1518日目・・・「自然」と対峙する「社会」をブログ辞典で調べると・・・「社会(しゃかい 英: Societyソサイエティ、羅: Humana societasフーマーナ・ソキエタース)は、人間と人間のあらゆる関係を指す」・・・漢字からは人間どもが「社(やしろ)=ネ(示)+十+一」で「会(あう)=𠆢(人・入・八)+二(弐・貮)+ム(私)」だろう・・・「society」 の訳語として「社会」を当てたのは、明治初期の「福地桜痴(源一郎)」であるらしい・・・「明治の造語」である・・・「人間の共同生活の総称。ま

 「社−会」を逆にした漢字で「会社(company)」という言葉がある・・・「営利を目的とする社団(組織)法人で,会社法による株式会社・合名会社・合資会社合同会社の総称」であるらしい・・・
 「会社」」は、蘭学書を翻訳する際につくられた「和製漢語」で、当初は、広い意味での「団体」「集団」を表した。 江戸末期から明治初期には、英語「society」の訳語として、「社会」「結社」「仲間」「社中」などと共に使われ、「club」の訳語にも「会社」が当てられた・・・
 「社中」は「坂本龍馬」の「亀山社中」だが、1865(慶応元)年、坂本龍馬が「志士(同士」)たちと結成した「仲間・結社」を意味するらしい・・・目的は薩摩藩などの資金援助を受け、物資運搬や貿易の仲介をした「商業・商売」での営利を目的とした団体である・・・
 名前の由来は「長崎・伊良林の亀山(北緯32度44分55.52秒 )」にその根拠地をおいたからである・・・例のごとく、前文はブログ辞典を参照、以下は、ウイキペデアが原文である・・・
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 海援隊(かいえんたい)←亀山社中
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 幕末に、
 土佐藩脱藩の浪士である坂本龍馬が中心となり結成した組織
 1865年から1868年まで3年余りに亘り、
 私設海軍・貿易など、
 薩摩藩などからの資金援助も受け、
 近代的な
 株式会社に類似した組織、商社活動としても評価
 運輸、開拓、本藩の応援、射利、投機、
 教育(修行科目 政法・火技・航海・汽機・語学等)等、
 隊の自活運営、政治・商事活動を行った。
 出版も手掛け
 和英通韻伊呂波便覧、
 閑愁録、
 藩論などがある。
 中岡慎太郎が隊長となった
 陸援隊と併せて
 翔天隊と呼ばれる。
 当初は、
 前身となる
 亀山社中が結成され貿易を行い、交易の仲介や物資の運搬等で利益を得ながら、海軍、航海術の習得に努め、その一方で国事に奔走していた。
 海援隊土佐藩の援助を受けたが、
 基本的には独立しており、
 脱藩浪人、軽格の武士、庄屋、町民と様々な階層を受け入れ
 「海援隊約規」には
 「本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志のある者、この隊に入る」
 「運輸、射利、投機、開拓、本藩の応援」
 とあり、
 射利つまり利益の追求が堂々と掲げられていた。会社と海軍を兼ねた組織であり、航海術や政治学、語学などを学ぶ学校でもあった・・・
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 いろは丸沈没事件
 紀州藩に賠償金を請求
 慶応三年七月
 中岡慎太郎は陸援隊を組織
 倒幕運動に奔走するが
 大政奉還、内戦回避の
 坂本と
 薩摩・長州の武力倒幕では意見が相違
 同年十一月十五日(12月10日)
 京都・近江屋で
 坂本が陸援隊隊長の中岡とともに暗殺
 戊辰戦争が始まると
 長岡謙吉らの一派は
 天領である
 小豆島などを占領し
 菅野覚兵衛らは
 佐々木高行とともに
 長崎奉行所を占領し、また小豆島も治めた
 長岡兼吉が
 慶応四年四月
 土佐藩より海援隊長に任命
 同年閏四月二十七日(6月17日)には藩命により解散
 土佐藩士の
 後藤象二郎海援隊
 土佐商会として、
 岩崎弥太郎
 九十九商会
 三菱商会
 郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)
 三菱商事などに発展
 坂本は
 蝦夷地(北海道)開発事業に着手する計画を持っていた
 のちに親族の
 坂本直寛が遺志を継ぎ
 明治時代に
 北海道
 空知管内
 浦臼町に入植・・・
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 ・・・坂本龍馬は「ブルジョア民主主義者」でああった・・・?
 問題は「会社」ではなく、「社会=Societyソサイエティ」のコトバであった・・・「社会=社+会」・・・
 「ヤシロに会合」は「神無月(かんなづき)=旧暦十(拾・壱拾)月⇒出雲での神在月(かみありづき)」である・・・ナンでイヅモなんだか、長州、毛利・・・土佐、山内、鹿児島、島津・・・薩長同盟は、「慶応二年一月二十一日(18日、22日説も)」ならば→「西暦1866年3月7日(3日・8日)」で、「小松帯刀邸(京都市上京区)で締結(六ヶ条)」・・・
 慶応三年旧暦十月 十日・・・10=壱拾・足
   ↓
  丁卯年 庚戌月己丑日・先勝・火曜日
   ↓
 グレオ歴で
  西暦1867年11月5日
 ユリウス暦
  西暦1867年10月24日
   ↓
 頼母木 桂吉(たのもぎ けいきち)
   ↓
 慶応三年十月十日(1867年11月5日)
   〜
 昭和十五年(1940年)2月29日
 広島県芦品郡綱引村(福山市)生まれ
 号は喜陽
 頼母木家の養子、東京府(現・東京都)で育つ
 東京第一高等中学(旧制一高)卒業後、米国に留学
 帰国後、浅草区会議員を務めた
 のちに
 東京毎日新聞(旧横浜毎日新聞、現在の毎日新聞とは無関係)社長、
 第一自動車、
 日本タイプライター取締役、
 帝国通信社、
 ジャパンプレス社長などを務めた実業家
 1896年
 同郷の先輩
 熊田葦城の推薦で
 報知社(報知新聞社)入社
 1899年
 朝野新聞の再興を企て同社社長
 1901年
 再び報知社に復帰
 広告部主任等で
 三木善八社主を助ける
 業務局長時代の
 1906年
 夕刊を発行
 欧米を視察し新聞事業を研究
 3年後に帰国
 日本初の新聞代理業
 ジャパンプレスエージェンシーを創立
 1910年
 伊藤博文暗殺の実写映画を買い受け
 両国国技館で公開
 日活の創立にも関係
 1911年
 東京市議会議員
 1915年
 第12回衆議院議員総選挙立憲同志会公認で
 東京府東京市区から立候補し初当選
 以降連続9回当選
 中選挙区制が導入後
 東京府第3区を選挙区とした
 憲政会・立憲民政党に所属
 1936年
 廣田挙国一致内閣で逓信大臣
 大臣在任中、
 船舶六百万トン主義、
 海運国策五ケ年計画を打ち出し、造船業支援政策を実施
 電力国営化法案を提出
 大臣辞任後の
 1938年
 報知新聞社
 1939年
 第17代東京市長
 在任、10ヶ月で病死
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