっていた
 「藤原清貫」
 等が死去(清涼殿落雷事件)
 直後に
 醍醐天皇
 発病
 九月二十二日
 醍醐天皇
 寛明親王に譲位
 伯父の
 藤原忠平が摂政
 父の
 藤原基経以来
 三十九年ぶりに
 摂関が置かれた
 譲位の
 上皇は直後の
 九月二十九日
 崩御
 ↓↑
 木皿儀・・・返却(去+卩)
 ↓↑    木地師の「小椋(おぐら)」姓の返却で
       返脚(肉+去+卩)の姓を名乗った?
       小椋=おぐら=嗚具等
         =小倉・小暮・尾倉
          小倉百人一首
          「明月記」
          文暦二(1235)年五月二十七日
          藤原定家(権中納言定家)
          応保二年(1162)
           〜
          仁治二年八月二十日
         (1241年9月26日)
          小倉百人一首「九十七番」
         「来ぬ人を
          まつほ(松帆)の浦の
          夕凪(ゆうなぎ)に
          焼(や)くや藻塩(もしほ)の
          身(み)も焦(こ・扱)がれつつ」
 ↓↑       ↓↑
          本歌
神亀三年(726)丙寅秋九月十五日
          幸
          於播磨國
          印南野時
          笠朝臣
          金村 作謌一首并短謌
          集歌九三五
          名寸隅乃 船瀬従所見 淡路嶋 松帆乃浦尓
          朝名藝尓 玉藻苅管 暮菜寸二 藻塩焼乍
          海末通女 有跡者雖聞 見尓将去 餘四能無者
          大夫之 情者梨荷 手弱女乃 念多和美手
          俳徊 吾者衣戀流 船梶雄名三」
 ↓↑       ↓↑
         「名寸隅(なきすみ)の 舟瀬ゆ見ゆる
          淡路島 松帆の浦に
          朝なぎに 玉藻刈りつつ
          夕なぎに 藻塩焼きつつ
          海人娘女(あまをとめ)
 ありとは聞けど
          見に行かむ よしのなければ
          ますらをの 心はなしに
          手弱女(たわやめ)の 思ひたわみて
          たもとほり 我れはぞ恋ふる
          舟楫(ふなかぢ)をなみ]
神亀三年丙寅
秋の九月十五日
播磨国の印南野に幸す時
          笠-金村(かさ-の-かなむら)
           万葉集 巻六-九三五」
   ・・・なんで、
     「笠(かさ・リュウ)の
      金(かな・キン)の
      村(むら・ソン)」なんだか?・・・
 ↓↑         
 木地師
 惟喬親王・・・惟喬親王(これたかしんのう)
 ↓↑     承和十一年(844年)
         〜
        寛平九年二月二十日(897年3月30日)
        文徳天皇の第一皇子
        官位は四品・弾正尹
        号は「小野宮」、「素覚」
        近江国
        蛭谷(滋賀県東近江市)で
        小野宮、惟喬親王が住民に
        木工技術を伝えたのが
 ↓↑     木地師のはじまり・・・
 の家来
 太政大臣
 小椋秀実の子孫
 諸国の山に入り
 山の7合目より上の木材を
 自由に伐採できる権利を保証するとされる
 「朱雀天皇の綸旨」の写しを所持
 山中を移動して生活する集団
 木地師は木地物素材が取れる場所を
 転々とし
 「木地挽き」をし、・・・「記事引き・生地日置」
 里の人や漆掻き、
 塗師と交易をして生計
 ↓↑
 木地師
 石川県
 加賀市
 山中温泉
 真砂(まなご)
 は
 惟喬親王を奉じる平家の落人の村落と伝わり
 代を経て何通かの
 御綸旨で森林の伐採を許された
 木地師達の小村落であったり
 山中漆器の源・・・
 朝倉氏の庇護があったが
 天正元年
 一乗谷城の戦い以降
 一部の木地師達は
 加賀から飛騨や東北地方に散って行った
 「会津」には元々少数ながら木地師がいた・・・
 蒲生氏郷や保科氏が転封になった時に
 近江や信濃から
 木地師を連れて行かれ
 「渡り木地」と呼ばれた・・・
ーー↓↑ーー
 木更津(きさらつ)・・・木皿儀=きさらぎ=如月=木皿埼
                 記差等義
         旧歴 新暦の期間
 睦 月ムツキ   1月 2月10日〜3月11日
 如 月キサラギ  2月 3月12日〜4月9日=木更津(きさらつ)?
 弥生 ヤヨイ   3月 4月10日〜5月9日
 卯 月ウヅキ   4月 5月10日〜6月8日
 皐 月サツキ   5月 6月9日〜7月7日
 水無月ミナヅキ  6月 7月8日〜8月6日
 文 月フミヅキ  7月 8月7日〜9月4日
 葉 月ハヅキ   8月 9月5日〜10月4日
 長 月ナガツキ  9月 10月5日〜11月2日
 神無月カンナヅキ10月 11月3日〜12月2日
 霜 月シモツキ 11月 12月3日〜12月31日
 師走 シワス  12月 1月1日〜1月30日
 ↓↑
 木更津=「君不去(きみさらず)」
 日本武が東征の際
 走水 (はしりみず・浦賀水道)に入水した
 弟橘比売命を悲しみ
 当地を去らなず
 「君不去 (きみさらず ) 」と呼び
 「きさらず」になった・・・姫(妃)沙羅ツ⇔蘊・兎・舂
 ↓↑
 舂く=うすつく・うすづく(臼搗く)・・・春に類字
    つきたて(搗き立て・舂き立て)
    舂=𡗗+臼=うすづく・つく・ショウ
      うすづく・うすで穀物をつく
      舂米・舂炊
 ↓↑
 千葉県木更津市富士見一丁目2番1号
 北緯35度22分33.5秒東経139度55分0.6秒
 蛇のトグロ(とぐろ=塒=蜷局)巻きのような地形
 塒=蜷局=蛇などが、からだを渦巻き状に巻いた状態
   塒(とぐろ)を巻く=何人かが何をするでもなく
             タムロ(屯)し、集まっている
 ↓↑
 木更津の地名由来
 如月の津が転じて木更津
 木足らずが訛り木更津
 一般的には
 倭建命伝承の
 君不去(きみさらず)
 ↓↑
 木更津の地名初見
 1353年(文和二年・正平八年)
 文献の記録で
 木佐良津
 ↓↑
 更津の北にある
 高柳(木更津市高柳)
 富津
 ↓↑
 1576年
 江戸湾沿岸の諸港に
 半手=戦国期に領土を争う両勢力が
    紛争地の租税を暫定的に半分ずつにする
    北条氏規の朱印状には
    内陸化した高柳に代わって
    江川や葛間(久津間・木更津市
    の
    地名はあるが
    木佐良津の名前はないので
    小さな漁港だった・・・
 ↓↑
 「古事記日本書紀
 倭建命が東征で立ち寄った
 この事象が元となった由来の地名が
 随所にある・・・
 歴史的には
 倭王権に敵対する勢力が存在
 小櫃川流域を・・・櫃=フタが上に開く大形の箱
            唐櫃(からびつ)・長櫃
            御櫃(おひつ)・おはち(御鉢)・飯櫃
 中心とする地域に
 豪族(国造)が存在
 古墳群がある
 奈良時代の文献
 小櫃川流域一帯(木更津市袖ケ浦市君津市の一部)
 を
 馬来田(まくた)国と記録
 馬来田国造が支配
 ↓↑
 大伴 馬来田(おおとも の まくた)
 天武天皇十二年六月三日(683年7月2日)
 名は望多、望陀とも・・・大伴望多(馬来田)
 姓は連・大徳冠
 大伴咋・・・・・・・・大伴 咋(おおとも の くい)
            名は噛、囓、咋子とも記される
            大伴金村・・・なぜ、「金村」なのか?
            または
            大伴阿被布古
            の子
            冠位は大徳
 の子
 大伴吹負(ふけい)の兄
 壬申の乱
 大海人皇子(天武天皇)に与し
 馬来田は
 黄書大伴とともに・・・黄書大伴(きふみ の おおとも)
            きぶみ(黄文・黄書)
            しみ(染=氵九十八)
            の害を防ぐため
            黄膚(きはだ)をすき入れた紙
            仏典に多く用いた
 大海人皇子を追い
 莬田(大和国宇陀郡)の吾城で追いつく
 黄書大伴は
 この日に倭京(飛鳥)に
 使者にたって戻るところだった
 冠位は贈大紫
 ↓↑
 1950年(昭和25年)
 市内
 長須賀の
 金鈴塚古墳(二子塚古墳)
 の発掘調査
 古墳は6世紀後半頃に造られた
 馬来田国造の一族のもの
 古墳からは
 大刀や銅容器・武具・古墳名称の元となる
 純金製の5つの金鈴などが出土
 1456年(康正二年)頃
 上総武田氏の祖である
 武田信長が
 上総守護代となり
 上総地方進出の足がかりとし
 真里谷城を築城
 以降
 真里谷城は
 庁南城(千葉県長生郡長南町
 と並び
 上総武田氏の居城として繁栄
 武田信長の子孫の内
 真里谷城を拠点とするものは
 真里谷氏を名乗り戦国大名
 真里谷氏は一族の内紛と
 第一次国府台合戦の末に勢力が衰退
 上総地方の支配者も
 真里谷氏から
 里見氏、北条氏へと移り変わった
 1590年(天正十八年)
 真里谷城は
 豊臣秀吉
 小田原征伐で侵攻され
 廃城
 1614年(慶長十九年)
 大坂冬の陣
 木更津の
 水夫二十四名が
 徳川幕府方について戦功
 その水夫の功により幕府は
 江戸-木更津間での
 渡船営業権
 や
 江戸の日本橋
 「木更津河岸」を拝領地として
 特権を与えた・・・
 元和年間(1615年)以後
 幕府が
 木更津に代官を置いた
 幕府は軍事上の目的から
 主要河川に橋を架けることを禁止
 陸路には至る所に関所を設けた
 時代の流通手段は
 水運
 この特権により
 木更津は
 安房・上総〜江戸間との
 海上輸送を取り扱う流通拠点として発展
 運送には喫水が浅く
 海川両用の
 五大力船が用いられた
 五大力船は通称
 木更津船と呼ばれ
 歌川広重の浮世絵にも描かれている
 歌舞伎の演目
 『与話情浮名横櫛⇔切られ与三=お富与三郎=源氏店
 (よわなさけうきなのよこぐし)』は
 江戸期に
 木更津で実際に起きた事件
 「見初(そ)め」の場面って・・・初める=そめる=染める
 1825年(文政八年)
 幕府の旗本
 林忠英が
 3,000石の加増を受け
 1万石の大名として諸侯に列し
 貝淵藩を立藩
 陣屋を
 望陀郡
 貝淵村
 に設けた
 二代目藩主
 林忠旭の時代に
 請西村に移し
 以降同藩は
 請西藩と称した
 請西藩
 最後の藩主
 四代目
 林忠崇
 藩主
 自ら脱藩し
 明治政府の東征軍に抵抗
 1868年(明治元年
 幕府方諸侯の中で
 唯一改易処分
 明治新政府樹立後
 1868年(明治元年
 改易となった請西藩の替わりに
 松平信敏が
 上総国貝淵に移封し
 1万石
 桜井藩を立藩
 1871年(明治四年)
 廃藩置県施行
 8月
 桜井藩は廃藩
 桜井県が設置
 十一月
 桜井県を含む
 旧安房国上総国に相当する
 木更津県が設置
 木更津県県庁が
 貝淵村に設置
 1873年(明治六年)
 印旛県と合併し
 千葉県となる
 1878年(明治十一年)
 制定の郡区町村編制法で
 望陀郡、周淮郡、天羽郡の郡役所が設置
 1897年(明治三十年)
 望陀、周淮、天羽の3郡が合併し
 君津郡が成立し
 君津郡役所が設置され
 君津郡地域で
 木更津市は政治的中心都市
 ↓↑ 
 1930年代
 木更津は軍都として発展
 1935年(昭和十年)
 大日本帝国海軍
 帝都防衛を目的に
 木更津港北側を埋め立てて
 航空基地の造成
 1936年(昭和十一年)
 三月
 木更津飛行場完成
 四月一日
 木更津海軍航空隊の開隊式
 木更津飛行場は
 太平洋戦争末期に
 日本初の国産ジェット機
 橘花(キッカ)のテスト飛行が行われた
 1941年(昭和十六年)
 同航空隊の北東
 君津郡
 巖根村に
 海軍工廠(第二海軍航空廠)が設置
 木更津町
 巖根村
 に工廠で働く工員とその家族が移住し
 1942年(昭和十七年)
 木更津市として市制開始
 1945年(昭和二十年)
 太平洋戦争終結以降
 米軍管理下
 1968年(昭和四十八年)
 陸上自衛隊の駐屯地
 海上自衛隊の補給所

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 ・・・???・・・・如意・・・御意・・・本意・・・翻意・・・本位・・・