2663日目・・・ローマって、「スッラ」と「ポンペイウス」がその岩盤をコンクリートで固めた・・・「本並・本併・本俾・本埤」失す・・・「翻経意佻」・・・「卑+α」もワンサカ・・・意味のヨメないカンジ・・・「卑=甶+丶+十」に「+α」だから意味も並列して推理・・・それにしても「卑賤・卑属・卑金属・尊卑・品性が劣る・下品・卑俗・卑劣・卑猥・野卑」・・・これはアマリにも酷い漢字の意味だけれど、「卑弥呼」は「鬼道の巫女」だから当然である・・・

 俾=ヒ・ヘイ・しもべ・にらむ・たすける・益する
   俾益
   裨(ヒ)=しもべ・めしつかい・ヘイ・にらむ・横目で見る
       俾倪(ヘイゲイ)・睥(ヘイ)
       俾=亻+卑
         したが-う・しむ・せし-む・ヒ・ヘイ
         かしずく
       異体字「𠈷・𢔌・裨・朇・禆・陴・𥚈・𩫫・𩫮」
 埤=土+卑
   異体字「𡌨・𡐕・壀・陴」
   ます・あたへる・たすける・ひくいひめがき・あたえる
   ヒ・ビ・ヘイ
   甶+α・・・甶=丿+田=フツ・鬼の頭・子供の頭
   卑+α
   捭・猈・萆・郫・𩔹・䫌
   𪐄・椑・粺・裨・鞞
   𠕩・𩫮・鼙・䠋
   㪏・㼰・䇑・𧌠・𩖓・庳
   𠕩=冎+卑=異体字「㗗」
   錍=短い斧・矢先・矢尻・鋤
   睥=睥睨(ヘイゲイ)
   髀=大腿骨=腿・股
   稗=稗粟=稗田(阿禮)
   婢=奴婢
   碑=石碑=𥓓
   脾=脾臓
   鵯=鵯鶋(ひよどり・ヒッキン)
   牌=位牌
   痺=麻痺
   萆=萆薢(ひかい)=ヤマイモ科の「ところ・おにどころ」
             蓑・箕
   蜱=真蜱(まだに)
   陴=郫(ひめがき)
   捭・萆・陴・郫・脾・椑
   鞞・篺・䡟・貏・颦・㽡
   睥・裨・粺・箄・薭・䫌
   鼙・朇・顰・聛・蠯・㼰
   㯅・猈・䚜・簰・䱝・諀
   崥・㗗・渒・螷・啤・㵺
   琕・䠋・簲・䴽・豍
   庳・㪏・焷・綼・䇑・䰦
ーー↓↑ーー
 別=𠮠+刂=冂+万+刂=口+勹+刂=冂+刀+刂
 異字体「别=口+力+刂」
 ↓↑
 「わかれる」と読む漢字
 ↓↑
 分(分離・分別)
 別(別離)
 别(別個)
 剖(解剖)
 沠(派閥)
 派(派遣)
 訣(決別)
 𠛰(削る・梳る・けずる)
 ↓↑
 冎+刂=𠛰=わかれる・ベツ・ベチ
 ↓↑
 髀=骨+卑=䠋=𧾷+卑
  =ふともも(太股・太腿)の大腿骨
   ヒ・ビ・ハイ・バ・ヘン・ベン
ーー↓↑ーー
 倭国大乱
 「其國
  本亦以男子爲王住七八十年
  ↓↑   ・・・780年=七百八十年?
          干支 庚申・・・庚(かのえ)の申(さる)
          日本
          宝亀十一年・・・宝の亀の拾の壱の念?
          皇紀1440年
          中国
          唐  建中元年・・・建の中元の年?
          3月(旧暦2月)
          ヤマト王権
          蝦夷征討の城柵の
          覚鱉城(かくべつじょう)を陸奥国内に築く
          5月1日(宝亀十一年三月二十二日)
          宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱)が勃発
          夷俘
          陸奥国伊治郡
          の大領を務める
          伊治呰麻呂
          伊治城でヤマト王権に反旗
          夷俘軍を率いて
          按察使・紀広純らを殺害
          伊治城は焼失
          唐で、両税法が施行
  ↓↑
  倭國亂 相攻伐歴年
  乃
  共立一女子爲王
  名曰
  卑彌呼
  事鬼道
  能惑衆
  年已長大
  無夫婿」
 『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人魏志倭人伝
 ↓↑
 桓帝霊帝の治世の間(146年〜189年)、倭国は大いに乱れた
 『後漢書』卷85 東夷列傳第75
 ↓↑
 永初元年(107年)、倭国王帥升後漢へ使者を出した
 『後漢書東夷伝
 ↓↑
 184年
 四月二日
 ・・・張角太平道の教祖、黄巾の乱の指導者
 黄巾の乱(コウキンのラン・黄巾之乱・黃巾之亂)
 後漢末期の
 西暦184年(中平一年)
 太平道の教祖
 張角を指導者とする
 太平道の信者が各地で起こした農民反乱
 黄色い頭巾を頭に巻いた
 ↓↑
 184年
 干支 甲子
 成務天皇五十四年
 皇紀844年
 ↓↑
 後漢 光和七年、中平元年
 張曼成 神上元年
 ↓↑
 朝鮮
 高句麗 故国川王六年
 新羅  阿達羅王三十一年、伐休王元年
 百済  肖古王十九年
 ↓↑
 「十年(193年) 六月倭人大饑。来求食者千余人」
 『新羅本記』
 ↓↑
 高地性集落
 弥生時代中・後期に
 平地と数十メートル以上の標高差がある
 標高100メートルを超える
 高地の山頂部や斜面に形成された集落
 ・・・津波や洪水・・・そして外来海賊の襲撃・・・?
 大乱発生時期「180〜190年頃」
 『後漢書
 『梁書』には
 「霊帝・光和年中」(178年〜184年)
  ・・・例綴・講和(乞う和)念重・・・
        サンフランシスコ?
        1951年9月8日午前11時55分
       (米太平洋時間・日本時間9日午前3時55分)
 ↓↑
 倭の記録
 後漢
 班固(32年・建武八年〜92年・永元四年)・・・建武の八年
 ↓↑    干支 壬辰
       垂仁天皇六十一年
       皇紀692年
       後漢 建武八年
       隗囂 漢復十年
       公孫述 龍興八年
       朝鮮
       高句麗 大武神王15年
       新羅  儒理王9年
 ↓↑    百済  多婁王5年
 &
 班昭(45年?〜117年?)・・・曹大姑
 が書いた『漢書』地理志
 班昭は
 曹世叔に嫁したが、夫の死後
 和帝の詔により
 兄の「漢書」編纂を引き継いで
 八表と天文志を完成
 他に
 「女誡」七編
 「東征賦」を著
 曹大姑 (ソウタイコ) とも・・・
 ↓↑
 王充(27年〜97年 or 101年?)・・・字は仲任・会稽郡上虞の出身
 が著した『論衡』
 ↓↑
 『晋書』、『梁書』に
 倭人の出自は
 「太伯之後」と・・・太伯=呉の祖
        ・・・太安萬侶・・・呉の末裔?
 記録
ーー↓↑ーー
 184年
 干支 甲子
 日本
 成務天皇五十四年
 皇紀844年
 中国
 後漢 光和七年、中平元年
 張曼成 神上元年
 朝鮮
 高句麗 故国川王六年
 新羅  阿達羅王三十一年、伐休王元年
 百済  肖古王十九年
ーーーーー
 ポンペイウス年表
 紀元前106年・ピケヌムで生まれる
 紀元前 88年・同盟市戦争で初陣を飾る
 紀元前 87年・父ストラボが死去
 紀元前 83年・スッラのローマ侵攻に
        軍を率いてスッラ派へ参加
 紀元前 82年・マリウス派(ポプラレス)が
        抵抗していた
        シキリア・北アフリカを制圧
        (〜紀元前81年)
 紀元前 81年・1度目の凱旋式
 紀元前 76年・セルトリウスの反乱を鎮圧するべく
        ヒスパニアへ遠征(〜紀元前71年)
 紀元前 71年・2度目の凱旋式
 紀元前 70年・コンスルに就任
     (同僚はマルクス・リキニウス・クラッスス
 紀元前 67年・海賊征討戦(3ヶ月弱で完了)
 紀元前 66年・小アジア黒海遠征
        ミトリダテス6世を破る
        (〜紀元前63年)
 紀元前 64年・シリア・ユダヤフェニキア等を
        ローマの勢力圏に加える
 紀元前 61年・3度目の凱旋式
 紀元前 59年・第一回三頭政治
       (クラッスス及び
        ガイウス・ユリウス・カエサル
        ポンペイウス
        カエサルの娘・ユリアと結婚
 紀元前 58年・ヒスパニア属州総督に就任
       (〜紀元前55年)
        ポンペイウス劇場が完成
 紀元前 56年・ルッカ会談
 紀元前 55年・コンスルに就任(同僚はクラッスス
 紀元前 54年・ユリア死去
 紀元前 53年・クラッスス戦死、三頭政治が事実上崩壊
 紀元前 52年・コンスルに就任
       (同僚はメテッルス・スキピオ
 紀元前 51年・カエサルガリア総督任期終了
        コンスルへの立候補を表明
 紀元前 49年・カエサル派との内戦が開始
 紀元前 48年・ファルサルスの戦いで敗北
        アレキサンドリアへ逃れ
        同地で殺害
ーーーーー
 紀元前83年2月5日
 戊戌
 甲寅
 丙申
 ↓↑
 紀元前200年2月5日
 辛丑
 庚寅
 壬午
 ↓↑
 日本
 孝元天皇十五年
 皇紀四六一年
 中国
 前漢 高祖七年
 ↓↑
 誕生
 公孫弘=前漢の人物
    (〜紀元前121年)
 賈誼=前漢時代の政治思想家・文筆家
    (〜紀元前168年)
 劉章=前漢前期の皇族
    (〜紀元前177年)
ーー↓↑ーー
 第2次マケドニア戦争
 マケドニア王国
 アカイア同盟
 アッタロス朝ペルガモン王国
 アエトリア同盟
 共和政ローマ
 セレウコス朝
 ガリア・キサルピナにて
 「クレモナの戦い(ケノマニの戦い)」
 現地ガリア人に
 共和政ローマ軍が勝利
 ロドス島が
 マケドニア王国に勝利し
 クレタ島北部を領有、クレタ島戦争が集結
 共和政ローマとアッタロス朝
 ペルガモン王国と
 ロドス島が連合し
 アンティゴノス朝
 マケドニア王国の
 ピリッポス5世との間で
 第2次マケドニア戦争
 (紀元前197年〜)
 ↓↑
 紀元前200年頃
 グレコバクトリア王国の
 第3代国王
 エウテュデモス1世が死去
 デメトリオス1世が即位
 ↓↑
 前漢丞相
 蕭何の主導
 少府
 陽城延の指揮の下で
 都・長安の南西部に
 未央宮が建設着工
 匈奴
 前漢の西側国境付近に出現
 「白登山の戦い」
 匈奴軍が
 前漢
 劉邦軍を白登山で包囲
 ↓↑
 紀元前201年
 干支 庚子
 日本
 皇紀四六〇年
 孝元天皇十四年
 前漢 高祖六年
 ↓↑
 ペルガモンの
 アッタロス1世、ローマに遣使
 「韓王信」が匈奴に投降・・・
 ↓↑
 甲子の年 ・・・ 1864年
 甲子の月 ・・・ 1863年11月
 甲子の日 ・・・ 1873年 1月12日
 ↓↑
 1/1/1    1/1/1・・⇒1/1/3
 ユリウス曆 グレゴリオ
 庚申    庚申(己・壬・庚)
 戊子    戊子(壬・ ・癸)
 丁丑⇒戊寅⇒己卯(甲・ ・乙)
 申酉=空亡
 土曜日
 ↓↑
 1/2/6 立春・・・ユリウス曆(古世見)
 辛酉
 庚寅
 癸丑
 ↓↑
   ユリウス曆⇒グレゴリオ
 1582年10月5日=1582年10月15日
        =天正十年九月十九日
 壬午(丙・ ・丁)
 庚戌(辛・丁・戊)
 甲戌(辛・丁・戊)
 申酉=空亡
 ↓↑
 グレゴリオ
 1582年10月5日
 壬午(丙・ ・丁)
 己酉(庚・ ・辛)
 甲子(壬・ ・癸)・・・甲子〜甲戌=数えて11日
 戌亥=空亡              満で10日
 ↓↑
 満年齢の使用(生まれた次の歳から一歳)
 1902年12月22日施行・・・1+9+0+1+2+2+2+2=11+8
 「年齢計算ニ関スル法律
 (明治35年12月2日 法律第50号)」
 ↓↑
 甲乙丙丁戊
 己庚辛壬癸
 干合の「年月・日時」決定
ーー↓↑ーー
 十干年日 01 甲  02乙 03丙 04丁 05戊
 十干年日  06 己  07庚 08辛 09壬 10癸
        ↓   ↓  ↓  ↓  ↓ 
  二月寅時 02丙寅 戊寅 庚寅 壬寅 甲寅
  三月卯時 03丁卯 己卯 辛卯 癸卯 乙卯
  四月辰時 04戊辰 庚辰 壬辰 甲辰 丙辰
  五月巳時 05己巳 辛巳 癸巳 乙巳 丁巳
  六月午時 06庚午 壬午 甲午 丙午 戊午
  七月未時 07辛未 癸未 乙未 丁未 己未
  八月申時 08壬申 甲申 丙申 戊申 庚申
  九月酉時 09癸酉 乙酉 丁酉 己酉 辛酉
  十月戌時 10甲戌 丙戌 戊戌 庚戌 壬戌
 十一月亥時 11乙亥 丁亥 己亥 辛亥 癸亥
 十二月子時 12丙子 戊子 庚子 壬子 甲子
  一月丑時 01丁丑 己丑 辛丑 癸丑 乙丑

        • ↓↑----

 太初暦
 前漢
 武帝は・・・・・・・・武帝=武の綴(テイ)=糸+双+双
 太初元年(BC104)
「太初暦」を制定・・・太初=太の鉢(ハツ)=金+本
 前漢も終わりの頃に
 劉歆(リュウキン)が
     ・・・歆=音(立日)+欠
          うける・キン・コン
          like, admire
          willingly, gladly, to quicken
 「三統暦」を作り・・・三の統(糸を充てる)暦(歴)
 「月朔」に関しては
 太初暦と同一
 ↓↑
 後漢四分暦
 一年の長さを
 365+1/4日
 端数が一日の四分の一
 章帝の・・・・・・・章の綴
 元和元年(84)・・・元の和
 以降に行用
 ↓↑
 乾象暦・・・乾(十日十乞・いぬい・乾燥)の象の暦(歴)
            乞=𠂉(かみさし・櫛)の乙
 『晋書』・『宋書
 の律暦志により
 後漢末には
 天文観測に基づいて
 年の端数を
 1/4から
 145/589=0.24618
 に改めた新しい暦が
 劉洪
 によって創始
 呉の
 孫氏は
 滅亡(天紀四年・280年)
 ↓↑   ・・・280年
         干支 庚子
         応神天皇十一年
 ↓↑      ↓↑ ↓↑ ↓↑
         応神十一年十月条
        「剣池(つるぎのいけ)
         軽池(かるのいけ)
         鹿垣池(ししかきのいけ)
         厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」
        「命を受けて貢上れる人
         名は
         和邇吉師(わにきし)
         すなわち
         論語十巻、千字文一巻、
         併せて
         十一巻をこの人に付けて
         すなわち貢進りき。
         この
         和爾吉師は
         文首等の祖。
         また
         手人韓鍛(てひとからかぬち)
         名は
         卓素(たくそ)
         また
         呉服(くれはとり)の
         西素(さいそ)
         二人を貢上りき」
 ↓↑      ↓↑ ↓↑ ↓↑
 ↓↑      誉田別尊(ほむたわけのみこと)
         誉田別命(ほんだわけのみこと)
         大鞆和気命(おおともわけのみこと)
         誉田天皇(ほんだのすめらみこと)
         胎中天皇(はらのうちにまします)
 ↓↑      ↓↑ ↓↑ ↓↑
         皇紀940年
         中国
         西晋 咸寧六年、太康元年
         呉  天紀四年
         朝鮮
         高句麗 西川王十一年
         新羅  味鄒王十九年
         百済  古尓王四十七年
         西晋が呉を滅ぼし、中国を統一
 ↓↑      占田課田法を制定
 まで用いた
 ↓↑
 景初暦
 楊偉
 により作られ
 曹魏
 晋・宋と使われ続け
 年の端数は
 455/1843=0.24688
 ↓↑
 元嘉暦・・・元の嘉(十豆加)の暦(歴)
            豆=一+口+䒑(丷一)
 宋の文帝・・・・・・・・文の綴
 元嘉二十二年(445)・・・元の嘉の弐拾弐(念似・念字)
 何承天・・・何の承(うけたまわる・うける・つぐ)の天
         承=継承(ケイショウ)・承継(ショウケイ)
              形 象       象  形 
 が作り
 南朝斉・梁でも使われた
 倭国
 『日本書紀』の
 雄略紀以降
 日の干支が
 元嘉暦で書かれている
 ↓↑
 大明暦・・・・大(一人)の明(日月)の暦(歴)
 宋の祖沖之が始めた
 閏月の置き方に工夫・・・
 梁の           
 武帝
 天監九年(510)に採用
 陳の滅亡まで南朝で使われた
 ↓↑
 大業暦・・・・大(一人)の
        業(ゴウ)の=业+𦍎(羊八)
               わざ・ギョウ・ゴウ
        異体字・㸣・𤎸・𤑽・业
        暦(歴)  
 隋の煬帝
 大業四年(608)
 劉焯・・・焯=火+卓=異体字「𤎙・㷹」
      あきらか・シャク・トク・タク・ショウ
 が生前作成していた暦を公布
 唐の
 高祖
 武徳元年(618)
 まで使用
 ↓↑
 戌寅暦(平朔)
 はじめ定朔法を採用
 唐の
 太宗
 貞観十九年(645)から平朔
 高宗の
 麟徳二年(665)まで使用
 ↓↑
 麟徳暦・・・麟(麒麟)の徳(トク)の暦(暦)
 唐の
 李淳風
 作
 持統四年(691)頃・・・「字等・字統」の歴の史の念
 「儀鳳暦」
 の名でわが国へ伝来
 本来は定朔法で
 『続日本紀』はこれによる
 平朔として
 『日本書紀』の
 神武紀〜允恭紀・・・允(ム儿)恭(共灬)・・・「灬=火」
 ↓↑        允=まこと・ゆるす・イン
     ・・・木戸孝允天保4年6月26日〜明治十年
        1833年8月11日〜       1877年5月26日
        癸巳(戊 庚 丙)偏印正財沐浴⇔丁丑
        庚申(戊 壬 庚)正官正財 胎⇔乙巳
        乙丑(癸 辛 己)  偏印 衰⇔己亥
         戌亥=空亡
 ↓↑
 まで
 月朔干支に使用されている
ーー↓↑ーー
 「太安万侶墓誌」の「干支」・・・?
 ↓↑
 左京四条四坊従四位下勲五等
 太-朝臣-安萬侶
 以
 癸亥年七月六日卒之
 養老七年十二月十五日乙巳
ーーーーー
  癸亥年 七月 六日
 養老七年十二月十五日乙巳
 ↓↑
 『続日本紀
 元正天皇
 養老七年(723)は
 癸亥の年
 その記事に、
 「秋七月庚午、
  民部卿従四位下
  太朝臣安麻呂卒」
ーーーーー
 墓誌
 養老七年十二月十五日の干支
 カッコ内の数字の
 小数部分は
 時刻(午前六時は、0.25、正午は0.50)
ーーーーー
 養老七年 十二月
 養老七年十二月十五日=西暦724年1月15日Y・ユリウス
           =西暦724年1月19日G・グレゴリオ
 ↓↑
 暦 名  十二月朔の干支  十五日の干支
         朔=一日
 太 初  乙未(31.2099)  己酉
 後漢四分 甲午(30.3255)  戊申
 ↓↑
 乾象   辛卯(27.9163)  乙巳・・・
 ↓↑
 景初   壬辰(28.1860)  丙午
 元嘉   壬辰(28.1343)  丙午
 大明   壬辰(28.1505)  丙午
 大業   壬辰(28.1997)  丙午
 戊寅平朔 壬辰(28.1695)  丙午
 麟徳平朔 壬辰(28.1513)  丙午
 麟徳定朔 壬辰(28.5679)  丙午
 ↓↑
 乾象暦のみ
 墓誌
 十五日の干支「乙巳」に一致
     干支「丙午」に・・・1日のズレ
ーーーーー 
 続紀に載る
 太安万侶の官人としての経歴
 慶運元年(704)従五位下
 霊亀元年(715)従四位下
 氏上
 民部卿
 彼の葬儀に際し
 墓誌の干支にあえて
 呉の暦を用いた
 太氏一族は
 呉国
 滅亡で
 わが国への亡命者・・・???
 (by …other)…
ーーーーー
 ・・・???・・・

 2662日目・・・木⇔火⇔土⇔金⇔水・・・「惑星=ギリシア語・πλανήτης・plaˈnitis・ラテン語・planēta・planet)=恒星の周りを回る天体のうち、比較的低質量のもの」・・・太陽に近い順から、「水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星」・・・

  マルクス・アントニウス・・・火星(軍神)の「大秦王-安敦」
 (Marcus Antonius)      マルクス・アウレリウス・アントニヌス
 紀元前83年1月14日〜紀元前30年8月1日
 共和政ローマの政治家・軍人
 第二回三頭政治の一頭
 ガイウス・ユリウス・カエサル
 の姪の息子
 オクタウィアヌス
 (初代ローマ皇帝アウグストゥス
 に敗北・・・
 ↓↑
 マルクス・アントニウス
 (Marcus Antonius)
 紀元前83年1月14日〜紀元前30年8月1日
 共和政ローマの政治家・軍人
 第二回三頭政治の一頭
 ガイウス・ユリウス・カエサル
 の姪の息子
 オクタウィアヌス
 (初代ローマ皇帝アウグストゥス
 に敗北・・・
 ↓↑
 マルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルス
 (121-180)
 哲人皇帝=第16代ローマ皇帝
      マルクス・アウレリウス・アントニヌス
      (帝位161〜180)
 ↓↑
 中国・後漢王朝(25〜220)
 『後漢書
 97年に西域都護の軍人
 甘英(カンエイ)が
 大秦国に派遣された(結局断念した)
 ↓↑
 『後漢書
 大秦国が
 後漢桓帝(位146〜167)時代
 166年
 大秦国王の安敦(アントン)が使節を遣わ
 日南郡(ベトナム中部)に入貢
 象牙などの南海の物産を献上
 ↓↑ 
 アントニヌス=ピウス帝(138〜161)
 ↓↑
 ・・・「二星会合」って「織女と牽牛が合う」ことの熟語?・・・夜空に観察できる動的天体同士が重なること・・・夜空に観察できる動的天体が恒星と重なる現象・・・?
 ・・・「planet=語源はギリシア語のプラネテス(さまよう者・放浪者)」・・・
 タロットなら
 「放浪者・フール(ばか・バカ・莫迦・破家・馬稼)・数字は0」、「fool・dumb・stupid・idiot・silly・foolish・trivial matter・folly・simpleton・a stupid person・a blockhead(白痴)・an idiot・a foolan idiot」
 ↓↑
 クレオパトラ7世フィロパトル
 (Κλεοπάτρα Ζ' Φιλοπάτωρ
  Cleopatra VII Philopator
  紀元前69年〜紀元前30年8月12日)
 に重なったのは・・・タンなるカンジたモジだけれど・・・
 ポンペイウス・・・本併(並・俾・埤・併・柄・炳・丙)碓・・・?
 カエサルユピテル・ジュピター・ゼウス・神・シーザー)・是碓?
 アントニウス(安敦・マルクス)・火星・案取似得素?
 ↓↑
 ・・・星+星=重星=ジュウセイ
       =重誓・重聲・銃声・獣性・柔整
        樹生・渋生・重正・拾世・十世
 ↓↑
 「星食」(eclipse)
 「掩蔽」(occultation)
 「通過」(transit)
 ↓↑
 1170年9月12日
 火星の木星面通過
 カンタベリー
 修道士ジャーヴァス
 中国の天文学者が観測
 ↓↑
 1590年10月3日
 金星による火星の掩蔽
 ハイデルベルク
 ミヒャエル・メストリン
 によって観測
 ↓↑
 マルクス(Marcus)
 古代ローマ人の個人名
 ローマの建国神話の
 軍神マルス・・・
 にちなんだ個人名
 ↓↑
 マールス(ラテン語:Mārs)
 ローマ神話における戦と農耕の神
 日本語で
 「マルス」 や「マーズ」と呼ばれる
 英語は
 「マーズ」(Mars)
 元の名は
 マーウォルス(マウォルス、Māvors)
 マーメルス(マメルス、Māmers)
 とも呼ばれた
 ギリシア神話
 アレースと同一
 軍神として
 グラディーウゥス
グラディウス、Gradīvus=進軍する者)
 という異称も・・・
 「アテナ=戦争に勝つための戦略や栄誉の神
  アレス=戦場での狂乱や破壊の神
  アプロディテの恋人
  ローマ神話
  マルスはローマ建国の
  ロムルス
  と
  レムス
  の
  双子の父で
  軍神」
 ↓↑
 マーウォルス
 (マウォルス、Māvors)
 マーメルス(マメルス、Māmers)
 ↓↑
 アレース
 アーレース
 (ΑΡΗΣ、Arēs、Ἄρης, Ārēs)
 ギリシア神話の軍神
 ゼウスとヘーラーの子
 「城壁の破壊者」
 アレウス
 アーレウス
 (Ἄρευς、Areus)
 日本語で
 アレス
 ギリシアの蛮地
 トラーキアで崇拝
 聖獣はオオカミ(狼)=天照大神
    イノシシ(猪)=白猪神
 聖鳥は啄木鳥、雄鶏
        ↓↑
      ・・・鶏=「開皇二十年、倭王
            姓は阿毎(あま)、
            字は多利思比孤
              阿輩雞弥
        隋書俀国伝=おおけみ=大検見?
           庭鳥=鶏=雞=鷄=二和鳥
      隋の開皇二十年(600年)=推古天皇六年
       ↓↑
      大業三年(607年)=推古天皇十五年
      倭国の使者・膸王朝・煬帝
       ↓↑
      『隋書』倭国
      589年
      隋、中国を統一
      高句麗と敵対
      隋は
      広開土王=國岡上
       ↓↑  廣開土
           境
           平安
           好太王
       ↓↑
     「文在寅ムン・ジェイン・ぶんざいいん)
      1953年1月24日〜
      韓国第十九代大統領
      壬辰(乙 癸 戊)印綬正財 冠帯
      癸丑(癸 辛 己)偏印偏財 衰
      乙亥(戊 甲 壬)  印綬
       申酉=空亡」
       ↓↑
     「好太王(374年〜412年)
      高句麗、第十九代の王
      在位391年〜412年)
      姓は高
      諱は談徳
      号は永楽大王
      故国壌王の息子
      386年
      立太子
      辛卯年(391年)
      王位に就く」
      などの
      周辺諸民族と
      同盟策をとったが
 ↓↑   ↓↑
      高句麗
      乙支文徳・・・・・イッシブントク
     (ウイチムンドク)=壱 子文 解?
               音 詞聞 説?
      将軍
      と
      「撒水(サルス)の戦い」
      乙支文徳
      七戦七敗の末
      隋軍を翻弄し
      引き付けた
      乙支文徳
     「乙支文徳は
      石多(ソクダ)山の者で・・・石が多い?
      山に入り道を極め、悟りを開いた」
     「薩水大捷」
      隋の
      第二次高句麗遠征(612年)
      隋軍に偽りの降伏を申し入れ
      撤退を開始した隋軍に
      追い討ちをかけ大勝利
 ↓↑ ↓↑   ↓↑   ↓↑
   宇文述は
   煬帝より
   嬰陽王
   乙支文徳将軍の捕縛を命じられ
   文徳は隋軍に投降
   慰撫使の
   劉士龍が
   文徳を逃しまった
   文徳が自軍に戻り
   宇文述の追討軍を迎え撃った
   隋軍は兵糧が尽き疲弊
   隋軍は薩水(清川江)を越え
   平壌から30里ほどの山間に布陣
   平壌城の
   文徳は
   于仲文に降伏を表意する詩を書いて送り
   軍を撤収すれば
   嬰陽王を引き渡すと伝えた
   宇文述は停戦に応じ
   軍を退却
   そこへ
   文徳の軍が襲い
   薩水を渡ろうとしていた
   隋軍の背後を突き
   隋軍は
   右屯衛将軍の
   辛世雄
   が戦死
 ↓↑   ↓↑
   隋の将
   于仲文
   に与ふるの詩(停戦要請文)?
   『三国史記』巻44・「乙支文徳」伝
   神策究天文
   妙算窮地理
   戦勝功既高
   知足願云止
 ↓↑   ↓↑
      オリーブの木のオーナー制度
      Venus et Salus(サルウス)
 ↓↑   ↓↑
 アレス・・稗田阿礼
 阿禮州?
 ↓↑
 聖樹はトネリコ(梣・戸に塗る木
           ト-ニ-ヌル-キの転訛」
           イボタノキの蝋を
           ワックスに利用)
       イボタノキ(疣取木・水蝋樹)
    トネリコ(梣・Fraxinus japonica)
       キク亜綱-ゴマノハグサ目-モクセイ科
       の落葉樹
       木の皮を煮て得たニカワ(膠)を
       墨と共に練って写経に使った
       梣=木+山+今=トネリコ=舎人子
         十八纂の今現在・・・?
         十八史略
         南宋の曾先之が中国の子供向けに
         著作した歴史読本
         三皇五帝南宋までの
         十八の正史を要約した編年体
 ↓↑
 アレスは 
 ポセイドーンの息子の1人
 ハリロティオースが
 アレースの娘
 アルキッペーを犯し
 激怒したアレースは
 ハリロティオースを撲殺
 ポセイドーンは激怒
 アレースを
 神々の裁判にかけることを主張
 以後
 重大事件の裁判が
 アレースの丘で行われるようになった
 ↓↑
 聖獣は狼、聖鳥はキツツキ(啄木鳥)
 マールスからは
 「マルクス・マルケッルス
  マリウス・マルティヌス」
 などのローマ人名が派生
 ヨーロッパ各語にアレンジされた
 ↓↑
 マメルティニ
 (羅: Mamertini、英: Mamertines)
 第一次ポエニ戦争時期
 シチリア島の一部を支配下においていた
 カンパニア人を中心とする傭兵集団
 「マメルティニ」の意味は
 「マルスの子たち」
 ↓↑
 星食
 月が星を隠す星食
 ↓↑
 掩蔽(えんぺい、occultation
 ある天体が
 観測者と他の天体の間を通過するため
 その天体が隠される現象
 掩蔽は近いほうの天体が大きく見え
 遠いほうの天体を
 完全に隠してしまう
ーーーーー
 藤原道長の息子
 藤原教通(のりみち)
 が目撃したモノ(『御堂関白記』)
 ↓↑
 長和四年(西暦1015年)七月八日
 ↓↑
 左衛門督
 (さえもんのかみ=藤原教通
         =藤原道長の5男)
 が云ったことには、
 「夜分、二星会合を見ました」と。
 「その有様は、
  二星が、各々、ゆっくりと行き合って、
  間が三丈ほどになりました。
  小星がそれぞれから出てきて、
  まず
  大星の許に到りました。
  小星が元に還った後に、
  二星が早く飛んで会合しました。
  後に雲が来て、
  会合している二星を覆いました」
 「この事は、昔の人びとは見ていた」
 という・・・・
ーーーーー
 アルタイル(Altair)=牽牛・鷲座=わしざ=和史差
 ベガ(ヴェガ・Vega)=織女・琴座=ことざ=言差
 ↓↑
 虎刺(ありどおし)
 虎杖(いたどり)
 虎掌(うらしまそう)
 虎魚(おこぜ)
 虎威(コイ)
 虎穴(コケツ)
 虎子(コジ)
 虎口(ココウ)
 虎視眈眈(コシタンタン)
 虎鬚(コシュ)
 虎嘯(コショウ)
 虎列剌(コレラ)
 虎狼の心(コロウのこころ)
 虎狼痢(コロリ)
 虎養患遺(コヨウカンイ)
 虎鶫(とらつぐみ)
 虎斑(とらふ)
 虎茄(はしりどころ)
 虎子(まる)
 虎落(もがり)
 虎落笛(もがりぶえ)
 虎耳草(ゆきのした)
 鯱(シャチ)
 虎河豚(トラフグ)
ーーーーー
 ・・・?・・・ブンのインのザイって?・・・
 トラはトラでも「寅・虎・禽」で、竹箒の「おトラさん」・・・
 「張子の虎」って・・・張政の子は虎子・・・壹・臺・・・
 諦めなって、か・・・
 位置と位地は諦めろって、壹與は卑弥呼に云っているらしい・・・?
 「Sorry=」
 「I'm sorry」・・・ sorry?・・・・・・子供の時からはニンゲンじゃぁない・・・
 ・・・ニンゲンになるのは難しい・・・
 「ふえ・笛・笙・管・龠・簘・簧・簫・鰾・籟・籥」ふき・・・

 2661日目・・・「猿(さる・エン)の惑星」・・・・「変えサルの皇帝」・・・暮(呉)れた七夕(7月7日の夜)の「織姫と彦星」=「織女と牽牛」・・・「乞巧奠」・・・昏れた・・・「くれお=晩穂・呉夫・暮尾・紅麗音」?・・・「黄昏=たそがれ=誰彼」・・・

 織女(クレオパトラ7)と

 牽牛(ユリウス・カエサル=Caesar =Julius   Caesar)
    ガイウス・ユリウス・カエサルジュリアス・シーザー
   (Gaius   Iulius  Caesar)
    我意臼  百合碓  変猿
 クレ時のクレをハトラ・・・カエサルのはコヨミ・・・
 句例字 句例 葉寅    変え申   曆=古世見
 ↓↑      寅⇔冲⇔申・・・己・・・?
         寅(己・丙・甲)
             ↑・↑=冲⇔己
 ↓↑      申(己・壬・庚)
 グレゴリウス13世・・・・・繰例語理得素
 ↓↑        ・・・愚蓮石伏魚(懲)宇津(有珠・渦・碓)
           石伏魚(ごり)=淡水魚カジカの異名
                   鮴=魚+休
                   チチブ(知知夫)や
                   ヨシノボリ(葦登・芳昇)
 ↓↑                小形のハゼ(鯊)類の異名
 愚連誤理失素拾参の世
 紅蓮(紅煉)ゴリ押足蚕生・・・?
 ↓↑
 (Gregorius XIII)
 1502年1月7日〜        1585年4月10日
 辛酉(庚 辛)偏印偏印  病⇔乙酉⇔  辛酉
 庚子(壬 癸)印綬比肩 建禄⇔庚辰⇔  辛丑
 癸卯(甲 乙)  食神 長生⇔壬午⇔  癸巳
 ↓↑
 辛酉
 辛丑
 癸巳(G1501/1/7)節入り前・・・?
 午未=空亡
 ↓↑
 第226ローマ教皇
 (在位1572年〜1585年)
 本名 ウーゴ・ブオンコンパーニ
    (Ugo  Buoncompagni)
 ユリウス暦
 1582年10月5日が
    10月15日に改められた・・・天正十年九月十九日
 ↓↑
 壬午(丙 己 丁)
 己酉(庚  辛)
 甲戌(辛 丁 戊)
 庚午(丙 己 丁)
 ↓↑
 グレゴリウス13世は
 天正遺欧少年の使節
 1585年(天正十三年)三月十三日
 ローマのバチカン宮殿にて謁見したローマ教皇
ーーーーー

 織女と牽牛
 『文選』の
 漢の時代に編纂された
 「古詩十九首」が初出
 ↓↑
 『西京雑記
 前漢采女
 七月七日に
 七針に糸を通す
 「乞巧奠」が記録
 ↓↑
 南北朝時代
 『荊楚歳時記』
 7月7日、牽牛と織姫が会合する夜と明記
 夜に婦人たちが
 7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し
 捧げ物を庭に並べ
 針仕事の上達を祈ったと記録
 7月7日
 乞巧奠(キコウデン)=織女・牽牛伝説
 ↓↑
 六朝・梁代
 殷芸(インウン)の
 『小説』に
 「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。
  年々に機を動かす労役につき、
  雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。
  天帝その独居を憐れみて、
  河西の牽牛郎に嫁すことを許す。
  嫁してのち機織りを廃すれば、
  天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、
  一年一度会うことを許す
 (天河之東有織女 天帝之女也
  年年机杼勞役 織成云錦天衣
  天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎
  嫁後遂廢織紉
  天帝怒 責令歸河東
  許一年一度相會」
  『月令廣義』七月令にある逸文
 ↓↑
 日本の「たなばた」
 奈良時代に伝わり
 元からあった
 日本の棚機津女(たなばたつめ)の
 伝説と合わさって生まれた・・・?
 ↓↑
 「たなばた」の語源
 『古事記』で
 「アメノワカヒコ」が死に
 「アヂスキタカヒコネ」が来た折に詠まれた歌
 「淤登多那婆多」(弟棚機)
 『日本書紀』の
 「葦原中国平定の1書第1」にある
 「乙登多奈婆多」
 また、お盆の精霊棚とその幡から「棚幡」
 『萬葉集』卷10春雜歌2080
 (「織女之 今夜相奈婆 如常
   明日乎阻而 年者将長」)
   たなばたの
   今夜あひなばつねのごと
   明日をへだてて
   年は長けむ」
 など七夕に纏わる歌が存在・・・
 ↓↑
 「牽牛織女の二星が
  耕作、蚕織をつかさどるため
  それらにちなんだ
  種物(たなつもの)
  機物(はたつもの)
  が
  たなばたの由来とする江戸期の文献
 ↓↑
 日本で
 雑令によって7月7日が節日
 相撲御覧(相撲節会
 七夕の
 詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた
 後、
 平城天皇
 7月7日に亡くなると
 826年(天長三年)
 相撲御覧が別の日に移され
 行事は分化し
 星合と乞巧奠が盛んになった
 ↓↑
 乞巧奠
 (き こうでん
  きっこうでん
  きっこうてん
  きぎょうでん)は
 乞巧祭会
 (きっこうさいえ)、乞巧
 7月7日の夜
 織女に対して手芸上達を願う祭
 古くは
 『荊楚歳時記』
 に見え
 唐の
 玄宗のときは盛んに行われた
 日本に伝わり
 宮中や貴族の家で行われ
 宮中では
 清涼殿の東の庭に敷いた
 むしろの上に机を4脚並べて果物などを供え
 ヒサギの葉1枚に
 金銀の針をそれぞれ
 7本刺して
 五色の糸をより合わせたもので
 針のあなを貫いた
 一晩中
 香をたき灯明を捧げて
 天皇は庭の倚子に出御して
 牽牛と織女が合うことを祈った
 『平家物語』に
 貴族の邸では願い事を
 カジ(梶)の葉に書いた
 二星会合(織女と牽牛が合う)
 詩歌・裁縫・染織などの
 技芸上達が願われた
 江戸時代
 手習い事の願掛けとして
 一般庶民にも広がった
 日本において
 機織りは
 成人女子が
 身につけておくべき
 技能であった訳ではない・・・???
ーーーーー
 ガイウス・ユリウス・カエサル・・・「カエサル」・・・
 (Gaius Iulius Caesar)
 紀元前100年〜紀元前44年3月15日
 共和政ローマ期の政治家、軍人、文筆家
 「賽は投げられた(alea iacta est)」
 「来た、見た、勝った(veni, vidi, vici)」
 「ブルータス、お前もか (et tu, Brute?)」
 出生 紀元前100年頃(紀元前102年とも)
 死没 紀元前44年3月15日
 ↓↑
 終身独裁官(ディクタトル)
 独裁官ラテン語・dictātor=ディクタートル)
 国家の非常事態に1人だけ任命された
 任期は短期間(通常6ヶ月)
 ↓↑
 クレオパトラ7世
 フィロパトル
 (ギリシア
  Κλεοπάτρα Ζ' Φιλοπάτωρ
  ラテン語
  Cleopatra VII Philopator)
 紀元前69年〜紀元前30年8月12日
 古代エジプト
 プトレマイオス朝最後のファラオ(女王)
 クレオパトラ(父の栄光)7世
 アントニウスの死から
 約10日後に
 クレオパトラも自殺
 ↓↑
 紀元前47年
 カエサルの子
 カエサリオンを産んだ
 カエサリオン=プトレマイオス15世
 (Caesarion・Καισαρίων)
 オクタウィアヌスに殺害
 ↓↑
 異父弟妹
 アレクサンドロスヘリオス
 クレオパトラ・セレネ
 プトレマイオス・フィラデルフォス
 ↓↑
 クレオパトラ・セレネ(アントニウスとの娘)は
 女王クレオパトラ7世と
 マルクス・アントニウス
 双子の一人
 双子のもう一人は男子で
 アレクサンドロスヘリオス
 と名付けられた
 セレネは
 マウレタニア王
 ユバ2世と結婚
 ↓↑
 マルクス・アントニウス・アンテュッルス
 (Marcus Antonius Antyllus)は
 オクタウィアヌスに殺害
 アレクサンデル・ヘリオス
 プトレマイオス・フィラデルフォスは
 アントニウスの死から数年も立たない内に病死
 ↓↑
 フルウィア
 フルウィア (マルクス・アントニウスの妻)
 プブリウス・クロディウス・プルケル、
 次いで
 ガイウス・スクリボニウス・クリオ
 と結婚し、最後に
 マルクス・アントニウス
 の3番目の妻
 ↓↑
 との次男
 ユッルス・アントニウス
 アウグストゥス
 義理の甥として重用され
 執政官
 アジア属州総督
 アウグストゥスの娘
 ユリアとの密通により自死
 ↓↑
 カリグラ
 クラウディウス
 ネロ
 などは
 アントニウスの血筋
 ↓↑
 カエサル・・・シーザー
ーーー↓↑ーー
   猿田彦・・・猿目・沙流目・申目・猿女
 ↓↑↓↑    国譲り・国津神熱田神宮
 猿(さる・サル)
  (尾のあるもの)
 ↓↑
 英    語 マンキー monkey
 英    語 モンキー monkey
        エイプ  ape
        シミァン simian
 独    語 アッフェ Affe
 蘭    語 アープ  AAP
 仏    語 サンジュ singe
 伊    語 シンミア scimmia
 西    語 モーノ  mono
 西    語 モノ   mono
        モナ   mona
 葡萄牙  語 マカーコ
 羅    語 シーミウスsimius
 希    語 ピテーコスπιθηκος
        マイムー μαϊμού
             maimou
 露    語 アビズィヤーナ обезьяна 
 中    語 ホウツ  猴子
 中    語 ボウズ  猴子
 スワヒリ 語 キマ   kima
 スワヒリ 語 トゥムビリ tumbili
        (サバンナモンキー)
 ヒンディー語 バンダル बंदर
 ↓↑
 ヘブライ 語 コフ   קוף
ーーーーー
 『荘子』・・・「斉物論」・・・「朝三暮四」・・・趙纂模史?・・・
 ・・・「斉(ひと・齊)しい」・・・「すべての物は斉しい」・・・
 ・・・「胡蝶の夢」・・・
 「斉物論(セイブツロン)」
ーーーーー
 ・・・by wikipedia.org/wiki/・・・
 ・・・「カエ」て「サル」を重複だけれど・・・「カエ」ってカンジ・・・ワンサカ・・・
 「猿(さる・エン)の和句所為」・・・・「変えサルの工程」・・・

 2660日目・・・「対象物」の音声化と文字化・・・「音声と文字」のイメージ化・・・人間って?・・・緒形?・・・

 「鷽」の泣き声は「細く、悲しげな調子」らしい・・・

ーーーーー
 シオニズム
 (Zionism)・・・Zi-on-ism・・・Zi-o-ni-sm
  ・・・鹽(塩・しお・しほ)煮事務?
      ・・・ジ-オン-イズム・・・ジ-オ-二-ズム・・・
      ・・・ジ-オン-イズミ・・・ジ-オ-二-ズミ・・・
            ↓↑    ↓↑    ↓↑
        「マミムメモ=真実無目漏=まみむめも」
     字音  出夢・伊豆務・井津務・出武?
         和泉・出水・五三・伊澄・和?
         小泉八雲
ーーーーー
 「アラバの海(塩の海)」=「東の海」
 「ヤム・ハメラハ(ים המלח)」…海=ים(イャム)
  ヘブライ語
 ↓↑
 「アルバフル・ル・マイイトゥ(البحر الميت)」
  アラビア語
 ↓↑
 「Dead Sea」
 ↓↑
 塩(しお)
 ヘブライ  語 メラフ מלח
 ヘブライ  語 メラハ מלח
 ペルシャ  語 ナマク نمک
 希     語 ハルス αλς
 ↓↑
 スウェーデン語 サルト salt
 カタルーニャ語 サル  sal
 アイスランド語 サルトゥsalt
 ポーランド 語 スル  sól
 アイルランド語 サラン salann
 ハンガリー 語 ショー Só
 チェコ   語 スール sůl
 エストニア 語 ソール sool
 スロヴァキア語 ソリ soľ
 エスペラント語 サーロ salo
 ルーマニア 語 サーレ sare
 ↓↑
 英     語 ソールトsalt
 独     語 ザルツ Salz
 仏     語 セル  sel
 伊     語 サーレ sale
 西     語 サル  sal
 羅     語 サール sal
 露     語 ソーリ соль
 蘭     語 ザウト ZOUT
 ↓↑
 タミル   語 ウップ
 マレー   語 ガラム garam
 ベンガル  語 ボロン লবণ
 リトアニア 語 ドゥルスカ druska
 ↓↑
 ヒンディー 語 ナマク नमक
 インドネシア語 ガラム garam
 モンゴル  語 ダヴス Давс
 スワヒリ  語 チュンヴィ chumbi
 エスペラント語 サーロ salo
 ディヴェヒ 語 ロヌ ލޮނު
 (モルディブ
ーーーーー
 猿田彦・・・猿目・沙流目・申目・猿女
       国譲り・国津神熱田神宮
 ↓↑
 猿(さる・サル)
  (尾のあるもの)
 ↓↑
 英    語 マンキー monkey
 英    語 モンキー monkey
        エイプ  ape
        シミァン simian
 独    語 アッフェ Affe
 蘭    語 アープ  AAP
 仏    語 サンジュ singe
 伊    語 シンミア scimmia
 西    語 モーノ  mono
 西    語 モノ   mono
        モナ   mona
 葡萄牙  語 マカーコ
 羅    語 シーミウスsimius
 希    語 ピテーコスπιθηκος
        マイムー μαϊμού
             maimou
 露    語 アビズィヤーナ обезьяна 
 中    語 ホウツ  猴子
 中    語 ボウズ  猴子
 スワヒリ 語 キマ   kima
 スワヒリ 語 トゥムビリ tumbili
        (サバンナモンキー)
 ヒンディー語 バンダル बंदर
 ↓↑
 ヘブライ 語 コフ   קוף
ーーーーー
 『荘子』・・・「斉物論」・・・「朝三暮四」・・・趙纂模史?・・・
 ・・・「斉(ひと・齊)しい」・・・「すべての物は斉しい」・・・
 ・・・「胡蝶の夢」・・・
 「斉物論(セイブツロン)」
  現行本は西晋
  郭象が52篇本の・・・・・・・・「郭象」⇔「郭務悰」?
  雑駁な部分を削って
  33篇(内篇7,外篇15,雑篇11)・・・雑篇「十一・拾壱・足壱」
  に整理
 「33篇のうちでは内篇7篇が最も古く
  とくに〈逍遥遊篇〉〈斉物論篇〉
  の2篇は荘周本人の思想の精髄を伝える」
     「現実世界の根源にあって
      それを
      支えている〈道〉の絶対性のもとでは
      現実世界における
      万物の多様性や価値観の相違などの
      あらゆる差別相が止揚されて
      意味をもたなくなる・・・
      道の在り方に目覚め道と一体となることによって
      個が個としての価値を完全に回復し
      何ものにもとらわれない
      境地に到達できるという論(麦谷 邦夫)」・・・?
 ↓↑
 猿・さる・まし・ましら・エン
 猿猴・エンコウ
 沐猴・モッコウ
 狙猴・ソコウ
 得手・えて
 猿公・得手公・えてこう
 得手吉・えてきち
 貜父・猩猩・狒狒・蜼・猱蝯
 貜・玃・猴・狙・獨・狨・果然(猓然)・禺(寓)
ーーーーー
 サルトル=猿捕る・申取る
 ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル
 (Jean-Paul Charles Aymard Sartre)
 1905年6月21日〜      1980年4月15日
 乙巳(戊庚丙)偏財正官 死⇔庚申
 壬午(丙 丁)傷官偏印 病⇔庚辰
 辛卯(甲 乙)  偏財 絶⇔戊午
  午未=空亡
 ↓↑
 シモーヌ・ド・ボーヴォワール
  (Simone de Beauvoir
 1908年1月9日〜          1986年4月14日
 丁未(丁乙己)偏財偏財  墓⇔丙寅
 癸丑(癸辛己)比肩比肩 冠帯⇔壬辰
 癸亥(戊甲壬)  正官 帝旺⇔戊子
  戌亥=空亡
ーーーーー
 ・・・
 シオン運動
 シオン主義
 イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建
 ユダヤ教
 ユダヤ・イディッシュ・イスラエル文化の
 復興運動
 「シオン」=エルサレム市街の丘の名前
       ザイオン
 ナータン・ビルンバウムにより
 ↓↑
 ドレフュス事件
 オーストリア人記者
 テオドール・ヘルツルは
 ユダヤ人自ら国家を建設を訴え
 1897年
 バーゼルで第1回シオニスト会議を主宰
 ヘルツルは建国の父
 1917年
 バルフォア宣言
 イギリス外相が
 「パレスチナにおける
  ユダヤ人居住地の建設とその支援」
 を約束
 1947年
 国連によるパレスチナ分割決議
 1948年
 イスラエルが建国・・・
ーーーーー
 栂牟礼城(とがむれじょう)
 大分県
 佐伯市
 弥生(旧-南-海部郡-弥生町)
    ・・・海部郡=あまグン=尼軍(群・むれ・牟礼)
 大字
 井崎上小倉にあった山城
 明治二十七(1894)年
 国木田独歩が訪問し
 「源叔父」と「春の鳥」を著作・・・?
 大永年間(1521年〜1528年)
 佐伯氏
 第十代の
 佐伯惟治によって
 栂牟礼山に築かれた
 栂牟礼城は
 豊後
 大神氏の一族、・・・大神⇔おおみ神=大御神⇔天照大神
 佐伯氏の居城
 「上犬塚(緒方町)・・・上(かみ)の
             犬(いぬ)の
             塚(づか)=緒(糸の者)の方
  があり
  大分県内に
  熊-牟礼(禮)山、猪-牟礼(禮)山、角-牟礼(禮)山
  栂-牟礼(禮)山、花-牟礼(禮)山
  などの山名…」・・・無礼(禮)or無頼or村井(邑井)or武令?
         無礼=牟礼=群
 ・・・栂(とが)の牟礼(むれ)・・・群⇔牟礼(禮)?
 ↓↑
 栂=木+母
 ↓↑ツガ(栂、学名:Tsuga sieboldii)
   マツ科ツガ属に分類される常緑性の針葉樹
   別名を「トガ」という
   かつて「咎人」の磔刑に使った木
    ・・・キリストを「磔りつけた木」+母⇔聖母マリア
   牟=厶+牛
     通仮字「貿」
      ・・・貿(あきなう)=貿易=モノを交換して替える
     貿の異体字「贸・𥆆・𧴵・𧵍・𧵲・𧶝・𧶻・𡭌」
     牟の異体字「?・𢃷・眸・𠫚」
 ↓↑  ↓↑
     哞=口+厶+牛=なく(鳴・啼・哭・泣)
     哞=牛の鳴き声
     むさぼる・ボウ・ム
     奪う・かぶと・鉾(ほこ)
     牟尼=サンスクリット語 muniの音写
        聖者・釈迦・仙人・修行者・隠棲者
       「沈黙を守る人」?・・・尼(あま)が貪る?
     大永七年
     栂牟礼城(とがむれじょう)の戦い
     大友義鑑
     佐伯惟治が逆心ありとし
     討伐軍
     臼杵近江守長景を派軍
     佐伯惟治は
     栂牟礼城に籠城したが
     水路を断たれたが
     兵粮米を水と見せかけ
     馬を洗う作戦で敵を欺いた・・・
     後、大永七年七月二十五日
     城を落ちて逃亡したが殺された・・・
 ↓↑
 なじむ=相手と親密な関係を築くこと親しく接する
     親しくつきあう・親しくする・心安くする
     仲良くする・親しむ・打ち解ける・解け合う
     慣れる=なれる=名例留?
         ・・・「成・生・馴・熟・狎・鳴」れる
     馴染む=なじむ=名字務?
         ・・・ナジミ
         なれる・ならす・よい・おしえ
         ジュン・ シュン・クン
         なつく・馴化・馴致
         おとなしい・従順な・すなお・よい
         馴雅・馴行
         おしえ・おしえる
         馴化⇔訓練⇔釧路・・・・・馴=馬+川
                 ・・・・・釧=金+川
         訓練(トレーニング)・・・訓=言+川
         実際に、何らかのことを行って習熟させること
         一定の目標に到達させるための実践的な教育活動
         動物に何らかの学習をおこなわせるための
         系統的な方法・企業では研修
         ・・・嚌=口+齊=なめる・嘗・甞・舐
            異体字「𠴧・𠻎・𡄡・哜」
           「周󠄀書曰、太保受同祭嚌」
           「班彪、北征賦、鵾鷄鳴以嚌嚌」
           「太玄經、樂、管絃嚌嚌。
                 (注)嚌嚌、憂悲也」
           「集韻、嚌、嚌啀、笑皃」
                斉・斎・齋・・・済・臍
              臥薪嘗胆
 I hope you get use to your new environment.
  (環境に馴染めば…)
 I hope you feel comfortable
   in your new environment.
  (環境に馴染むとイイけれど)
 I hope
   your new environment will feel like home.
 メイク ユア セルフ アット ホーム
   make yourself at home
 ↓↑
 馴染む=变得熟悉・融合
ーーーーー
 ・・・???・・・
 ウソ(鷽)が鳴く声は森林に実存するのか・・・?
 「ウソ(鷽・Pyrrhula pyrrhula Linnaeus)
  スズメ目アトリ科ウソ属
  鳥類の一種
  和名の由来は
  口笛を意味する古語「うそ」から来ており
  ヒーホーと口笛のような
  鳴き声を発することから名付けられた」・・・
 「鷽替え(うそかえ)
  菅原道真を祭神とする神社(天満宮
  において行われる特殊神事
  鷽(ウソ)が嘘(うそ)に通じ
  前年にあった災厄・凶事などを嘘とし
  本年は吉となることを
  祈念して行われる」・・・
 ・・・気持ちはワカるが・・・
 鷽の泣き声が「細く、悲しげな調子」らしい・・・

 2659日目・・・本日、1/8のニュース・・・「史上最遠の天体の接近撮影に成功・雪だるま形・太陽から65億キロの史上最も遠い天体・探査機ニューホライズンズが撮影・@NatGeoMagJP・NASAの無人探査機が、撮影

ナショジオ」・・・いか、ナンカ、関連があるのかな・・・
 ↓↑
 ・・・教育番組・・・
 田中 久重(たなか ひさしげ)
 寛政十一年九月十八日
 (1799年10月16日)
  〜
 明治十四年
 (1881年11月7日)
 ↓↑
 己未(丁 乙 己) 偏官偏財 墓⇔辛巳
 甲戌(辛 丁 戊) 傷官偏印 衰⇔戊戌
 癸酉(庚 辛) 印綬 病⇔乙巳
戌亥=空亡
 ↓↑
 発明家
 「東洋のエジソン」・・・
 ↓↑  トーマス・アルバ・エジソン
    (Thomas Alva Edison,
     トマス・アルヴァ・エディスン…富増・蛙留話鴉・重字寸?
      ↓↑
     1847年2月11日        〜1931年10月18日)
     丁未(丁 乙 己)比肩比肩 冠帯⇔辛未
     壬寅(戊 丙 甲)正官傷官 死⇔戊戌
     丁丑(癸 辛 己)  偏官 墓⇔丙午
      申酉=空亡
 ↓↑
 「からくり儀右衛門」
 と呼ばれた
 芝浦製作所東芝の重電部門)の創業者
ーー↓↑ーー
 筑後国
 久留米(福岡県-久留米市)の
 鼈甲細工師・・・鼈甲=「べっこう=別項・別稿」細工の詞?
 田中弥右衛門の長男
 幼名は
 儀右衛門
 嘉永六年(1853年)
 佐野常民・・・・常の民
 の薦めで
 蘭学狂いの
 鍋島直正・・・鍋(なべ・名部)の揣摩(しま)
        金+咼(冎+口)     縞(糸+高)・志麻
        咼(よこしま・くちがゆがむ・カ・カイ) 
          「冎=字形に穴にはまりこむ関節の骨」
          簡体字「呙」
          異体字「剮・和・喎」・・・和?・・・なごむ
          咼、渦、過、鍋、禍、堝、蝸、窩
          窩=あな・あなぐら・カ(クヮ)・ワ
            腋窩(エキカ・エキワ)
            眼窩(ガンカ・ガンワ)
            蜂窩(ホウカ)
            窩主(けいず)買い=盗品と知りながら
            売買すること・その商人
            故買(コバイ)・系図買い
        直(すぐ・ただち)に正(ただせ)
 が治める
 肥前国
 佐賀藩の・・・嵯峨・性・差雅・・・相模・佐上
 精煉方に着任
 日本初の
 蒸気機関車
 蒸気船の模型を製造
 反射炉の設計
 大砲製造
 元治元年(1864年
 佐賀から久留米に帰り
 久留米藩
 軍艦購入
 銃砲の鋳造に携わった
 ↓↑
 跡部 良弼
 (あとべ よしすけ)
 寛政十一年十月二十一日(1799年11月18日)
 〜
 明治元年十二月二十日(1869年2月1日)
 ↓↑
 己未(丁 乙 己)傷官印綬 衰⇔戊辰
 乙亥(戊 甲 壬)印綬偏印 絶⇔乙丑
 丙午(丙   丁)  劫財帝旺⇔癸亥
  寅卯=空亡
 ↓↑
 旗本、幕臣
 肥前
 唐津藩
 水野忠光
 の六男・・・666
 老中
 水野忠邦実弟
 通称は季十郎・大膳
 官位は従五位下
 山城守、信濃守、能登
 甲斐守、伊賀守、遠江
 に遷任した
 ↓↑
 大塩の乱
 (天保八年二月十九日・1837年3月25日)で
 責任を問われることはなく
 後は
 大目付を経て
 勘定奉行に栄進
 勘定奉行在任中の
 天保十三年(1842年)
 翌年に予定された
 十二代将軍
 徳川家慶
 日光東照宮
 謝参準備のため日光に赴く途中
 下総
 古河の宿場本陣に宿を取ったが
 幕府の威光を盾(傘)に
 参勤交代で
 既に同宿場の本陣に入っていた
 陸奥
 仙台藩
 伊達慶邦
 を強制的に退去させ
 後日
 伊達侯から幕府に強硬な抗議
 ↓↑
 天保の改革
 (1830年〜1843年)
 天保九年
 農村復興を目的とした
 人返令
 奢侈禁止を諮問
 天保十二年
 (1841年)
 大御所
 十一代将軍・・・11・十一・拾壱・足壱?
 徳川家斉・・・家の斉(齊・斎・齋)?
 が死去
 ↓↑
 五月十五日
 十二代将軍
 徳川家慶
 享保寛政の改革の趣意に基づく
 幕政改革の上意
 水野は幕府各所に
 綱紀粛正と奢侈禁止を命じた
 ↓↑
 水野 忠邦(於莵五郎)の側近
 寛政六年六月二十三日
 (1794年7月19日)
 〜
 嘉永四年二月十日
 (1851年3月12日)
 甲寅(戊 丙 甲)偏官偏印長生⇔辛亥
 辛未(丁 乙 己)傷官劫財 衰⇔辛卯
 戊寅(戊 丙 甲)  偏印長生⇔丁卯
  申酉=空亡
 ↓↑
 鳥居 耀蔵が町奉行
 寛政八年十一月二十四日
 (1796年12月22日)
 〜
 明治六年
 (1873年10月3日)
 丙辰(乙 癸 戊)傷官正財冠帯⇔癸酉
 庚子(壬  癸)正官偏印 病⇔辛酉
 乙丑(癸 辛 己)  偏財 衰⇔戊子
  戌亥=空亡
 ↓↑
 徳川家斉の側近
 別名 忠耀(諱)・胖庵(号)
 蝮の耀蔵、妖怪(渾名)
   ・・・天保十四年閏九月十四日
      水野は老中職を罷免されて失脚
      諸改革は中止
 ↓↑
 跡部 良弼は
 兄の
 水野忠邦が失脚後も
 政治的命脈を保ち続け
 兄が重用した
 鳥居耀蔵
 そりが合わず
 個人的に
 鳥居と敵対していたために
 失脚は免れた・・・?
 ↓↑
 氐宿(テイシュウ・テイシュク)
    ともぼし
    二十八宿の一
    東方青龍七宿の第三宿
    距星はてんびん座α星
    星官(星座)の氐は
    天秤(てんびん)座
    α星、ι星、γ星、β星の4つの星で構成
    氐=Root=天の根・青龍の胸及び前足
 ↓↑
 氐=氏(人が前にかがまる)+一(下の面)
   氏+一
   人が身をかがめて地面に手を触れること?
 ・・・氏の一(はじめ)?
 氐族=中国の民族の一・チベット
    氐・低・底・抵・邸・岻・砥⇔氐=土台・基礎?
 氏(シ)=薄い刃物?
      祖先を同じくする同族集団・・・氏⇔民=冖+氏
                     氏=ノ+𠄌+弋(一乀)
      同一血族の系統
 氐=氏+一
   人が身をかがめて地面に手を触れること?
   平伏している様・・・?
 氒=氏+十=ね・ケツ・カチ
   ・・・氏の十族?
  =橛(杭)・・・棒状の歩行用のステッキ・・・?
   厥=その・それ・まがる・まげる・ぬかずく
     厥角・屈
     ・・・「蕨=わらび・和良比」なら
         薇(ぜんまい)・・・
         発条(ぜんまい)で
         巻貝・ヤドカリの貝・蝸牛(かたつむり)
        「蝦=海老=えび=蛯は国字」・・・蝦夷.
     中国北方の異民族の名「突厥(トッケツ・トックツ)」
     石を発掘する・ほる・つくす
     つきる(素問・陰陽離合論)
     陰根厥き、火敦起きる
     病名。のぼせ(素問・六節蔵象論)
     足凝り
     くぼみ(窪)にひっかかる
ーーーーー
 ↓↑
 緒方 洪庵
 文化七年七月十四日
 (1810年8月13日)
  〜
 文久三年六月十日
 (1863年7月25日)
 足守藩士・・・足(たり)の守(かみ)の藩(ハン)の士(シ)
 医師、蘭学者
 大坂に適塾(大阪大学)を開校
 天然痘・・・天然=自然
 治療に貢献
 幼名は騂之助(せいのすけ)
 諱は惟章(これあき)・章(あきら)
 字は公裁
 号を洪庵・適々斎・華陰
 弟子から
 「メース(オランダ語meester=先生」
 と呼ばれた
 ↓↑
 豊後国の豪族
 豊後
 佐伯(さえき)氏・・・佐=人+ナ+工
            伯=人+白・・・新羅系渡来人
 の流れをくむ・・・佐伯氏=弘法大師空海
              蝦夷族の監督官?
 備中
 佐伯氏
 の一族
 備中国
 足守藩岡山市北部)士・・・足(たり)の守?
 佐伯惟因
 (瀬左衛門)の三男
 母は
 石原光詮
 の娘・「きょう」
 備中
 佐伯氏は
 佐伯惟寛
 (惟定の弟)
 ↓↑・・・兄弟=緒方惟照、惟定、惟寛
 ↓↑   子=惟重、女子(藤堂元則室)
      佐伯惟定(さえき これさだ)
      安土桃山時代〜江戸時代前期
      戦国武将
      豊後-佐伯氏-第十四代当主
      豊後国-海部郡
      栂牟礼城主
 ↓↑   津藩重臣
      豊後佐伯=栂牟礼城主の佐伯惟教の末裔
      佐伯惟教は
      大友宗麟の武将で
     「耳川合戦」で討死・・・耳の川
      嫡子の佐伯惟定は
      島津軍から
      栂牟礼城を死守し
      豊臣秀吉から感状を下された
      大友義統
      朝鮮役の
      敵前逃亡で
      改易され
      佐伯惟定も領地を失い
 ↓↑   藤堂高虎の客将となった・・・
 の末裔・・・
 八歳のとき
 天然痘にかかった・・・天(典・点・転・伝・田)念
 ↓↑
 文政八年(1825年)二月五日
 元服
 田上惟章と名乗る・・・田の上(かみ)の惟の章
            田齋・田齊の文章・・・?
 十月         惟神道=カンナガラのミチ
 大坂蔵屋敷
 留守居役となった父と共に大坂に出る
 ↓↑
 文政九年(1826年)七月
 中天游の私塾
 「思々斎塾」・・・思々の斎(齋・斉・齊)・・・差異?
 に入門
 緒方三平と名乗り(のちに判平と改める)
 以後は
 緒方を名字とする?・・・名字の選択の根拠はナニ?・緒方さん
 四年間、蘭学、特に医学を学ぶ
 ↓↑
 天保二年(1831年
 江戸へ出て
 坪井信道に学び
 宇田川玄真にも学んだ
 ↓↑
 天保七年(1836年)
 長崎へ遊学し
 オランダ人医師
 ニーマン
 のもとで医学を学ぶ
 緒方洪庵・・・洪水の庵=いおり=廬・伊織・夷織
 と号した・・・
 ↓↑
 天保九年(1838年)春
 大坂に帰り
 瓦町(大阪市中央区瓦町)で医業を開業
 同時に
 蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く
 天游門下の先輩
 億川百記
 の娘・八重と結婚
 のち六男七女をもうける
 ↓↑
 弘化二年(1845年)
 過書町(大阪市中央区北浜三丁目)
 の商家を購入し
 適塾を移転
 ↓↑
 嘉永二年十一月七日(1849年12月21日)
 6日前に
 京に赴き
 佐賀藩が輸入した種痘を得
 古手町(大阪市中央区道修町)に
 「除痘館」を開き
 牛痘種痘法
 による切痘を始める
 ↓↑
 嘉永三年(1850年
 足守藩の要請で
 「足守除痘館」を開き切痘を施した
 関東から九州までの
 186箇所の分苗所を維持し治療
 ↓↑
 安政五年四月二十四日(1858年6月5日)
 洪庵の天然痘予防の活動を
 幕府が公認し牛痘種痘を免許制とした
 ↓↑
 文久二年(1862年
 幕府の要請で
 奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕
 歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け
 手塚良仙
 ら七名を推薦
 十二月二十六日
 「法眼」に叙
 ↓↑
 文久三年六月十一日(1863年7月25日)
 江戸の医学所頭取役宅で喀血、窒息で死去
 享年五十四
 ↓↑
 明治四十二年(1909年)6月8日
 贈従四位
 ↓↑
 適塾
 福澤諭吉大鳥圭介橋本左内大村益次郎
 長与専斎、佐野常民、高松凌雲
 などを輩出
 病理学書
 『病学通論』を著作
 安政五年(1858年)
 コレラ(虎列剌)
    ・・・虎列剌=高熱・下痢・嘔吐などを伴い
           死に至ることもある・コロリ(虎狼痢)
 流行で
 『虎狼痢治準』
 と題した治療手引き書を出版
 息子たちにはまず漢学を学ばせた
 万延元年(1860年
 門人の
 箕作秋坪
 から
 英蘭辞書二冊を購入
 英語学習を開始
 福澤諭吉適塾に入塾し
 腸チフスを患った時
 中津藩大坂蔵屋敷で療養していた彼を
 診察、看病し治癒
 洪庵は
 西洋医学の治療と同時に
 漢方処方をした
 江戸で
 将軍
 徳川家茂の侍医
 洪庵は
 護身用ピストル(拳銃・短銃・短筒)を購入所持
 ↓↑ 
 妻の八重の甥は
 紙幣製造に貢献した化学者の
 岸本一郎(1849〜1878)・・・岸本一郎
 岸本は緒方宅で育ち
 幕府派遣の
 英国留学生に選抜
 日本の最初期の化学留学生とし
 ロンドン留学
 ↓↑
 華岡青洲一派の
 漢方塾
 合水堂とは塾生同士の対立
 ↓↑
 次男の
 緒方惟準(これよし)
 慶応元年(1865年)
 幕府の命令でオランダ留学
 明治元年(1868年)に帰国
 京都の典薬寮の医師となり
 明治天皇の侍医
 明治二年(1869年)
 大坂に設立された
 浪華仮病院(大阪大学医学部の前身)の院長
 オランダの軍医
 ボードイン
 らとともに病院の運営
 明治四年(1871年
 陸軍軍医
 明治十八年(1885年)
 陸軍軍医学会長兼近衛軍医長
 脚気の予防策に
 麦飯給食を勧めたが軍上層部と対立
 明治二十年四月
 陸軍を辞し大阪にて緒方病院を開設
 ↓↑
 第十子の
 惟直はフランス語を学び
 1873年
 ウィーン万博で通訳
 1875年
 イタリアの
 トリノ・・・トリの・・・
 で日本語教師
 翌年当地の女性と結婚
 長女
 エウジェニア-豊
 が生まれる
 1878年
 25歳で死去
 孫の
 緒方知三郎
 緒方章
 はそれぞれ病理学者と薬学者である
 曾孫の
 緒方富雄は東京大学で血清学を研究・・・
ーーーーー
 ・・・フゥ〜ぅ〜ン・・・
 緒方先生ってボクの育った鶉の分院の医院長だったけれど・・・

 2658日目・・・お袋の命日、六年目・・・昭和天皇(1901年・明治34年4月29日〜1989年昭和64年1月7日)の崩御の日、三十年目・・・「七草の日」ですか・・・「七草」の「雪が積もった田地」には「ナズナ(薺)」は見えず、サラサラの粉雪、眩しくキラキラと落ちてくる・・・「ナズナ(薺=艹+齊=異体字は萕=艹+文+丿+二+亅=荠=艹+文+丿+亅」?・・・「齊・儕・䶒・齎・穧・䭣・𪗉・擠・𧓉・齌・臍・齋・𪗋・櫅・霽・齍」・・・「薺=はまびし・ハマビシ科の一年草・なずな・アブラナ科の越年草・春の七草の一つ」


 「本草綱目(ほんぞうこうもく)=中国の本草学史上において、分量がもっとも多く、内容がもっとも充実した薬学著作・作者は明朝の李時珍(1518年〜1593年)で、1578年(万暦六年)に完成、1596年(万暦二十三年)に南京で上梓・中国では何度も版を重ねた・日本でもそれらが輸入されるとともに和刻本も長期に亙って数多く出版・それら和刻本は3系統14種類に及ぶ・慶長十二年(1607年)、林羅山が長崎で本草綱目を入手し、駿府に滞在していた徳川家康に献上・これを基に家康が本格的に本草研究を進める契機となる」・・・家康は「本草綱目」の研究者・・・ほんぞうこうもく・・・本増綱目・・・
 「本草綱目の作者の李時珍は、約27年間の歳月をかけ、三回も書き直し、800種以上の文献を参考した」
 「全52巻
  収録薬種は1892種(374種は新収)
  図版1109枚
  処方11096種
 (うち8000余は李時珍自身が収集、確定した)
  にのぼる。
  薬物ごとに
  釈名(名称の考証)
  集解(産地の注解)
  正誤(それまでの文献における間違いを訂正)
  修冶(製造方法)
  気味・主治・発明
  処方(民間に流布される処方を収集)
  などの項目が立てられている。
  なお、
  第52巻には
  人体の薬物利用について、
  35の部位が収載されている」
 ・・・by wikipedia.org/wiki/本草綱目・・・
 漢字の同音・・・
 「なづな=名綱=名の綱目⇔綱目=大要と細目・綱は大綱(おおづな・タイコウ)、目は網(つな)の目・物事の大要と細部・物事を分類・整理するときの大きな区分けと小さな区分け」・・・
 「項目=辞典・事典・辞書・字引・字典などの見出し語」・・・
 「項目=物事を、ある基準で区分けしたときの一つ一つ・資料の項目別整理・その事柄を 目的別や種類別に分類して取り上げるもの・項と目=国や地方公共団体における歳入・歳出予算の項に区分し、さらに目に区分」・・・
 ↓↑
 「田齊・田斉・田齋・田斎」を再検討・・・「電池・デンチ」を再検討?・・・電気モータ(Electric motor・motor・仏語moteur・独語Motor)の電源・・・電池自動車・電気自動車の時代・・・?
 ↓↑
 「おもてなし」の漢字は「遇(あう・グウ)」とも当て字をすると、訪問してくれた三笠の従姉が教えてくれた・・・
 なるほど、「未知との遭遇」である・・・「遇=グウ=寓(宮・寓意)・隅(隅田川・隈本・隈元・大隈・逢隈)・偶(木偶・木偶の坊・偶数・偶然)・愚図」・・・デクで、グズはボクの人生カモ・・・
 ↓↑
 七草
 せり=芹=セリ
     =Water dropwort=セリ科
 なずな=薺=ナズナ(ぺんぺん草)
      =Shepherd's Purse=アブラナ科
 ごぎょう=御形=ハハコグサ(母子草)
        =Cudweed=キク科
 はこべら=繁縷=コハコベ(小蘩蔞)
        =chickweed=ナデシコ
 ほとけのざ=仏の座=コオニタビラコ(小鬼田平子)
          =Nipplewort=キク科
 すずな=菘=カブ(蕪)
      =Turnip=アブラナ科
 すずしろ=蘿蔔=ダイコン(大根)
        =Radish=アブラナ科
 タネツケバナが入っている例がある・・・
 ・・・以上も以下も・・・by wikipedia.org/wiki/本草綱目・・・
 ↓↑
 七草の一
 ナズナ(薺、学名:Capsella bursa-pastoris)
 アブラナ科ナズナ属の越年草
 別名
 ペンペングサ(ぺんぺん草)
 シャミセングサ(三味線草)
 田畑や荒れ地、道端など至るところに生える
 ムギ栽培の伝来と共に
 日本に渡来した
 史前帰化植物と考えられている・・・
 名前の由来
 夏になると枯れること
 つまり夏無(なつな)から
 撫でたいほど可愛い花の意味
 撫菜(なでな)からなど、諸説・・・
 「ぺんぺん」は三味線を弾く擬音語
 花の下に付いている果実の形が
 三味線の撥(ばち)に似ている・・・
 英名のShepherd's purse
 「羊飼いの財布」の意味
 学名の種小名の語義も同じ・・・
 ↓↑
 貝原益軒
 『大和本草』で
 宋の詩人
 蘇軾を引用し
 「『天生此物為幽人山居之為』コレ味ヨキ故也」
 (大意=天は世を捨て暮らしている人の為に
     ナズナを生じた」これは味が良いためである)
 ↓↑
 民間薬として陰干ししたのちに
 煎じたり、煮詰めたり、黒焼きするなどしたものは
 肝臓病・解熱・血便・血尿・下痢・高血圧・止血
 生理不順・腹痛・吐血・便秘・利尿
 目の充血や痛みに効き
 各種薬効に優れた薬草として用いられる
 ↓↑
 江戸時代
 旧暦四月八日に
 糸で束ねて行灯の下に吊るし
 虫除けのまじないにする習俗が広くあった
 ↓↑
 子供のおもちゃとしての利用
 果実が付いた花茎を折り取り
 果実の柄を持って下に引くと
 柄がちぎれて
 皮でぶら下がった状態になり
 多数の果実をぶら下げた状態にして
 花茎を持ってくるくる回す
 (でんでん太鼓を鳴らすように)
 と、果実が触れ合って
 ちゃらちゃらと
 小さな音がする
 ↓↑
 ぺんぺん草も生えない
 荒廃した場所で
 育つナズナでさえも生育しない様子から
 何も残っていない状態
 一切合財が残らない状態を揶揄した表現
 「…が通った後はぺんぺん草も生えない」・・・
ーー↓↑ーー
 α+齊(斉)
 ↓↑
 經世濟民(ケイセイサイミン・経世済民
 「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」
 「経国済民」
 ・・・形成催眠・形勢災民・・・?
 略して
 「經濟=経済=Economy」
     economy=節約・倹約
     practice [use] economy・倹約する
     時間・労力などの無駄を省くこと
     効率的な使用
     economy=節約・倹約・経済・景気
     動き、言葉などの簡潔さ、無駄のなさ
     ikɑ́nəmi=イカーナミ
          易化、蛙、波
          如何、鴉、並
          烏賊、鴉、那美
          以下、亜、並
   ⇔「商売=trade・business・commerce」
 「済民」
 人民の難儀を救済すること
 「済」=救う、援助
 「経世済民
 ・・・「大塩平八郎(中斎)」のラン・・・乱⇔覧・・・
 通称は平八郎、
 諱は正高、のち後素(こうそ)
 字は子起
 号は中斎
 家紋は揚羽
 ↓↑
 東町奉行
 跡部山城守良弼・・・跡の部の山の城の守、良い弼⇔粥?
 ↓↑
 紂(チュウ)=糸+寸=糹+一+亅+丶
       =緒=糸+者=糸+十+一+ノ+日
       =𩋰=革+糸+寸
        しりがい・馬や牛の尻にかける緒
 ↓↑
 緒=お・いとぐち・ショ・チョ
   いとぐち・物事の起こりはじめ
   緒戦・由緒
   すじ・つづき・つながり
  ↓↑
 ・・・「緒方洪庵」の「適塾」から福澤諭吉大鳥圭介橋本左内大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出した・・・日本最初の病理学書『病学通論』を著し種痘を広め、天然痘の予防に尽力・・・安政五年(1858年)のコレラ流行に際しては『虎狼痢治準』と題した治療手引き書を出版し医師に配布するなど、日本医学の近代化に努めた
 「蘭学事始」・「解体新書」
 杉田玄白蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った手記。 上下2編
 「蘭学事始」・「解体新書」解体新書. 四巻 キュルムス著 杉田玄白前野良沢中川淳庵桂川甫周訳 小田野直武画 東武 須原屋市兵衛 安永三(1774)刊 五冊・原著はクルムス(J. A. Kulmus)著『解剖学表』(Anatomische Tabellen. 1732)のオランダ語
 ↓↑
 「蘭学事始」・「解体新書」
   分解と組み立て・解剖と整形
   ↓↑
   緒=お・糸・紐・長く続くもの
   由緒・由来
   「糸の盛り上がった部分」
   「糸を結び留めた先端」
   情緒の緒・緒言
        著書・著作・著者
        諸々・諸人・諸国・諸君・小諸川
 緒=糸+者
     者=者+丶
   お・いとぐち・ショ・チョ
   物事のはじまり・発端・いとぐち
   緒言・緒戦・緒論・端緒・由緒
   ある事から引き起こされる思い
   情緒・心緒・緒言・情緒
 ↓↑
 穉=禾+犀=稚=チ
   異体字「𥠧・蕛・稺」
   穉い=わかい・穉い=いとけない
   おさない者・稚児・稚拙
 ↓↑
 湣公(ビンコウ)
 中国の諸侯の諡号
 湣公 (杞)
 湣公 (陳)
 湣公共 (宋)
 湣公捷 (宋)
 文公 (戦国魯) の別号
 ↓↑
 湣=氵+昬=氵+民+日
 ↓↑異体字「涽・㬆」・・・黄昏
   ビン・ミン・ベン・メン
   mixed,confused,pity?
 ↓↑   ↓↑
   confusing(状況)
    or
   confused(主体)…?
   That confused me
   give a confused explanation
   わけのわからない説明をする・・・
 ↓↑   ↓↑
   pity=哀れみ・同情(for・on)
   It's a pity=残念だ=What a pity!
   pity
   恵沢・慈悲・哀れ・憐れ・憫れ・情け
   惻隠・お情け・御情け・憐憫・憐愍
   惻隠の情・憐情・哀憐・憫諒・愍諒
   哀愍・哀憫
   哀びん・哀みん・哀れみ・憐れみ
   ↓↑
   ・・・もう、こうなると、コジキには
   「unnecessary pity=不必要な憐れみ」
 ↓↑であるカナ・・・
 ↓↑
 聚斂=集めて収めること・収斂
 ↓↑ きびしく租税を取り立てること
    「聚斂之臣」=重税を厳しく徴収し
           人々を苦しめる役人・官吏
     ↓↑
    「聚斂の臣あらんより
     寧ろ盗臣あれ(礼記・大学)」
    重税を取り立てて
    人民を苦しめる家臣よりは
    主家の財をかすめ取って
    私腹を肥やす家臣のほうが
    まだしも害は少ない・・・?・・・
    合法で収奪するも
    詐欺で収奪するも同じだが
    収奪相手が異なる・・・
 ↓↑
 周王朝の祭器
 夏・殷・周
 と伝わった
 九つの鼎
 九つの鼎=後世の玉璽・王位の象徴
 ↓↑
 藺相如の「和氏の壁」・・・強国はどちらか?
 「璧に瑕」はあるのか・・・「和氏(日本)の壁」
 南北半島人
 人(人質)も
 璧(仏像)も
 返すハズがない・・・信義無用の支配階級の隣国?
 ↓↑
 三十五年(B.C.280)
 秦の
 「白起(武安君)」・・・新羅の血統の祖?
 が趙軍を破った
 司馬錯
 隴西(ロウセイ)=大隴山の西
 の部隊
 (秦の西方の地域にある
  大隴山のふもとの
  冀戎(キジュウ)
  豲戎(カンジュウ)
  氐(テイ)
  羌(キョウ)
 と呼ばれる異民族部隊で
 蜀
 を伝って
 楚
 の
 黔中(ケンチュウ)を攻め占領
 楚は
 漢水以北の土地
 上庸(ジョウヨウ)の土地を献上
 ↓↑
 三十六年(B.C.279)
 秦の
 「白起(武安君)」・・・新羅の血統の祖?
 が楚を伐ち
 鄢(エン)
 蠟(トウ)
 西陵(セイリョウ)
 を占領・・・
 ↓↑
 燕の楽毅
 魏、韓、趙、秦、楚
 ら
 斉に攻勢
 ↓↑
 田單(デンタン)
 齊の首都
 臨淄の市場の役人
 ↓↑
 斉を・・・・・・・李氏?
 攻め落とした
 燕の・・・・・・・日本?
 楽毅は・・・・・・楽しく毅(つよし)・学期?
 税金を安くし・・・朝鮮半島人の?
 法を整備
 善政を敷き
 斉人たちが・・・・朝鮮一般人?
 納得して
 燕に仕えた・・・・大日本帝国に?
ーー↓↑ーー
 ・・・なんか、パロディ・・・「もじる」?
 パロディ=parody・ギリシア語 παρωδια)
 他の芸術作品を
 揶揄や風刺、批判する目的を持って模倣した作品
 あるいはその手法・・・
 既成の他人の
 作品、芸風、文体・韻律などの
 特色を残し
 全く違った内容を表現し
 風刺・滑稽に作り変えた文芸作品
ーー↓↑ーー
 田單(安平君)は
 首都・臨淄から
 安平(アンペイ)城に逃亡し
 更に逃れ
 即墨(ソクボク)逃げた
 齊の七十城が降伏し
 齊の前王の息子
 法章が逃れた
 莒(キョ)の街
 と
 即墨(ソクボク)の街が
 齊国に残った
 ↓↑
 四頭の馬が引く戦車に
 三人が乗って戦う
 戦車戦で
 燕の
 楽毅
 齊の戦車の車輪の軸を攻撃破壊
 齊軍は不利となって敗走・・・
 ↓↑
 齊軍の
 田單(安平君)は
 鉄で車軸を補強し
 即墨(ソクボク)に逃亡・・・
 三年間
 籠(篭)城守備・・・篭=竹が立つも甲の尻尾が右に曲がる?
 ↓↑
 燕の
 昭王が死亡
 燕の新王の
 恵王は
 楽毅に代わりに
 騎劫(キキョウ)
 を
 即墨(ソクボク)に派遣
 楽毅
 長期戦の
 処罰を恐れ
 趙国に亡命・・・
 ↓↑
 『劓(ギ)』=鼻切りの刑
 ・・・スサノオ須佐之男)は鼻から生まれた・・・
 『刖(ゲツ)』=足切りの刑
 ・・・孫臏(ソンピン)=孫子がこうむった・・・
 『黥(ゲイ)』=刺青刑
 ・・・魏志倭人伝の「倭人の鯨身」
 『挖眼(アツガン・アチガン)』=眼えぐりの刑
 ・・・目から生まれた天照大御神月読命・・・
 ・・・片目、隻眼の伊達政宗柳生十兵衛・・・
 ・・・座頭市・・・
 『刵(ジ)』=耳削(そ)ぎの刑
 ・・・耳なし芳一(みみなしほういち)・・・平家の落ち武者
    小泉八雲⇔濃い墨や句摸・・・?
 ↓↑
 燕は
 齊の降伏兵の鼻を削ぎ城への最前列に配置
 ↓↑
 劓(鼻削ぎ)・剕・刖・臏(脚切り)
 黥・墨(入れ墨)
 腰斬刑
 ↓↑
 周代五刑
 墨(ボク・刺青)
 鼻(ギ・鼻削ぎ)
 宮(キュウ・性器切除)
 刖(ゲツ・足切り
 殺(サツ・死刑・斬首)
 ↓↑ ↓↑
 凌遅・臠割・剮・寸磔・礫(切り刻み・八つ裂き)
 車裂・轘・分屍(車裂き・五牛裂き)
 斬首・大辟・殊死・棄市(打ち首)
 腰斬(腰切り)・剥皮(皮剥ぎ)
 炮烙(銅柱焼き・格子焼き・焼鏝)
 ↓↑
 烹煮(釜茹で)・・・石川五右衛門
 剖腹(腹裂き)
 抽腸(腸引き)
 射殺(射殺し)
 沈河(沈め殺し・溺殺)
 絞縊・絞刑(絞殺)
 鴆毒(毒殺)
 黥面・入墨(顔面入れ墨)
 割鼻・劓(鼻そぎ)
 刵(耳そぎ)
 截舌(舌きり)
 挖眼(眼えぐり)
 断手(手切り)
 断指(指切り)
 刖足・剕・臏・斬趾(足切り)
 宮(性器切除)
 幽閉(膣閉)
 枷項(首かせ)
 笞杖(鞭打ち)
 廷杖・敲(棒打ち)
 鞭扑(鞭打ち)
 人食(人食い)
 獣咬(咬み殺し)
 拷訊(拷問)
 梟首(晒し首)
 戮屍(死体を辱める)
 火焚(火あぶり)
 鑿顚(ノミ打ち)
 断脊(脊椎切り)
 活埋(生き埋め)
 刷洗(ブラシかけ)
 騎木驢(串刺し)
 鋸割(鋸引き)
 灌鉛(鉛流し込み)
 又流(島流し)
 贖(罰金)
 烙印(焼印)
 醢(塩漬け)・・・・高橋景保大塩平八郎
 腊(干し肉)
ーーーーー
 ・・・???・・・
 田單(安平君)は
 燕軍の
 騎劫(キキョウ)
 を策略で蹴散らし
 齊国を復興させた
ーーーーー
 ↓↑
 新齊王に
 襄王(田法章)・・・父の「湣王(ビンオウ)」は
 が就任      「淖歯(トウシ)」に殺害され
 在位は       淖歯=楚の臣で
              齊の援軍だったが
           湣王(田地)を殺し
           燕との間で斉の土地や財宝
           を分奪
 前284年〜前265年
 太史の敫(キョウ)の娘を
 皇后(君王后)とし
 太子の
 建を産むが
 恋愛で
 昏(婚)礼・・・女+昏⇔昏・黄昏(たそがれ)
 の儀式を踏まえてず嫁いだので
 父親の
 太史の敫(キョウ)は
 娘と縁切り、家族として扱わなかった
 ↓↑
 「・・・
  單に是れらの善が有って
  王もこれを嘉する
  單の善は王の善」
 ↓↑
 齊の王室は田氏
 ↓↑
 田單=安平君
 は王室と同じ姓を持つ縁者・・・
 ↓↑
 巖下の
 「珠を貫く人」は・・・玉造の技術者=元祖和人?
 襄王に的確な助言
 ↓↑
 田單(安平君)は
 貂勃(チョウボツ)を
 王のもとに
 任子(保証人・人質?)とした
 九人の
 「佞臣=ネイシン=侫臣」の・・・佞=侫⇔俀⇔倭
     traitor
     crafty courtier
 「田單=安平君」を中傷を退け
 齊王を諫め
 田單(安平君)を擁護
ーーーーー
 ・・・???・・・七草の日・・・
 はまびし/ハマビシ科の一年草/なずな/アブラナ科の越年草
 「薺=艸+齊=荠=萕」・・・
 齊・儕・䶒・齎・穧・䭣・𪗉・擠
 𧓉・齌・臍・齋・𪗋・櫅・霽・齍
 ・・・

 2657日目・・・名前の「漢字の変」・・・?・・・「田+斎(齋)?=デンサイ」or「田+齊(斉)?=デンセイ」・・・「デンサイ=傅(伝・傳)差異=典歳・゚典差違」・「デンセイ=傅(伝・傳)世・伝声」・・・「齋・斎(いつき・清める・サイ)・潔斎・斎王・斎戒沐浴・書斎」⇔「齊・斉(ひとしい・束ねる・セイ・うず=渦・へそ=臍=ヘソ=毘・毗=田+比)・均斉・一斉・斉唱」・・・「毘・毗=田+比」・・・「毘佐(ヒサ)・毘連(ヒレン)」・・・田を比べ連なる・・・「田齊(立田・たつた・たつだ・たてだ・タサイ・太齋)」・

 「田斉(デンセイ)=戦国時代
 ↓↑        紀元前386年
           田氏が
           姜姓呂氏の
           斉(姜斉または呂斉)を滅ぼして建国
           国号は斉(齊)であるが
           西周春秋時代
           呂斉と特に区別する場合に
           嬀斉・・・嬀=女+為=悪賢い・キ・ギ
 ↓↑        ↓↑  「嬀五姓=陳・胡・田・姚・虞」
                舜の後裔の
                嬀満=嬀滿
               (本姓は嬀・胡公満)
                は
                周の建国時に
                武王によって
                陳公に封建され
 ↓↑        ↓↑   胡公の諡を得た
           または
           田斉と呼ばれる
           戦国時代中期
           湣王の頃に東帝を称し
           戦国七雄の一
           首都は呂斉の時と同じ
           臨淄(リンシ)」・・・氵+甾=くろ・くろむ
 ↓↑        ↓↑  
 「齊国・紀元前1046年〜紀元前386年
  周代、春秋時代、戦国時代初頭に
  山東省を中心にした国
  周建国に貢献した太公望呂尚)によって建国」・・・
 「南朝の一
  479年〜502年
  蕭道成(ショウドウセイ)が
  宋の譲りを受け建国
  建康(南京)が都」・・・
 「北朝の一
  550年〜577年
  高洋が
  東魏の譲りを受け建国」・・・
 ↓↑        ↓↑  
 「経済(ケイザイ)・在民救済(キュウサイ)」・・・
   済=氵+斉(齊)=済む・浄水・濁りがない・清浄
 「清水に魚棲まず」だが、太公望の釣り糸に針は無し・・・?
 ↓↑        ↓↑  
 「太公望呂尚(リョショウ)
  紀元前1021〜紀元前1000年頃
  古代中国・周の軍師
      ・斉(齊)国の始祖
      ・都城  営丘
  「六韜三略=虎の巻」の著者・・・
  本姓は姜氏、支族は呂
  姓は姜、氏は呂
  字は子牙(牙)、諱は尚
  別名「師尚父」
  謚は太公・斉太公・姜太公
    武成王(760年に唐の粛宗から追贈)
  周の師=軍事長官・軍師
  元は屠殺人
  周に仕える以前は
  殷の
  帝辛 (紂王)・・・紂(チュウ)=糸+寸=糹+一+亅+丶
             異体字「𩋰」
             しりがい・馬や牛の尻にかける緒
  に仕えていた
  帝辛の悪政を嫌い立ち去り
  陝西省
  宝鶏の・・・・宝の鶏
  釣魚台で・・・尖閣諸島⇔釣魚群島・釣魚島・釣魚台列嶼?
              陝西省中の宝鶏市の位置は
              内陸で海は無い
              北緯34度21分 東経107度22分
  太公望が釣りをしていたところ
  西方の周の
  西伯昌 (文王) に出会い
  周の軍師として
  西伯昌 (文王) の子の
  発 (武王) を補佐
  殷の諸侯である
  方の進攻を防いだ
  殷を牧野の戦いで打ち破り
  軍功によって営丘(山東省淄博市臨淄区)
  を中心とする
  斉(齊)に封ぜられ
  隣接する
  莱の族長の攻撃を防いだ
  彼の死後
  丁公が跡を継いだ

ーー↓↑ーー
 舜の後裔の
 嬀満(本姓は嬀・胡公満)は
 周の建国時に
 武王によって
 陳公に封建され
 胡公の諡を得た
 ↓↑
 紀元前670年
 陳の公子
 完が
 斉に亡命
 ↓↑
 陳氏(田氏)が成立
 陳完
 ↓↑
 陳穉
 陳湣
 陳須無
 陳無宇
 ↓↑
 田開
 田乞
 田恒
 田盤
 田白
 田悼子
 ↓↑
 紀元前386年
 田氏が正式に諸侯
 ↓↑
 太公 前386〜前385・・・太安万侶・太閤
 田剡 前384〜前375・・・剡=けずる・するどい・エン・セン
 桓公 前374〜前357・・・桓武天皇
 威王 前350〜前320・・・懿徳天皇
 宣王 前319〜前301・・・本居宣長
 湣王 前300〜前284・・・湣=氵+昬=氵+民+日
             異体字「涽・㬆」・・・黄昏
               ビン・ミン・ベン・メン
               mixed, confused, pity
 襄王 前284〜前265・・・譲る・・・高野長英
 王建 前265〜前221・・・日本建
ーー↓↑ーー
 田 横(デンオウ)・・・田(た・デン)の 横(よこしま・オウ)
               他伝      横嶋・邪・王
 ?〜紀元前202年
   干支=己亥
   日本=皇紀459年=孝元天皇十三年
   中国=前漢=高祖五年
 戦国時代の斉王の一族
 楚と漢が天下を争った時期
 斉国の支配者(王)
 兄 の田栄
 従兄の田儋
 と共に郷里の
 狄県で挙兵
 田儋が
 斉王となった
 田儋は
 秦の
 章邯・・・・章=立つ日の十
       邯=甘(あまい・阿毎)の
         邑(むら・くに・阝)
 に包囲された
 ↓↑
 魏王
 魏咎・・・魏=禾+女+鬼
      咎=处+口
        異体字「𧧖・䛮・皋」
             ・・・皋(とが)=皐(さつき)?
               瑞皐=高野長英=瑞皋
        とが・とがめ・とがめる・キュウ
        罪・あやまち・とがめ
        咎殃(キュウオウ)・咎戒(キュウカイ)
        災咎(サイキュウ)
        罪咎(ザイキュウ)
        天咎(テンキュウ)
 を救援し敗北戦死
 ↓↑
 斉王建の
 弟である
 田假を王に立てが
 田栄はそれに激怒
 ↓↑
 田栄も
 秦の
 章邯に追われたが
 楚の
 項梁に助けられ
 田栄は
 田假を攻撃し
 田假は
 楚に逃げた
 田栄は
 田儋の子の
 従子の
 田巿を王に立て
 宰相となり
 ↓↑
 田横は将となって
 斉を平定
 ↓↑
 楚の
 項梁は
 秦の
 章邯を攻撃しようと
 斉の
 田栄に救援を求め
 田栄は
 楚が
 田假を殺せば
 兵を出すという条件を出したが
 楚の
 項梁はこれを拒否し
 ↓↑
 秦の
 章邯に敗れて戦死
 ↓↑
 項梁の甥の
 項羽は・・・項梁→項羽(楚)⇔劉邦(漢)
 斉の
 田栄を恨んだ
 ↓↑
 楚の
 項羽
 秦の
 章邯を下し
 秦王を殺し
 諸侯王を立てた
 斉王の
 田巿を
 膠東王に配置換えし
 項羽軍に従軍した
 斉王の一族の
 田都を斉王に立て
 項羽に下っていた
 斉王建の孫の
 田安を済北王に立てた
 項梁の件があった
 田栄は王になれず
 王になれなかった
 陳余と共に
 項羽を恨んだ
 田栄は
 陳余に兵を与えて
 趙で反乱を起こさせ
 田栄も斉で反乱した
 田栄は
 田都を
 楚に追い払い
 田安を殺害
 従子の
 田巿をも殺害し
 自分が斉王となった
 ↓↑
 項羽は怒って
 斉の
 田栄を討ち破り
 田栄は逃亡し
 平原県の住民に殺害された
 項羽
 斉の城郭を焼き
 通過する所を悉く攻め滅ぼし
 斉の人間は
 項羽に背き
 田横が斉の兵を収め
 項羽に反撃
 漢王の
 劉邦
 項羽
 本拠の彭城を落としたので
 項羽は斉との戦いをやめて反転
 田横は
 斉の城を取り戻し
 田栄の子である甥の
 田広を王に立て
 宰相となって政治を決めた
 ↓↑
 漢の将
 韓信
 趙を落とし
 斉を攻めようとしていたので
 斉は
 歴山のそばに兵を集めて阻もうとした
 漢は
 説客の
 酈食其を派遣して
 斉との同盟を持ちかけ
 田横はそれを受け
 漢と停戦
 しかし
 韓信
 斉へ侵攻し、斉の軍を撃破
 斉王の田広
 と
 宰相の田横
 は報復として
 酈食其を煮殺し
 高密へ逃亡
 項羽は斉を救うため
 龍且
 と
 周蘭
 を派遣したが
 韓信に破れて
 龍且は
 灌嬰の軍勢に討たれ
 周蘭は
 曹参によって捕獲
 斉王田広は
 高密から脱出するも捕らえられ
 田横は自らが斉王になったが
 漢将
 灌嬰に撃破されて
 梁の
 彭越の元へ落ち延び
 斉は漢によって平定
 ↓↑
 高祖五年(紀元前202年)
 漢王劉邦
 項羽を滅ぼし
 諸侯によって皇帝に立てられ
 彭越は
 梁王となった
 田横は殺されるのを恐れ
 食客500人と共に
 海上の島へ逃亡
 高祖劉邦
 田横らが
 斉に影響力を持っているのを憂慮し
 使者を出して
 罪を許すことを約束
 劉邦は兄を殺された恨みのある
 酈商に対して
 田横に手を出そうとしたら処刑すると命じ
 田横に伝えた
 ↓↑
 田横は
 食客二人と共に劉邦の元へ向い
 劉邦のいる洛陽まで30里ばかりの所で
 田横は状況をかんがみ
 自殺した
 食客
 田横の首を劉邦に奉じた
 劉邦
 食客二人を都尉に任命
 田横を王の礼で葬った
 食客二人は彼の墓のそばで自殺
 島に残る食客500人を召し出したが
 田横が死んだことを知ると
 全員自殺
 ↓↑・・・イスラエルの反乱・・・?
      ユダヤ人は
      ローマへの納税を拒否
      ローマ皇帝の像の刻まれた貨幣を
      不使用
      反ローマの姿勢を徹底した
      ゼカリア(ゼーロータイ・カナイーム)
     「熱心党」の過激派が
      ローマによるガリラヤ地方での
      ユダヤ人殺害
      ローマ総督による
      エルサレム神殿からの財宝略奪などで
      紀元66年
      第一次の反乱
      マサダにはギリシャ時代に要塞が造られ
      これをヘロデ大王が奪い
      要塞兼冬の宮殿として大改築
     「マサダ=砦」
      第一次の反乱ときは
      ローマ兵の駐屯陣地
      熱心党の
     「シッカリ派(短刀派)」の
      967名がこれを奪取して立て篭もった
     紀元70年
     ローマによる神殿の破壊
     エルサレム鎮圧
     マサダは抵抗
 ↓↑  ↓↑
     マサダの要塞
     南北600m
     東西の広いところで300mの菱形
     北に三段テラス型の宮殿
     西にも宮殿
     貯蔵庫、ローマ式浴場、貯水装置
    「シッカリ」派が占拠し
    「シナゴーグ」が整備
     周りは二重の城壁で取り巻いた
 ↓↑  ↓↑
     第一次ユダヤ戦争で
     ローマに降った
     ユダヤ人・・・裏切り者・・・?
     反乱しなかった人々
     抵抗しなかった人々     
     無抵抗で殺されていった人々
     アウシュヴィッツ
     ビルケナウナチス
     ドイツの強制絶滅収容所(1940年-1945年)
     では反乱を起こさなかった・・・
     ナゼ・・・?
     ・・・無抵抗で無慈悲に
        殺されていった人々は
        まだ生きていけると考えていたのか?
        同じ人間が
        同じ人間を殺す・・・?
       「敵」の概念とはナニ?
        ・・・損得利害関係で相対する生物?
        ・・・怨恨を凌駕するモノ・・・
        ・・・無慈悲・無字比・・・?
           慈悲は無用・・・?
 ↓↑  ↓↑
     ユダヤ側の指揮官・・・?
     ガリラヤの
     ヨタパタの陥落によって
     ローマ軍
     ティトゥス
     フラウィウス・
     ウェスパシアヌス
    (Titus Flavius Vespasianus
     39年12月30日〜81年9月13日)
     己亥(戊甲壬)比肩正財 胎⇔辛巳
     丙子(壬 癸)印綬偏財 絶⇔丁酉
     己亥(戊甲壬)  正財 胎⇔壬辰
     ローマ帝国の皇帝(在位79年〜81年)
 ↓↑  ↓↑
     モーツァルト
「わたしは、ただ、かんがいています」?
     「じゃ、行くけれど」
      歌 テレサ・ベルガンサ・バルガス
       (Teresa Berganza Vargas
        1935年3月16日〜)・・・?
        乙亥(戊甲壬)偏財正財沐浴
        己卯(甲 乙)偏印正財 絶
        辛卯(甲 乙)  正財 絶
 ↓↑  ↓↑
     フラウィウス朝
     第2代の
     ティトゥス皇帝の軍隊     
     に投降した
     ヨセフスという者が
     マサダ
     の生き残りの話などをもとに
    『ユダヤ戦記
     1世紀
     ユダヤ人フラウィウス・ヨセフス
     によって書かれた
     ユダヤ戦争の記録、全7巻』
     を記録・・・
 ↓↑  ↓↑
    「ユダヤ人たちは
     異教徒の下では暮らせないとし
     誇り高い死を自ら選ぶ
     陶片に名前を書いたものを籤として引き
     当たった者たち
     10人が
     それぞれのグループの者を刺し殺した
     その10人がさらに籤を引き
     当たった1名が他の9人を殺し
     最後にその1人が
     自ら命を絶った
     生きながらえたのは
     7人の女性と子供だった・・・
     砦の攻防後
     ユダヤ人の世界各地への離散が加速
 ↓↑  ↓↑
     現在
     イスラエル軍
     夜にこのマサダの遺跡に上り
     片手に銃、片手に聖書を持ち
     大地に見える
    「マサダは二度と陥落させない」
     という
    「火文字」を視る?・・・大文字焼き
    「アウシュヴィッツ・強制絶滅収容所
     (1940年〜1945年)」
    「アウシュヴィッツ第二強制収容所
    「アシュケナジム
     ユダヤ系の
     ディアスポラのうち
     ドイツ語圏
     東欧諸国などに定住した人々、その子孫
     語源は
     創世記10章3節
     歴代誌上1章6節
    「アシュケナズ」・・阿修(羅)化名字?
    (新共同訳
     新改訳での表記)
     口語訳で
    「アシケナズ」・・・足化名事・・・?
     と表記
     単数形は
    「アシュケナジ」・・阿修(羅)化名字?
ーー↓↑ーー
 劉備
 曹操に敗れ
 孫権に援軍を求め
 諸葛亮を派遣した
 諸葛亮
 田横の最期を例に挙げて答えた・・・
 孫権
 「劉豫州劉備)はどうして
  曹操に仕えないのか」
 諸葛亮
 「田横は
  斉の壮士にすぎなかったが
  義を守って屈辱を受けず
  まして
  劉豫州
  漢王室の後裔
  ・・・
  どうして
  曹操の下につくことができようか」
 258年
 諸葛誕が当時
 魏を支配していた
 司馬氏に対し反乱を起こし敗死した時
 その手勢数百は、降伏を拒絶し
 「諸葛公のため」と
 従容として死んでいった
 これは
 田横とその食客にも比べられた・・・
 戦わずして「自殺」とは
 「陸軍中野学校の精神(忍者)」とは異なる・・・
 だが、いずれも
 「国家組織」を弄ぶ
 支配階級に洗脳された「傭兵」である・・・
ーー↓↑ーー

 春秋戦国時代
 戦国の七雄
 七カ国-秦・斉・楚・魏・趙・韓・燕
 位置
    魏  燕
    趙   勃   朝
  秦 韓 斉 海 黄  鮮     蝦夷
          海   倭・邪馬台
     楚  

 秦(     ? - 紀元前206年)
 斉(紀元前386年 - 紀元前221年)
 燕(紀元前1100年- 紀元前222年)
 楚(     ? - 紀元前223年)
 魏(紀元前403年 - 紀元前225年)
 趙(紀元前403年 - 紀元前228年)
 韓(紀元前403年 - 紀元前230年)
 ↓↑
 春秋十二諸侯
 ↓↑
 魯=
 斉(姜斉)=
 晋=
 秦=
 楚=
 宋=
 衛=
 鄭=
 陳=
 蔡=
 曹=
 燕=
 呉=
 ↓↑
 戦国七雄
 秦 楚 斉(田斉) 燕 趙 魏 韓
 ↓↑
 他+α
 ↓↑
 越 中山 杞 曾 邾 滕 唐 栄 単 沈 莱
 英 六 庸 邢 古蜀 西周公 東周公
 ↓
 英国(エイコク)
 国姓 偃姓
 国都 英(安徽省
      六安市
      金寨県)
 周代に存在した諸侯国の一
 皋陶(コウヨウ)
     ・・・皐=白+=+十+=
          さわ・さつき・コウ
          さつき=皐月=五月
          すすむ・たか
          異体字
         「皋=白+一+人+十」
         「咎・𣽎・睾・臯・𦤗・鼛」
          水辺の平らな地・岸・湖畔
       「皐」はトンボ(蜻蛉)
           ヤゴ(水蟣・水蠆・スイタイ)
        の形象に思えるけれど・・・?
  ・・・司法(裁判)をつかさどる
     官吏(司空・司寇)・・・倭寇元寇
     獬豸(カイチ・シエジー・獬廌)
    『論衡(ロンコウ)』・・・後漢時代の
 ↓↑  ↓↑ 王充(27年〜1世紀末頃)が著した
        全30巻85篇(1篇は篇名のみで散佚)
       「実証主義」の立場から
        自然主義論、天論、人間論、歴史観
        など多岐多様を説き
        非合理的な
       「陰陽五行思想、災異説」などを
       「迷信論として批判」・・・?
       「儒学批判」は当然だが・・・
       「王充の死後2世紀末に
        本書が世に出た
        蔡邕が
        呉(蘇州)で入手
        会稽太守の
        王朗が同地で一本を発見」
 ↓↑  ↓↑  ↓↑  ↓↑
        ・・・時代によって実証出来る範囲は
        五感で感知できる範囲のモノであり
        広大な宇宙や微細な
        原子、中性子などのモノは
        それらを発見できる
        電子機器の
        発明を待たざるえない・・・
       「王充の批判」は
        五感で直接感知出来ない
        モノの変化の諸機能性の
        諸作用、諸反作用の
       「諸反応」の
        認識としての整合性の類推であった
       「実証認識」はその枠内にあった・・・
       「陰陽五行思想、災異説」も
        また
       「モノの変化の哲学」であり
       その「合理性・実証性」は
       観える範囲の
       「類推的な科学性的認識」であった
       「陰陽五行思想、災異説」は
       天地人の観察を根拠にしたモノである
       天=宇宙天体の存在と運行軌道の観察
       地=地球上の生物、無生物の観察
       人=人間社会の相互諸関係の観察
       それらの見えない力の類推認識である
       「神の存在」
       や
       「絶対者の存在」は
       諸存在の
       相互的作用の
       動的な初源起動の認識説明の
       「代名詞・比喩」であった・・・
       「不思議・不可解・奇妙・不気味」
       な現象は
        今現在生きている
       「人間の限界認識の枠内のコト」
       でしかない・・・
       しかも、
       過去的経験と少なくても
       「加減乗除」の理屈と
       「時間」と「空間」と「距離」の理屈
       「共通言語の操作」での事物、事象の
       相互情報と相互確認での
       その合理的認識理解が無ければ
       その合理的知識理解が無ければ
       「不思議・不可解・奇妙・不気味」は
       個々人のレベルでワンサカであるだろう
       「喜怒哀楽」の根源は
       「自己存在」の「敵対者」と対峙し
       「損得・利害」の
       「綱引きの+-」で
       「理性」で認識することによってのみ
       理解できる・・・
       「尊徳」には時間が必要だ・・・
 ↓↑  ↓↑  ↓↑  ↓↑
       テレパシーって、相互理解の手段か?
       ・・・スマホは誤解とフェイクの道具?
       smartphone(スマートフォン
       通話機能以外に
       インターネット
       スケジュール管理
       など多機能を有した携帯電話・・・
 ↓↑  ↓↑  ↓↑  ↓↑
       そして
       「敵対者」とは
       同時に
       「自問自答、自己反省の自己」であり
       「自我」
       「エゴ(ego)」
       「セルフィッシュ(Selfish)」
       「わがまま・利己的・自分本位」
       である、と言うコトを
       敵対、対象から得た
       あるいは与えた
       「イタさ」の
       「自己認識」でもある
       ・・・
       無自覚な
       「敵対、対峙者」は
       相手の「寛大さ」をいいことに
       わがままな
       思いあがりで
       to be haughty(ホーティ)
       高慢な・横柄な・不遜な
       have a haughty air
       不遜な態度をとる
       behaving in a proud unfriendly way
       威張ったり
       驕ったりする
       「つけあがる」・・・
       人間は「喜怒哀楽」の草鞋を履く
       凸凹な「つけあがり」の
       履歴的な生き物・・・
       躓(つまづ)かねば気が付かない・・・
       躓=足+質=つまずきころぶ・しくじる
       異体字
       「踬・胝・疐・𨂤・䠦・𨆦・𨆑・柢」
       躓顚(チテン)
       蹉跌
       「奢る者は久しからず」
       日本には「平家物語」があるが・・・
       人種は問わない「奢る者は久しからず」
 ↓↑  ↓↑  ↓↑  ↓↑
     中國哲學書電子化計劃
    「https://ctext.org/lunheng/zh
    『論衡(ロンコウ)』
        ・・・『後漢書』卷四十九
            王充王符仲長統列傳第39
        荒唐無稽・唐突
     の記録では「獬豸」

     姿は大きいものは牛
     小さいものはヒツジに似ている
     全身には濃くて黒い体毛が覆う
     頭の真ん中には長い一角を持つ
     一角獣
この角を折った者は死ぬ
     麒麟キリンビールの神獣)に似る
     水辺に住む
     人が紛争を起すと
     角を使って
     理が通っていない一方を突き倒した後
     そのヒトを食べる・・・
     正義や公正を象徴する祥獣となった
     獬豸
    「豸」=足の無い虫や背中の長い獣を意味
        本来は「廌」と書く
    「廌」=「法治(灋治)」の「治」と同音
        「法(灋)」の正字にも含まれ
        中国人は
        「法治」の精神を
        「獬豸=カイチ」を使って表現
    古代中国では法律を執行する役人が
    被った帽子(法冠)に「獬豸」が飾られ
   「獬豸冠(カイチカン・獬冠)と称した
    清の時代の役人の着物にも
    獬豸が刺繍されていた
    副葬品として
    カイチの工芸品を選ぶ人もいた
    寺ではカイチの化身として
    ヒツジを飼育
 ↓↑ ↓↑
    台湾で「法治」の精神的象徴、「カイチ」
    朝鮮半島では
   「ヘテ・ヘチ=海駝」とよばれる
    羊や牛の姿ではなく
    獅子形で
    頭に角を持たない
    文献上、朝鮮でも一角獣
    造形された像は
    角がなくなることが多い・・・
 ↓↑ ↓↑
 の後裔によって樹立
 春秋時代
 楚の付庸国
 後
 楚の成王によって滅亡
 楚の
 成王?は
 二十六年(紀元前664年)
 「六、英を滅ぼした」・・・六国・英国?
ーーーーー
 ↓↑
 「夫れ賢聖、筆を下して文を造るに、
  用意詳審なれども(意を用ひ詳しく審れども)、
  尙ほ未だ盡くは實を得るべからず。
  況んや倉卒に言を吐くをや、
  安んぞ能く皆、是ならん。
  皆は是なる能はざるに、時人難ずるを知らず。
  或いは是なるも、意沉みて見難きに、
  時人問ふを知らず。
  賢聖の言を案ずるに、上下相ひ違ふこと多く、
  其の文、前後相ひ伐つ者多し。
  世の學者、知る能はざるなり」
 ・・・
 「專ら、文言の解釈を覚え習うばかりで、
  疑問や批判を持つことを知らない」
 ・・・知っていただろう・・・
    批判は権力の弾圧で出来ないコトも・・・
 「同時代の人は批判することを知らなかった
  ・・・ことばが冗長、真意を測りがたいのに
  疑問を持つことを知らなかった」
 ・・・疑問を持つ以前に
    知識知力、識字力を与えられなかった・・・
    同時代の人の権力、権威批判はあった
    ・・・同支配階級での叛乱、
       クーデターである・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・