2391日目・・・アレレレッ!・・・10月22日になっちまった・・・「クマ」にコダワッテ、再調査していたらトンデモナイ時間を喰ってしまった・・・選挙も決まったようだし・・・「白村江・白馬江・錦江・熊津」は本当の場所は何処だったんだか・・・「熊川(浦萕)→鎮海→泗川→昆陽→河東」・・・世界地図から日本が消えた(9月27日正午前)・・・(9月27日正午修正出現)・・・「(3:32 - 2017年10月13日)また日本が抜け落ちている、平昌五輪の広報世界地図。修正されたのに」・・・「2017年10月14日(0

 地名の改竄、地名位置の改竄、名前の改竄、文章の改竄・・・物語の改竄、碑文、芸術品の偽物(レプリカ・replica)はあるが・・・


 「闕字(ケツジ)=文書中に天子や貴人に関する文字が現れたとき、これに敬意を表すために、該当する用語の前に1字または2字分の空白を設けること」・・・「日本では中国の書式に倣って大宝律令で導入」・・・
 「平出(ヘイシュツ)=平頭抄出=文書の文中に敬意を表すべき人物の文字が出てきたとき、これに敬意を表し、該当する用語を用いる際には改行を行って当該文字を行頭に置いて書き出すこと
」・・・
 「闕画(ケッカク)=貴人の名を記す際に敬意を表して字画の一部を省略」・・・「字画」で、「絵画(モザイク・漆・絵具)の欠落部分」ではない・・・「絵の欠落する部分」としたら
 蒔絵(まきえ)
 彫漆(チョウシツ)
 蒟醤(キンマ)
 沈金(チンキン)
 螺鈿(ラデン)
 平文(ヒョウモン)
 堆錦(ついきん)
 彫金(チョウキン)
 などだろう・・・
 「避諱(ヒキ)=目上の者の諱(字)を用いることを忌避する中国、東アジアの漢字文化圏の慣習。二字名の場合にどちらか一字を忌避とし、欠字にする」・・・
 闕字を全廃したのは「福沢諭吉」だったらしい・・・法的には「1872年に闕字の廃止令が出されたが、その後闕字の慣行は復活」・・・
 「闕画=欠図」は「敬意」を表してのコトなんだか・・・???・・・

ーーーーー
 熊津-都督-府(ユウシントトク-フ)
        結う新 訳解く附
        邑 新 都徳 符
 唐が
 百済を滅ぼした後
 忠清南道
 に相当する
 百済旧域の管理を
 目的に設置した植民地・・・
 唐が
 高句麗
 百済を滅ぼした後
 唐の対外出先占領軍の機関組織・・・GHQ?
 旧高句麗領を
 安東-都護-府・・・都護-府
 旧百済領を
 熊津-都督-府・・・都督-府
 新羅も藩属国から
 鶏林州-都督-府・・都督-府
 へ切り替え
 半島全域を
 羈縻州とした
 羈縻政策(キビセイサク)
 ↓↑ ・・・羈=罒+革+馬
       =手綱で繋ぎ留める・繋ないで自由を奪う
        「おもがき」の転・馬具の一
        おもがい・たづな・たび・つなぐ・キ・ハ
        馬を繋ぎ止めるため、頭部から頬の部分にかけて
        つけた組みひも・たづな(幉)
        馬のくつわにつけて、操る綱
        馬のおもがいのようにつなぐ
        自由を拘束する。
        馬の轡(くつわ)を
        頭と首に繋ぎ止める組紐
        おもづら
        羈絆・不羈
        馬で旅をする
        羈客 (キカク) ・羈旅
 ↓↑   縻=广+林+糸
       =きづな・ミ・ビ
        しなやかな牛の鼻綱
        つなぎとめるひも・しばる
        つなぐ・つなぎとめる
 ↓↑     やんわりと拘束する
 羈縻政策(キビセイサク)
 中国が周辺の
 異民族を統御する政策呼称
 中国の王朝は
 周辺の異民族・諸国家に対し
 政治的・軍事的・文化的な
 従属関係をつくりあげ
 領域化(内地化)
 羈縻
 冊封
 などの形態を取った
 領域化=支配地に内地と同じ州県を設置し
     中央から官僚を送り
     そこの住民を中国の国法下に置いて
     直接支配
 冊封=周辺民族・国家の首長に
    王や侯といった中国の爵号を与え
    形式的な君臣関係で
    中国の支配秩序に組み込むんだ
 ↓↑
 熊津(ゆうしん・ウンジン・くまづ)
        ・・・錦江(クムガン→くまガム)?
 緯度 36度5分
 百済の古都
 万葉仮名で
  久麻那利
 (くまなり・こむなり)
 百済語で
  固麻那羅
 (コマナル)
 熊津=錦江=白馬川?
 のほとりの都市
 忠清南道
 公州市・・・
 475年
 高句麗
 長寿王が
 百済の国都
 漢城ソウル特別市)を陥落させ
 百済
 蓋鹵王
 を処刑
 後
 文周王・・・文の周の王
 が即位
 首都を
 熊津に遷都
 後
 聖王が
 538年
 泗沘(忠清南道扶余郡)
 へ遷都
 63年間、百済の首都
 新羅の統一後
 熊川州→熊州
 高麗時代に公州と改称
 公州市には
 熊津洞という地名が残る
 ↓↑
 『日本書紀』巻二十七・天智六年(六六七)
 十一月丁巳朔乙丑
 百濟鎭將
 劉仁願
 熊津-都督-府
 熊山-縣令
 上柱國
 司馬法
 等
 を遣して、
 大山下
 境部連
 石積
 等を
 筑紫-都督-府に送る
 己巳に
 司馬法
 等を罷り歸る
 小山下
 伊吉
 連
 博徳
 大乙下
 笠臣諸石
 爲
 を以て送使とす。
 ↓↑
ーーーーー
 「筑紫-都督-府」の所
 筑紫太宰府
 『続日本紀』巻一・文武四年(700)
 六月庚辰
 薩末比賣・・・薩末(さつま)比賣(ひめ)
 久賣。
 波豆。
 衣-評督
 衣-君縣。
 助督
 衣君
 弖自美(てじみ)。
 又
 肝衝難波。
 從
 肥人
 等
 持兵。
 剽劫・・・剽劫(ヒョウキョウ)=脅迫
 覓(國)・・・ベツコク
      覓=爫+見=まぐ・求める・捜す・尋ねる
      國覓
      神が鎮座すべきよい土地を探し求めること
      天皇が都とすべきよい土地を探し求めること
 (國)
 使刑部-眞木
 等。
 於
 是勅竺志(ちくし)惣領。
 准犯决罸。
 ↓↑
ーーーーー
 「都督」なければ
 「評督」という言葉はない・・・?
  ・・・「都督」も「評督」も役職名?・・・
 「倭の五王」は
 「宋書」の記録に
 「使持節-都督」
 という
 称号を要望し
 与えられた
 日本列島に
 「都督」の役職名が存在・・・
 その「都督」の下に「評督」がいた
 「都督-府」
 「日本書紀」に
 「筑紫-都督-府」とある
 「都督-府」は九州の地名
 「日本書紀」巻二十七・天智六年(667)
 十一月丁巳朔乙丑
 百濟鎭將
 劉仁願・・・・・・・劉仁願は
 熊津-都督-府(に)
 熊山-縣令
 上柱國
 司馬法
 等を遣して、・・・・派遣して
 大山下
 境部連
 石積
 等を
 「筑紫-都督-府」に送る
 己巳に、
 司馬法
 等
 罷り歸る。
 小山下
 伊吉
 連
 博徳
 大乙下
 笠
 臣
 諸石
 を以て送使とす。
 ↓↑
 原文
 『日本書紀』巻二十七・天智六年 
 十一月丁巳朔乙丑。
 百濟鎭將
 劉仁願
 遣
 熊津-都督-府
 熊山-縣令
 上柱國
 司馬法
 等。
 送
 大山下
 境部
 連
 石積
 等
 於・・・・・・「於」の有無?
 筑紫-都督-府。
 己巳。
 司馬法
 等
 罷歸。
 以
 小山下
 伊吉
 連
 博徳。
 大乙下
 笠
 臣
 諸石
 爲
 送使。
 是月。
 築倭國
 高安城
 讃吉國
 山田郡
 屋嶋城。
 對馬國
 金田城。
 ↓↑
ーーーーー
「於」がないと
 古い写本では
「大山下境部連石積
 等の(を)
 筑紫-都督-府に送る」
 となる・・・
 送った主語は誰か
 「百濟鎭將
  劉仁願」
 である。
 彼は百済に派遣された
 「百濟鎭將」で
 目的語は
 「熊津-都督-府
  熊山-縣令
  上柱國
  司馬法
  等(に・へ)」。
 彼らを
 「筑紫-都督-府」へ遣わした
 「於」がないと
 「送大山下境部連石積
  等
  筑紫-都督-府」は、
 「大山下境部連石積
  等の
  居た
  筑紫都督府へ送る」
 「筑紫-都督-府」へ送るとなる
 ↓↑
 「劉仁願」が
 「筑紫-都督-府」へ
 「司馬法聰」を遣わした
 「大山下境部連石積
  等のいる
  都督-府(筑紫-都督-府)」へ送った
 ↓↑
 『日本書紀』巻二十七
 天智四年(六六五)九月
 庚午朔壬辰
 唐國、
 朝散大夫
 沂州
 司馬馬
 上柱國
 劉徳高
 等を遣す。
 (等は、
  右戎衛郎將
  上柱國。
  百濟將軍
  朝散大夫
  上柱國
  郭務悰(忄+宗)
  を謂ふ。
  凡て二百五十四人。
  七月廿八日に對馬に至る。
  九月廿日に筑紫に至る。
  廿二日に表函を進る。)
 ・・・
 坂合部
 連
 石積(境部連石積)
 天智四年(665)「小山」  大唐派遣時の冠位
      ↓
 天智六年(667)「大山下」 大唐派遣後の冠位
 十二月戊戌朔辛亥
 物を
 劉徳高
 等に賜ふ。
 是月
 劉徳高
 等
 罷り歸りぬ。
 是歳
 小錦守君
 大石
 等を
 大唐に遣わすと、云々。
 (等は、
  小山 -坂合部連石積
  大小乙-吉士岐彌
      吉士針間
  を謂いふ。
  盖し唐の使人を送るか。)
 ↓↑
 原文
 『日本書紀』巻二十七天智六年 
 十一月丁巳朔乙丑。
 百濟
 鎭將
 劉仁願
 遣
 熊津-都督-府
 熊山-縣令
 上柱國
 司馬法
 等。
 送
 大山下
 境部連
 石積
 等
 於
 筑紫-都督-府。
 ↓↑
 擐=扌+睘・・・環・還・寰
  =つらぬく・カン・ゲン・ケン・セン
  物の端から端まで
  表から裏へ通す
  始めから終わりまで方針や考えをつらぬく
 ↓↑
 「宋書倭国伝」
 順帝
 昇明二年
 遣使上表曰
 封國偏遠作藩于外
 自昔祖禰
 躬擐(扌+睘)甲冑
 跋渉
 山川
 不遑寧
 處
 東征
 毛人
 五十五國
 西服
 衆夷
 六十六國
 渡
 平
 海北
 九十五國
 王道
 融泰廓土遐畿累葉朝宗
 不愆于歳
 臣
 雖
 下愚忝胤
 先緒驅
 率所
 統歸
 崇天極道遥
 百濟
 裝治
 船舫
 而
 句驪
 無道圖
 欲見呑掠抄邊隷虔劉
 不已毎致稽滯
 以失良風
 雖曰進路
 或通
 或不臣亡
 考
 濟實忿寇讎壅塞天路
 控弦百萬義聲感激方
 欲大擧奄
 喪父兄使
 垂成之功
 不獲一簣居在諒闇
 不動兵甲
 是以偃息
 未捷至今欲
 練甲治兵
 申父兄之志義士
 虎賁文武
 效功白刃交前亦所
 不顧
 若以
 帝徳覆
 載摧
 此彊敵
 克靖方
 難無替前功竊
 自假開府儀
 同三司
 其餘咸
 假授以勸忠節
 詔除
 武使持節都督
 倭
 新羅
 任那
 加羅
 秦韓
 慕韓
 六國
 諸軍事
 安東大將軍倭王
ーーーーー
 帰化人=亡命人
 日本書紀・応神紀
 応神七年条(396年)
 高句麗人・百済人・任那人・新羅人
 並来朝」
 応神十四年条(403年)
 弓月君
 自
 百済
 来帰・・・百二十県民而帰化
 応神二十年条(409年)
 倭漢直祖
 阿知使主
 ・・・
 並率己之党類十七県
 396年〜約13年間
 列島への地域的な集団亡命
 高句麗好太王
 好太王=広開土王
 百済の討伐・・・
 百済には
 北の漢城百済
 南の熊津百済
 拠点
 高句麗の戦闘は
 北の漢城百済から開始
 396年は
 京畿湾
 舟で南下
 熊津百済から侵攻滅亡
 陸路北行して
 漢城百済を攻撃
 百済王に忠誠を誓わせ
 平壌に帰還
 戦闘の難を避け
 王族集団が
 九州に避難
 半島の旧領地の
 軍事権の承認を南朝に求め、南朝も承認
 半島の旧領地の住民も
 地域単位で
 九州に移動
 高句麗好太王
 熊津百済討伐で
 新羅は解放され
 高句麗寄りになる

ーーーーー
 東京 (北緯35度68分)
 水戸 (北緯35度44分・南端)
 ↓↑
 群山市(北緯35度59分)は
 錦江(クムガン)下流南岸に位置
 北は
 錦江を隔てて
 忠清南道舒川郡と接し
 西は黄海に面し
 南は全羅北道金堤市
 東は益山市に接する
 黄海を隔てて対岸は
 中国の
 山東半島・・・
 沖合に
 古群山群島が所在
 沿岸に
 金堤市を経て
 南の扶安郡にまで広がる
 セマングム(干潟)がある
 韓国最大級の干拓事業
ーーーーー
 東国寺(トングクサ)
 韓国全羅北道群山市
 曹渓宗の寺院
 敗戦以前
 日本の曹洞宗に属し
 登録文化財に登録されている
 唯一の
 日本式寺院
 ↓↑ 
 1932年(昭和七年)9月25日
 上樑(棟)式で、増改築
 門柱に「昭和9年6月吉祥日」
 境内整備を含め
 「錦江寺」が完成した・・・
 二世長岡玄鼎代
 長岡玄鼎は
 内田佛観と同郷で
 錦江寺に鐘楼を建設
 梵鐘は京都の名匠
 高橋才治郎
 の作
 1933年(昭和8年
 長岡玄鼎急死
 京城別院から
 浅野哲禅が赴任し
 錦江寺三世となる
 1937年(昭和12年
 浅野哲禅転任により
 木村久朗が四世に
 1945年
 敗戦で米軍に没収
 1947年
 韓国僧侶
 南谷師が払下げを受けて寺を再開
 東国寺と命名
 1955年
 仏教全羅北道宗務院に所属
 1970年
 大韓仏教曹渓宗
 第二四区禅雲寺に登録
 東国寺の
 本尊・釈迦三尊仏像は
 文禄・慶長の役
 の時期の作品
ーーーーー
 「炭峴(大田広域市西の峠)」
 大邱広域市(北緯35度52分)
 ・・・・